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第九話 月


 放課後の中庭は、少し静かだった。

 昼間の賑やかさが校舎の中へ引いて、風だけが残っている。

 ミコトは、石畳の端をゆっくり歩いていた。

 特に目的があったわけではない。
 教室に戻るには少し早く、寄宿区画へ行くには少しもったいない。

 そんな時間だった。

 中庭の隅で、黒い髪が見えた。

 ヴァンだった。

 植え込みの陰にしゃがみ、何かをしている。
 いつもの窓際の横顔とは違う。
 背中が、少しだけ忙しない。

 ミコトが足を止めると、ヴァンもこちらに気付いた。

 肩が、わずかに跳ねる。

 次の瞬間、彼は何事もなかったように背を向けた。

「ヴァンさん」

 ミコトは、とことこと近付いた。

「何をしてるんですか?」

「な、なんでもない」

 声が少しだけ上擦っていた。

 ミコトは首を傾げる。

「......特訓?」

「違う」

 即答だった。

 その時、植え込みの奥から、小さな声がした。

「みー」

 ヴァンの顔が固まった。

「こら。おまえは出て来るな」

 黒い小さなものが、葉の陰から顔を出した。

 ミコトの目が輝く。

「にゃんこ......!」

「声が大きい」

 ヴァンは低く言った。

 黒い子猫だった。

 まだ小さい。
 毛並みは少し乱れていて、身体も細い。
 けれど、こちらを見上げる目だけは妙に明るかった。

「誰にも言うなよ」

 ヴァンは、観念したように言った。

 ミコトはすぐに頷いた。

「はいっ。猫好きです」

「返事になってない」

「ヴァンさんも猫好きなんですか? 内緒で飼ってるんですか?」

「飼い猫じゃ、ない」

 ヴァンは子猫を見た。

「こいつは、自由だ」

 そう言ってから、少しだけ言葉を足す。

「でも、まだ弱いから、手助けしてる。......だけ」

 気恥ずかしそうに、ヴァンはそっぽを向いた。

 ミコトは子猫を見た。
 それから、ヴァンを見た。

「ヴァンさん。助けてあげたんですね」

 ヴァンの目元が、少しだけ動く。

「優しいですね」

「......や、優しくなんか」

「でも、隠してるんだから、そんなことだろうなって思ってました。はい。誰にも言いません」

 ヴァンは何か言い返そうとして、やめた。

「学院は、ペット禁止だ。校長に見つかると厄介なんだ」

「そうなんですね」

 ミコトは子猫の前にしゃがんだ。

「子猫、構ってもいいですか?」

 ヴァンはすぐには答えなかった。

 子猫を見る。

 そして、短く言った。

「......こいつが、いいって言うなら」

 ミコトは顔を上げる。

「決めるのは、こいつだ」

 子猫が首を傾げるように鳴いた。

「みー?」

 ミコトは、ぱっと顔を明るくした。

「わぁーい」

「まだ、いいとは言ってない」

「そうでした」

 ミコトは真面目に頷いた。

 その時、後ろから足音がした。

「ミコトさん?」

 ハリエットだった。

 中庭の入口で、少し不思議そうにこちらを見ている。
 ミコトとヴァンが、植え込みの前でしゃがんでいる。
 その間に黒い子猫がいる。

 見れば、だいたい分かる光景だった。

「......猫?」

 ハリエットが近付いてくる。

 ヴァンは小さく舌打ちしかけて、やめた。

「ハリエット。誰にも言うな」

「うん。言わない」

 ハリエットはすぐに答えた。

 それから、子猫の前で膝を折る。

「この子、弱ってるの?」

「少し」

 ヴァンが答える。

「食べ物は持ってきてる。でも、飼ってるわけじゃない」

「うん」

 ハリエットは、子猫に向けて手を低く差し出した。

「怖くないよ」

 ミコトが小声で言う。

「ハリエットさん、この子が撫でてもいいか、分かりますか?」

 ハリエットは少し迷ってから、頷いた。

「聞いてみる」

 彼女の声が、少しだけ柔らかくなった。

 言葉というより、息の置き方が変わる。
 葉の揺れる音と、子猫の小さな呼吸の間に、細い糸を通すようだった。

 子猫が瞬きをする。

 ミコトは、そっと顔を近付けた。

「にゃー。こんにちは」

 子猫が鳴いた。

「みー」

 ハリエットが小さく笑う。

「こんにちは、って」

「......分かるんですか?」

 ミコトが目を丸くする。

 ハリエットは、少し照れたように頷いた。

「少しだけ。こういうのは、得意だから」

 子猫は、ミコトを見た。
 次にヴァンを見る。

 また鳴いた。

「みー」

 ハリエットが聞き取るように目を伏せる。

「ヴァンさんに、いつもありがとうって言ってる」

 ミコトは振り返った。

「ヴァンさん。この子が、いつもありがとうって言ってます」

 ヴァンは子猫を見た。

「そう?」

