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亡き男は、雄弁に語る。

亡き男が、残したかった物とは?
熊本市中央区。

熊本城下町署の刑事、ベテランの江口と新人の本田は、冷え切った取調室ではなく、

署の片隅にある色褪せたホワイトボードの前に立っていた。

本田が手元の捜査メモをなぞりながら、黒いマーカーを走らせる。


・身元: 一切不明

(名前、年齢、学歴、職歴、家族構成、すべて白紙)


・公的データ: 抹消

(健康保険証、運転免許証、マイナンバー、不動産登記簿、すべて存在しない)


・唯一の痕跡: 住民票の「転居履歴」のデータのみ


・死因:癌

(WCTC熊本工場の情報セキュリティ対策室から指定された部屋に、男が倒れていると救急へ連絡あり)

※WCTC/World Core Technology Cyber の略

病院に運ばれた時には、すでに心肺停止状態であり、搬送先の医師によって死亡が確認された。



「......まるで、この世に最初からいなかったみたいです」

本田がマーカーのキャップを閉めながら、重いため息をついた。


最後に男が連絡を入れたのは、菊陽町にある世界的な半導体企業WCTC熊本工場の、

情報セキュリティ対策室・室長の堂島という男だった。


二人はすぐさま男の写真(病院で手配された人相書き)を手にWCTCへ飛び、

情報セキュリティ対策室の室長・堂島から事情を聴いた。


室長の堂島はシワ一つない背広の袖を整え、名刺を差し出した。

太い手首には重厚なステンレスの腕時計が光っている。

人相書きを一瞥すると、表情一つ変えずに机の上へ置いた。

だが、得られたのはあまりにも浮世離れした情報だけだった。


「......私も彼には直接会ったことがありません。」

堂島は男に一度も会ったことがない。男の死亡が確認された後、

室長のPCへ一通の自動送信メールが届き、そこで初めて彼の死を知ったという。


堂島は自らのノートパソコンを開いて、メールボックスに届いたメールを、江口と本田に見せた。


『申し訳ありません。依頼を完遂できませんでした。契約に基づき、依頼金は全額返金します。』

そして、その下には、男が倒れている部屋の住所と、救急搬送を求める一文が記されていた。


「......彼は最後まで、神の振舞いそのものでしたよ。」

堂島が呟いた。


その後、堂島が言うには、この男は完全なリモートワークで仕事を請け負う契約だった。

世界的な大企業や、各国の軍事部門が極秘扱いで彼を囲い込み、最新のウイルス対策ネットワークや、

AI開発、外部からのアクセスに対応するファイアウォール等をプログラムさせていた。

彼の組むコードやアルゴリズムは革新的で、オリジナル性に飛び抜けていた。


本名がわからないため、ネットの深淵では敬意を示すように「神」。

または、面白味を加えて「ワンクリックで100億円を稼ぐ男」、「森羅万象の創造主」などと呼ばれ、

噂では「すでに中学生頃から、アメリカやイギリス、ロシアの核ミサイル施設のメインサーバーに侵入し、脆弱性のある箇所をネットで公開していた」とも言われていた。


そうした噂や武勇伝の数々は、今やプログラマーやハッカー界隈では、都市伝説めいた話として語られ、

魅了された者たちによる様々な検証ログまで残っているという......。


しかも、ここ10年間で急激に進歩したAIの進化や、暗号資産や社会ネットインフラの多くが、この男のプログラムの派生だという。


WCTCでも情報管理部門が総力を挙げて調べても、顔も名前も掴めず、依頼金は指定口座に入金されど、

海外の無数の口座をハブにして途中からデータが消える徹底ぶりだったという。


WCTCでの聴取の終わり際、手帳を閉じた本田は呆然と呟くしかなかった。

「はあ......。わかりました......」

江口は腕を組み、しばらく沈黙した後に言った。

「......一旦、署に帰るぞ」

「そうですね......」

