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第四十二話 苦くて甘い

 八月十八日、銀狼曜日。

 林間学校の三日目になった。

 昨日の夕食は、学院から持ってきた保存食に、森の授業で集めた山菜や木の実を少し足したものだった。硬いパンと干し肉だけになるのかと思っていたけれど、温かい汁物があったので、思っていたよりちゃんと夕食だった。レオナさんも、わたし達と同じものを食べた。チャミーさんが用意した特別な食事ではなく、みんなと同じ椀を受け取り、みんなと同じ火のそばで、少しずつ口に運んでいた。量は多くなかったけれど、レオナさんは最後まで残さなかった。

 今朝の朝食も、残っていたパンと干し肉、乾いた果物、それから薄いスープだった。寄宿舎の食堂みたいに、次から次へ料理が出てくるわけではない。食べたら、その分だけ減る。考えてみれば当たり前のことなのに、学院にいる時は、あまり意識していなかった。

 朝食後、集合場所でジークハルト先生が、わたし達にサンドイッチを配った。

「これで、持ってきた食糧はほぼ終わりだ」

 先生がそう言うと、何人かの手が止まった。

「終わり?」

 ローティさんが、受け取ったサンドイッチを見下ろした。

「塩、油、調味料、茶葉、それと予備の非常食は教師側で預かっている。だが、おまえ達に配る食料は、昼食のそれで最後だ」

「これが昼食で、最後の食料......、つまり、夕食は?」

「現地調達」

 ジークハルト先生は、当然のように言った。

「林間学校なんだ。何を学びに来たと思っている」

 それは、たしかにそうかもしれない。けれど、急に手元のサンドイッチが貴重なものに見えてきた。残っているのは、最低限の調味料と茶葉だけ。それから、みんながそれぞれ持ってきたおやつくらいだった。

「ローティさん、おやつなら、少しありますから」

 ハリエットさんが、いつも通り優しい。

「わたくしも、おやつを持って参りました」

 レオナさんは、小さな箱を両手で持っていた。

「レオナさん、それは?」

 わたしが聞くと、レオナさんは箱を少しだけ開けて見せてくれた。

「苦くて甘い、チョコレートです。チャミーが、疲れた時に少しずつ食べるようにと、持たせてくれました」

 箱の中には、小さく切られたチョコレートが、薄い紙に包まれて並んでいた。甘い匂いが、ほんの少しだけする。

「大切なおやつですね」

「はい。でも、皆様の分もあります」

 レオナさんは、嬉しそうにそう言った。

 その後すぐ、食材確保について説明があった。

「では、これから班ごとに分かれて食材を集める。ただし、単独行動は禁止だ。必ず三人一組スリーマンセルで動け」

 ジークハルト先生は、わたし達を見回した。

「二人では足りん。一人が怪我をした時、もう一人が助けを呼びに行けば、怪我人が一人で残る。逆に、その場に残れば助けを呼べない。三人いれば、一人が付き添い、一人が知らせに走れる」

 先生は、そこで少し間を置いた。

「それだけではない。森の中では、判断を間違えれば危険になる。進むか戻るか、食べられるか捨てるか、渡るか迂回するか。二人だと意見が割れた時に止まる。三人なら、多数決で決められる」

「多数決?」

 ローティさんが聞いた。

「そうだ。三人は、多数決で行動を決められる最少人数だ」

 班は、ジークハルト先生がその場で分けた。

 わたしは、ヴァンさん、レオナさんと一緒だった。どういう基準なのかは分からない。けれど、もしかすると、生存能力が平均的になるように分けたのかもしれない。そう考えると、わたし達の班は、いちばん強いヴァンさんに、いちばん弱い二人を任せた形なのかもしれなかった。さすがはジークハルト先生、わたしの虚弱体質をよくご存じでいらっしゃる。でも、そのおかげで二人と一緒になれたのなら、悪くはないと思えた。

 その他の人も、次々とチームに分けられる。

 ハリスさん、エインさん、ウォールさん。

 オーレリアさん、ロイさん、クリスさん。

 ハリエットさん、フェルトンさん、マリアンナさん。

 ローティさん、イネヴェアさん、アディさん。

 先生の選考基準が良く分からなくなった。それでも、互いに顔見知り同士が、一緒のチームになるよう配慮されている気がした。だとしたら、レオナさんと仲良し筆頭が、わたしとヴァンさんってこと?

