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第二十話 始まり



───カァァンッ!


 ヴァンの手から木剣が弾き飛んだ。

 土の上を転がり、少し離れたところで止まる。

 手のひらが熱い。

 指の奥がじんじんしている。

 ヴァンは自分の手を見て、それから前を見た。

 じいちゃんが立っていた。

 大きな身体だった。腕も、肩も、胸も、ぜんぶ大きい。袖の下で筋が動くたび、太い縄が皮膚の下を走っているように見えた。薪を山ほど抱えても、川で濡れた丸太を担いでも、じいちゃんは重そうな顔をしない。

 そのじいちゃんが、木剣を片手に持っている。

 怒っていない。

 笑ってもいない。

「拾え」

 じいちゃんが言った。

 ヴァンは木剣を見た。

 それから、もう一度、自分の手を見た。

「いたい」

「そうじゃな」

「いたい」

「そうじゃ」

 じいちゃんは手を差し出さなかった。

 まだ五歳の少年が、自力で立つまで、ただ待っている。

 ヴァンは唇を噛んだ。

 泣きそうだった。

 けれど、泣いたら負けたみたいで嫌だった。

 木剣のところまで歩き、両手で拾う。

「もう一回じゃ」

「......うん」

 じいちゃんみたいになる。

 だから、ヴァンは木剣を握った。

  *

 ヴァンが最初に覚えているじいちゃんは、いつも前にいる背中だった。

 山道を歩く時も、川へ下りる時も、森の中を進む時も、じいちゃんは前にいた。ヴァンはその後ろを、小さな足で追いかける。

 朝の山は光っていた。

 葉の先に水の粒がついていて、歩くたびにきらきら揺れる。濡れた土は少し甘いにおいがした。鳥の声は高く、遠くの川はまだ見えないのに、さらさらと音だけが先に聞こえてくる。

 じいちゃんは、その全部を知っていた。

「あの鳥はな、雨のあとによく鳴く」

「すげえ」

「あの雲が伸びる日は、昼から風が変わる」

「すげえ」

「川の音が高い時は、水が増えておる」

「すげえ」

 ヴァンには、ほとんど分からない。

 けれど、じいちゃんが指を向けると、ただの山も、川も、空も、急に何かを隠しているように見えた。

「転ぶぞ」

「ころばない」

 言ったすぐあとに、木の根につまずいた。

 じいちゃんの手が伸びる。地面に落ちる前に、ヴァンの身体はひょいと持ち上げられていた。

 片手だった。

 ヴァンが両手でしがみついても動かない腕で、じいちゃんは軽々と持ち上げる。

「転んだな」

「ころんでない」

「そうか」

 じいちゃんは笑って、ヴァンを肩へ乗せた。

 肩の上は高い。

 木の枝も、道の先も、遠くの湖も、いつもよりよく見える。朝の光が湖の上で細かく砕けて、銀の粉をまいたみたいにきらきらしていた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

「そうか」

 じいちゃんは、何でもできた。

 魚を釣る。

 火を起こす。

 獣の足跡を見つける。

 鳥の声を聞き分ける。

 雲の流れを見て、明日の天気も当てる。

 夜になれば、星を指して、あれは旅人の目印だとか、あれは昔の王の剣だとか、よく分からない話をしてくれた。

 ヴァンには、半分も分からなかった。

 それでも、じいちゃんの声を聞いているのは好きだった。

 ある朝、じいちゃんは細い竿を二本持ってきた。

「今日は釣りじゃ」

「つり」

「魚を釣る」

「さかな」

「食う」

「くう」

 ヴァンは頷いた。

 分かっていない顔で、しっかり頷いた。

 川辺は冷たかった。

 水は澄んでいて、石の間を小さな魚の影がすいと抜けていく。日の光が水の上で跳ね、川底の白い石がゆらゆら揺れている。ヴァンはそれを追いかけようとして、襟首を掴まれた。