「おじゃましました。情報ありがとうございました」

二人が頭を下げると、室長の堂島は申し訳なさそうに言った。

「こちらも何も分からないままですみません......」

二人は軽く会釈をして部屋を出た。



ドアが閉まると、堂島はしばらくその扉を見つめていた。


やがてスマートフォンを取り出す。

「......ええ」

短く返事をする。

「......分かりました」

通話を終えると、室長はスマートフォンを机に置いた。


しばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩く。

ブラインドを指先で少しだけ開くと、江口と本田が車に向かっていた。


本田は運転席に乗り込みながら

「なんか、あの堂島って室長......怪しくなかったですか?」

と、江口に訊いた。

「さあな」

江口は一言だけ返して助手席に乗った。


堂島は、ブラインドの隙間から、駐車場を出ていく刑事二人の車を見送った。

「......」

堂島は無言でブラインドを閉じた。


二人はWCTCを後にし、車で署に戻った。


そして今、署の刑事課では、ホワイトボードの前で椅子に座り、

江口は沈黙して考え込んでいた。

本田がその背中に話しかける。

「名前も年齢も不明、国のデータから全てを抹消している......」

「しかも、ワンクリックで100億円を稼ぐ?!」

「神と呼ばれる男が、住所記録だけを消さなかったんですかねー」


江口はゆっくりと深く息を吐き、重く低い声で応じた。

「......消さなかったんじゃない。あえて残したんだ」

「え?」

「仕方ない。歩いて聞きまわって遡るしかないな」

江口が立ち上がり、上着を引っ掴む。

本田は一瞬驚いたが、すぐに小さく苦笑いを浮かべた。

「歩いて......刑事の基本ですね~」

江口は急ぎ足で上着を着ながら、

「最低でも給料分は働くとしよう......」と呟いた。

本田もさらに小さい声で

「......ですね」

と呟いた。


こうして、二人の「足」による捜査が始まった。

男が遺した過去の住所を古い順に辿るロードムービーのような追跡劇。

しかし、その道程はデジタルとは真逆の、

泥臭く一筋縄ではいかない現実の壁が立ちはだかっていた。

最初に向かった中央区の古いアパートの跡地。

しかし、二人が辿り着いたそこは、すでに高い工事用の仮囲いに覆われていた。

『通り抜けできません』目の前のフェンスに掲げられた無機質な看板が、二人の行く手を阻む。


「チッ、遠回りするぞ」 江口が舌打ちをし、背広を脱いで肩に掛けた。

フェンスの向こうからは、絶え間なく重機の音が響いてくる。

カン......カン......。ドンドンドン......。

アスファルトから照り返す容赦ない熱気に、本田はネクタイを緩め、少し猫背になりながら歩いた。

聞こえるのは、無機質な機械音だけ。

しばらく無言で歩いた後、本田が何気なく聞いた。

「この辺も再開発ですか」


江口は自動販売機の手前で足を止め、缶コーヒーを二本買った。

一本を本田に放り投げた。

プシュッ。自身の缶を開ける。

少し苦笑して、江口は遠い目をした。

「この辺も昔は賑わっていたんだよ」

「そうなんですか」

「俺もこの街で育ったからな」

江口は一口、苦いコーヒーを口に含んだ。

「ガキの頃は、この賑やかな街が誇りだった」

再び、工事の音が二人の会話を切り裂くように響く。

カン......カン......。


「でもな......。変わらない街なんてない」

江口はまた少し歩き出し、ぽつりと言った。

「あいつも、それが分かっていたのかもしれんな」

二人は男がかつて住んでいたという古い木造アパートを訪ね、

管理している大家の老人に出会った。

老人は男の写真(人相書き)を見つめ、懐かしさと寂しさが入り混じった声で言った。

「ああ、この部屋ね......昔は綺麗に熊本城が見えたんですよ......」

「......でも、三年前に目の前に大きなマンションが建っちゃってね」

