

峠
カンバー丘陵はロズベリーアポンフロルを含むメカニア王国南部では最も険阻な丘陵だ。
麓までは美しい芝草に覆われ、水気の多い谷間には木立もあった。
しかし、中腹から高地にかけてはエニシダなどに覆われた荒野であった。
巨大な岩がゴロゴロと散らばり、険しい地形を更に苦しいものにしていた。
そんな丘陵の北側を登る峠道にジェフリー達の小隊はいた。
「もう、汗だくだよ。嫌になっちゃうよ。今、素敵な女性に会っても近づけないよ。まったく...」
優男のフィルが気取って嘆く。
優男は目の前に続く峠道を恨めし気に睨んだ。
「...」
フィルよりも後ろで黙々と鈍牛ボリスが歩いていた。
その巨体は汗でびっしょりだった。
あの体でこの山道は厳しいだろう。
「大丈夫か?お前ら?」
道の少し先でロニーが立ち止まって、二人を振り返った。
こちらは瘦せっぽちらしく、身軽のようだ。
あまり苦労はしていないらしい。
「おい。ジェフリー、少し待ってやってくれ。二人が音を上げ始めたぜ!」
ロニーよりも遥か前方でジェフリーが振り返った。
こちらも多少は汗をかいているようだが、平然としていた。
「ここいらで休憩しようか?」
それを聞くとボリスとフィルはその場で座り込んだ。
「疲れた...」
呟くボリスにフィルが相槌を打つ。
「全くだよ。こんな道、誰が通ると言うんだい?こんな巡回、必要ないでしょ。」
「まぁ、そう言うなよ。」
ジェフリーは襟元をバタバタさせて風を取り込んでいた。
歩いていれば暑かったが、丘陵の高地を吹く風は涼しい。
「君はどうしてそんな平然としてられるんだい?」
「俺の故郷は北部丘陵にあるからな。こんな起伏は当り前さ。」
「君の故郷には行きたくないね。」
フィルが手を振って答えた。
メカニア王国南部地方は起伏が少なく、多少、変化のある地形があるとすれば、浅いスープ皿を伏せたような扁平な丘の続く低い丘陵地帯ばかりであった。
フィル達、南部出身者にこのような丘陵の峠道は冗談ような苦行に感じられるらしい。
「せめて、馬にでも乗らせてくれればな。」
涼しい顔をしているジェフリーにも鬱屈はあるらしい。
「あんたはそれでいいさ!」
ロニーがジェフリーに突っ込んだ。
四人の中で乗馬の嗜みがあるのは、地方領主の息子であるジェフリーだけだった。
ロズベリーアポンフロルでは衛兵用の乗馬が飼育されているが、騎乗を許されているのは中隊長以上の者だけだった。
ジェフリーはいざと言う時には乗馬ができる者が一人でも多くいた方が良いと非番の日に騎乗訓練を受けることをローランド卿に申し出たことがある。
しかし、上司のジェロームが規則を盾にそれを阻んだ。
乗馬も長いことしていなければ感覚が鈍る。
ジェフリーは臍を嚙む思いだった。
別に本気でこんな任務で楽がしたいわけではない。
中隊長のジェロームは当然、騎乗訓練を受けている。
ジェフリー達の小隊は外部巡回の番であった。
通常の都市では町の衛兵は町とそのごく周辺だけを受け持つ。
町から離れればそこはその地を治める領主に仕える別の衛兵隊が面倒を見る。
しかし、ロズベリーアポンフロルは王家の直轄領であり、その範囲は通常の町の周縁部より遥かに広い。
だから、衛兵隊は町から離れた地の巡回も受け持っていた。
その中でもカンバー丘陵の峠道は北門詰め衛兵が担当する中で最も過酷な巡回先であった。
峠は隣接する地方領主の領土との境でもあった。
定期的に何れかの小隊が赴かなければならなかった。
峠の頂上にはシェーファー一族の農家があった。
一族と言っても息子達は皆、丘を降りて麓で農場を営んでいた。
丘の頂上には最長老のガスという偏屈な老人が一人で住んでいた。
ガスは不毛の丘で羊を放牧していた。
黒い石を積んで建てられた粗末な家屋から出てきたガスは真っ赤な顔をしていた。
(今日はハズレだな...)
ジェフリーは内心呻いた。
ガスは気難しいが礼を失さなければ、問題なく付き合える男だ。
しかし、この男は酒癖が悪かった。
時折、一人で浴びるほど酒を飲んで泥酔している。
どうやら、その『時折』が昨日だったらしい。
吐く息が酒臭い。
「やぁ、ガス。元気かい。」
「...」
ガスは虚ろな目で見返してきた。
「お疲れのようだから、手短に済ませるよ。怪しい奴は通らなかったかい?」
町の東側から、町を通り抜けずに北側へ通り抜けできるこの道は不便ではあったが、密かにグース街道へ抜けたい者にとっては、都合の良い道だった。
ジェフリー達の仕事はそんな怪しげな連中がいなかったかを確認することである。
「...」
ガスが暫く考え込んでいた。
あまりに長い間、沈黙を続けるのでジェフリーがその顔を覗き込むと居眠りをしていた。
「ガス。頼むよ。それだけ教えてくれ。」
「一昨日の夜。いや、もう一日前の夜じゃ、誰かが通った気がする。」
「気がする!?どういうことだ。」
「儂は家の外で水を飲んでいた」
水だって?