「落ちる」

「おちない」

「落ちる前じゃ」

 じいちゃんはヴァンを平たい石に座らせ、竿の持ち方を教えた。

 糸を垂らす。

 待つ。

 水はきれいだった。風が吹くと、光が細かく割れる。魚の影が動くたびに、川の中の世界まで動いているように見えた。

 ヴァンはすぐに飽きた。

「まだ?」

「まだじゃ」

「まだ?」

「魚にも都合がある」

「さかな、こない」

「お前が騒ぐからじゃ」

 ヴァンは口を閉じた。

 すぐ開いた。

「きた?」

「まだじゃ」

 じいちゃんは声を立てずに笑った。

 やがて、竿の先が小さく震えた。

 じいちゃんの大きな手が、ヴァンの手に重なる。

「今じゃ」

 引いた。

 水面が跳ねる。

 銀色の魚が、光を散らして宙へ上がった。

「とれた」

「釣れたな」

「じいちゃん、すげえ」

「今のは、お前が釣った」

「おれ?」

「お前じゃ」

 魚は石の上で跳ねている。

 ヴァンは笑いかけて、少し止まった。

「これ、くうの?」

「食う」

「食うなら、殺す。殺したなら、食う」

 ヴァンは魚を見た。

 さっきまで水の中で光っていたものが、今は自分の前で跳ねている。

 昼には、その魚を焼いて食べた。

 塩だけだった。

 皮はぱりっとしていて、白い身から湯気が立った。熱くて、少し焦げていて、うまかった。

「うまいか」

「うまい」

「なら、覚えておけ」

「なにを?」

「それが、命をもらうということじゃ」

 ヴァンは、よく分からなかった。

 けれど、魚がうまかったことと、じいちゃんの声が静かだったことは覚えた。

 別の日には、狩りを見に行った。

 ヴァンは弓を持たなかった。

 剣も持たなかった。

 ただ、じいちゃんの後ろを歩いた。

「今日は見るだけじゃ」

「おれもやる」

「まだ早い」

「できる」

「歩く音がでかい」

「でかくない」

 ヴァンが一歩踏む。

 落ち葉が、ばり、と鳴った。

「でかい」

「......ちょっとだけだ」

「獣には十分じゃ」

 森の中で、じいちゃんの足音は消えた。

 あんなに大きな身体なのに、枝を踏まない。葉を鳴らさない。息も乱れない。肩は岩みたいに大きくて、腕は丸太みたいに太いのに、森の中では風みたいに静かだった。

 ヴァンは真似しようとして、できなかった。足を置けば音が出る。枝を避けようとすれば、別の枝に袖が引っかかる。

 じいちゃんは時々立ち止まり、ヴァンが追いつくのを待った。

 森の奥で、じいちゃんが手を上げた。

 ヴァンは止まった。

 木々の隙間に、光が落ちている。

 その中に、大きな角を持つ獣がいた。

 背中に朝の光を受け、毛並みが金色に見えた。ゆっくり草を噛み、耳だけを動かしている。

 ヴァンは声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。

 じいちゃんが弓を構えた。

 動きはゆっくりだった。

 けれど、いつ放ったのか、ヴァンには分からなかった。

 弦の音が鳴った時には、矢はもう飛んでいた。

 獣が倒れる。

 森が、音を取り戻す。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

「そうか」

 じいちゃんは獣の前に膝をついた。

 ぞんざいには扱わない。

 血のにおいがして、ヴァンはじいちゃんの袖を掴んだ。袖の下の腕は硬く、温かかった。

「こわいか」

「こわくない」

「そうか」

「......ちょっとだけ」

「そうか」

 大きな手が、ヴァンの頭に乗る。

「怖いと思えるなら、まだ大丈夫じゃ」

「こわいのに?」

「怖いものを怖いと分かるのは、大事じゃ」

 その夜、小屋の中、ヴァンは火のそばで眠った。

 火は赤く、ぱちぱちと小さな音を立てていた。肉の焼ける匂いがまだ残っている。外では虫が鳴き、草がこすれ、夜の山がゆっくり息をしていた。

 何かが鳴くたびに、ヴァンは布の中から顔を出す。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「いまの、なに?」

