ホーム理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-第十七話 白き革命
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第十七話 白き革命

 酒場の昼は、忙しかった。窯の前で火が回る。ドームの内側を、
静かに流れている。焼きは安定している。匂いで人が寄る。席は
埋まり、皿はすぐに空になる。

 ガドが腕を組んでいた。分厚い腕が、胸の前でひとつの塊になる。
眉が寄っている。

「......うまいが」

 一口、かじった。噛む。もう一口。

「少し重いな」

 隣の常連が頷く。港仕事の帰りらしく、日に焼けた顔に塩の匂いが
まだ残っていた。

「油が強ぇ」

「十分うまいやん」

 リナが首を傾げた。口の端にトマトソースがついている。気にして
いない。メリアは一口食べた。舌の上で転がす。少しだけ考える。
油の甘さが先に来て、後に引く。悪くはないが、何かが足りない。

「酸味が不足してる」

 短く言った。

「酸味?」

 ガドが眉を上げる。

 メリアは棚から瓶を取った。透明な液体。澄んでいる。ほんの
少しだけ、皿の上に垂らした。じゅ、と音がした。油の上で
弾かれる。広がらない。まとまらない。表面で浮いたまま、
分離している。

「なんだこれ?」

「混ざりません」

「このままでは使えねぇ」

 ガドが顔をしかめる。リナが不思議そうに覗き込む。

「何を作るつもりやの?」

 メリアはすでに次の手を考えていた。

――

 卵を割った。黄身だけを残す。白身は使わない。器に静かに
落とす。そこへ、油をほんの少し。酢を少し。

 メリアは混ぜ始める。ゆっくり。一定に。止めない。

(攪拌速度、不十分。油分の添加量を絞って)

 れもんの声が、頭の中で来た。

「わかってる」

 外からは独り言だ。速度は変えない。ゆっくりと、糸を引くように
油を足す。垂らすように。混ぜながら足す。足しながら混ぜる。
焦らない。急がない。

「......まだ混ざっとらんで」

 リナが横から覗く。

「今は分離していても構いません」

 ガドが黙って見ている。酒場の喧騒が、いつの間にか遠くなって
いた。混ぜる。油を足す。混ぜる。分離が、消えた。

 とろり、と変わった。白く。艶が出る。器の底で、ゆっくりと
動く。生き物のように、重く、なめらかに。

 空気が、静かになった。ガドが、リナが、常連が、じっと
見ている。

「......なんだそれ?」

「乳化です」

 メリアは短く答えた。

「油と酢は本来混ざりません。ですが黄身が仲立ちをする。
混ざるはずのないものを、つないでくれる」

 ガドは黙って器を取った。指で少しすくう。舌に乗せる。
噛まずに、ただ感じる。

 一拍。

 何も言わなかった。だが顔が変わっていた。

――

「名前だ」

 ガドが言った。

「呼び名がいる。これはなんて呼ぶ?」

 メリアは少し考えた。前世の記憶を探る。料理の本で見た名前の
断片。港の名前に由来するという説、貴族の厨房から来たという説、
どちらが正しいのかは分からない。

「呼称には諸説あります。マオンネーズ説、モイエネーズ説――」

「長いわ!」

 リナが即座に切り捨てた。

「そんなん覚えられへん!メリアちゃんは
いっつもそういうむずいことを言う!」

「知らねぇよ、そんなウンチクは」

 ガドが笑った。珍しく、豪快に。

 一拍の間があった。

「マヨだ」

「雑っ!」

「覚えやすい」

 メリアは頷いた。

(短縮名称、普及率上昇見込み)

