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第四十六話 背中


「先生!」

 ロイ様の大きな声が、夜の中にひびきました。

 わたくしは、びくっとしました。

 何が起きたのか、すぐには分かりませんでした。前を歩いていたロイ様が、急に大きな声を出したのです。誰かに呼ばれた声ではありません。何かを見つけた声でした。

 けれど、ヴァン様はすぐに止まりました。

 わたくしの手を引いて、テントの影へ寄せます。動きはしずかで、速くて、少しもまよいがありませんでした。

 ロイ様は、こちらを見ませんでした。

 ヴァン様にも、わたくしにも、目を向けませんでした。

 ただ、背中だけをこちらに向けていました。

 その背中が、言っているようでした。

 止まれ。

 隠れろ。

 あとは、僕がやる。

 その時になって、わたくしにも分かりました。

 ロイ様の前に、誰かがいます。

 先生です。

 たぶん、ジークハルト先生です。

 ロイ様の声は、先生を呼ぶ声であり、わたくし達への合図でもあったのです。

「あちらにダイア・ウルフがいるかも知れないので、確認に出ました」

 ロイ様の声が聞こえました。

「ダイア・ウルフだと?」

 低い声でした。

 やはり、ジークハルト先生です。

「はい。ウォールが、向こうで音がしたと言っていました。フェルトンも一緒に確認へ向かっています」

「なに?」

 ジークハルト先生の声が、少し変わりました。

「案内しろ」

「はい!」

 ロイ様は、すぐに答えました。

 そして、先生を連れて、わたくし達とは別の方へ歩いていきました。

 ロイ様の背中が、夜の中へ遠ざかっていきます。

 振り返りません。

 大丈夫とも、行けとも、言いません。

 でも、その背中は、ちゃんと言っていました。

 今のうちに行け。

 わたくしは、その背中を見つめていました。

 ロイ様とヴァン様は、何の打ち合わせもしていないはずです。それなのに、見つかった瞬間に、すぐに役目を分けました。ロイ様は先生を連れていく。ヴァン様はわたくしを連れて進む。

