
第二十九話 押すだけ
裏庭。 昨日の筋肉痛は、思ったよりも重く両腕に残っていた。伸ばす
たびに、じん、とした痛みが走る。 桶の横で、リナは布を持ち上げていた。びしょびしょだった。水が、ぽたぽたと落ち続けている。「......ほらな!」 勢いよく言いながら、布を見せる。「結局ここや!びっしょびしょや!」 そのまま、ぎゅううう、と力を込めると、腕が震えた。「っ......!」 水がじわじわと落ちていく。だが、抜けきらない。「回してもここが残っとったら、意味ないやん!」 ぷるぷると腕が震える。明らかに、さっきよりも疲れている。 メリアは、その様子を静かに見ていた。視線は布ではなく、落ちる
水滴の量、間隔、速度に向いている。(力の向き、バラついてるね。均一に押せてないから、逃げ道が
できて抜けにくいんだよ。面白いね、これ)
れもんの声が、頭の中で届いた。「......うん」 小さく頷きながら、メリアは口を開いた。「押せばいい」「それができへんから苦労しとんねん!押しとるやろ今!見えへんの!?」 さらに、ぎゅう、と力を込める。しかし、水は少しずつしか
落ちない。 メリアは、首を横に振った。「違う。均等に、押せてない」 リナは、ぴたりと動きを止める。「......は?」 意味がわからない、という顔だった。 メリアは、周囲を見渡した。木材。桶。置かれた道具。そして、
静かに動き出す。(板を二枚使って、隙間を作って重ねればいい。傾斜つけとくと水はけもよくなるよ)
れもんが、頭の中で設計図を組み立てていく。(ついでに、溝の角度も計算した方が――)
「そこまでは、いい」 メリアは小さく遮って、木材を手に取った。(せっかく考えたのに)
れもんが、少しだけ拗ねた声を出す。「今度、聞く」 小さく付け加えると、れもんの声のトーンが、心なしか明るく
なった。単純だが、素直な相棒だった。「うちも手伝おうか?」 リナが、興味津々に木材を覗き込む。「危ない。下がって」 メリアが短く制した。「なんで!うちかて器用な方やで!」 むっとした顔で言い返すが、メリアは取り合わず、黙々と作業を
進めていく。 メリアの手が、迷いなく動いていく。木材を組み合わせ、傾斜を
確かめ、時折、指先で表面をなぞって微調整する。木くずが足元に
落ち、陽射しの中で小さく舞った。 しばらくして、裏庭の一角に、簡単な構造が出来上がっていた。板が二枚、隙間を空けて重ねられ、その下には浅い溝が彫られて
いる。さらにその先には、水を受け止めるための皿が据えられて
いた。全体に、ごくわずかな傾斜がつけられている。水が、自然に
流れ落ちるように。「なんかそれっぽいの出てきた!急に発明家みたいなん
やめて!びっくりする!」 リナが目を丸くして、思わず一歩後ずさった。(板で挟んで面全体に体重をかければ、力のムラがなくなる。あとは重力で水が流れるだけ。さっきの何倍速くなるか、
計算してみよっか)
れもんが淡々と補足する。「今はいい」 メリアは短く返し、布を手に取った。「挟む」 板の間に布を挟み、上から手を置いて、ゆっくりと体重をかける。 ぎゅっ。 その瞬間、ざあっ、と音を立てて水が流れ出た。「うわっ!?めっちゃ出る!!」 リナが目を見開く。受け皿に、水が一気に溜まっていく。透明な
水が陽射しを受けて、細かく光りながら跳ねた。さっきまでぽたぽた
としか落ちなかった水が、一瞬で抜けていた。布は、目に見えて軽く
