ホーム私の知らない、父私の知らない、父。
目次

私の知らない、父。

貴方は、両親の事をどこまで知っていますか?
線香の煙が静かに立ち上る八畳間で、

近所に住む山田さんは遺影に向かって優しく手を合わせた。

高度経済成長期と、バブル期を役場の公務員として、がむしゃらに働き抜き、

この熊本市東区戸島西に、一軒家を建てた父、明。

二ヶ月前、八十歳でこの世を去った。


「あーおばちゃん、ごめんね。わざわざ来てもらっちゃって」


「いいのよ。明さんには生前、本当にお世話になったんだから。気にしないで」

「本当、早いわね......。もう二ヶ月なんて、信じられないわ」


「そうね。四十九日も無事に過ぎたから、そろそろ少しずつ後片付けでもしようかなって思って」


私がそう言うと、山田さんは「偉いわねぇ」と目を細めた。

「早く片付けないと、天国にいるお母さんにも『いつまで散らかしてるの!』って怒られそうで......」

「ははは、そんなことないわよ。今頃は天国で、夫婦仲良くお茶でも飲んでるわよ、あのお二人なら......」

「......だと、いいんだけど」


私が苦笑交じりに返すと、山田さんはエプロンの紐を直しながら立ち上がった。

「じゃあ、私はこれで失礼するわね。何かあったら、本当に遠慮なくいつでも言ってね」


「ありがとう、おばちゃん」


玄関で見送った後、私は静まり返った実家に戻った。

同じ熊本市内に住んでいながら、仕事と子育てにかまけて頻繁に顔を出していたわけではない。55歳で早期退職した後は、自宅の田畑でコメや農産物を栽培し、基本は自給自足の生活をしながら黙々と食べていた父。

母が亡くなってからは、ますます頑固で無口になり、何を考えているのか分からない人だった。


「さて......何処から片付けようかしら。」



誰もいない部屋の寂しさを紛らわせるように、テレビの主電源を入れた。液晶画面から、ニュースキャスターの少し硬い声が流れ始める。


『――民主化後初めて来日したキバル民主共和国のアズムン大統領は、三日間の日程で日本を訪れています。最終日の今日は、約十年前の熊本地震の復興現場を視察する予定です』