 言葉がなくても、分かり合える。

 まよわずに、動ける。まるで、マナ姉様と、マギ兄様みたいです。

 それが、少しだけ、うらやましいと思いました。

「行く」

 ヴァン様が言いました。

「はい」

 わたくしは、小さく答えました。

 けれど、すぐに分かりました。

 わたくしの足では、間に合いません。

 少しなら歩けます。でも、夜の森を、みなさまのところまで急いで進むことはできません。走ることなど、できるはずがありません。

 ヴァン様は、置いてある籠を見ました。

 わたくしも、籠を見ました。

 ここまで、ヴァン様とロイ様が運んでくださった籠です。わたくしのために作ってくださった、大切な籠です。でも、それは二人で持つ必要があるのに、ロイ様はいません。

 ここから先、それを持っていくのは無理なのだと分かりました。

「籠は置く」

 ヴァン様が言いました。

 わたくしは、少しだけ息をのみました。

 籠がなければ、わたくしは長く歩けません。

 でも、持ち手がいなければ、籠で先へ進めません。

 ヴァン様は、わたくしの前で少し身を低くしました。

「背負う」

「......え」

「その方が早い」

 わたくしは、すぐには返事ができませんでした。

 背負っていただく。

 それは、いちばん早い方法です。

 きっと、そうです。

 でも、少しだけ、はずかしいと思いました。

 わたくしは、女の子です。

 男の子の背中にしがみつくなんて、そんなことをしてよいのでしょうか。ヴァン様は、護衛でも、侍女でも、騎士でもありません。わたくしと二つしか違わない、男の子です。

 ヴァン様は、急かしませんでした。

 ただ、しずかに言いました。

「レオナが決めて」

 わたくしは、はっとしました。

 わたくしが、決める。

 そうでした。

 わたくしが、行きたいと言ったのです。

 湖へ行きたい。白く光る湖を見たい。

 みなさまと一緒にいたい。

 そう思ったのは、わたくしです。

 ミコト様が、他のみんなが、湖で待っているはずです。

 なら、わたくしが決めてよいのです。

 こんな当たり前のことを、わたくしは少しだけ忘れていました。

「お願いします」

 わたくしは、そう言いました。

 声は小さかったけれど、ちゃんと言えました。

 ヴァン様は、うなずきました。

「腕、首に」

「はい」

「苦しくしないで」

「はい」

 わたくしは、ヴァン様の背中におぶさりました。

 腕を首に回します。

 落ちないように、しっかりつかまります。

 少し、はずかしいです。

 でも、それよりも、落ちてはいけないと思いました。わたくしが落ちれば、ヴァン様の足を止めてしまいます。みなさまの作戦を、だいなしにしてしまいます。

「行く」

「はい」

 ヴァン様は走り出しました。

 夜の森が、流れていきました。

 わたくしは、今まで走ったことがありません。

 少なくとも、自分の足で、風を切るほど速く走ったことはありません。馬に乗ったこともありません。馬車には乗ったことがあります。もっと速い皇國鉄道ライヒスバーンにも、何度も乗ったことがあります。

 けれど、これは違いました。

 馬車とも、皇國鉄道とも、ぜんぜん違いました。

 わたくしは、しっかりつかまっていなければなりません。手をはなせば、落ちてしまいます。体をかたむけすぎれば、ヴァン様のじゃまになります。

 足もとから、土をける音がしました。

 枝が近くをかすめました。

 夜の風が、ほほに当たりました。

 これは、運ばれているだけではありませんでした。

 自分の足ではないのに、自分も一緒に走っているみたいでした。

 こわいです。

 でも、胸がどきどきします。

 少しだけ、楽しいです。

 ヴァン様は、まよいませんでした。

 まっくらな森の中なのに、どちらへ進めばいいのか、分かっているみたいでした。

 木の根元に、小さな光が見えました。

 夜光苔です。

 ハリエット様が置いてくださった目印でした。

 一つ。

 また一つ。

 岩のそばに一つ。

 曲がるところに一つ。

 小さな光です。強い光ではありません。でも、その光があるだけで、森の夜道は、ただの暗やみではなくなりました。

 ハリエット様が、ここにいる。

 そう思えました。

 ハリエット様は、この場にはいません。でも、あの方が置いてくださった光が、わたくし達をみちびいてくれています。

 こっちです。

 まよわなくていいです。

 そう言ってくれているようでした。

 わたくしは、少し安心しました。

 道は少しずつ登り坂へと変わっていきます。

 ヴァン様の背中に、もう少し強くつかまりました。

 ヴァン様の背中は、大きかったです。

 わたくしと二つしか違わない、子供の背中です。大人の騎士の背中ではありません。ドルガンみたいな、くまのように大きな背中でもありません。

 それなのに、とても大きく感じました。

 とても、たよりになる背中でした。

 背中。

 わたくしは、いくつかの背中を思い出しました。

 お父様の背中も、大きかったです。

 先代皇帝であったお父様。

 戦場へ行き、そのまま帰って来なかった方。

 わたくしの中にあるお父様は、いつも少し遠くにいました。近くにいるのに、遠い背中でした。

 わたくしが生まれてすぐ、母様は亡くなりました。

 だから、お父様にとって、わたくしは母様をうばった子だったのかもしれません。生まれて来てはいけなかった子だったのかもしれません。

 そう言われたわけではありません。

 でも、小さいわたくしにも、分かりました。

 抱き上げられることが、あまりなかったこと。

 名前を呼ぶ声が、いつも少しかたかったこと。

 わたくしを見る目が、わたくしではない誰かを見ているようだったこと。

 そして、すぐに背中を向けてしまうこと。

 お父様の背中は、大きかったです。

 でも、遠かったです。

 ヴァン様の足が、地面を強く蹴りました。

 わたくしの腕に、少し力が入りました。
 
 それから、ヴェナリスお兄様。

 今の皇帝であるお兄様。

 すごく年のはなれたお兄様は、わたくしが病気だと聞いて、一度だけ見舞いに来ました。

 大きな部屋でした。

 とても静かでした。

 侍医達は、みんな下を向いていました。

 寝台の上から見上げたお兄様の目は、冷たかったです。

 不治の病だと知った時、お兄様は言いました。

『弱者は皇族に不要だ』

 その言葉を、わたくしは覚えています。

 お兄様は、その時、わたくしへの興味をなくしました。

 そして、背中を向けました。

 遠ざかっていく背中。

 あれは、わたくしの家族ではありません。

 わたくしは、そう思ってしまいました。
 
 でも、わたくしには家族がいます。

 お爺様がいます。

 お爺様は、わたくしの無理を聞いてくださいました。学院に通わせてくださいました。ドルガンとチャミーをつけて、わたくしが少しでも安全に過ごせるようにしてくださいました。

