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理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-
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第一話 思考制御OS
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第一話 思考制御OS
神界の執務室は、いつも静かだ。
白い大理石の床、高い天井、星のように瞬く神域の光。
壁一面の書架には、分厚い神術書が整然と並んでいる。
窓の外には時間という概念すら曖昧な空が広がり、それは
いつも穏やかで美しく、そして少しだけ退屈だった。
その静けさの中央で、神が死んでいた。
「......もう、無理......」
かろうじて動いた手が、黒いマグカップを掴む。
中身は
コーヒーだ。
神が口にするものではないが、今はそんな体裁を
気にしていられなかった。
ごく。
「......苦い」
ノエリアはゆっくりと顔を上げた。
金色の環が背後で揺れる。
だが、その神々しい装飾とは
裏腹に、本人の様子はどこまでも人間じみていた。
目の下には
濃い隈、白銀の長い髪は乱れ、神衣の袖には正体不明のシミが
飛んでいる。
空中には膨大なログが浮かんでいた。
数百、いや数千。
神術
言語で綴られた命令列が幾重にも折り重なり、静かに発光して
いる。
その隙間に散る赤い警告を、ノエリアは機械的に潰し
続けていた。
どれほどの時が経ったのか、もはや分からない。
神界に時計はなく、眠った記憶も定かではなかった。
「......デバッグって、神の仕事じゃないと思うのよ」
ぼそりと呟きながらも、視線は机の中央に置かれた光から
離れなかった。
小さな結晶。
淡い光を放つそれは、掌に乗るほどの大きさで、
ともすれば見落としてしまいそうなほど地味だ。
だが内側に
刻まれた術式の密度は、彼女がこれまで書いたどの神術よりも
複雑だった。
メリアのために編んだ、思考制御OS。
家族を想うメリアの優しさが、大切な存在を傷つけて
しまわないように。
彼女の力が、彼女自身の意志の通りに
動くように――そのためのシステムだった。
「......でも」
ノエリアは息を吐いた。
柔らかく、疲れた吐息だった。
「完成したわ」
指先で結晶をそっと弾く。
淡い光が揺れた。
その内側には、
小さな人格データが眠っている。
かつてメリアの隣にいた意志。
忠実で、少し毒舌で、何よりも主のことを誰より深く理解して
いた相棒だ。
「れもん」
ノエリアは目を閉じた。
「メリアの元へ、帰りなさい」
神域回線が一瞬だけ開く。
白い光の筋が走り、結晶がふっと
消えた。
転送完了。
次の瞬間、ノエリアの体は机に崩れ落ちた。
「......終わった......」
マグカップが転がり、コーヒーの残りが神聖な大理石の床に
広がっていく。
だが、それを気にする者はもういない。
「......寝る......」
神は、そのまま眠りに落ちた。
メリアは夢を見ていた。
白い空間。
静かな場所。
どこかの在り処を問われても
答えられないような、ただ「ある」
だけの場所だった。
そこに、見慣れた女性が立っていた。
「完成したわ」
ノエリアだった。
柔らかい微笑みは変わらない。
だが、
目の下がわずかに暗い気がした。
「あなたの、思考制御OSよ」
「......OS?」
メリアが首を傾げると、ノエリアは軽く手を振った。
「説明はあとで。
れもんに聞きなさい」
その言葉の直後、空間が揺れる。
夢の輪郭がほつれ始め、
白い壁が滲んで遠くなっていく。
ノエリアの姿も、靄の中に
沈みかけていた。
「通信限界ね」
ノエリアが苦笑する。
「あまり寝てないの。
許してちょうだい」
「......どれくらい、眠っていないのですか?」