「それからすぐに、あのお客さんは出ていかれました」


翌日も二人による追跡捜査は続いた。

そこは繁華街の裏手にあるビルの外階段を上った先だった。

近隣の住人が、当時の様子を思い出すように語ってくれた。

「この窓からの夕日が見事だったんです。」

「あの方、ずっと窓辺でパソコンを叩きながら、夕日を見ておられましたよ。」

「......今じゃ隣のビルの壁しか見えませんけどね」


さらに、転居履歴の新しい住所へと足を運ぶ。

そこは新興の商業施設の建設が進むエリアのすぐ側だった。

「工事の黒い幕でねぇ、昼でも部屋の中は薄暗いんですよ。だから、あの方もすぐに引っ越されたんじゃないかしら」

話を聞き終え、照りつける太陽の下に戻った本田は、思わず大きなため息を漏らした。

「どこへ行っても同じですね......」


江口は何も言わず、工事現場の巨大な防音シートを見上げた。

「街が発展するのはいいことじゃないですか。便利になるし、活気も出る」

本田が自分を納得させるように言うと、江口は静かに頷いた。

「ああ、いいことだ」

少し間を置いて、江口はフェンスの向こう、骨組みだけのビルを見つめた。

「だがな......。景色にも、思い出にも、立ち退き料は出ないんだよ」


本田はその言葉の重さに、思わず言葉を失った。激変していく熊本の街。

便利さと引き換えに、かつてそこにあったはずの、誰かの大切な記憶や美しい風景が、

容赦なくコンクリートと鉄筋で塗りつぶされていく。


工事現場のフェンスの向こうから、また執拗な音が響く。

カン、カン......。ドンドンドン......。


本田は額の汗をハンカチで拭いながら、たまらず弱音を吐いた。

「......先輩、そろそろ署に戻りませんか。暑いですし......」

返事はない。

「お前が言ったんだろ」

「......え?」

「歩きは刑事の基本だ、ってな」

本田はバツが悪そうに苦笑いした。

「いやぁ......あれは、こう......言葉の綾というか......」

「まだ若いんだから歩け」

「はぁ......」 二人は再び歩き出す。


江口は静かにつぶやいた。

「俺たちは、あいつの人生を追っていたつもりだった」

「え?」

「だが、本当は......この街の時間を歩いていたのかもしれんな」

江口が顔を上げ、空を見上げた。青い空を、鋭利な高層ビル群が切り取っている。

「さあな。......このクソ暑い中、歩き回っている俺たちを見て、ヤツは今頃どこかで微笑んでいるかもな」

本田が小さく吹き出す。

「性格悪いですね、その天才」

江口も少しだけ口元を緩めた。

「そうかもな......」



三日目も歩きの捜査は続いていた。

これまでの薄暗いビルの狭間とは打って変わり、

熊本市街を一望できる静かな高台の古い一軒家だった。


部屋の中心には、ぽつんと机が一つ。

その上には、世界のインフラを動かしたはずの一台のノートパソコンが置かれていた。

だが、中身は完全に空。すべてのプログラムも、データも、足跡も消去されていた。

ただ、画面には一行だけ、テキストが残されていた。


『ここからの景色は、まだ消えていない。』


窓の向こうには、遮るもののない、どこまでも広い熊本の空と街並みが広がっていた。

男は、この窓辺の椅子に腰掛け、穏やかな表情で亡くなっていたという。


「見せたかったんだよ」

江口が窓の外を見つめながら言った。

「え? 何を?」

「この街を......さ」

「は?」 本田が首を傾げると、江口は視線を落とした。

「ヤツの住んだ部屋から、何が消えていったのか」

「......景色、ですか」

江口は小さく頷いた。

「ヤツは俺たちに、見せる為に歩かせたかったんだろうな。この街を」


「世界中から“神”なんて呼ばれた男が、最後に全部消して、ここに残った。」

「プログラムで世界を変えてきた男でも、目の前で変わっていく景色までは止められなかった」

江口は、窓の外を見た。