 そのおかげで、わたくしは学院に来られました。

 みなさまに会えました。

 こうして、林間学校にも来られました。

 ヴァン様。

 ミコト様。

 ハリエット様。

 ハリス様。

 オーレリア様。

 ロイ様。

 それから、わたくしの騎士になると言ってくださったローティ様。

 ルナさんもいます。

 みなさまと、おそろいのマスコットを持っています。

 小さなものです。

 でも、とても大切なものです。

 あれを見た時、わたくしは、とてもうれしかったです。とても楽しかったです。

 わたくしは、ただ守られているだけの病人ではなくて、みなさまの輪の中に入れてもらえたのだと思いました。

 でも。

 大公領主として、城の執務室に、一人で座っているお爺様の背中は、いつもさみしそうでした。

 苦しそうでした。

 お爺様は、わたくしにやさしいです。

 でも、そのやさしさの奥に、痛みがあることも分かります。わたくしのことで、思いなやませているのだと分かります。

 助けたい。

 でも、助けられない。

 その苦しみを、お爺様はずっと背負ってくださっています。

 わたくしは、それがうれしくて。

 そして、つらいです。

 マナ姉様とマギ兄様も、そうです。

 お二人は、ぜったいにわたくしの治療法を見つけると言ってくださいました。

 本に向かうマナ姉様の背中。

 研究に没頭するマギ兄様の背中。
 
 わたくしのために、がんばってくださっています。

 やさしいお二人です。

 わたくしは、お二人が大好きです。

 大好きな家族です。

 でも、あの二人の人生を、わたくしのために使わせたくはありません。

 わたくしが病気でなければ、あの二人は、もっと自由にふるまえるはずです。

 もっと好きなことをして。

 もっと遠くへ行って。

 もっと笑っていられるはずです。

 わたくしの命は、たくさんの人の背中に乗っています。

 お爺様の背中。

 マナ姉様とマギ兄様の背中。

 ドルガンの背中。

 チャミーの背中。

 そして今、ヴァン様の背中。

 どうして、わたくしは、こんなに重いのでしょう。

 こんなに軽い体なのに。

 わたくしは、みんなにとって、おもりでしかない。

 そう思ったら、目の奥が熱くなりました。

 夜の風が、ほほに当たります。

 小川の上流、水のせせらぎも聞こえます。

 その瞬間、ヴァン様の背中が、ほんの少し沈みました。
 
 走り方が変わります。
 
 わたくしを落とさないように、支え直したのだと分かりました。

「力、抜けてる」

 ヴァン様の声がしました。

「すみません。大丈夫です」

「泣いてる」

 わたくし、泣いていたようです。

「いえ、大丈夫です」

 そう答えました。

 でも、ヴァン様はしばらく何も言いませんでした。

 ぜったい大丈夫じゃないって、ばれている気がします。

「そうか」

 でも、ヴァン様は、そう言ってくれました。

 それから、少し間がありました。

 じっと何か考えているようでした。

 ぽつりと、ヴァン様は言いました。

「くまの騎士」

 わたくしは、瞬きをしました。

「チャミー」

 ヴァン様は、前を向いたまま言いました。

「マギ、マナ」

 夜光苔の光が、また一つ、また一つと、足もとを過ぎていきます。

「ミコト、ハリエット、オーレリア、ハリス、ロイ、ローティ」

 ひとり、ひとり、その人たちの顔が、思い浮かびます。

「ルナも」

 ヴァン様の言葉は、いつも短いです。

「レオナは、大丈夫」

 本当に短いです。でも。

「みんなが、いる」

 でも、なぜか、とても胸の奥に届きました。

 わたくしは、ヴァン様の肩に、もう少し強くつかまりました。

「ヴァン様もいます」

 ヴァン様は、少しだけ黙りました。

「そうか。おれも、いた」

「はい、ヴァン様もいました」

「ヴァンでいい」

「そうなのですか?」

 その時でした。

 ヴァン様の足が、大きな石を踏みました。

 その石がゆれ、足場が大きく崩れました。

「しくった」

 ヴァン様の声が、いつもより少し近く聞こえました。

 体が、ふわりと浮きました。

 地面が消えました。

 夜の森も、夜光苔の光も、ヴァン様の背中も、月の光も、ぜんぶ一度にひっくり返りました。

 わたくし達は、崖の外へ投げ出されていました。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第四十六話 背中