「狐じゃ」

「まもの?」

「違う」

 しばらくすると、また別の声が聞こえた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「いまのは?」

「梟じゃ」

「まもの?」

「違う」

 次に聞こえた音で、じいちゃんが起きた。

 それだけで、ヴァンも目を覚ました。

 家の外で、何かが動いている。

 獣とは違う。

 鳥でもない。

 地面を擦るような音と、濁った息。

「じいちゃん」

「動くな」

 じいちゃんの声は低かった。

 怒った声ではない。

 でも、いつもの声とも違う。

 壁際に置いていた剣を取る。鞘が火を受けて、鈍く光った。

 ヴァンは、その時初めて、剣を怖いものだと思った。

 じいちゃんが小屋の外へ出る。闇から、魔物が飛び込んできた。

 爪が見えた。

 牙が見えた。

 濁った目が、火の明かりを弾いた。

 次の瞬間、じいちゃんは魔物とヴァンの間にいた。

 剣が光る。

 音が一つ。

 魔物は倒れていた。

 ヴァンは息を忘れた。

 火がはぜる。

 血のにおいがする。

 じいちゃんは、ゆっくりと剣を下ろした。

「怪我はないか」

 ヴァンは答えられなかった。

「ヴァン」

「......ない」

「そうか」

 じいちゃんは頷いた。

 それだけだった。

 魔物を倒したことを誇らない。

 怖がったことを笑わない。

 ただ、ヴァンが無事かどうかだけを確かめた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

 声が震えた。

 じいちゃんは少しだけ笑った。

「怖かったか」

「こわくない」

「そうか」

「......ちょっとだけ」

「そうか」

 その夜、ヴァンはなかなか眠れなかった。

 目を閉じると、魔物の目が浮かぶ。

 爪が浮かぶ。

 それから、じいちゃんの背中が浮かぶ。

 魔物と自分の間に立った背中。

 怖いものの前から、逃げなかった背中。

 朝になって、ヴァンは外へ出た。

 じいちゃんは、昨夜の剣を拭いていた。

 刃はもう鞘に収まっている。

 昨日の怖さは、そこにはなかった。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「おれも」

「うん」

「おれも、それやる」

 じいちゃんは手を止めた。

「これか、剣か」

「けん」

「どうしてじゃ」

「じいちゃんみたいになる」

「じいちゃんみたいに?」

「うん」

 ヴァンは頷いた。

「まものがきても、まえに立つ」

 じいちゃんは、しばらく黙っていた。

 鳥が鳴く。

 朝の空気は冷たく、吐く息が白かった。

「剣は、格好をつけるためのものではない」

「うん」

「強く見せるためのものでもない」

「うん」

「怖くないふりをするためのものでもない」

「......うん」

「それでも学ぶか」

「まなぶ」

「言われた通りにするか」

「する」

「そうか」

 じいちゃんは、持っていた剣を差し出した。

「持て」

 ヴァンは両手を出した。

 重かった。

 木でも、枝でもない。

 持った瞬間、腕が下がる。胸の奥まで、ずしんと何かが落ちた。

「それが剣じゃ」

「けん」

「人を殺せるものじゃ」

 ヴァンは剣を見た。

 急に、手の中のものが怖くなった。

 じいちゃんはすぐに取り上げなかった。

 ヴァンがその重さを覚えるまで、ただ見ていた。

 やがて、じいちゃんは剣を取り上げた。

「しばらくは、こっちじゃ」

 じいちゃんは、短い木の棒を渡した。

 木の棒なのに、さっきの剣の重さが手に残っていた。

「両手で持て」

「うん」

「足を開け」

「うん」

「腰を落とせ」

「うん」

 ヴァンは言われた通りにした。

 じいちゃんは何も言わずに、ヴァンの姿勢を直した。