「......寝覚めの悪い話さ」


本田は何も言わず、窓の向こうの街を見つめた。

「......神様なんかじゃなかった。ただ、景色が好きな人間だったんだよ」


最後の家を後にする頃には、空は煤けたような美しい夕暮れに染まっていた。

二人がゆっくりと坂道を下っていく。

周囲には、夏の終わりを告げる蝉の声だけが、痛いほどに響き渡っていた。


本田は、ふと歩みを止め、夕日に照らされる坂の上の一軒家を振り返った。

「結局......ホトケさんは何をしたかったんですかね?」

江口は答えなかった。

答えの代わりに、夕日に染まる街を見下ろした。


「死人に口なしだ。だから歩いて、奴に会いに行ったんだ」

江口が呟いた。

「会いに行ったけど、何もしゃべってはくれませんでしたけど......」

江口は、前を向いたまま小さく笑った。


「......そうか?」

「え?」

「ヤツは雄弁に語りかけてたさ......。ただ、それに気づく者がいなかった......」

本田はもう一度振り返り、それから江口の隣に並んだ。


夕日が二人の長い影を、アスファルトの上に伸ばしていく。

「結局、あの人って何者だったんですかね」

本田がぽつりと聞く。

江口は広がる夕暮れの空を見つめながら答えた。

「さあな。ただ......景色が好きだったんだろう」

「......それか、残された俺たちに伝えたかったのかもしれんな」

「何をです?」


江口は振り返らず、夕日に染まる街を見下ろした。

「......今日の景色を、ちゃんと見ておけってことをさ」

本田は少し黙り、それから小さく肩をすくめた。

「......ちょっと美談にしすぎでしょ」

江口は何も言わず、ふと微笑んだ。

「そうかもな」

本田は黙って夕暮れの街を見つめた。


遠くで工事のクレーンがゆっくりと動いている。

明日にはまた、この景色も少し変わっているのだろう。

少しの間を置いて、江口が突然、本田の肩をバンと叩いた。

「よーし、明日は休みだ!」

「課長に報告書を出したら飲み行くぞ!俺のおごりだ!」

「......まじですか!?」

本田の目が一瞬で輝く。

「あー、その代わり、俺の少年時代の話したっぷり聞けよー」

「ははは......朝まで付き合いますよ」

二人の笑い声が、夕暮れの街へと溶けていった。

そのまま熊本城下町署へと戻り、報告書を出した。


ロッカーで荷物をまとめると、署の勝手口から出ていった。

並んで歩く二人の背中。

肩の力を抜いたベテラン刑事と、その横で笑顔を見せる新人刑事の姿が、夜の街へと静かに歩みを進めていく。


目の前には、熊本の無数の光の粒子がきらめく現代の美しい都市の夜景。

その中心で、今もなお変わらぬ威容を誇り、美しくライトアップされた熊本城の天守閣が、優しく街を照らしていた。


照らされた熊本の街並み......

それは、世界中のデータから姿を消した男が、最後まで見つめていた街の光だった。


その光は、いつまでも、二人の背中を照らしていた。


完
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亡き男は、雄弁に語る。作者:夏目六華
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亡き男は、雄弁に語る。

亡き男が、残したかった物とは?
熊本市中央区。

熊本城下町署の刑事、ベテランの江口と新人の本田は、冷え切った取調室ではなく、

署の片隅にある色褪せたホワイトボードの前に立っていた。

本田が手元の捜査メモをなぞりながら、黒いマーカーを走らせる。


・身元: 一切不明

(名前、年齢、学歴、職歴、家族構成、すべて白紙)


・公的データ: 抹消

(健康保険証、運転免許証、マイナンバー、不動産登記簿、すべて存在しない)


・唯一の痕跡: 住民票の「転居履歴」のデータのみ


・死因:癌

(WCTC熊本工場の情報セキュリティ対策室から指定された部屋に、男が倒れていると救急へ連絡あり)