「そうそう相続の手続きもあるから、まずは通帳や印鑑を探さなきゃ。」

テレビの音を背中で聞きながら、私は父の古い木製の机に向かった。

ごそごそと引き出しの奥に手を伸ばすと、輪ゴムでひとまとめにされた数冊の預金通帳が見つかる。

「なんの通帳かしら? 年金用......? にしては、何冊もあるわね」


何気なく、一番上にあった古い通帳を手に取り、パラパラとページをめくった。

茶色く変色したページの中に、ある不自然な記録が目に飛び込んできた。


「......何これ?」


思わず、動きが止まる。

息を呑みながら、次のページをめくる。

そこにも、同じ文字が並んでいた。さらに次のページも......。


「え?」

「なんで、毎年9月に100万円も振り込まれているの......?」


残り数冊の通帳もすべて同じだった。

毎年9月に100万円。

それが約30年もの長きにわたって、静かに振り込まれ続けていたのだ。

そしてその奇妙な入金記録は、毎年決まって12月になると、一気に赤十字の口座へ全額振り込まれていた。


全く心当たりのない私は、不安と動揺が限界に達し、スマホを掴んで大阪の企業に就職した長女の愛華に電話をかけた。


『もしもし、お母さん? どうしたん?』

「ちょっと、愛華、何か知らん?」

『何が?』

「おじいちゃんの通帳整理しよったらね、毎年9月に100万円振り込まれとるとよ。それも30年間も......」

『......はぁ!? 何それ!?』


電話の向こうで、愛華のトーンが一気に跳ね上がった。


「私も分からんたい。そんで毎年12月に、全額赤十字に寄付されとる。」

『じいちゃん、公務員やったやん?』

『高度成長期も、バブルも、リーマンショックも経験しとる世代やけど、退職してからは畑仕事しよったでしょ?』

『毎年100万は絶対おかしいって!』

『それ、闇バイトとか反社に名義を利用されとったんじゃない?』

『......お母さん、一人で抱え込まんといてよ。』

『気持ちが落ち着いたら、警察に相談した方がよくない?』


娘の現実的で鋭い指摘に、背筋が寒くなる。闇バイト。反社。しかし、私の知る父がそんな犯罪に手を染めるとは到底思えなかった。けれど、この大金の正体は一体何なのか。釈然としないまま、私は「また連絡する」と愛華との電話を切った。



昼のテレビのニュースは、キバル民主共和国のアズムン大統領が熊本に入ったことを報じていた。熊本地震で壊滅的な被害を受けた益城町の復興現場を見学し、役場で町長や関係者と会談。

その後、復興した道路や水道、ガスなどのライフラインを視察し、熊本空港から東京に戻り帰国する予定になっていた。


その日の午後だった。

戸島西の静かな住宅街に、見慣れない黒塗りの高級車が滑り込んできた。

車は、我が家の前にピタリと止まる。

「え......? 何ごと?!」

窓から外を覗いた私は、我が目を疑った。

車から降りてきたのは、数人のSPと、テレビで何度も見たアズムン大統領その人だった。


「玄関の外で待っていてください。少しだけ、一人にしてください。」

玄関前に立つSPに伝えた。

そして、大統領は玄関のインターホンを鳴らした。


何がなんだかわからないまま、私は慌てて玄関を開けた。


大統領は迷うことなく八畳間へと進むと、父の遺影と位牌の前に、丁寧な所作で正座し、すこし古びた銀色の腕時計を外した。

ガラスには一本の細い傷が入り、革のベルトは長い年月を物語るように色褪せていた。

まるで壊れ物を扱うように、胸ポケットへそっとしまった。


その背中は、一国のリーダーとしての威厳がありながらも、どこか深い哀悼の意に満ちていた。


「......アキラサン、タダイマ。」


大統領は、父の名を知っていた。

しかも「ただいま」と。


お参りを終えた大統領は、ゆっくりと振り返って座布団に深く腰を落とした。


「この家を訪れたいと、日本政府には強くお願いしていました。」

「......詳しい住所など細かい事は、外務省に調べてもらいました。」

「今日ここへ来ることは......あまり知られていません。」 と、

弥生に言い聞かせるように話しかけた。


そして私に向かって一枚の古びた写真を手渡した。


(これは......お父さん?)