 れもんの声が来た。

「マヨでいい」

 ガドが言い切った。

 リナはまだ不満そうだったが、口の中でそのまま繰り返している。

「......マヨ、マヨ、マヨ......うん、確かに言いやすいわ」

「決まり」

 メリアは言った。

 そうして、名前は決まった。

――

 焼き上がったピッツァルクスに、細く一筋。白い線が、赤の上を
走る。

 ガドが腕を組む。

「......邪道だな」

「一口食べて」

 常連が手を伸ばす。一口、かじる。止まる。

「......うまい」

 もう一口。

「軽い。なんか、軽くなってる」

「酸味が油の重さを切っています」

 ガドが食べた。一口だけ。しっかりと噛む。口の中でゆっくりと
確かめる。少しだけ目を細めた。

「......邪道だが」

 もう一度、噛む。

「うまいな」

 空気が変わった。どこかやわらかく、あたたかい方向に。

「嬢ちゃん、これはいい」

「ありがとうございます」

 メリアは静かに言った。

――

「もっとかけろよ!」

 若い船乗りが言った。港仕事の帰りらしい。日焼けした顔に、
目だけが明るい。席に着いたそばからマヨに興味を持って、もう
三度目の催促だった。

「ええやん!」

 リナが笑う。

 マヨを足す。もう一筋。また一筋。さらに。

「横も!」

「縦も入れたら?」

「格子! 格子にしよ!」

「マヨビーム!」

 白が増える。ピッツァルクスが覆われていく。赤がほとんど
見えなくなる。

 ガドが固まった。

「......やりすぎだろ」

 声が、低かった。挿絵

――

「素材の味が死ぬ!」

 ガドが言った。

「うまけりゃいいだろ!」

 船乗りが返す。一歩も引かない。

「うちは白派!」

 リナが手を上げた。高らかに、迷いなく。

 レオンが苦笑した。

「......極端だな、どいつもこいつも」

 メリアは少し離れて見ていた。赤と白。分かれていく。
笑いながら、主張しながら、それぞれの側に。

「文化は分岐します」

 静かに言った。

「最初はひとつのものが、好みによって、使い方によって、
やがて別の流儀になる。珍しいことではありません」

「賛否両論ってことか」

 レオンが言う。

「健全な状態です」

(対立指数、健全範囲内)

 れもんが補足した。

――

 それから、注文が重なるようになった。

「白いのくれ!」

「赤も一枚!」

 ガドは頭をかいた。盛大に。

「......増えたな」

 でも、焼く。赤と白を並べて焼く。両方が並ぶ。両方が選ばれる。
また焼く。また並ぶ。作ることに文句はなかった。うまいものが
増えるなら、それでいい、というような手の動き方だった。

 しばらくして、ガドはリナに言った。

「マヨを多めに仕込む。明日も要る」

「せやな!」

 リナが弾んだ声で返した。それが答えだった。

――

 夜になった。酒場は落ち着いていた。昼の騒ぎが嘘のように、
静かな時間が流れている。火はまだ生きている。窯の奥で、小さく
呼吸するように揺れていた。

「俺は赤だ」

 ガドが言った。

「俺は白だ。譲らん」

 船乗りが笑う。

「両方や!喧嘩せんでいい!」

 リナが両手を上げる。

 レオンが肩をすくめた。

「贅沢だな、それは」

「選択肢が増えただけです」

 メリアは言った。

「どちらが正しいということではありません。赤が好きな人がいて、
白が好きな人がいる。それだけのことです」

「嬢ちゃんはどっちだ?」

 ガドが問う。

 メリアは少し考えた。

「......両方、好き」

「結局そっちかい!」

 リナが笑った。場が笑った。ガドも口の端を上げた。

 窓の外に、港の灯りが揺れている。波が光を砕いて、また拾って、
また揺れる。

(幸福量保存、安定)

 れもんの声が、ひっそりと届いた。

 赤と白。どちらも売れた。どちらも残る。ポルタ=ルクスの
酒場に、新しいものが生まれた。窯の火が作り、乳化が加わり、
名前がついて、分かれていった。誰かが始めたわけでもなく、
誰かが終わらせたわけでもなく、気づいたらそこにあった。