※WCTC/World Core Technology Cyber の略

病院に運ばれた時には、すでに心肺停止状態であり、搬送先の医師によって死亡が確認された。



「......まるで、この世に最初からいなかったみたいです」

本田がマーカーのキャップを閉めながら、重いため息をついた。


最後に男が連絡を入れたのは、菊陽町にある世界的な半導体企業WCTC熊本工場の、

情報セキュリティ対策室・室長の堂島という男だった。


二人はすぐさま男の写真(病院で手配された人相書き)を手にWCTCへ飛び、

情報セキュリティ対策室の室長・堂島から事情を聴いた。


室長の堂島はシワ一つない背広の袖を整え、名刺を差し出した。

太い手首には重厚なステンレスの腕時計が光っている。

人相書きを一瞥すると、表情一つ変えずに机の上へ置いた。

だが、得られたのはあまりにも浮世離れした情報だけだった。


「......私も彼には直接会ったことがありません。」

堂島は男に一度も会ったことがない。男の死亡が確認された後、

室長のPCへ一通の自動送信メールが届き、そこで初めて彼の死を知ったという。


堂島は自らのノートパソコンを開いて、メールボックスに届いたメールを、江口と本田に見せた。


『申し訳ありません。依頼を完遂できませんでした。契約に基づき、依頼金は全額返金します。』

そして、その下には、男が倒れている部屋の住所と、救急搬送を求める一文が記されていた。


「......彼は最後まで、神の振舞いそのものでしたよ。」

堂島が呟いた。


その後、堂島が言うには、この男は完全なリモートワークで仕事を請け負う契約だった。

世界的な大企業や、各国の軍事部門が極秘扱いで彼を囲い込み、最新のウイルス対策ネットワークや、

AI開発、外部からのアクセスに対応するファイアウォール等をプログラムさせていた。

彼の組むコードやアルゴリズムは革新的で、オリジナル性に飛び抜けていた。


本名がわからないため、ネットの深淵では敬意を示すように「神」。

または、面白味を加えて「ワンクリックで100億円を稼ぐ男」、「森羅万象の創造主」などと呼ばれ、

噂では「すでに中学生頃から、アメリカやイギリス、ロシアの核ミサイル施設のメインサーバーに侵入し、脆弱性のある箇所をネットで公開していた」とも言われていた。


そうした噂や武勇伝の数々は、今やプログラマーやハッカー界隈では、都市伝説めいた話として語られ、

魅了された者たちによる様々な検証ログまで残っているという......。


しかも、ここ10年間で急激に進歩したAIの進化や、暗号資産や社会ネットインフラの多くが、この男のプログラムの派生だという。


WCTCでも情報管理部門が総力を挙げて調べても、顔も名前も掴めず、依頼金は指定口座に入金されど、

海外の無数の口座をハブにして途中からデータが消える徹底ぶりだったという。


WCTCでの聴取の終わり際、手帳を閉じた本田は呆然と呟くしかなかった。

「はあ......。わかりました......」

江口は腕を組み、しばらく沈黙した後に言った。

「......一旦、署に帰るぞ」

「そうですね......」

「おじゃましました。情報ありがとうございました」

二人が頭を下げると、室長の堂島は申し訳なさそうに言った。

「こちらも何も分からないままですみません......」

二人は軽く会釈をして部屋を出た。



ドアが閉まると、堂島はしばらくその扉を見つめていた。


やがてスマートフォンを取り出す。

「......ええ」

短く返事をする。

「......分かりました」

通話を終えると、室長はスマートフォンを机に置いた。


しばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩く。

ブラインドを指先で少しだけ開くと、江口と本田が車に向かっていた。


本田は運転席に乗り込みながら

「なんか、あの堂島って室長......怪しくなかったですか?」

と、江口に訊いた。

「さあな」

江口は一言だけ返して助手席に乗った。


堂島は、ブラインドの隙間から、駐車場を出ていく刑事二人の車を見送った。

「......」

堂島は無言でブラインドを閉じた。


二人はWCTCを後にし、車で署に戻った。


そして今、署の刑事課では、ホワイトボードの前で椅子に座り、

江口は沈黙して考え込んでいた。

本田がその背中に話しかける。

「名前も年齢も不明、国のデータから全てを抹消している......」

「しかも、ワンクリックで100億円を稼ぐ?!」

「神と呼ばれる男が、住所記録だけを消さなかったんですかねー」


江口はゆっくりと深く息を吐き、重く低い声で応じた。

「......消さなかったんじゃない。あえて残したんだ」