そこに写っていたのは、当時55歳から58歳頃の、まだ少し若かった父の姿。

そしてその隣で、泥にまみれた作業着を着て笑っている、若き日のアズムン大統領の姿だった。


大統領は、流暢とは言えないまでも、心のこもった丁寧な日本語で語り始めた。

約30年前、アズムン氏は、一人の留学生として日本を訪問していた。

しかしある日、この熊本の地で道に迷ってしまい、途方に暮れていたところを、畑仕事の帰り、軽トラを走らせていた父・明に偶然助けられたのだという。


「明さんは、私を温かく迎え入れてくれました」


『行く所も分からん。食べ物も寝る場所も無か。』

『そぎゃんと、放ったらかしにできんたい。』

『とりあえずウチに来い』

『ほら、良かけん早よ乗れ!』

助手席にアズムン氏を乗せ、実家へ迎え入れた。



その日から、ひと月ほど。

アズムン青年は、この戸島西の家で父と寝食を共にした。


その約ひと月の出来事を、堰を切ったように話し始めた。

蛇口から流れる水を見て驚いた日のこと。

「汚れと汗を流せ」

「コノ、ミズノマスヨ?」

「良かけん、しっかり洗え。」


赤と青の信号を教わった日のこと。

『赤が止まる。青が進む。』

「ニホンハ、イロデキマル?」

『そうたい。車が居なくても、信号のルールは守らなん。』


初めてクワを握り、手の皮が剥けるまで畑を耕したこと。

『しっかり土の声ば聞け。』

「ツチノコエ?」

『土も世話すると、我が子の様に育つ。』

「明さんから、日本の文化を、田畑を耕す尊さを、そして多くの言葉を学びました。」

「そして、最後の日、旅立つ私に、この時計を持たせてくれました。」


『時計も無かなら、バスも列車も乗れんたい。』

『これば、やるけん、持っていけ。』


「エ?ダメです。ウケトレマセン」

『良かけん。これも何かの縁たい。』 と、

ゆっくり胸ポケットから時計を取り出した。

「国が変わり、立場が変わっても、この時計だけは私の腕にありました。」

「苦しい時も、嬉しい時も、この時計を見るたびに、明さんの言葉を思い出しました。」

と、父から譲り受けたという時計を、ゆっくり弥生の手に渡した。

大統領が胸ポケットから取り出した時計を見た瞬間、私は息を呑んだ。


ガラスに走る一本の傷。

擦り切れた革のベルト。

間違えるはずがなかった。

父がいつも腕につけていた、あの時計だった。


それが、今は一国の大統領が持っているとは、思いもしない出来事だった。

弥生は目元を潤ませ、呟いた。

「父さん......」


そして弥生は、そっと首を振った。

「......それは、あなたが持っていてください。」

その時計を大統領の手に返した。


大統領は、手のひらに置かれた時計を見つめ、

「この時計は、私と明さんを繋ぐ宝物です。」 と呟いた。



時計をはじめ、私が一切知らなかった......無口な父のもう一つの顔。

大統領は約1時間にもわたって、父と過ごしたかけがえのない日々を、愛おしそうに、切々と私に話し続けた。


そして、アズムンは内ポケットから白い封筒を取り出した。

「これは、今年の九月に、明さんへお渡しするつもりだったものです。」

「毎年、明さんへ送っていました。」

弥生は驚く。

「......これは?」

アズムンは静かに頷く。

「私の国は、キバルといいます。」

「熊本の言葉の『気張る』に、少し似ています。」

「明さんは、私に何度も言いました。」

「『気張れ。頑張り過ぎんでよか。気張れ』と。」

「その言葉は、今も私を、そして私の国を支えています。」


「......そして、私は、今日、父の墓参りができました。」

大統領はそう言って微笑み、深い礼をして、

再び黒塗りの車に乗って熊本空港へと去っていった。


嵐のような1時間が過ぎ、静まり返った部屋で、私はすべての謎が解けた安心感と、娘の私さえ知らない人生があった父への、誇らしさで胸がいっぱいになっていた。




私はすぐに、大阪に住む愛華に電話をかけた。

事の一部始終を、一気にまくし立てるように伝えた。


『......すごいやん、じいちゃん』

電話の向こうで、愛華の声が震えていた。

『闇バイトとか疑ってごめん......やっぱり、私のじいちゃんは尊敬できる人だった。』

『本当に自慢のじいちゃんやわ〜』


『で、他に遺産は無かったと?』

「さぁどうかしら......」

『そこは無かった。って言わなんたい!』

嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに語る娘・愛華の声を聞きながら、私も涙を拭った。

