ホーム理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-第十一話 生活魔法
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第十一話 生活魔法

 まだ暗い厨房に、火の気だけがあった。

 月兎亭の朝は早い。女将が仕込みをしている。包丁の音、鍋の
湯気、油の匂いが静かに立ち上っていた。秋の夜明けは遅く、
窓の外はまだ群青で、港の灯りだけがぽつりと光っていた。

 戸が開いた。リナが入ってくる。

「......ねむ」

 目をこすりながら歩いてきて、椅子を引き、どさりと腰を
落とした。

「おはよう」

 女将が言った。

「おはよ......」

 リナはしばらくぼんやりしていたが、思い出したように顔を
上げた。

「あ、おかん、昨日のやつ見せたるわ」

 女将を見て、立ち上がる。手のひらを出し、少し集中する。
空気が揺れた。陽炎のような揺らぎ。鍋の上の湯気が、ふっと
消えた。

 女将は手を止め、湯気の消えた鍋を見て、少しだけ目を細めた。

「......便利やなぁ」

 それだけだった。

「やろ!?これな、あったか風ブワーやねん!」

「名前なんか、どうでもよろしおすわ」

「ええやん、別に!」

 女将は鍋をかき混ぜながら、ちらりと厨房の入口に目をやった。
いつの間にかメリアが立っていた。

「火、強すぎたら危ないえ。気ぃつけてや」

「制御可能」

 メリアが言った。

(対流を作ってから熱を混ぜているだけ。
局所的な温度上昇は起きない)

 れもんの声が、頭の中で得意げに響いた。

(......そこまで説明しなくていい)

 メリアは内心で返しながら、女将には短く付け加えた。

「均一に流すから、焦げない」

「ふぅん」

 女将は鍋に視線を戻し、それ以上は聞かなかった。リナが
腕を組む。

「うちら最強ちゃう?」

「調子乗ったらあかんで」

 女将の即答が厨房に響いた。リナが笑う。メリアは何も
言わなかったが、厨房を出るとき、少しだけ口元が緩んでいた。

――

 朝の食堂は、客が少なかった。小さな宿だから、そんなものだ。
常連の船乗りが一人、テーブルに座っている。濡れた上着を椅子の
背にかけ、袖口から水が垂れていた。

「また濡れとるやん」

「仕事や」

 船乗りが笑う。リナがにやっとした。

「ええもん、見せたるわ」

 手を出す。陽炎。上着の水気が、袖口から肩へ、背中へと、
ゆっくり消えていく。五分もかからなかった。挿絵

 船乗りが目を丸くした。

「......なんや、それ」

「生活魔法!」

 リナが即答した。

 メリアは奥のテーブルから聞いていた。生活魔法か......。
誰が決めたわけでもない、リナが自然に口にした言葉だ。
それでも、訂正する気にはならなかった。悪くない名前だと
思った。

 船乗りが上着を手に取る。

「乾いとる......」

「やろ?」

「魔法使いがおったんか、ここに」

「うちら二人おるで」

「二人!?」

 リナは得意げだった。メリアは何も言わなかったが、
その「二人」という言葉が、思っていたより馴染むことに、
少しだけ驚いていた。

――

 昼になると、魚屋が来た。月兎亭の前で少し迷ってから、
扉を開ける。

「ここでやっとるって、聞いたんやけど」

「あー、あったか風ブワー?」

「名前......それなんか......?」

「細かいこと、気にせんでええ」

 魚屋は苦笑して中に入った。奥のテーブルにいたメリアと
目が合う。

「ちょっと、やって見せてくれんか」

 メリアは頷いた。立ち上がり、手を出す。

(風速を上げすぎると水滴が飛び散る。
先に流れを作って、熱を混ぜて)

 れもんの声が、いつもより真剣な調子で助言する。メリアは
小さく頷き、風を整えた。細く、静かに、流れを作る。そこへ
熱を混ぜる。魚屋の手拭いが、端から中へ、じわりと均一に乾いていく。

(......いい流れ)

 れもんの声に、メリアは口の中だけで返した。

(うるさい、集中してる)