「え?」

「仕方ない。歩いて聞きまわって遡るしかないな」

江口が立ち上がり、上着を引っ掴む。

本田は一瞬驚いたが、すぐに小さく苦笑いを浮かべた。

「歩いて......刑事の基本ですね~」

江口は急ぎ足で上着を着ながら、

「最低でも給料分は働くとしよう......」と呟いた。

本田もさらに小さい声で

「......ですね」

と呟いた。


こうして、二人の「足」による捜査が始まった。

男が遺した過去の住所を古い順に辿るロードムービーのような追跡劇。

しかし、その道程はデジタルとは真逆の、

泥臭く一筋縄ではいかない現実の壁が立ちはだかっていた。

最初に向かった中央区の古いアパートの跡地。

しかし、二人が辿り着いたそこは、すでに高い工事用の仮囲いに覆われていた。

『通り抜けできません』目の前のフェンスに掲げられた無機質な看板が、二人の行く手を阻む。


「チッ、遠回りするぞ」 江口が舌打ちをし、背広を脱いで肩に掛けた。

フェンスの向こうからは、絶え間なく重機の音が響いてくる。

カン......カン......。ドンドンドン......。

アスファルトから照り返す容赦ない熱気に、本田はネクタイを緩め、少し猫背になりながら歩いた。

聞こえるのは、無機質な機械音だけ。

しばらく無言で歩いた後、本田が何気なく聞いた。

「この辺も再開発ですか」


江口は自動販売機の手前で足を止め、缶コーヒーを二本買った。

一本を本田に放り投げた。

プシュッ。自身の缶を開ける。

少し苦笑して、江口は遠い目をした。

「この辺も昔は賑わっていたんだよ」

「そうなんですか」

「俺もこの街で育ったからな」

江口は一口、苦いコーヒーを口に含んだ。

「ガキの頃は、この賑やかな街が誇りだった」

再び、工事の音が二人の会話を切り裂くように響く。

カン......カン......。


「でもな......。変わらない街なんてない」

江口はまた少し歩き出し、ぽつりと言った。

「あいつも、それが分かっていたのかもしれんな」

二人は男がかつて住んでいたという古い木造アパートを訪ね、

管理している大家の老人に出会った。

老人は男の写真(人相書き)を見つめ、懐かしさと寂しさが入り混じった声で言った。

「ああ、この部屋ね......昔は綺麗に熊本城が見えたんですよ......」

「......でも、三年前に目の前に大きなマンションが建っちゃってね」

「それからすぐに、あのお客さんは出ていかれました」


翌日も二人による追跡捜査は続いた。

そこは繁華街の裏手にあるビルの外階段を上った先だった。

近隣の住人が、当時の様子を思い出すように語ってくれた。

「この窓からの夕日が見事だったんです。」

「あの方、ずっと窓辺でパソコンを叩きながら、夕日を見ておられましたよ。」

「......今じゃ隣のビルの壁しか見えませんけどね」


さらに、転居履歴の新しい住所へと足を運ぶ。

そこは新興の商業施設の建設が進むエリアのすぐ側だった。

「工事の黒い幕でねぇ、昼でも部屋の中は薄暗いんですよ。だから、あの方もすぐに引っ越されたんじゃないかしら」

話を聞き終え、照りつける太陽の下に戻った本田は、思わず大きなため息を漏らした。

「どこへ行っても同じですね......」


江口は何も言わず、工事現場の巨大な防音シートを見上げた。

「街が発展するのはいいことじゃないですか。便利になるし、活気も出る」

本田が自分を納得させるように言うと、江口は静かに頷いた。

「ああ、いいことだ」

少し間を置いて、江口はフェンスの向こう、骨組みだけのビルを見つめた。

「だがな......。景色にも、思い出にも、立ち退き料は出ないんだよ」


本田はその言葉の重さに、思わず言葉を失った。激変していく熊本の街。

便利さと引き換えに、かつてそこにあったはずの、誰かの大切な記憶や美しい風景が、

容赦なくコンクリートと鉄筋で塗りつぶされていく。


工事現場のフェンスの向こうから、また執拗な音が響く。

カン、カン......。ドンドンドン......。


本田は額の汗をハンカチで拭いながら、たまらず弱音を吐いた。

「......先輩、そろそろ署に戻りませんか。暑いですし......」

返事はない。

「お前が言ったんだろ」

「......え?」

「歩きは刑事の基本だ、ってな」

本田はバツが悪そうに苦笑いした。

「いやぁ......あれは、こう......言葉の綾というか......」

「まだ若いんだから歩け」

「はぁ......」 二人は再び歩き出す。


江口は静かにつぶやいた。

「俺たちは、あいつの人生を追っていたつもりだった」

「え?」

「だが、本当は......この街の時間を歩いていたのかもしれんな」