「あなたの時間で、たぶん三ヶ月くらい」
メリアは黙った。
「本当に、ありがとうございます」
ノエリアは首を振る。
「お礼はれもんに言ってあげて。
一番頑張ったのは、あの子だから」
光が消える。
夢が終わる。
目が覚めると、パンの香りがした。
月兎亭の食堂だ。
二階の客室から降りてきたメリアを、
朝の光と喧騒が迎える。
厨房の方から焼きたてのパンの
匂いが漂い、テーブルの上には朝食が並んでいた。
窓の外は、
ポルタ=ルクスの朝が広がっている。
船の鐘が鳴り、人の声が飛び交い、潮の匂いが風に混じる。
石造りの街並みは朝日を受けて白く輝き、港では今日も漁船が
次々と沖へ出て行く。
早起きの商人たちが荷車を引き、石畳を
踏み鳴らす音がリズムを刻んでいる。
この街は一日中どこかで
人が動いていて、それが賑やかさとも喧噪ともつかない独特の
空気を作り出していた。
メリアはまだ、その雑踏の感覚に慣れ
きれていない。
「せやから、言うたやん!」
リナがパンをかじりながら話している。
赤みがかった髪が
朝の光に映え、昨日の疲れも見せずによく喋る。
それがリナと
いう人間だった。
「この街、思っとるより危ないんやで。
ギルドの依頼もな、
当たり外れが激しいんよ」
リナは身振りを交えて続ける。
「新人がいきなし死ぬこともあるし、わかる?」
「......怖いですね」
「せやで。
せやけど稼げるんも事実や。
腕ある人間には、
それなりに仕事がくる」
リナは笑った。
「メリアちゃんみたいなんが、ちゃんと生き残れるかどうかは――」
ふっ。
ベーコンが消えた。
メリアは瞬きをする。
皿の上にあったはずの薄切りベーコンが、
跡形もない。
気のせいだろうか。
いや、確かにあった。
三枚あった
はずだ。
リナはまだ話している。
「――こないだのパーティーがな、依頼で洞窟に
入ったんやけど――」
その隙に、また一つ。
今度はパンが消えた。
メリアは皿を見る。
確実に減っている。
さっきまで半分以上
残っていたはずなのに、今は欠片も残っていない。
「......リナ」
「なんや?」
「ごはん、どこ?」
「そこにあるやん?」
リナは皿を見た。
「......えっ?」
空だった。
二人が固まる。
そこへ小さな咀嚼音が響いた。
もぐ。
テーブルの上、パンの最後の一切れが浮いていた。
いや、
浮いていたのではない。
見えない何かが、それを押さえて
食べていた。
もぐもぐ。
リナの目の前で、パンがまた一口分消えていく。
皿だけが、
静かに残された。
「......え」
リナはテーブルを見回し、自分の皿を見た。
ベーコンが一枚
減っている。
確かにあったはずの場所が、きれいに空いていた。
「メリアちゃん」
「なんですか?」
「うちの皿、見てた?」
「......見ていません」
「ベーコン、減ってへん?」
「......そうですね」
リナは目を細め、食堂を見回した。
他の客は遠い席にいる。
厨房から女将が出てくる様子もない。
風はなく、猫の姿もない。
「......なんか、おる」
静かな声だった。
笑いも怯えもなく、ただ事実を確認する
ような目をしていた。
メリアは視線をそらす。
浮かんでいた皿の向こうで、小さな
気配がした。
丸い瞳、白と黒の毛並み。
リナには見えていないが、
メリアにははっきりと見えていた。
「......れもん?」
声を落として言う。
気配が、胸を張るように動いた。
(ひさしぶり、メリア)
ふつうに喋った。
メリアはスープを飲む手を止める。
「本当に、来てくれたの?」
(来たよ)
「......随分と待ったよ」
(ノエリア様が三ヶ月かけて作ったんだから仕方ない)
れもんは満足そうに口元を舐めた。
視線がテーブルの端、
オニオンサラダに向く。
薄切りの玉ねぎを山盛りにしたそれに、
れもんは一直線に顔を突っ込んだ。
しゃくしゃく。
今度はリナにも聞こえたはずだ。
音だけは、する。
メリアは眉をひそめた。
「......れもん」
(なに?