「じゃあ、またね」と電話を切る。


すっかり夕方を過ぎ、簡単な食事を済ませた私は、もう一度仏壇の前へと歩み寄った。

アズムン大統領から手渡された古びた写真を、父の遺影の隣にそっと立てかける。そして、あの茶色く変色した数冊の通帳を、その前に綺麗に並べた。


「安心して。今年の分も、ちゃんと赤十字へ届けるけん......」

父がそうしてきたように、今年のこの100万円も、誰かの命を救うために赤十字へと繋いでいく。

それが、父の遺志なのだから。


私は遺影に向かってしっかりと両手を合わせ、深く一礼した。

張り詰めていた心の糸が、心地よく解けていくのを感じる。


仏壇の前から立ち上がると、私は自分の肩をトントンと叩いた。


ふと窓の外を見ると、庭の柿の木が静かに揺れていた。

「お父さん......よかったね。」

遺影の隣には、若き日の大統領の写真。

その前には、三十年の感謝が刻まれた数冊の通帳。

線香の煙だけが、国を越えて結ばれた二人を繋ぐように、ゆっくりと天井へ昇っていった。



同日 夜 熊本空港。

アズムン大統領は、胸ポケットから古びた銀色の腕時計を取り出した。

ガラスには一本の細い傷。

擦り切れた革のベルト。

静かに腕へとはめる。

そして、ロビーの壁に掛けられた時計へ目を向けた。

竜頭を回し、秒針をゆっくりと合わせる。

カチッ。

再び時を刻み始めた腕時計を見つめ、大統領は小さく微笑んだ。

「......また来ます。」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

そして搭乗口へ向かい、ゆっくりとゲートの向こうへ消えていった。

その頃――。

弥生は、静まり返った実家で後片付けをしていた。

ふと手を止め、窓の外を見上げる。

高く澄んだ夜空。

その中を、一機の飛行機がゆっくりと横切っていく。

白い飛行機雲だけを残して、やがて小さな点になり、空の彼方へ消えていった。

弥生は、しばらくその空を見上げていた。


――半年後。

春の彼岸。

弥生と愛華は、花を抱えて墓地を訪れていた。

墓石の前にしゃがみ込み、二人で静かに手を合わせる。

弥生はポケットから小さなマッチ箱を取り出した。

一本抜き取り、側面で静かに擦る。

シュッ――。

橙色の火が小さく揺れ、線香の先へと移っていく。

白い煙が、ゆっくりと春の空へ昇り始めた。


「......私も、もう少し気張るかぁ。」

愛華が、煙を見つめたまま言った。

弥生は、ふっと笑った。

風が吹いた。

白い煙が、空へ、空へと昇っていく。

どこまでも続く、青い空へ――。



  完

あとがき六華夏目
ご両親の事、どこまで知り、今に至りますか?
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私の知らない、父作者:六華夏目
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私の知らない、父。

貴方は、両親の事をどこまで知っていますか?
線香の煙が静かに立ち上る八畳間で、

近所に住む山田さんは遺影に向かって優しく手を合わせた。

高度経済成長期と、バブル期を役場の公務員として、がむしゃらに働き抜き、

この熊本市東区戸島西に、一軒家を建てた父、明。

二ヶ月前、八十歳でこの世を去った。


「あーおばちゃん、ごめんね。わざわざ来てもらっちゃって」


「いいのよ。明さんには生前、本当にお世話になったんだから。気にしないで」

「本当、早いわね......。もう二ヶ月なんて、信じられないわ」


「そうね。四十九日も無事に過ぎたから、そろそろ少しずつ後片付けでもしようかなって思って」


私がそう言うと、山田さんは「偉いわねぇ」と目を細めた。

「早く片付けないと、天国にいるお母さんにも『いつまで散らかしてるの!』って怒られそうで......」

「ははは、そんなことないわよ。今頃は天国で、夫婦仲良くお茶でも飲んでるわよ、あのお二人なら......」

「......だと、いいんだけど」


私が苦笑交じりに返すと、山田さんはエプロンの紐を直しながら立ち上がった。

「じゃあ、私はこれで失礼するわね。何かあったら、本当に遠慮なくいつでも言ってね」


「ありがとう、おばちゃん」


玄関で見送った後、私は静まり返った実家に戻った。

同じ熊本市内に住んでいながら、仕事と子育てにかまけて頻繁に顔を出していたわけではない。55歳で早期退職した後は、自宅の田畑でコメや農産物を栽培し、基本は自給自足の生活をしながら黙々と食べていた父。