江口が顔を上げ、空を見上げた。青い空を、鋭利な高層ビル群が切り取っている。

「さあな。......このクソ暑い中、歩き回っている俺たちを見て、ヤツは今頃どこかで微笑んでいるかもな」

本田が小さく吹き出す。

「性格悪いですね、その天才」

江口も少しだけ口元を緩めた。

「そうかもな......」



三日目も歩きの捜査は続いていた。

これまでの薄暗いビルの狭間とは打って変わり、

熊本市街を一望できる静かな高台の古い一軒家だった。


部屋の中心には、ぽつんと机が一つ。

その上には、世界のインフラを動かしたはずの一台のノートパソコンが置かれていた。

だが、中身は完全に空。すべてのプログラムも、データも、足跡も消去されていた。

ただ、画面には一行だけ、テキストが残されていた。


『ここからの景色は、まだ消えていない。』


窓の向こうには、遮るもののない、どこまでも広い熊本の空と街並みが広がっていた。

男は、この窓辺の椅子に腰掛け、穏やかな表情で亡くなっていたという。


「見せたかったんだよ」

江口が窓の外を見つめながら言った。

「え? 何を?」

「この街を......さ」

「は?」 本田が首を傾げると、江口は視線を落とした。

「ヤツの住んだ部屋から、何が消えていったのか」

「......景色、ですか」

江口は小さく頷いた。

「ヤツは俺たちに、見せる為に歩かせたかったんだろうな。この街を」


「世界中から“神”なんて呼ばれた男が、最後に全部消して、ここに残った。」

「プログラムで世界を変えてきた男でも、目の前で変わっていく景色までは止められなかった」

江口は、窓の外を見た。

「......寝覚めの悪い話さ」


本田は何も言わず、窓の向こうの街を見つめた。

「......神様なんかじゃなかった。ただ、景色が好きな人間だったんだよ」


最後の家を後にする頃には、空は煤けたような美しい夕暮れに染まっていた。

二人がゆっくりと坂道を下っていく。

周囲には、夏の終わりを告げる蝉の声だけが、痛いほどに響き渡っていた。


本田は、ふと歩みを止め、夕日に照らされる坂の上の一軒家を振り返った。

「結局......ホトケさんは何をしたかったんですかね?」

江口は答えなかった。

答えの代わりに、夕日に染まる街を見下ろした。


「死人に口なしだ。だから歩いて、奴に会いに行ったんだ」

江口が呟いた。

「会いに行ったけど、何もしゃべってはくれませんでしたけど......」

江口は、前を向いたまま小さく笑った。


「......そうか?」

「え?」

「ヤツは雄弁に語りかけてたさ......。ただ、それに気づく者がいなかった......」

本田はもう一度振り返り、それから江口の隣に並んだ。


夕日が二人の長い影を、アスファルトの上に伸ばしていく。

「結局、あの人って何者だったんですかね」

本田がぽつりと聞く。

江口は広がる夕暮れの空を見つめながら答えた。

「さあな。ただ......景色が好きだったんだろう」

「......それか、残された俺たちに伝えたかったのかもしれんな」

「何をです?」


江口は振り返らず、夕日に染まる街を見下ろした。

「......今日の景色を、ちゃんと見ておけってことをさ」

本田は少し黙り、それから小さく肩をすくめた。

「......ちょっと美談にしすぎでしょ」

江口は何も言わず、ふと微笑んだ。

「そうかもな」

本田は黙って夕暮れの街を見つめた。


遠くで工事のクレーンがゆっくりと動いている。

明日にはまた、この景色も少し変わっているのだろう。

少しの間を置いて、江口が突然、本田の肩をバンと叩いた。

「よーし、明日は休みだ!」

「課長に報告書を出したら飲み行くぞ!俺のおごりだ!」

「......まじですか!?」

本田の目が一瞬で輝く。

「あー、その代わり、俺の少年時代の話したっぷり聞けよー」

「ははは......朝まで付き合いますよ」

二人の笑い声が、夕暮れの街へと溶けていった。

そのまま熊本城下町署へと戻り、報告書を出した。


ロッカーで荷物をまとめると、署の勝手口から出ていった。

並んで歩く二人の背中。

肩の力を抜いたベテラン刑事と、その横で笑顔を見せる新人刑事の姿が、夜の街へと静かに歩みを進めていく。


目の前には、熊本の無数の光の粒子がきらめく現代の美しい都市の夜景。

その中心で、今もなお変わらぬ威容を誇り、美しくライトアップされた熊本城の天守閣が、優しく街を照らしていた。


照らされた熊本の街並み......

それは、世界中のデータから姿を消した男が、最後まで見つめていた街の光だった。


その光は、いつまでも、二人の背中を照らしていた。


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