)
「それ、玉ねぎ......」
(知ってる)
しゃく。
もう一口。
「普通の犬には――」
(毒でしょ。
知ってる)
しゃくしゃく。
(ノエリア様が調整してくれた。
毒性無効化。
食べ物の制限は
ないよ)
「......なるほど」
(おいしい)
れもんはそう言って、尻尾をぶんぶんと振った。
リナがゆっくり立ち上がり、テーブルをぐるりと一周する。
何もいない。
何も見えない。
咀嚼音だけがしている。
リナは静かに席に戻った。
「メリアちゃん」
「なんですか?」
「......ここ、なんかおるな」
「そうですか?」
「おる」
断言してから、リナは追加のパンを頼みに給仕を呼んだ。
それ以上は、何も言わなかった。
れもんはのんびりした顔でメリアを見上げる。
(メリア、顔が赤い)
「......余計なお世話」
(ほんとのことを言っただけだよ)
「......知らない」
二階の客室。
扉が閉まる。
静かな部屋には、ベッドひとつと小さな窓から差し込む
光だけがある。
メリアはベッドの端に腰を下ろした。
れもんはとてとてと歩いてきて、メリアの膝に前足をかける。
メリアは何も言わなかった。
ただ両腕でれもんを抱き上げ、
胸に引き寄せる。
ふわふわした毛並み、小さな鼓動。
温かい
体温が、手のひらから腕へ、じわじわと伝わってくる。
死んだと思っていた。
もう会えないと思っていた。
れもんは大人しくされるがままでいた。
いつもなら一言
添えるはずなのに、何も言わない。
ただメリアの胸の中で
小さく息をしていた。
しばらく、そのままでいた。
窓の外で鐘が鳴る。
港の朝は、
変わらず続いている。
メリアはゆっくりと顔を上げ、目元を袖で拭った。
「......ごめんね」
(なにが?
)
「泣いちゃった」
(いいよ)
れもんは短く言った。
(ボクも、会いたかった)
また少し、沈黙が落ちた。
メリアはれもんを膝に下ろす。
れもんはそのまま座り込み、
尻尾がゆっくり揺れていた。
(あと)
れもんは、少し言いづらそうに続けた。
(メリアの、女性化について)
メリアはれもんを見た。
(......ボクの復活の代償らしいよ)
「ノエリアが?」
(うん。
世界の帳尻だか、収支がどうとか)
メリアは少し目を細めた。
「......そっか。
犬の命が、安いわけないか」
小さく笑う。
れもんの尻尾がぶんと振れた。
それ以上は、どちらも
言わなかった。
(じゃあ)
れもんが言う。
少し胸を張った。
(思考制御OS、起動する?
)
メリアは頷いた。
「お願い」
(了解)
その瞬間、メリアの視界に淡い光が浮かび上がった。
透明な
窓。
文字列。
複雑な術式が層を成して広がり、それが静かに
メリアの意識へと馴染んでいく。
(メリア、接続確認)
れもんの声が、少しだけ変わった。
(ナビゲーションシステム、オンライン)
光が静かに広がっていく。
メリアはそれを見つめた。
新しい力、
新しい仕組み、そして前世から続く小さな相棒。
(思考制御OS、起動完了)
れもんはそう告げてから、胸を張るのをやめた。
ふつうの犬の
顔に戻る。
(あと)
「なに?」
(メリア、まだ心拍数が高い)
「......泣いたから」
(そういうことにしといてあげる)
「......余計なお世話」
れもんは少し楽しそうだった。
尻尾の振れ方が変わっている。
(推論結果、糖質補給が必要です)
「......いきなり、ナビ口調?」
(仕様だよ)
「......便利に使うつもりはないんだけど」
(使っていいよ。
そのためにいるんだから)
静かな部屋に、港の音が響いていた。
船の鐘、波の音、人の声。
「れもん」
(なに?