 腹に触れ、顎を引かせ、背中を伸ばす。肩を下げ、肘の角度を変え、最後に小さな手の上から握りを確かめる。

 何を直されたのか、ヴァンには分からなかった。

 でも、その形のほうが、さっきより長く立っていられる気がした。

 両手で棒を持つ。

 足を開く。

 腰を落とす。

 それだけだった。

 振らない。

 歩かない。

 打たない。

 ただ、立つ。

 最初は平気だった。

 けれど、すぐに足がぷるぷるした。腕が重くなる。背中が痛い。息が苦しい。

「いつまで?」

「立て」

「けん、ふらないの?」

「立て」

「つまんない」

「立て」

 ヴァンは唇を尖らせた。

「もういい?」

「立て」

「なんで?」

「言われた通りにすると言うたな」

「......うん」

「なら、立て」

 ヴァンは立った。

 膝が震える。

 棒が下がる。

「放すな」

「うん」

「気絶しても放すな」

「うん」

 ヴァンは握った。

 手が痛い。

 腕が痛い。

 足が痛い。

 山の光も、川のきらきらも、鳥の声も、どこかへ行ってしまったみたいだった。

 あるのは、棒の重さと、足の痛さだけだった。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「もういい?」

「立て」

 また、立つ。

 日が少しずつ動く。

 影が伸びる。

 汗が頬を流れて、顎から落ちる。

 ヴァンは何度も棒を落としそうになった。

 そのたびに、じいちゃんの声が落ちた。

「放すな」

 ヴァンは握った。

 夕方になった。

 腕はもう上がらない。

 足も、どこが痛いのか分からない。

 息を吸うたびに、胸がぐしゃっとなる。

 涙が出た。

 止まらなかった。

「もうやだ」

 棒が震える。

「やりたくない......」

 ヴァンはその場に崩れた。

 土に膝がつく。

 両手の中で、棒だけは握っていた。

「もうやめたい」

 じいちゃんは、いつもみたいに言った。

「そうか」
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第二十話 始まり



───カァァンッ!


 ヴァンの手から木剣が弾き飛んだ。

 土の上を転がり、少し離れたところで止まる。

 手のひらが熱い。

 指の奥がじんじんしている。

 ヴァンは自分の手を見て、それから前を見た。

 じいちゃんが立っていた。

 大きな身体だった。腕も、肩も、胸も、ぜんぶ大きい。袖の下で筋が動くたび、太い縄が皮膚の下を走っているように見えた。薪を山ほど抱えても、川で濡れた丸太を担いでも、じいちゃんは重そうな顔をしない。

 そのじいちゃんが、木剣を片手に持っている。

 怒っていない。

 笑ってもいない。

「拾え」

 じいちゃんが言った。

 ヴァンは木剣を見た。

 それから、もう一度、自分の手を見た。

「いたい」

「そうじゃな」

「いたい」

「そうじゃ」

 じいちゃんは手を差し出さなかった。

 まだ五歳の少年が、自力で立つまで、ただ待っている。

 ヴァンは唇を噛んだ。

 泣きそうだった。

 けれど、泣いたら負けたみたいで嫌だった。

 木剣のところまで歩き、両手で拾う。

「もう一回じゃ」

「......うん」

 じいちゃんみたいになる。

 だから、ヴァンは木剣を握った。

  *

 ヴァンが最初に覚えているじいちゃんは、いつも前にいる背中だった。

 山道を歩く時も、川へ下りる時も、森の中を進む時も、じいちゃんは前にいた。ヴァンはその後ろを、小さな足で追いかける。

 朝の山は光っていた。

 葉の先に水の粒がついていて、歩くたびにきらきら揺れる。濡れた土は少し甘いにおいがした。鳥の声は高く、遠くの川はまだ見えないのに、さらさらと音だけが先に聞こえてくる。