「......ほぉ」

 魚屋が唸った。

「どうやるんや?」

「風を先に作って、火を混ぜる」

「......なるほど?」

 分かっていない顔だった。リナが横から割り込む。

「イメージや!」

「イメージかぁ......」

 魚屋は笑った。

「よう分からんけど、すごいな」

「魔法はイメージなので」

 メリアが言った。魚屋はその言葉をしばらく眺めるように
黙っていたが、やがて頷いた。

「......そういうもんか」

「そういうもの」

 女将が奥から見ていた。何も言わない。でも、少しだけ口元が
緩んでいた。鍋をかき混ぜる手は、止まらなかった。

――

 夕方になると、子どもが二人、店の前にいた。

「ほんまにやるん?」

「やるで」

 リナがしゃがんで手を出す。陽炎。子どもたちの髪がふわりと
揺れた。

「おおー!」

「すごー!」

 子どもの一人が自分の髪を触る。

「あったかい!」

「乾いてるやろ?」

「なんで!?」

「生活魔法や」

「せいかつまほう!」

 子どもたちが声を揃えて繰り返す。リナが笑い、子どもたちも
笑った。

 メリアは入口の奥から見ていた。外には出ない。でも、入口から
見える範囲が、いつもより少し明るい気がした。

(メリア、しんみりしてる?)

 れもんの声が、そっと割り込んできた。

(......別に)

(前世でも、こんな風にボクの毛を乾かしてくれた)

(......うるさい)

 メリアはそれだけ返して、視線を子どもたちに戻した。人が来る。
それでいいと思った。

――

 夜、仕込みが終わった頃には、食堂は静かだった。厨房の火が
落ち、灯りが一つ減る。秋の夜は早く、窓の外はもう真っ暗で、
港の灯りだけが遠くに揺れていた。

 女将が布巾を折りながら、ぽつりと言った。

「助かるわぁ。おおきに」

 それだけだった。包丁を仕舞う手も、いつも通りだった。
けれど、その「おおきに」には、いつもより少しだけ重みが
あった気がした。

 メリアは少しだけ目を細めた。

「......よかった」

 女将はそれ以上何も言わず、布巾を棚に置いて片付けに戻った。
リナが肘をつく。

「これ、流行るで!」

「流行るかは知らない」

「流行るって!朝から何人来たと思っとんの」

「三人」

「そう、三人!小さな宿にしては上出来やって!」

 メリアは少し考えた。

(広がると、管理が難しくなる。出力を誤った人が出た場合、
火傷や火災の可能性もある)

 れもんの声が、頭の中で淡々と告げる。

「......広がると、管理が難しくなる」

 メリアはそれをそのまま口にした。

「管理?」

「出力を間違えると、危ない」

「あー......それはそっか」

 リナは少しだけ真顔になったが、すぐにまた笑った。

「まあ、うちが教えるわ。ちゃんとしたやつ」

「リナが?」

「うちかて昨日できるようになったんやから、初心者に教えるのは
うちのほうが向いとるやろ」

 メリアは少し考えた。

「......なるほど」

「でしょ」

(糖質補給要請......。)

 れもんの声が唐突に割り込んだ。

(今、それ関係ない)

(飲み物でもいい)

(......夜食は考えとく)

 メリアが小さく息をつくと、れもんは満足したように黙った。

「今、なんか頷いた?」

 リナが首をかしげる。

「気のせい」

「気のせい......?」

 リナはしばらくメリアの顔を見ていたが、それ以上は
聞かなかった。代わりに大きく伸びをする。

「ま、ええわ。今日は疲れたし、ゆっくり休も!」

 灯りが一つ、また一つ消える。月兎亭の夜が静かに閉じていく。
厨房では、女将がまだ何か小さく作業をしている音がしていたが、
やがてそれも止み、戸の閉まる音がした。

 風は穏やかで、熱は残らない。船乗りが乾いた上着で帰って
いったこと。魚屋が笑って店を出たこと。子どもたちの声が、
まだ少しだけ耳に残っていること。ひとつひとつは、小さな
ことだった。

 でも、積み重なると、何かが変わっていく。メリアは灯りが
消える食堂を、もう一度だけ見渡した。

(明日も、誰か来るといいね)

 れもんの声が、静かに響いた。

(......うん)

