
第二十七話 朝から修行かいな
朝。 月兎亭の裏庭には、まだ客の気配がなかった。空気はひんやりと
していて、井戸から汲み上げたばかりの水が、桶の中で静かに
揺れている。朝の光は低く、建物の影が長く地面に落ちていた。木桶がいくつか並べられ、その横には洗濯用の布が積まれている。どこからか、鳥の鳴き声がかすかに聞こえていた。 リナは、そのうちの一つに手をかけた。「......よいしょ、っと――」 持ち上げた瞬間、思わず声が弾けた。「重っ!!」 水がなみなみと入った桶は、予想以上の重量だった。腕に一気に
負荷がかかり、バランスを崩しそうになる。「ちょ、ちょ、ちょ......!」 慌てて踏ん張ると、水面が大きく揺れ、少しだけ外へとこぼれた。「これ絶対修行やろ!!」 叫びながら、なんとか桶を地面に戻す。肩で息をしながら、
リナは顔をしかめた。「ウチ、宿屋の看板娘やんな?なんで朝から
山籠りみたいなことしてんねん......!」 その言葉に、背後から柔らかい声が返る。「はは、まあまあ」 女将が、静かに笑っていた。「看板娘いうてもなぁ、手ぇ動かさな宿は回りまへんえ」 どこか穏やかな京都の響き。無理強いはしないが、逃げ道も
用意しない声音だった。 リナはぐったりと肩を落とす。「......いや、理屈はわかるけどな?重いもんは重いねん......!」 女将は微笑んだまま、何も言わなかった。 布を水に沈めると、じわりと水が染み込み、重さがさらに増した。「うわ、もうこれで重くなるん!?聞いてへんて!」 文句を言いながら、両手で布を掴み、揉む。押す。ひねる。水の中で布が抵抗を返してくる。「つめた......!」 布から伝わる水の冷たさに、リナが小さく震える。「朝の水って、なんでこんな冷たいんやろな」(気温が下がると、水も一緒に冷える。地面の温度が
伝わりにくい井戸水は、特に冷たいままなんだよ)
れもんの声が、静かに届く。「......昼になれば、少し温い」 メリアが、ぽつりと言葉を継いだ。「昼まで待ってくれへんかな、この仕事......」 リナがぼやきながら、また布を掴んだ。「かたっ......!」 思った以上に力がいる。指先に力を込めると、腕全体に
負荷が伝わった。それでも手を止めずに、揉む、押す、
ひねるを繰り返す。単純な動作の反復が、じわじわと体力を
削ってくる。額に、うっすらと汗が滲んだ。「はぁ......はぁ......」 息をつきながら手を止めると、視線の先にメリアがいた。少し離れた位置から、静かに、観察するようにこちらを見ている。
リナは、ふっと笑った。「昨日ぐる風作って浮かれてたけどな。現実はこれや!」 布をもう一度押し込むと、ばしゃ、と水が跳ねた。その拍子に、
リナの腰が変な方向へ逸れる。「ってて......!」 小さく声を上げて、腰に手を当てた。(腰、入ってないよ。もっと膝を曲げて、
重心を下げた方が楽になる)
れもんの声が、メリアの頭の中に届く。「......膝、曲げて」 メリアがぽつりと言うと、リナが顔を上げた。「は? 急に何」「腰、痛める」 短い忠告だった。リナは半信半疑のまま、言われた通りに膝を
曲げてみる。次の瞬間、桶を持ち上げる動作が、さっきよりも
幾分か楽になった。「......あれ?ちょっとマシかも」 驚いたように呟く。(てこの原理だよ。重心が近いほど、力が要らなくなる)
れもんが得意げに説明を続けようとする。「その話は、いい」 メリアが小さく制した。「また独り言?」 リナが胡乱げな目を向ける。「気のせい」 澄まし顔で返した。「まあ、なんかようわからんけど、助かったわ。ありがとうな」 リナが、素直に礼を言う。 メリアは、小さく頷いた。それだけで、十分な返事だった。 布を両手で掴み、ぎゅうううう、と力を込める。水が滴となって
落ち、ぽた、ぽたと地面に小さな音を立てた。「......っ、ぐ......!」 腕が震え、握力が徐々に抜けていく。「ここや......!ここが一番きつい......!」 さらに力を込める。ぎゅう、ともう一段。水が絞り出され、
腕がぷるぷると震えた。「一番大変なのは?」 横から、静かな声がした。メリアだった。 リナは顔をしかめたまま答える。「絞りや!ここで体力全部持ってかれる!洗うんはまだええねん!問題はここや!」 もう一度、ぎゅう、と力を込める。メリアは頷きもせず、ただ
聞いていた。リナの腕の震えを、水の落ちる速度を、静かに
見つめている。(体力の消費、絞りの工程が一番大きいっぽいね。データ取っとく?)