母が亡くなってからは、ますます頑固で無口になり、何を考えているのか分からない人だった。


「さて......何処から片付けようかしら。」



誰もいない部屋の寂しさを紛らわせるように、テレビの主電源を入れた。液晶画面から、ニュースキャスターの少し硬い声が流れ始める。


『――民主化後初めて来日したキバル民主共和国のアズムン大統領は、三日間の日程で日本を訪れています。最終日の今日は、約十年前の熊本地震の復興現場を視察する予定です』




「そうそう相続の手続きもあるから、まずは通帳や印鑑を探さなきゃ。」

テレビの音を背中で聞きながら、私は父の古い木製の机に向かった。

ごそごそと引き出しの奥に手を伸ばすと、輪ゴムでひとまとめにされた数冊の預金通帳が見つかる。

「なんの通帳かしら? 年金用......? にしては、何冊もあるわね」


何気なく、一番上にあった古い通帳を手に取り、パラパラとページをめくった。

茶色く変色したページの中に、ある不自然な記録が目に飛び込んできた。


「......何これ?」


思わず、動きが止まる。

息を呑みながら、次のページをめくる。

そこにも、同じ文字が並んでいた。さらに次のページも......。


「え?」

「なんで、毎年9月に100万円も振り込まれているの......?」


残り数冊の通帳もすべて同じだった。

毎年9月に100万円。

それが約30年もの長きにわたって、静かに振り込まれ続けていたのだ。

そしてその奇妙な入金記録は、毎年決まって12月になると、一気に赤十字の口座へ全額振り込まれていた。


全く心当たりのない私は、不安と動揺が限界に達し、スマホを掴んで大阪の企業に就職した長女の愛華に電話をかけた。


『もしもし、お母さん? どうしたん?』

「ちょっと、愛華、何か知らん?」

『何が?』

「おじいちゃんの通帳整理しよったらね、毎年9月に100万円振り込まれとるとよ。それも30年間も......」

『......はぁ!? 何それ!?』


電話の向こうで、愛華のトーンが一気に跳ね上がった。


「私も分からんたい。そんで毎年12月に、全額赤十字に寄付されとる。」

『じいちゃん、公務員やったやん?』

『高度成長期も、バブルも、リーマンショックも経験しとる世代やけど、退職してからは畑仕事しよったでしょ?』

『毎年100万は絶対おかしいって!』

『それ、闇バイトとか反社に名義を利用されとったんじゃない?』

『......お母さん、一人で抱え込まんといてよ。』

『気持ちが落ち着いたら、警察に相談した方がよくない?』


娘の現実的で鋭い指摘に、背筋が寒くなる。闇バイト。反社。しかし、私の知る父がそんな犯罪に手を染めるとは到底思えなかった。けれど、この大金の正体は一体何なのか。釈然としないまま、私は「また連絡する」と愛華との電話を切った。



昼のテレビのニュースは、キバル民主共和国のアズムン大統領が熊本に入ったことを報じていた。熊本地震で壊滅的な被害を受けた益城町の復興現場を見学し、役場で町長や関係者と会談。

その後、復興した道路や水道、ガスなどのライフラインを視察し、熊本空港から東京に戻り帰国する予定になっていた。


その日の午後だった。

戸島西の静かな住宅街に、見慣れない黒塗りの高級車が滑り込んできた。

車は、我が家の前にピタリと止まる。

「え......? 何ごと?!」

窓から外を覗いた私は、我が目を疑った。

車から降りてきたのは、数人のSPと、テレビで何度も見たアズムン大統領その人だった。


「玄関の外で待っていてください。少しだけ、一人にしてください。」

玄関前に立つSPに伝えた。

そして、大統領は玄関のインターホンを鳴らした。


何がなんだかわからないまま、私は慌てて玄関を開けた。


大統領は迷うことなく八畳間へと進むと、父の遺影と位牌の前に、丁寧な所作で正座し、すこし古びた銀色の腕時計を外した。

ガラスには一本の細い傷が入り、革のベルトは長い年月を物語るように色褪せていた。

まるで壊れ物を扱うように、胸ポケットへそっとしまった。


その背中は、一国のリーダーとしての威厳がありながらも、どこか深い哀悼の意に満ちていた。


「......アキラサン、タダイマ。」


大統領は、父の名を知っていた。

しかも「ただいま」と。


お参りを終えた大統領は、ゆっくりと振り返って座布団に深く腰を落とした。


「この家を訪れたいと、日本政府には強くお願いしていました。」

「......詳しい住所など細かい事は、外務省に調べてもらいました。」

「今日ここへ来ることは......あまり知られていません。」 と、

弥生に言い聞かせるように話しかけた。


そして私に向かって一枚の古びた写真を手渡した。


(これは......お父さん?)


