ホーム不条識な狼の理(下)♗58
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♗58

♗58
 二人っきりになった。
『ヒカミ。なんで嘘ついたの?』
「しょうがねえだろ。あいつはおれの弱点を忘れている。好都合じゃないか。君は後で、ハクスイに、おれと逸れてしまった事にして、適当に時間見てくれ。」
『適当に時間見て。ってなに?』
「適当に時間見て、きっとヒカミは死んだんだって言えばいい。」
『馬鹿なこと言わないで。』
「なんだ。ただの事実じゃねえか。」
 ヒカミが、短剣を引き抜いた。
「悪いな。おれはここでドロップアウトだ。」
 有無を言わずに、ヒカミはその刃先を自らの喉元に当てた。そしてその刃先を

 あたしは、ヒカミの身体を押し倒すように、突っ込みその凶行を間一髪で止めた。反動で、あたしの手から松明は飛び、ボチャンと、松明は水の中へと落ちる音が響いた。
 完全に真っ暗になってしまった。
「おい。おれの短剣はどこだ。君が持っているのか?」
 いや。あたしは持ってない。本音を言うと取り上げたかったけど。
『多分、水の中に落ちちゃった。』
「ふざけんなよ。どういうつもりだよ。」
 暗闇の中、あたしがヒカミを押し倒して、あたしがヒカミの上に乗っているはずなのに、ヒカミは下にいながらもあたしの胸ぐらを掴んでくる。
「お前。責任とって、おれのこと今すぐ殺せよ。出来るんだろ。その爪とその怪力なら。簡単に殺せるだろ。」
 何言ってんの。まず、なんであたしがヒカミを殺す事になってるの?
『落ち着いて。なんであたしがヒカミを殺す事になっているの?ヒカミらしくないよ。落ち着いて。』
「この状況下で落ち着いてられるかよ。全部水だぜ。潜らないと出られないんだぜ。この真っ暗な中。君はおれがどれだけ水が怖いか知ってんだろ。」
『怖くても。ここを抜けれなきゃいつかは死ぬしかないんだよ。死ぬのと水どっちが怖いか考えてみてよ。』
 しかし、ヒカミの回答はあたしの予想と真逆であった。
「水に決まってんだろ!!」
 顔面に唾が飛ぶぐらい。渾身に叫ばれた。
「君にはわかんねえよな。わかるはずねえよ。あの絶望的な恐怖と突然思い出す過去にぐるぐる回され、苦しんで苦しんで、やっと掴んでも。目が覚めたら、兄ちゃんがいない世界だったんだぞ。
 君におれの何がわかる?水は全部持ってく。命を。
 ......おれの兄ちゃんを。」
 ヒカミの水に対する恐怖は、自分が死ぬ恐怖と、大切な人が死ぬ恐怖どちらもを見たから?
「そもそもさ。何で予定より早く爆発したかは、幸せな君にはわからないんだろ?」
 そうだ。言われてみれば、なぜ予定より早く爆発したのか、あの爆発が予定より早く起きなければ、崩落前に脱出の目処はついていたはずだ。
「おれは、わかっちまったよ。何で早く爆発したのか。今のおれと歩が同じ気持ちだからわかっちまったよ。君にはわからないだろうけど。」
『じゃあ、分かるまでちゃんと説明してよ。分かるまで質問するから。』
「歩は自殺した。」
 へ?今なんて?
 どうにもこうにもその怖い言葉はあたしの脳を反芻した。
「誰かの傍にいれるなら、あと僅かな時間も大事に使って、最後の最後まで一緒にいてくれる人の顔を目に焼きつけて死ぬよ。
 でも、あいつの場合。あの腕のせいで一人で死ぬしかなかったから。
 おれたちを見送ったあとに、たった一人で、追いかけてくる思い出に耐えきれなくて、死んだんだ。
 あと三十分。追いかけてくる感情に耐えきれなかったから、自ら命を絶ったんだ。
 あいつの運命と選択は、自分を犠牲に、この世界を救うことだった。間違いない。きっと正解だ。
 ただ、その最期の時を一人で迎えるには、あいつの心には荷が重過ぎたんだよ。
 追いかけてくる、思い出と。自分は生きられない明日。
 さよならは言ったけど、どれほど行かないでと言いたかったことか。苦しくて苦しくて、一人で死ぬのは苦しくて。」