れもんの声が、頭の中で届いた。誰にも聞こえない、
メリアだけの声。「......いい。今は見るだけ」 小さく呟いた声は、リナには独り言にしか聞こえなかった。「え、何が?」「なんでもない」 メリアは短く答えて、視線を桶の中へと戻した。水面。そこに
映る光。布が引き上げられたあと、わずかに残る揺らぎ。そして、
布から落ちる水滴が、ぽた、ぽたと一定の間隔で落ちている。「......水、動いてない」 ぽつりと、呟いた。「いや動いとるやろ!ウチが動かしとるやん!」 リナが顔を上げる。「違う」 短い否定。メリアの視線は、水面から離れない。「動いているのは、布。水は、落ちているだけ」(表面張力が水滴の形を保ってるだけだよ。一番小さい形に
なろうとするから丸くなる。あとこれ、応用したらもっと――)
れもんが、少し嬉しそうに続けようとする。「その話は、あとで」 メリアが小さく遮った。「あとでって、誰に言うてるん?」 リナが眉をひそめる。「独り言」 澄ました顔で返す。リナは一瞬言葉に詰まり、言い返そうとして
手元を見た。絞っている布。そこから落ちる水。自分は布を動かして
いるだけで、水そのものを動かしているわけではない。「......あれ?」 違和感がほんの少しだけ浮かぶ。だが、それを言葉にする前に、
腕の疲労が思考を押し流した。「いやいやいや!理屈はええねん!しんどいもんはしんどい!」 首を振って、ぎゅう、と絞る。メリアは何も言わなかった。 洗濯が終わる頃には、日が少し高くなっていた。桶の水は
減り、布は横に干されている。ぐる風がゆっくりと回っていた。いつもの音。いつもの風。 リナは、その場に座り込んでいた。「......終わった......」 腕をぶらぶらと振る。「明日絶対筋肉痛やわ......」 情けない声だった。だが、どこか満足感も混じっている。全部やりきった、という種類の疲労だった。 メリアは、まだ桶の中を見ていた。残った水。静かな水面。光の揺れ。風もないのに、水面はほんのわずかに震え続けている。(また観察してる。メリアは、水を見るの好きだね)
れもんが、呆れたように呟く。「好きなわけじゃない」 メリアは小さく答えた。ただ、目が離せないだけだった。理由のない懐かしさが、水面の揺らぎに重なる。前世の記憶の、
どこか遠い場所にある景色。(懐かしいから?)