 メリアは小さく頷いた。明日も、誰かが来るかもしれない。
それでいい、と思った。
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理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-作者:シラン
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 まだ暗い厨房に、火の気だけがあった。

 月兎亭の朝は早い。女将が仕込みをしている。包丁の音、鍋の
湯気、油の匂いが静かに立ち上っていた。秋の夜明けは遅く、
窓の外はまだ群青で、港の灯りだけがぽつりと光っていた。

 戸が開いた。リナが入ってくる。

「......ねむ」

 目をこすりながら歩いてきて、椅子を引き、どさりと腰を
落とした。

「おはよう」

 女将が言った。

「おはよ......」

 リナはしばらくぼんやりしていたが、思い出したように顔を
上げた。

「あ、おかん、昨日のやつ見せたるわ」

 女将を見て、立ち上がる。手のひらを出し、少し集中する。
空気が揺れた。陽炎のような揺らぎ。鍋の上の湯気が、ふっと
消えた。

 女将は手を止め、湯気の消えた鍋を見て、少しだけ目を細めた。

「......便利やなぁ」

 それだけだった。

「やろ!?これな、あったか風ブワーやねん!」

「名前なんか、どうでもよろしおすわ」

「ええやん、別に!」

 女将は鍋をかき混ぜながら、ちらりと厨房の入口に目をやった。
いつの間にかメリアが立っていた。

「火、強すぎたら危ないえ。気ぃつけてや」

「制御可能」

 メリアが言った。

(対流を作ってから熱を混ぜているだけ。
局所的な温度上昇は起きない)

 れもんの声が、頭の中で得意げに響いた。

(......そこまで説明しなくていい)

 メリアは内心で返しながら、女将には短く付け加えた。

「均一に流すから、焦げない」

「ふぅん」

 女将は鍋に視線を戻し、それ以上は聞かなかった。リナが
腕を組む。

「うちら最強ちゃう?」

「調子乗ったらあかんで」

 女将の即答が厨房に響いた。リナが笑う。メリアは何も
言わなかったが、厨房を出るとき、少しだけ口元が緩んでいた。

――

 朝の食堂は、客が少なかった。小さな宿だから、そんなものだ。
常連の船乗りが一人、テーブルに座っている。濡れた上着を椅子の
背にかけ、袖口から水が垂れていた。

「また濡れとるやん」

「仕事や」

 船乗りが笑う。リナがにやっとした。

「ええもん、見せたるわ」

 手を出す。陽炎。上着の水気が、袖口から肩へ、背中へと、
ゆっくり消えていく。五分もかからなかった。挿絵

 船乗りが目を丸くした。

「......なんや、それ」

「生活魔法!」

 リナが即答した。

 メリアは奥のテーブルから聞いていた。生活魔法か......。
誰が決めたわけでもない、リナが自然に口にした言葉だ。
それでも、訂正する気にはならなかった。悪くない名前だと
思った。

 船乗りが上着を手に取る。

「乾いとる......」

「やろ?」

「魔法使いがおったんか、ここに」

「うちら二人おるで」

「二人!?」

 リナは得意げだった。メリアは何も言わなかったが、
その「二人」という言葉が、思っていたより馴染むことに、
少しだけ驚いていた。

――

 昼になると、魚屋が来た。月兎亭の前で少し迷ってから、
扉を開ける。

「ここでやっとるって、聞いたんやけど」

「あー、あったか風ブワー?」

「名前......それなんか......?」

「細かいこと、気にせんでええ」

 魚屋は苦笑して中に入った。奥のテーブルにいたメリアと
目が合う。

「ちょっと、やって見せてくれんか」

 メリアは頷いた。立ち上がり、手を出す。

(風速を上げすぎると水滴が飛び散る。
先に流れを作って、熱を混ぜて)

 れもんの声が、いつもより真剣な調子で助言する。メリアは
小さく頷き、風を整えた。細く、静かに、流れを作る。そこへ
熱を混ぜる。魚屋の手拭いが、端から中へ、じわりと均一に乾いていく。

(......いい流れ)

 れもんの声に、メリアは口の中だけで返した。

(うるさい、集中してる)