酒だろう?
ジェフリーはそう思ったが、口には出さなかった。
「外は真っ暗じゃった。」
そうだろう。
ここいらは何もない。
夜ともなれば真っ暗に違いない。
「ランタンを持った奴等が南からやってきおった。いや?北からだったか?とにかくあっちじゃ。」
老人の指差したのは南であった。
「四人だったな。いや五人か?」
「どっちなんだ?」
「四人じゃ。四人に一匹だったかな?」
「一匹?」
「やはり五人だったかもしれん。」
「どういうことだ?」
「小さかったんじゃよ。家畜かもしれん。二本足の家畜じゃ。」
そんな家畜がいるもんか...
ジェフリーはそんな思いを全力で顔に出さないよう堪えた。
「そいつらはどうした?」
「あっちに行ったよ。」
ガスはこれまでジェフリー達がはぁはぁ言いながら登ってきた坂道を差した。
「ありがとうよ。爺さん、酒の飲みすぎには気を付けてくれ。」
「若造が何を言うか!酒はな...酒はな...」
「?」
「最高の友達さ!」
ジェフリーも酒好きだ。
そこは同感だった。
「そうだな。ガス。助かったよ。」
「麓のガスの息子達を総浚いしよう。」
ガスは何者かが三日前の夜、ここを通ったと言う。
ジェフリーの脳裏をよぎるのは、その翌朝にどこからか帰ってきて北門から町に入って行った、あの余所者の商人達のことだった。
しかも、ガスの言う二本足の家畜とは?
子供ではないのか?
誘拐では?
余所者の商人達は子供など連れてはいなかった。
どこかに閉じ込めたのか、誰かに預けたのか...
「おいおい、そんなことしてたら公営放牧地の巡回をする時間がなくなるぞ?」
ロニーが慌てた。
カンバー丘陵の峠を巡回した後は麓のロズベリーアポンフロルが営む公営放牧地を巡回するのが定められたルートだった。
「衛兵は重要な情報を得た時は通常の巡回よりも、そちらの調査を優先する規則がある。」
ジェフリーの言い分は尤もだった。
しかし、それがジェロームに通用するのか...
ロニー、ボリス、フィルは溜息をついた。
麓の農場では特に情報は得られなかった。
ガスの息子達は健全な農夫だ。
夜は早くから就寝し、朝早くから仕事に勤しんでいた。
酒浸りの父親のように夜更かしはしていなかったらしい。
しかし、エルムフォードの渡し場では気になる話が聞けた。
「どうやら、寝てる間に川を渡ろうとした奴がいるらしいんですよね。」
「ほう?」
「あっしらは寝てたんですがね。明け方に犬がやたら吠えるんで、目が覚めたんですよ。」
「何か見たか?」
「いえ。あっしらが渡し場に行った時は誰もいませんでした。ただ...」
「ただ?」
「誰かが渡し舟を引き出そうとしていたんじゃないかと。」
「どういうことだい?」
「船が少し引き出されておったんですよ。」
「なるほど。そして、その盗人は犬に吠えられて逃げ出したと?」
「へぇ、そうではないかと...」
「わかった。ありがとう。物騒だな。気を付けてくれ。」
「へぇ。」
「この辺りは歩いて川を渡れる浅瀬があったよな?」
渡し守への聞き込みを終えたジェフリーは仲間達の方へ振り返った。
「あぁ、下流にも上流にも歩いて渡れる場所はあるぜ。」
ロニーはロズベリー出身だ。
当然、その周辺を含めて土地に一番詳しい。
「そこを渡ったとなると証拠は残らないか?」
「まぁ、無理だな。」
「あーぁ!」
フィルが両手を上げて嘆いた。
「...」
無言でボリスが肩をすくめた。
ジェフリーには二人が言わんとすることがわかった。
「悪かったよ。でも不審者が峠を越えたんだ。ほっとけないだろ?」
「あんたはな!」
ロニーが可笑しそうに笑いながら呻いた。
笑いながら呻く?
おかしくないか?
ジェフリーは相棒の様子を見て微笑を浮かべた。
「笑い事じゃないよ。また、ジェロームの説教に付き合わされるんだ。こっちの身にもなって欲しいね?」
フィルが哀れっぽく言った。
「すまんな。」
今日の巡回でジェフリー達の小隊はいるかもわからぬ、謎の通行人の調査に時間を使い、公営放牧地の巡回と言う定められた任務をサボってしまった。
ジェロームが大喜びで説教するのは明白だった。
「今夜はお前が奢れよ。」
ロニーがジェフリーの肩をポンと叩いてその場を収めた。
小隊が北門をくぐった頃には、日が傾き始めていた。