)
「......生きていて、よかった」
ワン。
れもんが鳴いた。
一声だけ。
尻尾がぶんと大きく、止まらない
くらい振れる。
しばらくしてから、れもんは小さく咳払いするように鼻を
鳴らした。
(......ボクもそう思う)
「今、鳴いた?」
(鳴いてない)
「鳴いた」
(......気のせい)
メリアは、少しだけ笑った。
「やっと、始められる」
れもんは膝の上で、そっと丸くなった。
窓の外には、港町ポルタ=ルクスの朝が、いつまでも静かに
広がっていた。
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第二話 環境依存人格:れもん
理を編むエーテル -メリアの不思議探求録-
作者:シラン
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第一話 思考制御OS
神界の執務室は、いつも静かだ。
白い大理石の床、高い天井、星のように瞬く神域の光。
壁一面の書架には、分厚い神術書が整然と並んでいる。
窓の外には時間という概念すら曖昧な空が広がり、それは
いつも穏やかで美しく、そして少しだけ退屈だった。
その静けさの中央で、神が死んでいた。
「......もう、無理......」
かろうじて動いた手が、黒いマグカップを掴む。
中身は
コーヒーだ。
神が口にするものではないが、今はそんな体裁を
気にしていられなかった。
ごく。
「......苦い」
ノエリアはゆっくりと顔を上げた。
金色の環が背後で揺れる。
だが、その神々しい装飾とは
裏腹に、本人の様子はどこまでも人間じみていた。
目の下には
濃い隈、白銀の長い髪は乱れ、神衣の袖には正体不明のシミが
飛んでいる。
空中には膨大なログが浮かんでいた。
数百、いや数千。
神術
言語で綴られた命令列が幾重にも折り重なり、静かに発光して
いる。
その隙間に散る赤い警告を、ノエリアは機械的に潰し
続けていた。
どれほどの時が経ったのか、もはや分からない。
神界に時計はなく、眠った記憶も定かではなかった。
「......デバッグって、神の仕事じゃないと思うのよ」
ぼそりと呟きながらも、視線は机の中央に置かれた光から
離れなかった。
小さな結晶。
淡い光を放つそれは、掌に乗るほどの大きさで、
ともすれば見落としてしまいそうなほど地味だ。
だが内側に
刻まれた術式の密度は、彼女がこれまで書いたどの神術よりも
複雑だった。
メリアのために編んだ、思考制御OS。
家族を想うメリアの優しさが、大切な存在を傷つけて
しまわないように。
彼女の力が、彼女自身の意志の通りに
動くように――そのためのシステムだった。
「......でも」
ノエリアは息を吐いた。
柔らかく、疲れた吐息だった。
「完成したわ」
指先で結晶をそっと弾く。
淡い光が揺れた。
その内側には、
小さな人格データが眠っている。
かつてメリアの隣にいた意志。
忠実で、少し毒舌で、何よりも主のことを誰より深く理解して
いた相棒だ。
「れもん」
ノエリアは目を閉じた。
「メリアの元へ、帰りなさい」
神域回線が一瞬だけ開く。
白い光の筋が走り、結晶がふっと
消えた。
転送完了。
次の瞬間、ノエリアの体は机に崩れ落ちた。
「......終わった......」
マグカップが転がり、コーヒーの残りが神聖な大理石の床に
広がっていく。
だが、それを気にする者はもういない。
「......寝る......」
神は、そのまま眠りに落ちた。
メリアは夢を見ていた。
白い空間。
静かな場所。
どこかの在り処を問われても
答えられないような、ただ「ある」
だけの場所だった。
そこに、見慣れた女性が立っていた。
「完成したわ」
ノエリアだった。
柔らかい微笑みは変わらない。
だが、
目の下がわずかに暗い気がした。
「あなたの、思考制御OSよ」
「......OS?」
メリアが首を傾げると、ノエリアは軽く手を振った。
「説明はあとで。
れもんに聞きなさい」
その言葉の直後、空間が揺れる。
夢の輪郭がほつれ始め、
白い壁が滲んで遠くなっていく。
ノエリアの姿も、靄の中に