れもんの声が、少しだけ柔らかくなった。「......かもしれない」 リナがその様子に気づく。「......またなんか考えてる顔やな?」 少しだけ身を乗り出す。 メリアは、ゆっくりと顔を上げた。「少しだけ」 リナは、じっとその顔を見る。そして。「怖いわ!」 即座に言った。 メリアは、わずかに首を傾げる。その視線は、再び水面へと戻る。何も語らない。ただ、静かに見つめている。(怖がられてるよ)
「......うん」 空はすっかり青く澄み渡っていた。雲ひとつない、気持ちのいい
朝だった。こんな朝が、これからも続いていくのだろう。特別な
ことは、何もない。ただ、洗濯物と水面と、隣で笑うリナがいる
だけ。それだけで、十分だった。 朝の光が、水面に揺れていた。 第二十七話 朝から修行かいな
朝。 月兎亭の裏庭には、まだ客の気配がなかった。空気はひんやりと
していて、井戸から汲み上げたばかりの水が、桶の中で静かに
揺れている。朝の光は低く、建物の影が長く地面に落ちていた。木桶がいくつか並べられ、その横には洗濯用の布が積まれている。どこからか、鳥の鳴き声がかすかに聞こえていた。 リナは、そのうちの一つに手をかけた。「......よいしょ、っと――」 持ち上げた瞬間、思わず声が弾けた。「重っ!!」 水がなみなみと入った桶は、予想以上の重量だった。腕に一気に
負荷がかかり、バランスを崩しそうになる。「ちょ、ちょ、ちょ......!」 慌てて踏ん張ると、水面が大きく揺れ、少しだけ外へとこぼれた。「これ絶対修行やろ!!」 叫びながら、なんとか桶を地面に戻す。肩で息をしながら、
リナは顔をしかめた。「ウチ、宿屋の看板娘やんな?なんで朝から
山籠りみたいなことしてんねん......!」 その言葉に、背後から柔らかい声が返る。「はは、まあまあ」 女将が、静かに笑っていた。「看板娘いうてもなぁ、手ぇ動かさな宿は回りまへんえ」 どこか穏やかな京都の響き。無理強いはしないが、逃げ道も
用意しない声音だった。 リナはぐったりと肩を落とす。「......いや、理屈はわかるけどな?重いもんは重いねん......!」 女将は微笑んだまま、何も言わなかった。 布を水に沈めると、じわりと水が染み込み、重さがさらに増した。「うわ、もうこれで重くなるん!?聞いてへんて!」 文句を言いながら、両手で布を掴み、揉む。押す。ひねる。水の中で布が抵抗を返してくる。「つめた......!」 布から伝わる水の冷たさに、リナが小さく震える。「朝の水って、なんでこんな冷たいんやろな」(気温が下がると、水も一緒に冷える。地面の温度が
伝わりにくい井戸水は、特に冷たいままなんだよ)
れもんの声が、静かに届く。「......昼になれば、少し温い」 メリアが、ぽつりと言葉を継いだ。「昼まで待ってくれへんかな、この仕事......」 リナがぼやきながら、また布を掴んだ。「かたっ......!」 思った以上に力がいる。指先に力を込めると、腕全体に
負荷が伝わった。それでも手を止めずに、揉む、押す、
ひねるを繰り返す。単純な動作の反復が、じわじわと体力を
削ってくる。額に、うっすらと汗が滲んだ。「はぁ......はぁ......」 息をつきながら手を止めると、視線の先にメリアがいた。少し離れた位置から、静かに、観察するようにこちらを見ている。
リナは、ふっと笑った。「昨日ぐる風作って浮かれてたけどな。現実はこれや!」 布をもう一度押し込むと、ばしゃ、と水が跳ねた。その拍子に、
リナの腰が変な方向へ逸れる。「ってて......!」 小さく声を上げて、腰に手を当てた。(腰、入ってないよ。もっと膝を曲げて、
重心を下げた方が楽になる)
れもんの声が、メリアの頭の中に届く。「......膝、曲げて」 メリアがぽつりと言うと、リナが顔を上げた。「は? 急に何」「腰、痛める」 短い忠告だった。リナは半信半疑のまま、言われた通りに膝を
曲げてみる。次の瞬間、桶を持ち上げる動作が、さっきよりも
幾分か楽になった。「......あれ?ちょっとマシかも」 驚いたように呟く。(てこの原理だよ。重心が近いほど、力が要らなくなる)
れもんが得意げに説明を続けようとする。「その話は、いい」 メリアが小さく制した。「また独り言?」 リナが胡乱げな目を向ける。「気のせい」 澄まし顔で返した。「まあ、なんかようわからんけど、助かったわ。ありがとうな」 リナが、素直に礼を言う。 メリアは、小さく頷いた。それだけで、十分な返事だった。 布を両手で掴み、ぎゅうううう、と力を込める。水が滴となって
落ち、ぽた、ぽたと地面に小さな音を立てた。「......っ、ぐ......!」 腕が震え、握力が徐々に抜けていく。「ここや......!ここが一番きつい......!」 さらに力を込める。ぎゅう、ともう一段。水が絞り出され、
腕がぷるぷると震えた。「一番大変なのは?」 横から、静かな声がした。メリアだった。 リナは顔をしかめたまま答える。「絞りや!ここで体力全部持ってかれる!洗うんはまだええねん!問題はここや!」 もう一度、ぎゅう、と力を込める。メリアは頷きもせず、ただ
聞いていた。リナの腕の震えを、水の落ちる速度を、静かに
見つめている。(体力の消費、絞りの工程が一番大きいっぽいね。データ取っとく?)