 あたしは、歩のことをちゃんと見ていなったのかもしれない。なんでも出来る凄い奴。憧れの人って。どんな無理なことでも苦しいことでも歩なら出来る。
 奇跡を願わず、自分の手で起こし続けてきた歩なら、自分の命を犠牲にしてもきっと怖くない。覚悟出来ている。あたしと違って凄いから。
 そんなフィルターを通して見て。自分より上の立場の人間だと思っていた。
 実際は?考えた事あった?一度でも。だって、歩ってあたしたちと同じ歳ぐらいの人でしょ。ヒカミやハクスイのような普通の家に生まれていたら、今頃医者かボクサーとして有名になってであろう才能持った。才能と夢を持ったただの一人の少女であったはずだ。
 それが、犯罪に手を染めないと生きていけない世界を生き。やっと掴んだ家族と幸せも、世界の平和の為に手放すしかない。
 選ばれない側だったから。
 ねえ。なんかそれ。不公平じゃない。
 歩は。最後まで、苦しいって悲しいって言わずに。言えずに。一人で苦しんで。

「だからおれも、君がここにいるうちに死にたい。
 いいだろ。歩もいるんだし。脱落しても。」

 ヒカミの判断はいつだって正確だ。頭が良い、冷静、観察力がある。あたしの脳とは比にならないほどの膨大なデータも頭に入っている。ヒカミの言う事さえ守ればまず、最悪は免れる。
 そのヒカミの判断が、先にハクスイを行かせて、あたしに死ぬところ見届けさせてから、あたしも向かわせるというものだ。
 それって最善の選択なの?ヒカミが死ぬのは最善なの?なんで?歩が死んだから?それとそれは別じゃない?どうして、ヒカミはここで死なないと駄目なの?
『ねえ。どうして一緒に行こうってならないの?さっきハクスイには言ってたじゃん。あたし一人だと危なっかしいから、一緒に行くって。』
「んなの。さっき君がちゃんとおれに指摘したろ。なんで嘘つくんだ?って。嘘だよ。ハクスイに嘘をつくのが最善だった。」
『あたしの最善は。ヒカミと一緒にここを出る事。』
「ああ知っているよ。でも残念だ。どう考えても無理だ。自分の身体のことは自分が一番知っている。君がおれを無理やり連れ出したら、おれは君を一緒に沈める。絶対にだ。」
『なんでそんな事言いきれるの?』
「奇跡は絶対に起こらない。いつだって取捨選択だからだ。君の希望に身を委ねて、二人とも死ぬか、おれをさっさと殺して、確実に君一人で、ここ生きて出るか。その選択だ。」
『あたしがヒカミも無事に連れ出すって選択は?』
「ねえよ。舐めたこと言ってんじゃねえ。
 それで兄ちゃんは死んだんだ。おれの代わりに死んだんだ。
 君は全然わかってねえよ。溺れている奴を助けるのがどれだけ難しいのか。」
 ぐっと、あたしの手をとり、あたしの爪をヒカミは自らの喉元に当てる。
「だから。殺してくれよ。水の中で死ぬよりかは土の上で死ぬ方がマシだ。でも死ぬなら一人で死にたくない。頼むから殺してくれよ。」
 ヒカミの言っている事は間違ってない。
 多分あたしの希望はヒカミからしたら無謀でしかない。この水の中二人で助かるのは無理。ハクスイだったら通れても、あたしだったら通れても、ヒカミには通れない。
 確実に溺れるヒカミをあたしが先導して、通るにも、あたしにはそこまでの力は無いと判断。
 どうせ死ぬなら、あの事故の日を思い出して、水の中で死ぬくらいなら、ここで死にたい。独りで死ぬ前にここで死にたい。
 流石は計算高いヒカミの行動だ。合理的だ。三人中二人助かって、その残りの一人もなるべく苦しまないで死ぬ。しかし、このいつだって正しい分析、判断力を備えてヒカミでも一つだけ誤算がある。
『あたしに、ヒカミは殺せないよ。』
 それが、ヒカミの誤算。
「何言ってんだよ。食い殺そうとし、」
 と、ここで。ヒカミの呼吸が変わった。
 暗闇の中、明らかに空気感が変わったのが分かる。
 あたしの手首に、ヒカミの爪が食い込んで