沈みかけていた。
「通信限界ね」
ノエリアが苦笑する。
「あまり寝てないの。
許してちょうだい」
「......どれくらい、眠っていないのですか?」
「あなたの時間で、たぶん三ヶ月くらい」
メリアは黙った。
「本当に、ありがとうございます」
ノエリアは首を振る。
「お礼はれもんに言ってあげて。
一番頑張ったのは、あの子だから」
光が消える。
夢が終わる。
目が覚めると、パンの香りがした。
月兎亭の食堂だ。
二階の客室から降りてきたメリアを、
朝の光と喧騒が迎える。
厨房の方から焼きたてのパンの
匂いが漂い、テーブルの上には朝食が並んでいた。
窓の外は、
ポルタ=ルクスの朝が広がっている。
船の鐘が鳴り、人の声が飛び交い、潮の匂いが風に混じる。
石造りの街並みは朝日を受けて白く輝き、港では今日も漁船が
次々と沖へ出て行く。
早起きの商人たちが荷車を引き、石畳を
踏み鳴らす音がリズムを刻んでいる。
この街は一日中どこかで
人が動いていて、それが賑やかさとも喧噪ともつかない独特の
空気を作り出していた。
メリアはまだ、その雑踏の感覚に慣れ
きれていない。
「せやから、言うたやん!」
リナがパンをかじりながら話している。
赤みがかった髪が
朝の光に映え、昨日の疲れも見せずによく喋る。
それがリナと
いう人間だった。
「この街、思っとるより危ないんやで。
ギルドの依頼もな、
当たり外れが激しいんよ」
リナは身振りを交えて続ける。
「新人がいきなし死ぬこともあるし、わかる?」
「......怖いですね」
「せやで。
せやけど稼げるんも事実や。
腕ある人間には、
それなりに仕事がくる」
リナは笑った。
「メリアちゃんみたいなんが、ちゃんと生き残れるかどうかは――」
ふっ。
ベーコンが消えた。
メリアは瞬きをする。
皿の上にあったはずの薄切りベーコンが、
跡形もない。
気のせいだろうか。
いや、確かにあった。
三枚あった
はずだ。
リナはまだ話している。
「――こないだのパーティーがな、依頼で洞窟に
入ったんやけど――」
その隙に、また一つ。
今度はパンが消えた。
メリアは皿を見る。
確実に減っている。
さっきまで半分以上
残っていたはずなのに、今は欠片も残っていない。
「......リナ」
「なんや?」
「ごはん、どこ?」
「そこにあるやん?」
リナは皿を見た。
「......えっ?」
空だった。
二人が固まる。
そこへ小さな咀嚼音が響いた。
もぐ。
テーブルの上、パンの最後の一切れが浮いていた。
いや、
浮いていたのではない。
見えない何かが、それを押さえて
食べていた。
もぐもぐ。
リナの目の前で、パンがまた一口分消えていく。
皿だけが、
静かに残された。
「......え」
リナはテーブルを見回し、自分の皿を見た。
ベーコンが一枚
減っている。
確かにあったはずの場所が、きれいに空いていた。
「メリアちゃん」
「なんですか?」
「うちの皿、見てた?」
「......見ていません」
「ベーコン、減ってへん?」
「......そうですね」
リナは目を細め、食堂を見回した。
他の客は遠い席にいる。
厨房から女将が出てくる様子もない。
風はなく、猫の姿もない。
「......なんか、おる」
静かな声だった。
笑いも怯えもなく、ただ事実を確認する
ような目をしていた。
メリアは視線をそらす。
浮かんでいた皿の向こうで、小さな
気配がした。
丸い瞳、白と黒の毛並み。
リナには見えていないが、
メリアにははっきりと見えていた。
「......れもん?」
声を落として言う。
気配が、胸を張るように動いた。
(ひさしぶり、メリア)
ふつうに喋った。
メリアはスープを飲む手を止める。
「本当に、来てくれたの?」
(来たよ)
「......随分と待ったよ」
(ノエリア様が三ヶ月かけて作ったんだから仕方ない)
れもんは満足そうに口元を舐めた。
視線がテーブルの端、
オニオンサラダに向く。
薄切りの玉ねぎを山盛りにしたそれに、
れもんは一直線に顔を突っ込んだ。
しゃくしゃく。
今度はリナにも聞こえたはずだ。
音だけは、する。
メリアは眉をひそめた。
「......れもん」
(なに?