「先生!」

 ロイ様の大きな声が、夜の中にひびきました。

 わたくしは、びくっとしました。

 何が起きたのか、すぐには分かりませんでした。前を歩いていたロイ様が、急に大きな声を出したのです。誰かに呼ばれた声ではありません。何かを見つけた声でした。

 けれど、ヴァン様はすぐに止まりました。

 わたくしの手を引いて、テントの影へ寄せます。動きはしずかで、速くて、少しもまよいがありませんでした。

 ロイ様は、こちらを見ませんでした。

 ヴァン様にも、わたくしにも、目を向けませんでした。

 ただ、背中だけをこちらに向けていました。

 その背中が、言っているようでした。

 止まれ。

 隠れろ。

 あとは、僕がやる。

 その時になって、わたくしにも分かりました。

 ロイ様の前に、誰かがいます。

 先生です。

 たぶん、ジークハルト先生です。

 ロイ様の声は、先生を呼ぶ声であり、わたくし達への合図でもあったのです。

「あちらにダイア・ウルフがいるかも知れないので、確認に出ました」

 ロイ様の声が聞こえました。

「ダイア・ウルフだと?」

 低い声でした。

 やはり、ジークハルト先生です。

「はい。ウォールが、向こうで音がしたと言っていました。フェルトンも一緒に確認へ向かっています」

「なに?」

 ジークハルト先生の声が、少し変わりました。

「案内しろ」

「はい!」

 ロイ様は、すぐに答えました。

 そして、先生を連れて、わたくし達とは別の方へ歩いていきました。

 ロイ様の背中が、夜の中へ遠ざかっていきます。

 振り返りません。

 大丈夫とも、行けとも、言いません。

 でも、その背中は、ちゃんと言っていました。

 今のうちに行け。

 わたくしは、その背中を見つめていました。

 ロイ様とヴァン様は、何の打ち合わせもしていないはずです。それなのに、見つかった瞬間に、すぐに役目を分けました。ロイ様は先生を連れていく。ヴァン様はわたくしを連れて進む。