「いやだだあああああ。いやだいやだいやだ、怖い怖い死にたくない死にたく死にたくない怖い怖い怖い。」

 あたしの聴力だと鼓膜が裂けそうな程の大声をあげて、ヒカミは暴れ出したのだ。こんな暗闇で、このまま暴れてヒカミが水に落ちる方が、危ない。
 あたしはヒカミの両腕を抑えつけ。身体も全部乗せて抑えつける。身体は全部抑えつけたが、必死の抵抗で、尻尾だけが、何度もあたしの身体に叩きつけられる。
『落ち着いて、ヒカミ。体力を消耗しないで。お願いだから。』
 しかしヒカミの態度は変わらない。
 それどころか、荒い呼吸は嗚咽に変わり、泣き出している。今の今まで、殺してくれて懇願していた人と今目の前にいる人が同一人物なのか疑問なほどだ。
 そもそも、長く一緒にいる割には、あたしはヒカミが泣いているところをそんなに見たとがない。子供の頃泣いていたあの時も、水だった。ヒカミが泣いたのは水がきっかけだった。
 じゃあ今は?水?
 ヒカミは水が怖くて泣いているの?
 じとっと。あたしは膝のあたりから、水を感じた。水というか液体。ぬるい。この体勢である事から、すぐに原因が分かる。失禁してる。それ程の恐怖。
 そうだ。前もあった。あたしが勢い余って、ヒカミを押し倒した時。怯えて、暴れてた。大声で叫びながら。
 さらに前もあった。ヒカミの腹部からの出血が、あたしの手にゆるゆると伝わり。食おうとした時。あの時もヒカミは......
 ヒカミは今この暗闇の中で、狼の幻を見ている。
 いや幻って言い方だとあたしに都合が良すぎる。
 あたしに食われそうになった。あの過去を。あの事実を。
 こんなにも恐怖に苦しめられる自分の親友を。
 殺す事でしか、救ってあげられないんだろうか?
 なんか。あんまりだよ。もういやだ。いやだよ。
 そもそも。一年前。というか一年一ヶ月前。あの卒業式の前日に、あたしはこんな事に巻き込まれて、ヒカミに助けを求めて、何ならヒカミだけじゃなく、ハクスイも巻き込まれて。
 あたしは狼になり、ヒカミもほとんど人間の身体を失い。ハクスイは記憶を失い。
 余村歩という掛け替えのない友人を失い。
 ねえ。あたしがこんな世界で、ヒカミに助けを呼ばなければこんな事にならなかった?
 誰かに助けを請う事はこんなにも残酷なんですか?
 会いたい人に会いたいと願う心は、罪なんですか?
 あたしが、ヒカミに助けてと望んだから、あたしがヒカミを殺すしかないの?
 ねえ。どうすれば良いの?奇跡は起こらない。奇跡は起こらないんだよ。自分でなんとかしないと。どうすれば、どうすればヒカミは救われる?どうすればヒカミを助けられるの。誰か、ねえあたしはどうすれば。
 抑えているヒカミの頭部。髪の毛の間からあたしの指先に何か固い物が触れる感じがした。この暗闇の中それが何かと理解する前に、

『落ち着けよ。ヒーちゃん。』

 そんな言葉が響いた。あたしの口から。あたしの言葉じゃない言葉が、突然あたしに口から出た。
 あれほど、嗚咽交じりに泣いていた、ヒカミの声がピタッと止まる。
「兄ちゃん......」
 何が起きたの?
 あたしが、一番状況が読めてない。なにせ、あたしはヒカミのことをヒーちゃんなんて呼び方はしない。
 奇跡は絶対に起こらない。
 そうだ。奇跡は起こらない。でも、今起きた出来事は、奇跡じゃないの?