れもんの声が、頭の中で届いた。誰にも聞こえない、
メリアだけの声。「......いい。今は見るだけ」 小さく呟いた声は、リナには独り言にしか聞こえなかった。「え、何が?」「なんでもない」 メリアは短く答えて、視線を桶の中へと戻した。水面。そこに
映る光。布が引き上げられたあと、わずかに残る揺らぎ。そして、
布から落ちる水滴が、ぽた、ぽたと一定の間隔で落ちている。「......水、動いてない」 ぽつりと、呟いた。「いや動いとるやろ!ウチが動かしとるやん!」 リナが顔を上げる。「違う」 短い否定。メリアの視線は、水面から離れない。「動いているのは、布。水は、落ちているだけ」(表面張力が水滴の形を保ってるだけだよ。一番小さい形に
なろうとするから丸くなる。あとこれ、応用したらもっと――)
れもんが、少し嬉しそうに続けようとする。「その話は、あとで」 メリアが小さく遮った。「あとでって、誰に言うてるん?」 リナが眉をひそめる。「独り言」 澄ました顔で返す。リナは一瞬言葉に詰まり、言い返そうとして
手元を見た。絞っている布。そこから落ちる水。自分は布を動かして
いるだけで、水そのものを動かしているわけではない。「......あれ?」 違和感がほんの少しだけ浮かぶ。だが、それを言葉にする前に、
腕の疲労が思考を押し流した。「いやいやいや!理屈はええねん!しんどいもんはしんどい!」 首を振って、ぎゅう、と絞る。メリアは何も言わなかった。 洗濯が終わる頃には、日が少し高くなっていた。桶の水は
減り、布は横に干されている。ぐる風がゆっくりと回っていた。いつもの音。いつもの風。 リナは、その場に座り込んでいた。「......終わった......」 腕をぶらぶらと振る。「明日絶対筋肉痛やわ......」 情けない声だった。だが、どこか満足感も混じっている。全部やりきった、という種類の疲労だった。 メリアは、まだ桶の中を見ていた。残った水。静かな水面。光の揺れ。風もないのに、水面はほんのわずかに震え続けている。(また観察してる。メリアは、水を見るの好きだね)
れもんが、呆れたように呟く。「好きなわけじゃない」 メリアは小さく答えた。ただ、目が離せないだけだった。理由のない懐かしさが、水面の揺らぎに重なる。前世の記憶の、
どこか遠い場所にある景色。(懐かしいから?)
れもんの声が、少しだけ柔らかくなった。「......かもしれない」 リナがその様子に気づく。「......またなんか考えてる顔やな?」 少しだけ身を乗り出す。 メリアは、ゆっくりと顔を上げた。「少しだけ」 リナは、じっとその顔を見る。そして。「怖いわ!」 即座に言った。 メリアは、わずかに首を傾げる。その視線は、再び水面へと戻る。何も語らない。ただ、静かに見つめている。(怖がられてるよ)
「......うん」 空はすっかり青く澄み渡っていた。雲ひとつない、気持ちのいい
朝だった。こんな朝が、これからも続いていくのだろう。特別な
ことは、何もない。ただ、洗濯物と水面と、隣で笑うリナがいる
だけ。それだけで、十分だった。 朝の光が、水面に揺れていた。