そこに写っていたのは、当時55歳から58歳頃の、まだ少し若かった父の姿。

そしてその隣で、泥にまみれた作業着を着て笑っている、若き日のアズムン大統領の姿だった。


大統領は、流暢とは言えないまでも、心のこもった丁寧な日本語で語り始めた。

約30年前、アズムン氏は、一人の留学生として日本を訪問していた。

しかしある日、この熊本の地で道に迷ってしまい、途方に暮れていたところを、畑仕事の帰り、軽トラを走らせていた父・明に偶然助けられたのだという。


「明さんは、私を温かく迎え入れてくれました」


『行く所も分からん。食べ物も寝る場所も無か。』

『そぎゃんと、放ったらかしにできんたい。』

『とりあえずウチに来い』

『ほら、良かけん早よ乗れ!』

助手席にアズムン氏を乗せ、実家へ迎え入れた。



その日から、ひと月ほど。

アズムン青年は、この戸島西の家で父と寝食を共にした。


その約ひと月の出来事を、堰を切ったように話し始めた。

蛇口から流れる水を見て驚いた日のこと。

「汚れと汗を流せ」

「コノ、ミズノマスヨ?」

「良かけん、しっかり洗え。」


赤と青の信号を教わった日のこと。

『赤が止まる。青が進む。』

「ニホンハ、イロデキマル?」

『そうたい。車が居なくても、信号のルールは守らなん。』


初めてクワを握り、手の皮が剥けるまで畑を耕したこと。

『しっかり土の声ば聞け。』

「ツチノコエ?」

『土も世話すると、我が子の様に育つ。』

「明さんから、日本の文化を、田畑を耕す尊さを、そして多くの言葉を学びました。」

「そして、最後の日、旅立つ私に、この時計を持たせてくれました。」


『時計も無かなら、バスも列車も乗れんたい。』

『これば、やるけん、持っていけ。』


「エ?ダメです。ウケトレマセン」

『良かけん。これも何かの縁たい。』 と、

ゆっくり胸ポケットから時計を取り出した。

「国が変わり、立場が変わっても、この時計だけは私の腕にありました。」

「苦しい時も、嬉しい時も、この時計を見るたびに、明さんの言葉を思い出しました。」

と、父から譲り受けたという時計を、ゆっくり弥生の手に渡した。

大統領が胸ポケットから取り出した時計を見た瞬間、私は息を呑んだ。


ガラスに走る一本の傷。

擦り切れた革のベルト。

間違えるはずがなかった。

父がいつも腕につけていた、あの時計だった。


それが、今は一国の大統領が持っているとは、思いもしない出来事だった。

弥生は目元を潤ませ、呟いた。

「父さん......」


そして弥生は、そっと首を振った。

「......それは、あなたが持っていてください。」

その時計を大統領の手に返した。


大統領は、手のひらに置かれた時計を見つめ、

「この時計は、私と明さんを繋ぐ宝物です。」 と呟いた。



時計をはじめ、私が一切知らなかった......無口な父のもう一つの顔。

大統領は約1時間にもわたって、父と過ごしたかけがえのない日々を、愛おしそうに、切々と私に話し続けた。


そして、アズムンは内ポケットから白い封筒を取り出した。

「これは、今年の九月に、明さんへお渡しするつもりだったものです。」

「毎年、明さんへ送っていました。」

弥生は驚く。

「......これは?」

アズムンは静かに頷く。

「私の国は、キバルといいます。」

「熊本の言葉の『気張る』に、少し似ています。」

「明さんは、私に何度も言いました。」

「『気張れ。頑張り過ぎんでよか。気張れ』と。」

「その言葉は、今も私を、そして私の国を支えています。」


「......そして、私は、今日、父の墓参りができました。」

大統領はそう言って微笑み、深い礼をして、

