プロローグ
殺す。
......いや、殺した。
そう思った時には、もう終わっていた。
刃は、ヴァンの手の中にあった。
いつ抜いたのか分からない。
いつ踏み込んだのかも分からない。
ただ、広間の石床に男が倒れていた。
胸元から、赤が広がっていく。
術士の唇が震えた。
詫びか。
呪いか。
命乞いか。
ヴァンには聞こえなかった。
聞こえるはずがなかった。
耳の奥には、まだ、あの声だけが残っていた。
『また、見つけてね』
それだけだった。
少し前まで、ミコトはそこにいた。
ヴァンの隣にいた。
怖がっているくせに、怖くないふりをしていた。
震えているくせに、誰かを安心させるために息を抑えていた。
術士が腕を上げた。
空気が裂けた。
暗がりを裂く、緑白い光。
炎ではなかった。
熱でもなかった。
その光は、燃やすものではない。
ほどくものだった。
肉を。
骨を。
血を。
声を。
人が人であるために必要なものを、順番など無視して、塵へ変える。
ヴァンの足は動かなかった。
頭のどこかでは分かっていた。
あれは、受けてはならない光だ。
けれど身体は、その叫びに追いついていなかった。
背中に、軽い衝撃があった。
押されたのではない。
誰かが、ヴァンと光の間に入った。
ミコトだった。
彼女は、ヴァンの前に立っていた。
逃げるためではなく。
祈るためでもなく。
ただ、彼を庇うために。
一瞬だけ、ミコトが振り向いた。
その顔に、涙はなかった。
怖くなかったはずがない。
痛くなかったはずがない。
死にたかったはずがない。
それでも、ミコトは笑おうとしていた。
笑い切れない唇で、
いつもの明るさの、ほんの端だけを作って。
「また、見つけてね」
光が来た。
声が消えた。
ミコトが消えた。
衣服だけが落ちた。
装具が鳴った。
靴が、床に残った。
人だけがいなかった。
ヴァンは手を伸ばした。
遅かった。
塵が指を抜けた。
掴めなかった。
掴むものが、もうなかった。
喉が閉じた。
息が入らない。
声も出ない。
胸の奥で、何かが折れた。
音はしなかった。
ただ、戻らないことだけが分かった。
術士が、まだ生きていた。
それが、いけなかった。
ヴァンは立っていた。
刃を持っていた。
いつ抜いたのか、覚えていない。
周囲にも敵はいた。
刃を向けられる者は、他にもいた。
怒りをぶつけられる者も、いくらでもいた。
けれど、刃の向かう先は一つしかなかった。
ミコトを塵に変えた男。
まだ、生きている男。
術士の口が動いた。
次の言葉を紡ごうとしていた。
許せなかった。
ではない。
間に合わなかった。
刃はもう、入っていた。
肉を裂いた感触が、手の中に残った。
骨に当たった硬さが、遅れて来た。
血が柄を濡らした。
術士が崩れる。
ヴァンは、それを見下ろしていた。
殺す。
そう思った時には、既に殺し終わっていた。
刃の先から、赤が落ちる。
一滴。
二滴。
床には、ミコトの服があった。
床には、術士の血があった。
その間に、ヴァンがいた。
刃の柄に、血が入り込んでいた。
握り直すと、ぬるりと滑った。
それでも、指は開かなかった。
開き方を、忘れてしまったようだった。
この手は、もう戻れない。
人を殺した手だ。
ミコトを守れなかった手だ。
それでも、その手で、いつか必ず見付けなければならなかった。
彼女が最後に残した願いを。
彼女が彼に預けていった、あまりにも残酷な約束を。
ヴァンは、冷たい石床に落ちた衣服の前に膝をついた。
そして初めて、息をした。
「......ミコト」
名前は、血と塵の匂いの中へ落ちた。
返事はなかった。
けれど、声だけは消えなかった。