 ピッツァルクスは、完成した。
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 酒場の昼は、忙しかった。窯の前で火が回る。ドームの内側を、
静かに流れている。焼きは安定している。匂いで人が寄る。席は
埋まり、皿はすぐに空になる。

 ガドが腕を組んでいた。分厚い腕が、胸の前でひとつの塊になる。
眉が寄っている。

「......うまいが」

 一口、かじった。噛む。もう一口。

「少し重いな」

 隣の常連が頷く。港仕事の帰りらしく、日に焼けた顔に塩の匂いが
まだ残っていた。

「油が強ぇ」

「十分うまいやん」

 リナが首を傾げた。口の端にトマトソースがついている。気にして
いない。メリアは一口食べた。舌の上で転がす。少しだけ考える。
油の甘さが先に来て、後に引く。悪くはないが、何かが足りない。

「酸味が不足してる」

 短く言った。

「酸味?」

 ガドが眉を上げる。

 メリアは棚から瓶を取った。透明な液体。澄んでいる。ほんの
少しだけ、皿の上に垂らした。じゅ、と音がした。油の上で
弾かれる。広がらない。まとまらない。表面で浮いたまま、
分離している。

「なんだこれ?」

「混ざりません」

「このままでは使えねぇ」

 ガドが顔をしかめる。リナが不思議そうに覗き込む。

「何を作るつもりやの?」

 メリアはすでに次の手を考えていた。

――

 卵を割った。黄身だけを残す。白身は使わない。器に静かに
落とす。そこへ、油をほんの少し。酢を少し。

 メリアは混ぜ始める。ゆっくり。一定に。止めない。

(攪拌速度、不十分。油分の添加量を絞って)

 れもんの声が、頭の中で来た。

「わかってる」

 外からは独り言だ。速度は変えない。ゆっくりと、糸を引くように
油を足す。垂らすように。混ぜながら足す。足しながら混ぜる。
焦らない。急がない。

「......まだ混ざっとらんで」

 リナが横から覗く。

「今は分離していても構いません」

 ガドが黙って見ている。酒場の喧騒が、いつの間にか遠くなって
いた。混ぜる。油を足す。混ぜる。分離が、消えた。

 とろり、と変わった。白く。艶が出る。器の底で、ゆっくりと
動く。生き物のように、重く、なめらかに。

 空気が、静かになった。ガドが、リナが、常連が、じっと
見ている。

「......なんだそれ?」

「乳化です」

 メリアは短く答えた。

「油と酢は本来混ざりません。ですが黄身が仲立ちをする。
混ざるはずのないものを、つないでくれる」

 ガドは黙って器を取った。指で少しすくう。舌に乗せる。
噛まずに、ただ感じる。

 一拍。

 何も言わなかった。だが顔が変わっていた。

――

「名前だ」

 ガドが言った。

「呼び名がいる。これはなんて呼ぶ?」

 メリアは少し考えた。前世の記憶を探る。料理の本で見た名前の
断片。港の名前に由来するという説、貴族の厨房から来たという説、
どちらが正しいのかは分からない。

「呼称には諸説あります。マオンネーズ説、モイエネーズ説――」

「長いわ!」

 リナが即座に切り捨てた。

「そんなん覚えられへん!メリアちゃんは
いっつもそういうむずいことを言う!」

「知らねぇよ、そんなウンチクは」

 ガドが笑った。珍しく、豪快に。

 一拍の間があった。

「マヨだ」

「雑っ!」

「覚えやすい」

 メリアは頷いた。

(短縮名称、普及率上昇見込み)