「......ほぉ」

 魚屋が唸った。

「どうやるんや?」

「風を先に作って、火を混ぜる」

「......なるほど?」

 分かっていない顔だった。リナが横から割り込む。

「イメージや!」

「イメージかぁ......」

 魚屋は笑った。

「よう分からんけど、すごいな」

「魔法はイメージなので」

 メリアが言った。魚屋はその言葉をしばらく眺めるように
黙っていたが、やがて頷いた。

「......そういうもんか」

「そういうもの」

 女将が奥から見ていた。何も言わない。でも、少しだけ口元が
緩んでいた。鍋をかき混ぜる手は、止まらなかった。

――

 夕方になると、子どもが二人、店の前にいた。

「ほんまにやるん?」

「やるで」

 リナがしゃがんで手を出す。陽炎。子どもたちの髪がふわりと
揺れた。

「おおー!」

「すごー!」

 子どもの一人が自分の髪を触る。

「あったかい!」

「乾いてるやろ?」

「なんで!?」

「生活魔法や」

「せいかつまほう!」

 子どもたちが声を揃えて繰り返す。リナが笑い、子どもたちも
笑った。

 メリアは入口の奥から見ていた。外には出ない。でも、入口から
見える範囲が、いつもより少し明るい気がした。

(メリア、しんみりしてる?)

 れもんの声が、そっと割り込んできた。

(......別に)

(前世でも、こんな風にボクの毛を乾かしてくれた)

(......うるさい)

 メリアはそれだけ返して、視線を子どもたちに戻した。人が来る。
それでいいと思った。

――

 夜、仕込みが終わった頃には、食堂は静かだった。厨房の火が
落ち、灯りが一つ減る。秋の夜は早く、窓の外はもう真っ暗で、
港の灯りだけが遠くに揺れていた。

 女将が布巾を折りながら、ぽつりと言った。

「助かるわぁ。おおきに」

 それだけだった。包丁を仕舞う手も、いつも通りだった。
けれど、その「おおきに」には、いつもより少しだけ重みが
あった気がした。

 メリアは少しだけ目を細めた。

「......よかった」

 女将はそれ以上何も言わず、布巾を棚に置いて片付けに戻った。
リナが肘をつく。

「これ、流行るで!」

「流行るかは知らない」

「流行るって!朝から何人来たと思っとんの」

「三人」

「そう、三人!小さな宿にしては上出来やって!」

 メリアは少し考えた。

(広がると、管理が難しくなる。出力を誤った人が出た場合、
火傷や火災の可能性もある)

 れもんの声が、頭の中で淡々と告げる。

「......広がると、管理が難しくなる」

 メリアはそれをそのまま口にした。

「管理?」

「出力を間違えると、危ない」

「あー......それはそっか」

 リナは少しだけ真顔になったが、すぐにまた笑った。

「まあ、うちが教えるわ。ちゃんとしたやつ」

「リナが?」

「うちかて昨日できるようになったんやから、初心者に教えるのは
うちのほうが向いとるやろ」

 メリアは少し考えた。

「......なるほど」

「でしょ」

(糖質補給要請......。)

 れもんの声が唐突に割り込んだ。

(今、それ関係ない)

(飲み物でもいい)

(......夜食は考えとく)

 メリアが小さく息をつくと、れもんは満足したように黙った。

「今、なんか頷いた?」

 リナが首をかしげる。

「気のせい」

「気のせい......?」

 リナはしばらくメリアの顔を見ていたが、それ以上は
聞かなかった。代わりに大きく伸びをする。

「ま、ええわ。今日は疲れたし、ゆっくり休も!」

 灯りが一つ、また一つ消える。月兎亭の夜が静かに閉じていく。
厨房では、女将がまだ何か小さく作業をしている音がしていたが、
やがてそれも止み、戸の閉まる音がした。

 風は穏やかで、熱は残らない。船乗りが乾いた上着で帰って
いったこと。魚屋が笑って店を出たこと。子どもたちの声が、
まだ少しだけ耳に残っていること。ひとつひとつは、小さな
ことだった。

 でも、積み重なると、何かが変わっていく。メリアは灯りが
消える食堂を、もう一度だけ見渡した。

(明日も、誰か来るといいね)

 れもんの声が、静かに響いた。

(......うん)

 メリアは小さく頷いた。明日も、誰かが来るかもしれない。
それでいい、と思った。
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理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-作者:シラン
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