 走馬灯のように、頭の中を思い出が駆け抜ける。見た事の無い、幼い子供。短髪で男の子か女の子か分からないその子は、暑いあの日に線香花火を灯しながら言ったのだ。
「おれさ、兄ちゃんのお嫁さんになれないことは、ホーリツで決まってる事知ってるんだ。だからおれは兄ちゃんになるね。兄ちゃんみたいな、なんでも出来る人に。」
 その子は泣き虫だった。
 食器を割ったのを父親に怒られて泣いて。カブトムシを取ろうとして、木から落ちて泣いて。野良犬に、兄からもらった大事なキャップを取られて泣いて。

 あたしは、この男の子でも女の子でもないこの子をよく知っている。
 そのよく知った子。ヒーちゃんを抱きしめた。
「兄ちゃん。おれ、おれっ......」
 少しでも冷静になれば、あたしがヒカミの兄ではない事ぐらいすぐに分かる。だって、抱きしめたところで根本的に性別、体型が違う。あたしもこんな身体になってしまったせいで、胸もだいぶ小さくなってしまったけど、全くなくなったわけじゃない。絶対に抱きしめたら、相手は女性だってわかる。そして、多分で人間の男性とは比にならないくらいに毛深い。首も片側はほぼ獣毛なのだ。触れてないはずがない。多分、匂いも多少動物臭があると思う。
 そう。こんな暗闇で、たとえ、あたしがヒカミの兄でない限り知りえない呼び方をしたところで、目の前にいるあたしが兄でないと否定する材料は十分過ぎた。
 なのに。
 ヒカミはあたしの腕の中で泣き続けるのだった。
 かつて、兄が幼いヒーちゃんの頭を撫でたように。あたしもヒカミの頭を撫で続けた。
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不条識な狼の理(下)作者:駿河鵬命
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 二人っきりになった。
『ヒカミ。なんで嘘ついたの?』
「しょうがねえだろ。あいつはおれの弱点を忘れている。好都合じゃないか。君は後で、ハクスイに、おれと逸れてしまった事にして、適当に時間見てくれ。」
『適当に時間見て。ってなに?』
「適当に時間見て、きっとヒカミは死んだんだって言えばいい。」
『馬鹿なこと言わないで。』
「なんだ。ただの事実じゃねえか。」
 ヒカミが、短剣を引き抜いた。
「悪いな。おれはここでドロップアウトだ。」
 有無を言わずに、ヒカミはその刃先を自らの喉元に当てた。そしてその刃先を