なっている。 メリアは、静かに手を離した。それだけで、十分だった。「ちょちょちょちょ!待って!」 リナが慌てて布を掴み、自分でも試す。同じように挟み、
ぎゅっ、と押す。 ざあっ。「ほんまや!!一発やん、これ!」 布を持ち上げる。明らかに、さっきより軽い。「腕......全然ちゃう......!なんやこれ、詐欺やろ!」 信じられない、という顔のまま、もう一枚、さらにもう一枚と
次々に試す。どれも同じだった。押すだけで、水が抜ける。
「これ、他の宿にも配ったら喜ばれるんちゃう?」 リナが、ふと思いついたように言う。腕を組み、真剣な顔で
干し場を見渡していた。「材料費、かかる」 メリアは静かに答えた。「板と、溝を彫る手間。それに、木を選ぶ目も要る」「せやんな......。誰にでも作れるわけやないか」 少しだけ肩を落とす。だが、すぐに気を取り直したように笑った。「まあ、うちの宿にあるだけでも、十分すごいことやけどな!」「厚い布と薄い布で、抜け方違うくない?」 リナが、手にした厚手の布を掲げて言う。(繊維の密度が違うから、水の通り道の数も変わるんだよ。厚い分、抜けるまで少し時間がかかる)
れもんが答える。「時間、少しかかる。だいたい二割増し」 メリアが、れもんの言葉を要約するように言った。「そんなんまで分かるんや......」 リナは、半ば呆れたように笑った。感心と諦めが半分ずつ混ざった
ような顔だった。「昨日まで、あんな死にそうな顔で絞っとったのが嘘みたいや」 リナが、自分の腕を軽く叩きながら笑う。腕はもう、震えて
いなかった。「明日からは、もっと楽になる」 メリアが静かに言った。(明日は、もっと速く、もっと楽に。工程はまだ改善できるよ)
れもんが、意欲的に付け加える。「......うん。少しずつ」 そこへ、女将が近づいてきた。「なんや、賑やかやなぁ」「おかん!これ見て!めっちゃ楽になるやつできた!」 リナが振り返り、勢いよく手招きする。 女将は、板の構造を見て、少しだけ目を細めた。布を挟み、
静かに体重をかける。 ぎゅっ。水が流れる。「......これは楽やわ。手ぇでやるんとは、えらい違いやなぁ」「せやろ!?もう、これ戻れへんで!」 リナが大きく頷いた。得意げな顔だった。(体感、絞る時間が三分の一くらいになってるね)
れもんが、数字を弾き出す。「数字はいい」 メリアは短く返した。「また何か計算してん?」 リナが、胡乱げな目を向ける。「ただの独り言」 メリアは、涼しい顔で流した。「面で押してる」 メリアが、ぽつりと説明した。「難しいこと言わんでええ!均等に押してるってことやろ?」 リナが自分で言い換える。 メリアは、こくりと頷いた。「はい」(ちゃんと理解してるじゃん。次は乾燥時間も短縮できると思うよ)
れもんが、さらりと予告する。「それは、また今度」 メリアは、小さく釘を刺した。それでも、口の端はほんの少しだけ
上がっていた。 板の上に、まだ水滴が残っている。それが、ぽたりと落ちた。「これ!洗濯革命やん!」 リナが板を高く掲げて、誇らしげに宣言する。「大げさ」「うちの腕には大事件や!」 女将が、くすりと笑いながら次の布を挟んだ。もう迷わない手つき
だった。 夕方近く、洗濯物はすっかり片付いていた。積み上がっていた
布は、ほとんど乾く手前まで、しっかりと絞り終えている。(明日はこれとぐる風、組み合わせてみる?)