 じいちゃんは、その全部を知っていた。

「あの鳥はな、雨のあとによく鳴く」

「すげえ」

「あの雲が伸びる日は、昼から風が変わる」

「すげえ」

「川の音が高い時は、水が増えておる」

「すげえ」

 ヴァンには、ほとんど分からない。

 けれど、じいちゃんが指を向けると、ただの山も、川も、空も、急に何かを隠しているように見えた。

「転ぶぞ」

「ころばない」

 言ったすぐあとに、木の根につまずいた。

 じいちゃんの手が伸びる。地面に落ちる前に、ヴァンの身体はひょいと持ち上げられていた。

 片手だった。

 ヴァンが両手でしがみついても動かない腕で、じいちゃんは軽々と持ち上げる。

「転んだな」

「ころんでない」

「そうか」

 じいちゃんは笑って、ヴァンを肩へ乗せた。

 肩の上は高い。

 木の枝も、道の先も、遠くの湖も、いつもよりよく見える。朝の光が湖の上で細かく砕けて、銀の粉をまいたみたいにきらきらしていた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

「そうか」

 じいちゃんは、何でもできた。

 魚を釣る。

 火を起こす。

 獣の足跡を見つける。

 鳥の声を聞き分ける。

 雲の流れを見て、明日の天気も当てる。

 夜になれば、星を指して、あれは旅人の目印だとか、あれは昔の王の剣だとか、よく分からない話をしてくれた。

 ヴァンには、半分も分からなかった。

 それでも、じいちゃんの声を聞いているのは好きだった。

 ある朝、じいちゃんは細い竿を二本持ってきた。

「今日は釣りじゃ」

「つり」

「魚を釣る」

「さかな」

「食う」

「くう」

 ヴァンは頷いた。

 分かっていない顔で、しっかり頷いた。

 川辺は冷たかった。

 水は澄んでいて、石の間を小さな魚の影がすいと抜けていく。日の光が水の上で跳ね、川底の白い石がゆらゆら揺れている。ヴァンはそれを追いかけようとして、襟首を掴まれた。

