朝露に揺れる
これは俺の心が死ぬまでの話だ。
揺蕩う金髪が目を惹くシルビーは、瞬きもせずに藍色の瞳でぼんやりと窓の外を眺めている。何かを見ている訳ではない。ただ、視線がそちらを向いているだけだ。
「シルビー」
恋人の俺が呼び掛けても、反応はない。それもそのはず、彼女の心からは感情が消えているのだから。人々はこの病気を『失心症』と呼んでいる。
異変は半年前に訪れた。冗談を言っても笑わなくなったのだ。それから徐々に笑顔は消えていき、怒りという感情もなくなっていったようだった。子供に悪戯をされても無表情――初めて、シルビーのことを怖いと思ってしまった。咄嗟に詫びたが、シルビーは何も答えてくれない。そして、涙も見せなくなった。
喜怒哀楽、全てがない。こんな状態の人間を『人』と呼べるのだろうか。この病気は死よりも何倍、何十倍も恐ろしいと思うのだ。
そして、シルビーが全ての感情を失った日のこと、突然とある声が聞こえるようになった。姿を見せないその男は、何かと俺に指図をするようになっていた。
人気のない洞窟で盗品を漁っていた時のことだ。その男の声は突然降ってきた。
“右に逃げろ”
銃声が鳴る前に右へ飛ぶと、弾丸が左頬を掠める。洞窟の岩壁には穴が開いた。
「......チッ!」
殺られるものか。咄嗟に、腰にぶら下がっている拳銃を抜き、引き金に指をかける。銃口が火を噴いた時には、そこに存在していた者はただの物と化していた。
――また、人を殺してしまった。声が聞こえる時には、必ず誰かが死んでいるように思う。しかし、殺らなければ俺が殺られていた。そう自分を納得させるしかない。麻袋に一杯の金品を持ち、洞窟を去る。
自宅に帰ると、寂しそうな表情をした兄が待ち構えていた。
「ハイン、街を発つのか?」
「ああ。シルビーをこのまま失心症でなくしたくはないからな」
「そうだよな」
兄は複雑そうな表情をし、言葉を言い淀む。引き止められても嫌だ。このまま荷物を持って、兄と別れよう。しかし、俺が足を動かす前に、兄が呟いた。
「受心草、か」
間を置き、兄は俺の瞳をすっと見た。
「噂話じゃなければ良いな」
噂話で済んで堪るか。受心草は唯一、失心症を治す手立てなのだ。どんな手を使ってでも、必ず手に入れてやる。まだあどけなかったシルビーの笑顔を思い出し、ぐっと拳を握り締めた。
* * *
街を出て森を歩き、船に乗って海を渡る。受心草の生息域である島は、船に揺られること二日で辿り着いた。その間、船で出会いがあったのだ。
俺がバーカウンターに座ると、隣の二十代くらいで黒髪の男は既に酔っぱらっていた。
「エリイ......」
ビールを煽りながら、独り言を呟いている。その悲しそうな表情が、何故か気にかかってしまった。
「おたくも受心草狙いか?」
一人でここまで旅をするなんて、それ以外の理由は思い当たらない。男は火照った顔をこちらに向け、半開きの目で俺を見る。
「お前さんもか?」
「ああ。恋人が失心症になってな」
「そうか......」
俺も酔わないとやっていられない。バーテンダーにビールを頼み、ピーナッツを摘まみながら酒を煽る。
「俺も恋人......エリイを救いたいんだ」
男はぽつりぽつりと吐露し、一粒の涙を流す。
「これから恋人を救おうって男が、涙なんか流すなよ」
「お前さんの名前は?」
「ハインだ」
男の顔も見ずに、ぶっきらぼうに返す。
「俺はアランだ」
アランがこちらに手を差し伸べてくるので、快く受け取った。がっちりと握り、笑い合う。受心草を巡って、初めて仲間を得られた瞬間だった。
* * *
島はうっそうと茂る木々の宝庫だった。この島の中心にある洞窟が受心草の花咲く場所だ。五十年に一度だけ咲く、夜闇の中でも青白い光を放つ花――受心草の朝露を絶対にアランと二人で手に入れてみせる。そうすれば、シルビーも、エリイも救われる。
誰かに後をつけられている気配だけを感じながら、アランと声を潜めた。
「つけられてるな」
「多分」
「タチの悪い盗賊狩り、か」
ここで死ぬわけにはいかない。かといって、情報を打破出来る術も持ち合わせていない。二人で焦りを滲ませていると、不意にあの声が森に木霊したのだ。