 言葉がなくても、分かり合える。

 まよわずに、動ける。まるで、マナ姉様と、マギ兄様みたいです。

 それが、少しだけ、うらやましいと思いました。

「行く」

 ヴァン様が言いました。

「はい」

 わたくしは、小さく答えました。

 けれど、すぐに分かりました。

 わたくしの足では、間に合いません。

 少しなら歩けます。でも、夜の森を、みなさまのところまで急いで進むことはできません。走ることなど、できるはずがありません。

 ヴァン様は、置いてある籠を見ました。

 わたくしも、籠を見ました。

 ここまで、ヴァン様とロイ様が運んでくださった籠です。わたくしのために作ってくださった、大切な籠です。でも、それは二人で持つ必要があるのに、ロイ様はいません。

 ここから先、それを持っていくのは無理なのだと分かりました。

「籠は置く」

 ヴァン様が言いました。

 わたくしは、少しだけ息をのみました。

 籠がなければ、わたくしは長く歩けません。

 でも、持ち手がいなければ、籠で先へ進めません。

 ヴァン様は、わたくしの前で少し身を低くしました。

「背負う」

「......え」

「その方が早い」

 わたくしは、すぐには返事ができませんでした。

 背負っていただく。

 それは、いちばん早い方法です。

 きっと、そうです。

 でも、少しだけ、はずかしいと思いました。

 わたくしは、女の子です。

 男の子の背中にしがみつくなんて、そんなことをしてよいのでしょうか。ヴァン様は、護衛でも、侍女でも、騎士でもありません。わたくしと二つしか違わない、男の子です。

 ヴァン様は、急かしませんでした。

 ただ、しずかに言いました。

「レオナが決めて」

 わたくしは、はっとしました。

 わたくしが、決める。

 そうでした。

 わたくしが、行きたいと言ったのです。

 湖へ行きたい。白く光る湖を見たい。

 みなさまと一緒にいたい。

 そう思ったのは、わたくしです。

 ミコト様が、他のみんなが、湖で待っているはずです。

 なら、わたくしが決めてよいのです。

 こんな当たり前のことを、わたくしは少しだけ忘れていました。

「お願いします」

 わたくしは、そう言いました。

 声は小さかったけれど、ちゃんと言えました。

 ヴァン様は、うなずきました。

「腕、首に」

「はい」

「苦しくしないで」

「はい」

 わたくしは、ヴァン様の背中におぶさりました。

 腕を首に回します。

 落ちないように、しっかりつかまります。

 少し、はずかしいです。

 でも、それよりも、落ちてはいけないと思いました。わたくしが落ちれば、ヴァン様の足を止めてしまいます。みなさまの作戦を、だいなしにしてしまいます。

「行く」

「はい」

 ヴァン様は走り出しました。

 夜の森が、流れていきました。

 わたくしは、今まで走ったことがありません。

 少なくとも、自分の足で、風を切るほど速く走ったことはありません。馬に乗ったこともありません。馬車には乗ったことがあります。もっと速い皇國鉄道ライヒスバーンにも、何度も乗ったことがあります。

 けれど、これは違いました。

 馬車とも、皇國鉄道とも、ぜんぜん違いました。

 わたくしは、しっかりつかまっていなければなりません。手をはなせば、落ちてしまいます。体をかたむけすぎれば、ヴァン様のじゃまになります。

 足もとから、土をける音がしました。

 枝が近くをかすめました。

 夜の風が、ほほに当たりました。

 これは、運ばれているだけではありませんでした。

 自分の足ではないのに、自分も一緒に走っているみたいでした。

 こわいです。

 でも、胸がどきどきします。

 少しだけ、楽しいです。

 ヴァン様は、まよいませんでした。

 まっくらな森の中なのに、どちらへ進めばいいのか、分かっているみたいでした。

 木の根元に、小さな光が見えました。

 夜光苔です。

 ハリエット様が置いてくださった目印でした。

 一つ。

 また一つ。

 岩のそばに一つ。

 曲がるところに一つ。

 小さな光です。強い光ではありません。でも、その光があるだけで、森の夜道は、ただの暗やみではなくなりました。

 ハリエット様が、ここにいる。

 そう思えました。

 ハリエット様は、この場にはいません。でも、あの方が置いてくださった光が、わたくし達をみちびいてくれています。

 こっちです。

 まよわなくていいです。

 そう言ってくれているようでした。

 わたくしは、少し安心しました。

 道は少しずつ登り坂へと変わっていきます。

 ヴァン様の背中に、もう少し強くつかまりました。

 ヴァン様の背中は、大きかったです。

 わたくしと二つしか違わない、子供の背中です。大人の騎士の背中ではありません。ドルガンみたいな、くまのように大きな背中でもありません。

 それなのに、とても大きく感じました。

 とても、たよりになる背中でした。

 背中。

 わたくしは、いくつかの背中を思い出しました。

 お父様の背中も、大きかったです。

 先代皇帝であったお父様。

 戦場へ行き、そのまま帰って来なかった方。

 わたくしの中にあるお父様は、いつも少し遠くにいました。近くにいるのに、遠い背中でした。

 わたくしが生まれてすぐ、母様は亡くなりました。

 だから、お父様にとって、わたくしは母様をうばった子だったのかもしれません。生まれて来てはいけなかった子だったのかもしれません。

 そう言われたわけではありません。

 でも、小さいわたくしにも、分かりました。

 抱き上げられることが、あまりなかったこと。

 名前を呼ぶ声が、いつも少しかたかったこと。

 わたくしを見る目が、わたくしではない誰かを見ているようだったこと。

 そして、すぐに背中を向けてしまうこと。

 お父様の背中は、大きかったです。

 でも、遠かったです。

 ヴァン様の足が、地面を強く蹴りました。

 わたくしの腕に、少し力が入りました。
 
 それから、ヴェナリスお兄様。

 今の皇帝であるお兄様。

 すごく年のはなれたお兄様は、わたくしが病気だと聞いて、一度だけ見舞いに来ました。

 大きな部屋でした。

 とても静かでした。

 侍医達は、みんな下を向いていました。

 寝台の上から見上げたお兄様の目は、冷たかったです。

 不治の病だと知った時、お兄様は言いました。

『弱者は皇族に不要だ』

 その言葉を、わたくしは覚えています。

 お兄様は、その時、わたくしへの興味をなくしました。

 そして、背中を向けました。

 遠ざかっていく背中。

 あれは、わたくしの家族ではありません。

 わたくしは、そう思ってしまいました。
 
 でも、わたくしには家族がいます。

 お爺様がいます。

 お爺様は、わたくしの無理を聞いてくださいました。学院に通わせてくださいました。ドルガンとチャミーをつけて、わたくしが少しでも安全に過ごせるようにしてくださいました。