「落ちる」

「おちない」

「落ちる前じゃ」

 じいちゃんはヴァンを平たい石に座らせ、竿の持ち方を教えた。

 糸を垂らす。

 待つ。

 水はきれいだった。風が吹くと、光が細かく割れる。魚の影が動くたびに、川の中の世界まで動いているように見えた。

 ヴァンはすぐに飽きた。

「まだ?」

「まだじゃ」

「まだ?」

「魚にも都合がある」

「さかな、こない」

「お前が騒ぐからじゃ」

 ヴァンは口を閉じた。

 すぐ開いた。

「きた?」

「まだじゃ」

 じいちゃんは声を立てずに笑った。

 やがて、竿の先が小さく震えた。

 じいちゃんの大きな手が、ヴァンの手に重なる。

「今じゃ」

 引いた。

 水面が跳ねる。

 銀色の魚が、光を散らして宙へ上がった。

「とれた」

「釣れたな」

「じいちゃん、すげえ」

「今のは、お前が釣った」

「おれ?」

「お前じゃ」

 魚は石の上で跳ねている。

 ヴァンは笑いかけて、少し止まった。

「これ、くうの?」

「食う」

「食うなら、殺す。殺したなら、食う」

 ヴァンは魚を見た。

 さっきまで水の中で光っていたものが、今は自分の前で跳ねている。

 昼には、その魚を焼いて食べた。

 塩だけだった。

 皮はぱりっとしていて、白い身から湯気が立った。熱くて、少し焦げていて、うまかった。

「うまいか」

「うまい」

「なら、覚えておけ」

「なにを?」

「それが、命をもらうということじゃ」

 ヴァンは、よく分からなかった。

 けれど、魚がうまかったことと、じいちゃんの声が静かだったことは覚えた。

 別の日には、狩りを見に行った。

 ヴァンは弓を持たなかった。

 剣も持たなかった。

 ただ、じいちゃんの後ろを歩いた。

「今日は見るだけじゃ」

「おれもやる」

「まだ早い」

「できる」

「歩く音がでかい」

「でかくない」

 ヴァンが一歩踏む。

 落ち葉が、ばり、と鳴った。

「でかい」

「......ちょっとだけだ」

「獣には十分じゃ」

 森の中で、じいちゃんの足音は消えた。

 あんなに大きな身体なのに、枝を踏まない。葉を鳴らさない。息も乱れない。肩は岩みたいに大きくて、腕は丸太みたいに太いのに、森の中では風みたいに静かだった。

 ヴァンは真似しようとして、できなかった。足を置けば音が出る。枝を避けようとすれば、別の枝に袖が引っかかる。

 じいちゃんは時々立ち止まり、ヴァンが追いつくのを待った。

 森の奥で、じいちゃんが手を上げた。

 ヴァンは止まった。

 木々の隙間に、光が落ちている。

 その中に、大きな角を持つ獣がいた。

 背中に朝の光を受け、毛並みが金色に見えた。ゆっくり草を噛み、耳だけを動かしている。

 ヴァンは声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。

 じいちゃんが弓を構えた。

 動きはゆっくりだった。

 けれど、いつ放ったのか、ヴァンには分からなかった。

 弦の音が鳴った時には、矢はもう飛んでいた。

 獣が倒れる。

 森が、音を取り戻す。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

「そうか」

 じいちゃんは獣の前に膝をついた。

 ぞんざいには扱わない。

 血のにおいがして、ヴァンはじいちゃんの袖を掴んだ。袖の下の腕は硬く、温かかった。

「こわいか」

「こわくない」

「そうか」

「......ちょっとだけ」

「そうか」

 大きな手が、ヴァンの頭に乗る。

「怖いと思えるなら、まだ大丈夫じゃ」

「こわいのに?」

「怖いものを怖いと分かるのは、大事じゃ」

 その夜、小屋の中、ヴァンは火のそばで眠った。

 火は赤く、ぱちぱちと小さな音を立てていた。肉の焼ける匂いがまだ残っている。外では虫が鳴き、草がこすれ、夜の山がゆっくり息をしていた。

 何かが鳴くたびに、ヴァンは布の中から顔を出す。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「いまの、なに?」