れもんが、思いつきを口にした。「......悪くない」 メリアは、板を軽く撫でながら答えた。まだ何も検証していない。だが、頭の中では既に次の工程が動き始めていた。(早く試したいな)
れもんの声が、心なしか弾んでいる。感情が昂ると、姿が仔犬に
近づくのが常だった。今もきっと、尻尾のあたりがそわそわと揺れて
いるのだろう。 リナは、そんなメリアの横顔を見て、小さく肩をすくめる。「また何か企んでる顔しとるわ......」 だが、その声に呆れはあっても、拒否はなかった。裏庭に、
夕暮れの光が柔らかく差し込んでいた。 第二十九話 押すだけ
裏庭。 昨日の筋肉痛は、思ったよりも重く両腕に残っていた。伸ばす
たびに、じん、とした痛みが走る。 桶の横で、リナは布を持ち上げていた。びしょびしょだった。水が、ぽたぽたと落ち続けている。「......ほらな!」 勢いよく言いながら、布を見せる。「結局ここや!びっしょびしょや!」 そのまま、ぎゅううう、と力を込めると、腕が震えた。「っ......!」 水がじわじわと落ちていく。だが、抜けきらない。「回してもここが残っとったら、意味ないやん!」 ぷるぷると腕が震える。明らかに、さっきよりも疲れている。 メリアは、その様子を静かに見ていた。視線は布ではなく、落ちる
水滴の量、間隔、速度に向いている。(力の向き、バラついてるね。均一に押せてないから、逃げ道が
できて抜けにくいんだよ。面白いね、これ)
れもんの声が、頭の中で届いた。「......うん」 小さく頷きながら、メリアは口を開いた。「押せばいい」「それができへんから苦労しとんねん!押しとるやろ今!見えへんの!?」 さらに、ぎゅう、と力を込める。しかし、水は少しずつしか
落ちない。 メリアは、首を横に振った。「違う。均等に、押せてない」 リナは、ぴたりと動きを止める。「......は?」 意味がわからない、という顔だった。 メリアは、周囲を見渡した。木材。桶。置かれた道具。そして、
静かに動き出す。(板を二枚使って、隙間を作って重ねればいい。傾斜つけとくと水はけもよくなるよ)
れもんが、頭の中で設計図を組み立てていく。(ついでに、溝の角度も計算した方が――)
「そこまでは、いい」 メリアは小さく遮って、木材を手に取った。(せっかく考えたのに)
れもんが、少しだけ拗ねた声を出す。「今度、聞く」 小さく付け加えると、れもんの声のトーンが、心なしか明るく
なった。単純だが、素直な相棒だった。「うちも手伝おうか?」 リナが、興味津々に木材を覗き込む。「危ない。下がって」 メリアが短く制した。「なんで!うちかて器用な方やで!」 むっとした顔で言い返すが、メリアは取り合わず、黙々と作業を
進めていく。 メリアの手が、迷いなく動いていく。木材を組み合わせ、傾斜を
確かめ、時折、指先で表面をなぞって微調整する。木くずが足元に
落ち、陽射しの中で小さく舞った。 しばらくして、裏庭の一角に、簡単な構造が出来上がっていた。板が二枚、隙間を空けて重ねられ、その下には浅い溝が彫られて
いる。さらにその先には、水を受け止めるための皿が据えられて
いた。全体に、ごくわずかな傾斜がつけられている。水が、自然に
流れ落ちるように。「なんかそれっぽいの出てきた!急に発明家みたいなん
やめて!びっくりする!」 リナが目を丸くして、思わず一歩後ずさった。(板で挟んで面全体に体重をかければ、力のムラがなくなる。あとは重力で水が流れるだけ。さっきの何倍速くなるか、
計算してみよっか)
れもんが淡々と補足する。「今はいい」 メリアは短く返し、布を手に取った。「挟む」 板の間に布を挟み、上から手を置いて、ゆっくりと体重をかける。 ぎゅっ。 その瞬間、ざあっ、と音を立てて水が流れ出た。「うわっ!?めっちゃ出る!!」 リナが目を見開く。受け皿に、水が一気に溜まっていく。透明な
水が陽射しを受けて、細かく光りながら跳ねた。さっきまでぽたぽた
としか落ちなかった水が、一瞬で抜けていた。布は、目に見えて軽く