 あたしは、ヒカミの身体を押し倒すように、突っ込みその凶行を間一髪で止めた。反動で、あたしの手から松明は飛び、ボチャンと、松明は水の中へと落ちる音が響いた。
 完全に真っ暗になってしまった。
「おい。おれの短剣はどこだ。君が持っているのか?」
 いや。あたしは持ってない。本音を言うと取り上げたかったけど。
『多分、水の中に落ちちゃった。』
「ふざけんなよ。どういうつもりだよ。」
 暗闇の中、あたしがヒカミを押し倒して、あたしがヒカミの上に乗っているはずなのに、ヒカミは下にいながらもあたしの胸ぐらを掴んでくる。
「お前。責任とって、おれのこと今すぐ殺せよ。出来るんだろ。その爪とその怪力なら。簡単に殺せるだろ。」
 何言ってんの。まず、なんであたしがヒカミを殺す事になってるの?
『落ち着いて。なんであたしがヒカミを殺す事になっているの?ヒカミらしくないよ。落ち着いて。』
「この状況下で落ち着いてられるかよ。全部水だぜ。潜らないと出られないんだぜ。この真っ暗な中。君はおれがどれだけ水が怖いか知ってんだろ。」
『怖くても。ここを抜けれなきゃいつかは死ぬしかないんだよ。死ぬのと水どっちが怖いか考えてみてよ。』
 しかし、ヒカミの回答はあたしの予想と真逆であった。
「水に決まってんだろ!!」
 顔面に唾が飛ぶぐらい。渾身に叫ばれた。
「君にはわかんねえよな。わかるはずねえよ。あの絶望的な恐怖と突然思い出す過去にぐるぐる回され、苦しんで苦しんで、やっと掴んでも。目が覚めたら、兄ちゃんがいない世界だったんだぞ。
 君におれの何がわかる?水は全部持ってく。命を。
 ......おれの兄ちゃんを。」
 ヒカミの水に対する恐怖は、自分が死ぬ恐怖と、大切な人が死ぬ恐怖どちらもを見たから?
「そもそもさ。何で予定より早く爆発したかは、幸せな君にはわからないんだろ?」
 そうだ。言われてみれば、なぜ予定より早く爆発したのか、あの爆発が予定より早く起きなければ、崩落前に脱出の目処はついていたはずだ。
「おれは、わかっちまったよ。何で早く爆発したのか。今のおれと歩が同じ気持ちだからわかっちまったよ。君にはわからないだろうけど。」
『じゃあ、分かるまでちゃんと説明してよ。分かるまで質問するから。』
「歩は自殺した。」
 へ?今なんて?
 どうにもこうにもその怖い言葉はあたしの脳を反芻した。
「誰かの傍にいれるなら、あと僅かな時間も大事に使って、最後の最後まで一緒にいてくれる人の顔を目に焼きつけて死ぬよ。
 でも、あいつの場合。あの腕のせいで一人で死ぬしかなかったから。
 おれたちを見送ったあとに、たった一人で、追いかけてくる思い出に耐えきれなくて、死んだんだ。
 あと三十分。追いかけてくる感情に耐えきれなかったから、自ら命を絶ったんだ。
 あいつの運命と選択は、自分を犠牲に、この世界を救うことだった。間違いない。きっと正解だ。
 ただ、その最期の時を一人で迎えるには、あいつの心には荷が重過ぎたんだよ。
 追いかけてくる、思い出と。自分は生きられない明日。
 さよならは言ったけど、どれほど行かないでと言いたかったことか。苦しくて苦しくて、一人で死ぬのは苦しくて。」

 あたしは、歩のことをちゃんと見ていなったのかもしれない。なんでも出来る凄い奴。憧れの人って。どんな無理なことでも苦しいことでも歩なら出来る。
 奇跡を願わず、自分の手で起こし続けてきた歩なら、自分の命を犠牲にしてもきっと怖くない。覚悟出来ている。あたしと違って凄いから。
 そんなフィルターを通して見て。自分より上の立場の人間だと思っていた。
 実際は?考えた事あった?一度でも。だって、歩ってあたしたちと同じ歳ぐらいの人でしょ。ヒカミやハクスイのような普通の家に生まれていたら、今頃医者かボクサーとして有名になってであろう才能持った。才能と夢を持ったただの一人の少女であったはずだ。
 それが、犯罪に手を染めないと生きていけない世界を生き。やっと掴んだ家族と幸せも、世界の平和の為に手放すしかない。
 選ばれない側だったから。
 ねえ。なんかそれ。不公平じゃない。
 歩は。最後まで、苦しいって悲しいって言わずに。言えずに。一人で苦しんで。