 れもんの声が来た。

「マヨでいい」

 ガドが言い切った。

 リナはまだ不満そうだったが、口の中でそのまま繰り返している。

「......マヨ、マヨ、マヨ......うん、確かに言いやすいわ」

「決まり」

 メリアは言った。

 そうして、名前は決まった。

――

 焼き上がったピッツァルクスに、細く一筋。白い線が、赤の上を
走る。

 ガドが腕を組む。

「......邪道だな」

「一口食べて」

 常連が手を伸ばす。一口、かじる。止まる。

「......うまい」

 もう一口。

「軽い。なんか、軽くなってる」

「酸味が油の重さを切っています」

 ガドが食べた。一口だけ。しっかりと噛む。口の中でゆっくりと
確かめる。少しだけ目を細めた。

「......邪道だが」

 もう一度、噛む。

「うまいな」

 空気が変わった。どこかやわらかく、あたたかい方向に。

「嬢ちゃん、これはいい」

「ありがとうございます」

 メリアは静かに言った。

――

「もっとかけろよ!」

 若い船乗りが言った。港仕事の帰りらしい。日焼けした顔に、
目だけが明るい。席に着いたそばからマヨに興味を持って、もう
三度目の催促だった。

「ええやん!」

 リナが笑う。

 マヨを足す。もう一筋。また一筋。さらに。

「横も!」

「縦も入れたら?」

「格子! 格子にしよ!」

「マヨビーム!」

 白が増える。ピッツァルクスが覆われていく。赤がほとんど
見えなくなる。

 ガドが固まった。

「......やりすぎだろ」

 声が、低かった。挿絵

――

「素材の味が死ぬ!」

 ガドが言った。

「うまけりゃいいだろ!」

 船乗りが返す。一歩も引かない。

「うちは白派!」

 リナが手を上げた。高らかに、迷いなく。

 レオンが苦笑した。

「......極端だな、どいつもこいつも」

 メリアは少し離れて見ていた。赤と白。分かれていく。
笑いながら、主張しながら、それぞれの側に。

「文化は分岐します」

 静かに言った。

「最初はひとつのものが、好みによって、使い方によって、
やがて別の流儀になる。珍しいことではありません」

「賛否両論ってことか」

 レオンが言う。

「健全な状態です」

(対立指数、健全範囲内)

 れもんが補足した。

――

 それから、注文が重なるようになった。

「白いのくれ!」

「赤も一枚!」

 ガドは頭をかいた。盛大に。

「......増えたな」

 でも、焼く。赤と白を並べて焼く。両方が並ぶ。両方が選ばれる。
また焼く。また並ぶ。作ることに文句はなかった。うまいものが
増えるなら、それでいい、というような手の動き方だった。

 しばらくして、ガドはリナに言った。

「マヨを多めに仕込む。明日も要る」

「せやな!」

 リナが弾んだ声で返した。それが答えだった。

――

 夜になった。酒場は落ち着いていた。昼の騒ぎが嘘のように、
静かな時間が流れている。火はまだ生きている。窯の奥で、小さく
呼吸するように揺れていた。

「俺は赤だ」

 ガドが言った。

「俺は白だ。譲らん」

 船乗りが笑う。

「両方や!喧嘩せんでいい!」

 リナが両手を上げる。

 レオンが肩をすくめた。

「贅沢だな、それは」

「選択肢が増えただけです」

 メリアは言った。

「どちらが正しいということではありません。赤が好きな人がいて、
白が好きな人がいる。それだけのことです」

「嬢ちゃんはどっちだ?」

 ガドが問う。

 メリアは少し考えた。

「......両方、好き」

「結局そっちかい!」

 リナが笑った。場が笑った。ガドも口の端を上げた。

 窓の外に、港の灯りが揺れている。波が光を砕いて、また拾って、
また揺れる。

(幸福量保存、安定)

 れもんの声が、ひっそりと届いた。

 赤と白。どちらも売れた。どちらも残る。ポルタ=ルクスの
酒場に、新しいものが生まれた。窯の火が作り、乳化が加わり、
名前がついて、分かれていった。誰かが始めたわけでもなく、
誰かが終わらせたわけでもなく、気づいたらそこにあった。

 ピッツァルクスは、完成した。
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