“走れ”
従うが勝ちだ。
「アラン、走れ!」
叫ぶと同時に、鉄砲玉の如く駆け出した。気配と足音も俺たちを追ってくる。
“前方に向かって思い切り飛べ”
「前にジャンプだ!」
言われた事を復唱し、大地を思い切り蹴り上げた。しかし、敵の手が俺の服の裾を引っ張る。
「くっ......!」
崩れかけた土砂から片足がはみ出てしまい、背中が後方へと傾いた。
「ハイン!」
咄嗟に腕を引っ張られ、なんとか乗り切る。振り返ってみると、間近に大穴が開いていた。恐らくだが、また人が死んだ。恐怖で心臓が震えると同時に、心に鉛が落ちたような感覚が広がる。その感覚を無視し、無理やり口を開いた。
「落とし穴か? それとも陥没か?」
「それよりハイン、どうして地面が抜けることが分かった?」
アランは訝りながら、俺に鋭い眼光を向ける。
「それは......」
言って信じてもらえる話なのだろうか。分からないが、隠し通すことも出来ないだろう。手に汗を掻きながら、弁解の言葉を探す。
「信じられなくても、俺は知らないからな」
一言断りを入れつつ、重たい口を開く。
「ピンチになると、声が聞こえるんだ」
「声?」
「あぁ、誰だか分からない、謎の声がな。で、俺を助けてくれる」
アランは納得していない表情で「ふぅん」と漏らす。
「ま、別に俺はお前が嘘を吐いてても、吐いてなくてもどっちでも良いんだけどな。とにかく、さっきのことは礼を言っておく。本当に助かった」
「あぁ、素直に受け取っておくよ」
タッチを交わし、互いの無事を喜び合う。今は、まだ俺の話を信じてくれなくても良いだろう。
森を抜けた頃には空がオレンジ色に染まっていた。カラスが不気味に鳴き、一斉に翼を羽ばたかせる。ぽっかり口を開けた洞窟は、俺たちを希望ではなく、深淵へと誘っているようだ。
即席で松明を作り、中を照らし出す。じめっとした岩肌がむき出しになっているだけで、植物の生えそうな場所は一切ない。
噂は作り話に過ぎなかったのだろうか。絶望が心を侵食しようとした時、一筋の光が差した。
「ハイン、希望を失うな」
アランの声だ。たったその一言で、心が地の底から救い出される。
「お前が絶望したら、シルビーは一生、闇の中だぞ?」
言いながら、にこっと笑ってみせる。そうだ、俺が諦めればシルビーは終わりだ。受心草のために盗賊になったし、人殺しだってした。ここで嘆いてはいられない。何とか前を向き、歯を食いしばった。
松明の明かりだけで一本道を進んでいく。きっと、洞窟の奥に花は咲いている。それだけを信じて。
「ハイン、ちょっと休憩しよう。朝までは、まだ時間がある」
「......ああ」
俺も歩き疲れていたところだ。萎んでしまいそうな心を立ち直らせるためにも、一息入れたい。
「アランは、エリイの失心症が直ったら何をするんだ?」
「そりゃ、エリイの笑顔を拝め倒すに決まってるだろ」
恥ずかしげもなく、アランは言って退ける。その瞳からは希望の光は消えていない。
「好きな人が笑ってくれるってことが、どれだけ幸せか」
「......そうだな」
俺も、シルビーに一番に何をして欲しいかを問われたら、笑って欲しいと答えるだろう。どこかへ遊びに行けなくても、料理が出来なくても良い。ただ、傍で笑ってさえくれるのなら、それが俺の救いだ。
しかし、希望はあっさりと打ち砕かれた。
「嘘だろ......?」
「ここまで来て、無駄足だったのかよ......!」
洞窟の奥はぽっかりと開けていた。そこには花どころか草すら見当たらない。ただ冷たい岩肌がふてぶてしく俺たちを眺めているだけだ。
余りにも悔しくて、地面に拳を振り下ろした。
そんなことがあって良いはずがない。このままでは、シルビーが物言わぬ人形に成り果てたまま生を終えてしまう。他に何か手立ては――少し考えたが、冷静さを失った今の俺が考えつく希望などありはしない。
首を横に振り、現実から目を逸らそうとした時だった。
“アランを撃て”
また、あの声が聞こえたのだ。
アランを撃てとは、アランを殺せという意味だろうか。相棒となった彼を。
「そんなこと、出来るはずがない!」
“アランを撃てば、シルビーを救えるとしてもか?”