)
「それ、玉ねぎ......」
(知ってる)
しゃく。
もう一口。
「普通の犬には――」
(毒でしょ。
知ってる)
しゃくしゃく。
(ノエリア様が調整してくれた。
毒性無効化。
食べ物の制限は
ないよ)
「......なるほど」
(おいしい)
れもんはそう言って、尻尾をぶんぶんと振った。
リナがゆっくり立ち上がり、テーブルをぐるりと一周する。
何もいない。
何も見えない。
咀嚼音だけがしている。
リナは静かに席に戻った。
「メリアちゃん」
「なんですか?」
「......ここ、なんかおるな」
「そうですか?」
「おる」
断言してから、リナは追加のパンを頼みに給仕を呼んだ。
それ以上は、何も言わなかった。
れもんはのんびりした顔でメリアを見上げる。
(メリア、顔が赤い)
「......余計なお世話」
(ほんとのことを言っただけだよ)
「......知らない」
二階の客室。
扉が閉まる。
静かな部屋には、ベッドひとつと小さな窓から差し込む
光だけがある。
メリアはベッドの端に腰を下ろした。
れもんはとてとてと歩いてきて、メリアの膝に前足をかける。
メリアは何も言わなかった。
ただ両腕でれもんを抱き上げ、
胸に引き寄せる。
ふわふわした毛並み、小さな鼓動。
温かい
体温が、手のひらから腕へ、じわじわと伝わってくる。
死んだと思っていた。
もう会えないと思っていた。
れもんは大人しくされるがままでいた。
いつもなら一言
添えるはずなのに、何も言わない。
ただメリアの胸の中で
小さく息をしていた。
しばらく、そのままでいた。
窓の外で鐘が鳴る。
港の朝は、
変わらず続いている。
メリアはゆっくりと顔を上げ、目元を袖で拭った。
「......ごめんね」
(なにが?
)
「泣いちゃった」
(いいよ)
れもんは短く言った。
(ボクも、会いたかった)
また少し、沈黙が落ちた。
メリアはれもんを膝に下ろす。
れもんはそのまま座り込み、
尻尾がゆっくり揺れていた。
(あと)
れもんは、少し言いづらそうに続けた。
(メリアの、女性化について)
メリアはれもんを見た。
(......ボクの復活の代償らしいよ)
「ノエリアが?」
(うん。
世界の帳尻だか、収支がどうとか)
メリアは少し目を細めた。
「......そっか。
犬の命が、安いわけないか」
小さく笑う。
れもんの尻尾がぶんと振れた。
それ以上は、どちらも
言わなかった。
(じゃあ)
れもんが言う。
少し胸を張った。
(思考制御OS、起動する?
)
メリアは頷いた。
「お願い」
(了解)
その瞬間、メリアの視界に淡い光が浮かび上がった。
透明な
窓。
文字列。
複雑な術式が層を成して広がり、それが静かに
メリアの意識へと馴染んでいく。
(メリア、接続確認)
れもんの声が、少しだけ変わった。
(ナビゲーションシステム、オンライン)
光が静かに広がっていく。
メリアはそれを見つめた。
新しい力、
新しい仕組み、そして前世から続く小さな相棒。
(思考制御OS、起動完了)
れもんはそう告げてから、胸を張るのをやめた。
ふつうの犬の
顔に戻る。
(あと)
「なに?」
(メリア、まだ心拍数が高い)
「......泣いたから」
(そういうことにしといてあげる)
「......余計なお世話」
れもんは少し楽しそうだった。
尻尾の振れ方が変わっている。
(推論結果、糖質補給が必要です)
「......いきなり、ナビ口調?」
(仕様だよ)
「......便利に使うつもりはないんだけど」
(使っていいよ。
そのためにいるんだから)
静かな部屋に、港の音が響いていた。
船の鐘、波の音、人の声。
「れもん」
(なに?
)
「......生きていて、よかった」
ワン。
れもんが鳴いた。
一声だけ。
尻尾がぶんと大きく、止まらない
くらい振れる。
しばらくしてから、れもんは小さく咳払いするように鼻を
鳴らした。
(......ボクもそう思う)
「今、鳴いた?」
(鳴いてない)
「鳴いた」
(......気のせい)
メリアは、少しだけ笑った。
「やっと、始められる」
れもんは膝の上で、そっと丸くなった。
窓の外には、港町ポルタ=ルクスの朝が、いつまでも静かに
広がっていた。
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作者:シラン
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