 本気にしていない声だった。

「......どういたしまして」

 ミコトは少しだけ口を尖らせた。

「とても感謝してますよ、この子」

「まぁ、しょっちゅう猫はすり寄って来るしな」

 子猫が、ヴァンの足元へ寄った。

 黒い小さな頭が、ヴァンの足首に擦り寄る。

 ヴァンが固まった。

「ほら」

 ミコトが言う。

「嘘じゃないです」

 ヴァンは目を逸らした。

「たまたまだ」

 子猫が、前足を上げた。

 軽く、ぺしり。

 ヴァンの靴先に猫パンチが入る。

「......!」

 ミコトは思わず笑いそうになって、口元を押さえた。
 ハリエットも肩を震わせている。

「違う、って言ってるみたい」

「......猫が?」

 ヴァンが子猫を見る。

 子猫は、澄ました顔で座っていた。

「ミコト、動物使いなの?」

「違います」

「サーカス団にいた?」

「いません」

 ハリエットがくすりと笑った。

「この子、ちゃんと伝えたかったんだと思う」

 ヴァンは返事をしなかった。

 ただ、子猫の頭に指を伸ばす。

 子猫は逃げなかった。

 指先が、黒い毛を少しだけ撫でる。

 ミコトは、その様子を見ていた。

「名前は、あるんですか?」

 ヴァンの手が止まる。

「まだ」

「じゃあ、名前、何にしましょう?」

「......女の子らしい、可愛い名前がいい」

 少しだけ考えてから、ヴァンはそう言った。

 ミコトは子猫を見る。

 黒い毛。
 細い身体。
 それから、明るい目。

「ルナ」

 口に出すと、思ったよりも柔らかく響いた。

「ルナ、はどうでしょう」

 ヴァンは子猫の目を見た。

「月の色だな」

 子猫が鳴く。

「みー」

 ハリエットが微笑んだ。

「嫌じゃないみたい」

 ヴァンは小さく頷いた。

「じゃあ、ルナだ」

 子猫は、もう一度鳴いた。

 ヴァンは指先を、そっと黒い頭に置いた。

「月女神ルナエ様の加護があるように」

 ルナは、目を細めた。

 ヴァンはすぐに真顔へ戻った。

「いいか。誰にも言うなよ」

「はい」

 ミコトは頷いた。

 ハリエットも頷く。

「言わない」

 ルナは、ヴァンの足元で丸くなりかけて、また顔を上げた。

 中庭の隅に、風が通る。

 黒い子猫の目だけが、夕方前の光の中で、少しだけ月のように見えた。

「みー」
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第九話 月


 放課後の中庭は、少し静かだった。

 昼間の賑やかさが校舎の中へ引いて、風だけが残っている。

 ミコトは、石畳の端をゆっくり歩いていた。

 特に目的があったわけではない。
 教室に戻るには少し早く、寄宿区画へ行くには少しもったいない。

 そんな時間だった。

 中庭の隅で、黒い髪が見えた。

 ヴァンだった。

 植え込みの陰にしゃがみ、何かをしている。
 いつもの窓際の横顔とは違う。
 背中が、少しだけ忙しない。

 ミコトが足を止めると、ヴァンもこちらに気付いた。

 肩が、わずかに跳ねる。

 次の瞬間、彼は何事もなかったように背を向けた。

「ヴァンさん」

 ミコトは、とことこと近付いた。

「何をしてるんですか?」

「な、なんでもない」

 声が少しだけ上擦っていた。

 ミコトは首を傾げる。

「......特訓?」

「違う」

 即答だった。

 その時、植え込みの奥から、小さな声がした。

「みー」

 ヴァンの顔が固まった。

「こら。おまえは出て来るな」

 黒い小さなものが、葉の陰から顔を出した。

 ミコトの目が輝く。

「にゃんこ......!」

「声が大きい」

 ヴァンは低く言った。

 黒い子猫だった。

 まだ小さい。
 毛並みは少し乱れていて、身体も細い。
 けれど、こちらを見上げる目だけは妙に明るかった。

「誰にも言うなよ」

 ヴァンは、観念したように言った。

 ミコトはすぐに頷いた。

「はいっ。猫好きです」

「返事になってない」

「ヴァンさんも猫好きなんですか? 内緒で飼ってるんですか?」

「飼い猫じゃ、ない」

 ヴァンは子猫を見た。

「こいつは、自由だ」

 そう言ってから、少しだけ言葉を足す。

「でも、まだ弱いから、手助けしてる。......だけ」

 気恥ずかしそうに、ヴァンはそっぽを向いた。

 ミコトは子猫を見た。
 それから、ヴァンを見た。

「ヴァンさん。助けてあげたんですね」

 ヴァンの目元が、少しだけ動く。

「優しいですね」

「......や、優しくなんか」

「でも、隠してるんだから、そんなことだろうなって思ってました。はい。誰にも言いません」

 ヴァンは何か言い返そうとして、やめた。

「学院は、ペット禁止だ。校長に見つかると厄介なんだ」

「そうなんですね」