「えっ?」
驚きと僅かな希望が芽を吹き始める。
視線を上げてみると、俺を見るアランの瞳は酷く脅えていた。
「ハイン、誰と話している?」
目の前にいるこいつを殺せば、シルビーは助かるのだろうか。また、シルビーの太陽のような眩しい笑顔がフラッシュバックする。
シルビーと比べれば、アランとの付き合いはかなり浅い。後腐れもないだろう。散々、今まで人を殺してきたのだ。唯一、エリイは心配ではあるが、後で俺が見つけ出して朝露を飲ませれば良い話だ。居住地は聞いてある。
“アランを撃て”
駄目押しの一声がかかる。
「ハイン?」
「......すまない」
まっすぐにアランの目を見ることが出来ない。唇を噛み締め、拳銃に手をかける。
「ハイン――」
「うるさい!」
頼むから、これ以上、俺の決意を鈍らせないでくれ。一気に銃口をアランの額へと向けた。
“我々が失心症の原因だとしても、そうするか”
「失心症の......原因?」
原因なんて考えたこともなかった。大体、『我々』が誰なのかも分からない。
俺の心は揺れに揺れ、雫のように零れ落ちてしまいそうだ。その間、アランも大人しくしているはずもなく、右手を腰へと持っていく。
「殺られて堪るか! 俺は......お前を殺してでもエリイを救う!」
拳銃を抜かせる訳にはいかない。瞬時に反応し、発砲する。弾はアランの右手の甲を掠り、地面へと刺さった。
「......ってえ!」
右手を庇いながら跪くアランに、最後の言葉を投げかけた。
「安らかに眠ってくれ」
言い切ると同時に引き金を引く。恐怖と哀れみに満ちたアランのあの顔は、一生忘れることは出来ないだろう。
花は咲いた。アランの遺体の胸部から芽吹き、茎が伸び、葉を纏いながら、青白く光る受心草は咲いた。
俺の心は空っぽだ。失心症にでもなってしまったのだろうか。
“ハイン、良くやった”
ケタケタと笑う声の主は、未だに姿を見せない。
「お前は誰だ?」
“俺か? 何者だろうな”
漠然と思う。人が死んでいたのは、知らないうちに悪魔と契約していたからなのかもしれない。
「俺が殺した奴の魂でも食ってたのか?」
“魂はついでだ。......朝露”
「朝露?」
“お前が救えなかったものを拾うのだ”
俺が救えなかったものとは何だろう。何も思い出せない。
朝日が昇ったのだろう。受心草が揺れ、朝露が溢れ落ちる。それを真っ黒な手が掬った。その人物が誰なのかを考えようという意思はない。残された俺は為す術もなく、身体を地に預ける。
感情を持ったまま逝ったアランを羨ましいと思う心も持ち合わせてはいない。動けないまま、松明の消えた真っ暗な空間で呻き声を上げた。