「狐じゃ」

「まもの?」

「違う」

 しばらくすると、また別の声が聞こえた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「いまのは?」

「梟じゃ」

「まもの?」

「違う」

 次に聞こえた音で、じいちゃんが起きた。

 それだけで、ヴァンも目を覚ました。

 家の外で、何かが動いている。

 獣とは違う。

 鳥でもない。

 地面を擦るような音と、濁った息。

「じいちゃん」

「動くな」

 じいちゃんの声は低かった。

 怒った声ではない。

 でも、いつもの声とも違う。

 壁際に置いていた剣を取る。鞘が火を受けて、鈍く光った。

 ヴァンは、その時初めて、剣を怖いものだと思った。

 じいちゃんが小屋の外へ出る。闇から、魔物が飛び込んできた。

 爪が見えた。

 牙が見えた。

 濁った目が、火の明かりを弾いた。

 次の瞬間、じいちゃんは魔物とヴァンの間にいた。

 剣が光る。

 音が一つ。

 魔物は倒れていた。

 ヴァンは息を忘れた。

 火がはぜる。

 血のにおいがする。

 じいちゃんは、ゆっくりと剣を下ろした。

「怪我はないか」

 ヴァンは答えられなかった。

「ヴァン」

「......ない」

「そうか」

 じいちゃんは頷いた。

 それだけだった。

 魔物を倒したことを誇らない。

 怖がったことを笑わない。

 ただ、ヴァンが無事かどうかだけを確かめた。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「すげえ」

 声が震えた。

 じいちゃんは少しだけ笑った。

「怖かったか」

「こわくない」

「そうか」

「......ちょっとだけ」

「そうか」

 その夜、ヴァンはなかなか眠れなかった。

 目を閉じると、魔物の目が浮かぶ。

 爪が浮かぶ。

 それから、じいちゃんの背中が浮かぶ。

 魔物と自分の間に立った背中。

 怖いものの前から、逃げなかった背中。

 朝になって、ヴァンは外へ出た。

 じいちゃんは、昨夜の剣を拭いていた。

 刃はもう鞘に収まっている。

 昨日の怖さは、そこにはなかった。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「おれも」

「うん」

「おれも、それやる」

 じいちゃんは手を止めた。

「これか、剣か」

「けん」

「どうしてじゃ」

「じいちゃんみたいになる」

「じいちゃんみたいに?」

「うん」

 ヴァンは頷いた。

「まものがきても、まえに立つ」

 じいちゃんは、しばらく黙っていた。

 鳥が鳴く。

 朝の空気は冷たく、吐く息が白かった。

「剣は、格好をつけるためのものではない」

「うん」

「強く見せるためのものでもない」

「うん」

「怖くないふりをするためのものでもない」

「......うん」

「それでも学ぶか」

「まなぶ」

「言われた通りにするか」

「する」

「そうか」

 じいちゃんは、持っていた剣を差し出した。

「持て」

 ヴァンは両手を出した。

 重かった。

 木でも、枝でもない。

 持った瞬間、腕が下がる。胸の奥まで、ずしんと何かが落ちた。

「それが剣じゃ」

「けん」

「人を殺せるものじゃ」

 ヴァンは剣を見た。

 急に、手の中のものが怖くなった。

 じいちゃんはすぐに取り上げなかった。

 ヴァンがその重さを覚えるまで、ただ見ていた。

 やがて、じいちゃんは剣を取り上げた。

「しばらくは、こっちじゃ」

 じいちゃんは、短い木の棒を渡した。

 木の棒なのに、さっきの剣の重さが手に残っていた。

「両手で持て」

「うん」

「足を開け」

「うん」

「腰を落とせ」

「うん」

 ヴァンは言われた通りにした。

 じいちゃんは何も言わずに、ヴァンの姿勢を直した。

 腹に触れ、顎を引かせ、背中を伸ばす。肩を下げ、肘の角度を変え、最後に小さな手の上から握りを確かめる。

 何を直されたのか、ヴァンには分からなかった。

 でも、その形のほうが、さっきより長く立っていられる気がした。

 両手で棒を持つ。

 足を開く。

 腰を落とす。

 それだけだった。

 振らない。

 歩かない。

 打たない。

 ただ、立つ。

 最初は平気だった。

 けれど、すぐに足がぷるぷるした。腕が重くなる。背中が痛い。息が苦しい。

「いつまで?」

「立て」

「けん、ふらないの?」

「立て」

「つまんない」

「立て」

 ヴァンは唇を尖らせた。

「もういい?」

「立て」

「なんで?」

「言われた通りにすると言うたな」

「......うん」

「なら、立て」

 ヴァンは立った。

 膝が震える。

 棒が下がる。

「放すな」

「うん」

「気絶しても放すな」

「うん」

 ヴァンは握った。

 手が痛い。

 腕が痛い。

 足が痛い。

 山の光も、川のきらきらも、鳥の声も、どこかへ行ってしまったみたいだった。

 あるのは、棒の重さと、足の痛さだけだった。

「じいちゃん」

「なんじゃ」

「もういい?」

「立て」

 また、立つ。

 日が少しずつ動く。

 影が伸びる。

 汗が頬を流れて、顎から落ちる。

 ヴァンは何度も棒を落としそうになった。

 そのたびに、じいちゃんの声が落ちた。

「放すな」

 ヴァンは握った。

 夕方になった。

 腕はもう上がらない。

 足も、どこが痛いのか分からない。

 息を吸うたびに、胸がぐしゃっとなる。

 涙が出た。

 止まらなかった。

「もうやだ」

 棒が震える。

「やりたくない......」

 ヴァンはその場に崩れた。

 土に膝がつく。

 両手の中で、棒だけは握っていた。

「もうやめたい」

 じいちゃんは、いつもみたいに言った。

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