 ミコトは子猫の前にしゃがんだ。

「子猫、構ってもいいですか?」

 ヴァンはすぐには答えなかった。

 子猫を見る。

 そして、短く言った。

「......こいつが、いいって言うなら」

 ミコトは顔を上げる。

「決めるのは、こいつだ」

 子猫が首を傾げるように鳴いた。

「みー?」

 ミコトは、ぱっと顔を明るくした。

「わぁーい」

「まだ、いいとは言ってない」

「そうでした」

 ミコトは真面目に頷いた。

 その時、後ろから足音がした。

「ミコトさん?」

 ハリエットだった。

 中庭の入口で、少し不思議そうにこちらを見ている。
 ミコトとヴァンが、植え込みの前でしゃがんでいる。
 その間に黒い子猫がいる。

 見れば、だいたい分かる光景だった。

「......猫?」

 ハリエットが近付いてくる。

 ヴァンは小さく舌打ちしかけて、やめた。

「ハリエット。誰にも言うな」

「うん。言わない」

 ハリエットはすぐに答えた。

 それから、子猫の前で膝を折る。

「この子、弱ってるの?」

「少し」

 ヴァンが答える。

「食べ物は持ってきてる。でも、飼ってるわけじゃない」

「うん」

 ハリエットは、子猫に向けて手を低く差し出した。

「怖くないよ」

 ミコトが小声で言う。

「ハリエットさん、この子が撫でてもいいか、分かりますか?」

 ハリエットは少し迷ってから、頷いた。

「聞いてみる」

 彼女の声が、少しだけ柔らかくなった。

 言葉というより、息の置き方が変わる。
 葉の揺れる音と、子猫の小さな呼吸の間に、細い糸を通すようだった。

 子猫が瞬きをする。

 ミコトは、そっと顔を近付けた。

「にゃー。こんにちは」

 子猫が鳴いた。

「みー」

 ハリエットが小さく笑う。

「こんにちは、って」

「......分かるんですか?」

 ミコトが目を丸くする。

 ハリエットは、少し照れたように頷いた。

「少しだけ。こういうのは、得意だから」

 子猫は、ミコトを見た。
 次にヴァンを見る。

 また鳴いた。

「みー」

 ハリエットが聞き取るように目を伏せる。

「ヴァンさんに、いつもありがとうって言ってる」

 ミコトは振り返った。

「ヴァンさん。この子が、いつもありがとうって言ってます」

 ヴァンは子猫を見た。

「そう?」

 本気にしていない声だった。

「......どういたしまして」

 ミコトは少しだけ口を尖らせた。

「とても感謝してますよ、この子」

「まぁ、しょっちゅう猫はすり寄って来るしな」

 子猫が、ヴァンの足元へ寄った。

 黒い小さな頭が、ヴァンの足首に擦り寄る。

 ヴァンが固まった。

「ほら」

 ミコトが言う。

「嘘じゃないです」

 ヴァンは目を逸らした。

「たまたまだ」

 子猫が、前足を上げた。

 軽く、ぺしり。

 ヴァンの靴先に猫パンチが入る。

「......!」

 ミコトは思わず笑いそうになって、口元を押さえた。
 ハリエットも肩を震わせている。

「違う、って言ってるみたい」

「......猫が?」

 ヴァンが子猫を見る。

 子猫は、澄ました顔で座っていた。

「ミコト、動物使いなの?」

「違います」

「サーカス団にいた?」

「いません」

 ハリエットがくすりと笑った。

「この子、ちゃんと伝えたかったんだと思う」

 ヴァンは返事をしなかった。

 ただ、子猫の頭に指を伸ばす。

 子猫は逃げなかった。

 指先が、黒い毛を少しだけ撫でる。

 ミコトは、その様子を見ていた。

「名前は、あるんですか?」

 ヴァンの手が止まる。

「まだ」

「じゃあ、名前、何にしましょう?」

「......女の子らしい、可愛い名前がいい」

 少しだけ考えてから、ヴァンはそう言った。

 ミコトは子猫を見る。

 黒い毛。
 細い身体。
 それから、明るい目。

「ルナ」

 口に出すと、思ったよりも柔らかく響いた。

「ルナ、はどうでしょう」

 ヴァンは子猫の目を見た。

「月の色だな」

 子猫が鳴く。

「みー」

 ハリエットが微笑んだ。

「嫌じゃないみたい」

 ヴァンは小さく頷いた。

「じゃあ、ルナだ」

 子猫は、もう一度鳴いた。

 ヴァンは指先を、そっと黒い頭に置いた。

「月女神ルナエ様の加護があるように」

 ルナは、目を細めた。

 ヴァンはすぐに真顔へ戻った。

「いいか。誰にも言うなよ」

「はい」

 ミコトは頷いた。

 ハリエットも頷く。

「言わない」

 ルナは、ヴァンの足元で丸くなりかけて、また顔を上げた。

 中庭の隅に、風が通る。

 黒い子猫の目だけが、夕方前の光の中で、少しだけ月のように見えた。

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