 そのおかげで、わたくしは学院に来られました。

 みなさまに会えました。

 こうして、林間学校にも来られました。

 ヴァン様。

 ミコト様。

 ハリエット様。

 ハリス様。

 オーレリア様。

 ロイ様。

 それから、わたくしの騎士になると言ってくださったローティ様。

 ルナさんもいます。

 みなさまと、おそろいのマスコットを持っています。

 小さなものです。

 でも、とても大切なものです。

 あれを見た時、わたくしは、とてもうれしかったです。とても楽しかったです。

 わたくしは、ただ守られているだけの病人ではなくて、みなさまの輪の中に入れてもらえたのだと思いました。

 でも。

 大公領主として、城の執務室に、一人で座っているお爺様の背中は、いつもさみしそうでした。

 苦しそうでした。

 お爺様は、わたくしにやさしいです。

 でも、そのやさしさの奥に、痛みがあることも分かります。わたくしのことで、思いなやませているのだと分かります。

 助けたい。

 でも、助けられない。

 その苦しみを、お爺様はずっと背負ってくださっています。

 わたくしは、それがうれしくて。

 そして、つらいです。

 マナ姉様とマギ兄様も、そうです。

 お二人は、ぜったいにわたくしの治療法を見つけると言ってくださいました。

 本に向かうマナ姉様の背中。

 研究に没頭するマギ兄様の背中。
 
 わたくしのために、がんばってくださっています。

 やさしいお二人です。

 わたくしは、お二人が大好きです。

 大好きな家族です。

 でも、あの二人の人生を、わたくしのために使わせたくはありません。

 わたくしが病気でなければ、あの二人は、もっと自由にふるまえるはずです。

 もっと好きなことをして。

 もっと遠くへ行って。

 もっと笑っていられるはずです。

 わたくしの命は、たくさんの人の背中に乗っています。

 お爺様の背中。

 マナ姉様とマギ兄様の背中。

 ドルガンの背中。

 チャミーの背中。

 そして今、ヴァン様の背中。

 どうして、わたくしは、こんなに重いのでしょう。

 こんなに軽い体なのに。

 わたくしは、みんなにとって、おもりでしかない。

 そう思ったら、目の奥が熱くなりました。

 夜の風が、ほほに当たります。

 小川の上流、水のせせらぎも聞こえます。

 その瞬間、ヴァン様の背中が、ほんの少し沈みました。
 
 走り方が変わります。
 
 わたくしを落とさないように、支え直したのだと分かりました。

「力、抜けてる」

 ヴァン様の声がしました。

「すみません。大丈夫です」

「泣いてる」

 わたくし、泣いていたようです。

「いえ、大丈夫です」

 そう答えました。

 でも、ヴァン様はしばらく何も言いませんでした。

 ぜったい大丈夫じゃないって、ばれている気がします。

「そうか」

 でも、ヴァン様は、そう言ってくれました。

 それから、少し間がありました。

 じっと何か考えているようでした。

 ぽつりと、ヴァン様は言いました。

「くまの騎士」

 わたくしは、瞬きをしました。

「チャミー」

 ヴァン様は、前を向いたまま言いました。

「マギ、マナ」

 夜光苔の光が、また一つ、また一つと、足もとを過ぎていきます。

「ミコト、ハリエット、オーレリア、ハリス、ロイ、ローティ」

 ひとり、ひとり、その人たちの顔が、思い浮かびます。

「ルナも」

 ヴァン様の言葉は、いつも短いです。

「レオナは、大丈夫」

 本当に短いです。でも。

「みんなが、いる」

 でも、なぜか、とても胸の奥に届きました。

 わたくしは、ヴァン様の肩に、もう少し強くつかまりました。

「ヴァン様もいます」

 ヴァン様は、少しだけ黙りました。

「そうか。おれも、いた」

「はい、ヴァン様もいました」

「ヴァンでいい」

「そうなのですか?」

 その時でした。

 ヴァン様の足が、大きな石を踏みました。

 その石がゆれ、足場が大きく崩れました。

「しくった」

 ヴァン様の声が、いつもより少し近く聞こえました。

 体が、ふわりと浮きました。

 地面が消えました。

 夜の森も、夜光苔の光も、ヴァン様の背中も、月の光も、ぜんぶ一度にひっくり返りました。

 わたくし達は、崖の外へ投げ出されていました。
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