「だからおれも、君がここにいるうちに死にたい。
 いいだろ。歩もいるんだし。脱落しても。」

 ヒカミの判断はいつだって正確だ。頭が良い、冷静、観察力がある。あたしの脳とは比にならないほどの膨大なデータも頭に入っている。ヒカミの言う事さえ守ればまず、最悪は免れる。
 そのヒカミの判断が、先にハクスイを行かせて、あたしに死ぬところ見届けさせてから、あたしも向かわせるというものだ。
 それって最善の選択なの?ヒカミが死ぬのは最善なの?なんで?歩が死んだから?それとそれは別じゃない?どうして、ヒカミはここで死なないと駄目なの?
『ねえ。どうして一緒に行こうってならないの?さっきハクスイには言ってたじゃん。あたし一人だと危なっかしいから、一緒に行くって。』
「んなの。さっき君がちゃんとおれに指摘したろ。なんで嘘つくんだ?って。嘘だよ。ハクスイに嘘をつくのが最善だった。」
『あたしの最善は。ヒカミと一緒にここを出る事。』
「ああ知っているよ。でも残念だ。どう考えても無理だ。自分の身体のことは自分が一番知っている。君がおれを無理やり連れ出したら、おれは君を一緒に沈める。絶対にだ。」
『なんでそんな事言いきれるの?』
「奇跡は絶対に起こらない。いつだって取捨選択だからだ。君の希望に身を委ねて、二人とも死ぬか、おれをさっさと殺して、確実に君一人で、ここ生きて出るか。その選択だ。」
『あたしがヒカミも無事に連れ出すって選択は?』
「ねえよ。舐めたこと言ってんじゃねえ。
 それで兄ちゃんは死んだんだ。おれの代わりに死んだんだ。
 君は全然わかってねえよ。溺れている奴を助けるのがどれだけ難しいのか。」
 ぐっと、あたしの手をとり、あたしの爪をヒカミは自らの喉元に当てる。
「だから。殺してくれよ。水の中で死ぬよりかは土の上で死ぬ方がマシだ。でも死ぬなら一人で死にたくない。頼むから殺してくれよ。」
 ヒカミの言っている事は間違ってない。
 多分あたしの希望はヒカミからしたら無謀でしかない。この水の中二人で助かるのは無理。ハクスイだったら通れても、あたしだったら通れても、ヒカミには通れない。
 確実に溺れるヒカミをあたしが先導して、通るにも、あたしにはそこまでの力は無いと判断。
 どうせ死ぬなら、あの事故の日を思い出して、水の中で死ぬくらいなら、ここで死にたい。独りで死ぬ前にここで死にたい。
 流石は計算高いヒカミの行動だ。合理的だ。三人中二人助かって、その残りの一人もなるべく苦しまないで死ぬ。しかし、このいつだって正しい分析、判断力を備えてヒカミでも一つだけ誤算がある。
『あたしに、ヒカミは殺せないよ。』
 それが、ヒカミの誤算。
「何言ってんだよ。食い殺そうとし、」
 と、ここで。ヒカミの呼吸が変わった。
 暗闇の中、明らかに空気感が変わったのが分かる。
 あたしの手首に、ヒカミの爪が食い込んで