再び黒塗りの車に乗って熊本空港へと去っていった。


嵐のような1時間が過ぎ、静まり返った部屋で、私はすべての謎が解けた安心感と、娘の私さえ知らない人生があった父への、誇らしさで胸がいっぱいになっていた。




私はすぐに、大阪に住む愛華に電話をかけた。

事の一部始終を、一気にまくし立てるように伝えた。


『......すごいやん、じいちゃん』

電話の向こうで、愛華の声が震えていた。

『闇バイトとか疑ってごめん......やっぱり、私のじいちゃんは尊敬できる人だった。』

『本当に自慢のじいちゃんやわ〜』


『で、他に遺産は無かったと?』

「さぁどうかしら......」

『そこは無かった。って言わなんたい!』

嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに語る娘・愛華の声を聞きながら、私も涙を拭った。

「じゃあ、またね」と電話を切る。


すっかり夕方を過ぎ、簡単な食事を済ませた私は、もう一度仏壇の前へと歩み寄った。

アズムン大統領から手渡された古びた写真を、父の遺影の隣にそっと立てかける。そして、あの茶色く変色した数冊の通帳を、その前に綺麗に並べた。


「安心して。今年の分も、ちゃんと赤十字へ届けるけん......」

父がそうしてきたように、今年のこの100万円も、誰かの命を救うために赤十字へと繋いでいく。

それが、父の遺志なのだから。


私は遺影に向かってしっかりと両手を合わせ、深く一礼した。

張り詰めていた心の糸が、心地よく解けていくのを感じる。


仏壇の前から立ち上がると、私は自分の肩をトントンと叩いた。


ふと窓の外を見ると、庭の柿の木が静かに揺れていた。

「お父さん......よかったね。」

遺影の隣には、若き日の大統領の写真。

その前には、三十年の感謝が刻まれた数冊の通帳。

線香の煙だけが、国を越えて結ばれた二人を繋ぐように、ゆっくりと天井へ昇っていった。



同日 夜 熊本空港。

アズムン大統領は、胸ポケットから古びた銀色の腕時計を取り出した。

ガラスには一本の細い傷。

擦り切れた革のベルト。

静かに腕へとはめる。

そして、ロビーの壁に掛けられた時計へ目を向けた。

竜頭を回し、秒針をゆっくりと合わせる。

カチッ。

再び時を刻み始めた腕時計を見つめ、大統領は小さく微笑んだ。

「......また来ます。」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

そして搭乗口へ向かい、ゆっくりとゲートの向こうへ消えていった。

その頃――。

弥生は、静まり返った実家で後片付けをしていた。

ふと手を止め、窓の外を見上げる。

高く澄んだ夜空。

その中を、一機の飛行機がゆっくりと横切っていく。

白い飛行機雲だけを残して、やがて小さな点になり、空の彼方へ消えていった。

弥生は、しばらくその空を見上げていた。


――半年後。

春の彼岸。

弥生と愛華は、花を抱えて墓地を訪れていた。

墓石の前にしゃがみ込み、二人で静かに手を合わせる。

弥生はポケットから小さなマッチ箱を取り出した。

一本抜き取り、側面で静かに擦る。

シュッ――。

橙色の火が小さく揺れ、線香の先へと移っていく。

白い煙が、ゆっくりと春の空へ昇り始めた。


「......私も、もう少し気張るかぁ。」

愛華が、煙を見つめたまま言った。

弥生は、ふっと笑った。

風が吹いた。

白い煙が、空へ、空へと昇っていく。

どこまでも続く、青い空へ――。



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