なっている。 メリアは、静かに手を離した。それだけで、十分だった。「ちょちょちょちょ!待って!」 リナが慌てて布を掴み、自分でも試す。同じように挟み、
ぎゅっ、と押す。 ざあっ。「ほんまや!!一発やん、これ!」 布を持ち上げる。明らかに、さっきより軽い。「腕......全然ちゃう......!なんやこれ、詐欺やろ!」 信じられない、という顔のまま、もう一枚、さらにもう一枚と
次々に試す。どれも同じだった。押すだけで、水が抜ける。
「これ、他の宿にも配ったら喜ばれるんちゃう?」 リナが、ふと思いついたように言う。腕を組み、真剣な顔で
干し場を見渡していた。「材料費、かかる」 メリアは静かに答えた。「板と、溝を彫る手間。それに、木を選ぶ目も要る」「せやんな......。誰にでも作れるわけやないか」 少しだけ肩を落とす。だが、すぐに気を取り直したように笑った。「まあ、うちの宿にあるだけでも、十分すごいことやけどな!」「厚い布と薄い布で、抜け方違うくない?」 リナが、手にした厚手の布を掲げて言う。(繊維の密度が違うから、水の通り道の数も変わるんだよ。厚い分、抜けるまで少し時間がかかる)
れもんが答える。「時間、少しかかる。だいたい二割増し」 メリアが、れもんの言葉を要約するように言った。「そんなんまで分かるんや......」 リナは、半ば呆れたように笑った。感心と諦めが半分ずつ混ざった
ような顔だった。「昨日まで、あんな死にそうな顔で絞っとったのが嘘みたいや」 リナが、自分の腕を軽く叩きながら笑う。腕はもう、震えて
いなかった。「明日からは、もっと楽になる」 メリアが静かに言った。(明日は、もっと速く、もっと楽に。工程はまだ改善できるよ)
れもんが、意欲的に付け加える。「......うん。少しずつ」 そこへ、女将が近づいてきた。「なんや、賑やかやなぁ」「おかん!これ見て!めっちゃ楽になるやつできた!」 リナが振り返り、勢いよく手招きする。 女将は、板の構造を見て、少しだけ目を細めた。布を挟み、
静かに体重をかける。 ぎゅっ。水が流れる。「......これは楽やわ。手ぇでやるんとは、えらい違いやなぁ」「せやろ!?もう、これ戻れへんで!」 リナが大きく頷いた。得意げな顔だった。(体感、絞る時間が三分の一くらいになってるね)
れもんが、数字を弾き出す。「数字はいい」 メリアは短く返した。「また何か計算してん?」 リナが、胡乱げな目を向ける。「ただの独り言」 メリアは、涼しい顔で流した。「面で押してる」 メリアが、ぽつりと説明した。「難しいこと言わんでええ!均等に押してるってことやろ?」 リナが自分で言い換える。 メリアは、こくりと頷いた。「はい」(ちゃんと理解してるじゃん。次は乾燥時間も短縮できると思うよ)
れもんが、さらりと予告する。「それは、また今度」 メリアは、小さく釘を刺した。それでも、口の端はほんの少しだけ
上がっていた。 板の上に、まだ水滴が残っている。それが、ぽたりと落ちた。「これ!洗濯革命やん!」 リナが板を高く掲げて、誇らしげに宣言する。「大げさ」「うちの腕には大事件や!」 女将が、くすりと笑いながら次の布を挟んだ。もう迷わない手つき
だった。 夕方近く、洗濯物はすっかり片付いていた。積み上がっていた
布は、ほとんど乾く手前まで、しっかりと絞り終えている。(明日はこれとぐる風、組み合わせてみる?)
れもんが、思いつきを口にした。「......悪くない」 メリアは、板を軽く撫でながら答えた。まだ何も検証していない。だが、頭の中では既に次の工程が動き始めていた。(早く試したいな)
れもんの声が、心なしか弾んでいる。感情が昂ると、姿が仔犬に
近づくのが常だった。今もきっと、尻尾のあたりがそわそわと揺れて
いるのだろう。 リナは、そんなメリアの横顔を見て、小さく肩をすくめる。「また何か企んでる顔しとるわ......」 だが、その声に呆れはあっても、拒否はなかった。裏庭に、
夕暮れの光が柔らかく差し込んでいた。