「いやだだあああああ。いやだいやだいやだ、怖い怖い死にたくない死にたく死にたくない怖い怖い怖い。」

 あたしの聴力だと鼓膜が裂けそうな程の大声をあげて、ヒカミは暴れ出したのだ。こんな暗闇で、このまま暴れてヒカミが水に落ちる方が、危ない。
 あたしはヒカミの両腕を抑えつけ。身体も全部乗せて抑えつける。身体は全部抑えつけたが、必死の抵抗で、尻尾だけが、何度もあたしの身体に叩きつけられる。
『落ち着いて、ヒカミ。体力を消耗しないで。お願いだから。』
 しかしヒカミの態度は変わらない。
 それどころか、荒い呼吸は嗚咽に変わり、泣き出している。今の今まで、殺してくれて懇願していた人と今目の前にいる人が同一人物なのか疑問なほどだ。
 そもそも、長く一緒にいる割には、あたしはヒカミが泣いているところをそんなに見たとがない。子供の頃泣いていたあの時も、水だった。ヒカミが泣いたのは水がきっかけだった。
 じゃあ今は?水?
 ヒカミは水が怖くて泣いているの?
 じとっと。あたしは膝のあたりから、水を感じた。水というか液体。ぬるい。この体勢である事から、すぐに原因が分かる。失禁してる。それ程の恐怖。
 そうだ。前もあった。あたしが勢い余って、ヒカミを押し倒した時。怯えて、暴れてた。大声で叫びながら。
 さらに前もあった。ヒカミの腹部からの出血が、あたしの手にゆるゆると伝わり。食おうとした時。あの時もヒカミは......
 ヒカミは今この暗闇の中で、狼の幻を見ている。
 いや幻って言い方だとあたしに都合が良すぎる。
 あたしに食われそうになった。あの過去を。あの事実を。
 こんなにも恐怖に苦しめられる自分の親友を。
 殺す事でしか、救ってあげられないんだろうか?
 なんか。あんまりだよ。もういやだ。いやだよ。
 そもそも。一年前。というか一年一ヶ月前。あの卒業式の前日に、あたしはこんな事に巻き込まれて、ヒカミに助けを求めて、何ならヒカミだけじゃなく、ハクスイも巻き込まれて。
 あたしは狼になり、ヒカミもほとんど人間の身体を失い。ハクスイは記憶を失い。
 余村歩という掛け替えのない友人を失い。
 ねえ。あたしがこんな世界で、ヒカミに助けを呼ばなければこんな事にならなかった?
 誰かに助けを請う事はこんなにも残酷なんですか?
 会いたい人に会いたいと願う心は、罪なんですか?
 あたしが、ヒカミに助けてと望んだから、あたしがヒカミを殺すしかないの?
 ねえ。どうすれば良いの?奇跡は起こらない。奇跡は起こらないんだよ。自分でなんとかしないと。どうすれば、どうすればヒカミは救われる?どうすればヒカミを助けられるの。誰か、ねえあたしはどうすれば。
 抑えているヒカミの頭部。髪の毛の間からあたしの指先に何か固い物が触れる感じがした。この暗闇の中それが何かと理解する前に、

『落ち着けよ。ヒーちゃん。』

 そんな言葉が響いた。あたしの口から。あたしの言葉じゃない言葉が、突然あたしに口から出た。
 あれほど、嗚咽交じりに泣いていた、ヒカミの声がピタッと止まる。
「兄ちゃん......」
 何が起きたの?
 あたしが、一番状況が読めてない。なにせ、あたしはヒカミのことをヒーちゃんなんて呼び方はしない。
 奇跡は絶対に起こらない。
 そうだ。奇跡は起こらない。でも、今起きた出来事は、奇跡じゃないの?

 走馬灯のように、頭の中を思い出が駆け抜ける。見た事の無い、幼い子供。短髪で男の子か女の子か分からないその子は、暑いあの日に線香花火を灯しながら言ったのだ。
「おれさ、兄ちゃんのお嫁さんになれないことは、ホーリツで決まってる事知ってるんだ。だからおれは兄ちゃんになるね。兄ちゃんみたいな、なんでも出来る人に。」
 その子は泣き虫だった。
 食器を割ったのを父親に怒られて泣いて。カブトムシを取ろうとして、木から落ちて泣いて。野良犬に、兄からもらった大事なキャップを取られて泣いて。

 あたしは、この男の子でも女の子でもないこの子をよく知っている。
 そのよく知った子。ヒーちゃんを抱きしめた。
「兄ちゃん。おれ、おれっ......」
 少しでも冷静になれば、あたしがヒカミの兄ではない事ぐらいすぐに分かる。だって、抱きしめたところで根本的に性別、体型が違う。あたしもこんな身体になってしまったせいで、胸もだいぶ小さくなってしまったけど、全くなくなったわけじゃない。絶対に抱きしめたら、相手は女性だってわかる。そして、多分で人間の男性とは比にならないくらいに毛深い。首も片側はほぼ獣毛なのだ。触れてないはずがない。多分、匂いも多少動物臭があると思う。
 そう。こんな暗闇で、たとえ、あたしがヒカミの兄でない限り知りえない呼び方をしたところで、目の前にいるあたしが兄でないと否定する材料は十分過ぎた。
 なのに。
 ヒカミはあたしの腕の中で泣き続けるのだった。
 かつて、兄が幼いヒーちゃんの頭を撫でたように。あたしもヒカミの頭を撫で続けた。
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