「何を集めますか?」

 わたしが、ぼーっと考え事をしている間に、レオナさんが言った。

「わたくし、魚釣りを、してみたいです」

「魚釣りですか」

「はい。まだ一度もしたことがないので」

 ヴァンさんは短く頷いた。

「なら、小川へ行く」

  *

 野営地から少し森の中へ入ると、水の音が聞こえてきた。そこは湖のように広く開けているわけではない。木々の間を細く流れる小川だった。岸には石と土が混じっていて、流れの速いところと、少しだけ水が深くなっているところがある。木の影が水面に落ちて、ところどころ暗く見えた。

 ハリスさん達の班も、小川へ来ていた。ハリスさんは釣り糸や針の数を確認し、エインさんは小さな桶を持ち、ウォールさんはあまり喋らずに荷物を背負っていた。ハリスさん達は少し下流へ移動していた。姿は見えるけれど、声を掛け合うには遠い。

 ヴァンさんは、レオナさんが座れる場所を先に確かめた。水際に近すぎない平たい石、ちゃんと座れるか、足元が滑らないか、自分の靴で軽く押している。

「ここなら大丈夫」

「ありがとうございます」

 レオナさんはハンカチを出して広げてから、石の上に座った。ヴァンさんは肩掛け鞄を地面に置いた。鞄の中では、ルナが丸くなっていたはずだけれど、すぐに黒い耳が出てきた。それから顔を出し、周りの匂いを嗅ぐ。

「出てきました」

 レオナさんが、少し嬉しそうに言った。ルナは鞄からするりと出て、石の上に前足を置いた。水の音が気になるのか、耳を動かしている。

「遠くへ行くな」

 ヴァンさんが言うと、ルナは返事をするみたいに尻尾を揺らした。

「餌を採ってくる。待ってて」

「はい」

 ヴァンさんはそう言って、小川の岸を少し上流へ歩いていった。石の下や湿った土のあたりを見るらしい。わたしは竿を並べようとして、荷物の紐をほどいていた。釣り糸が絡まらないように置こうとしたけれど、すぐに一本が別の糸に引っかかって、少し手間取った。その時、ルナが小さく鳴いた。

「みー」

 レオナさんが、ルナを見た。

「お腹が空いたのですか?」

 ルナはレオナさんの足元に近づき、鼻を動かしていた。お腹が空いているのか、ただ匂いを嗅いでいるだけなのか、わたしには分からなかった。レオナさんは、膝の上の小さな箱を見た。

「少しだけなら......」

 わたしが糸をほどいて顔を上げた時、レオナさんはチョコレートの包みを開いていた。小さな欠片を指先に乗せ、ルナの方へ差し出そうとしている。

「おまえ、何してる!」

 ヴァンさんの声が飛んだ。レオナさんが、びくっとした。その時には、もうヴァンさんは動いていた。濡れた土を蹴って戻り、レオナさんの手とルナの間に割り込む。次の瞬間には、ルナを抱き上げるようにして、チョコレートから引き離していた。レオナさんの手が、空中で止まった。

「......チョコレートを、ルナさんにも......」

「食べさせるな」

 ヴァンさんはルナを胸に抱えたまま、レオナさんの手元を見た。声は低く、頑としていた。

「猫には毒だ。死ぬことがある」

 レオナさんの顔から、すっと色が引いた。

「死ぬ......」

「ほんの少しでも駄目な時がある。ルナには絶対に食べさせない」

 ヴァンさんは、ルナの口元を確認した。ルナはまだ食べていなかったらしく、ただ不満そうに尻尾を揺らしている。

「大丈夫。まだ、食べていません」

 わたしが言うと、ヴァンさんはルナの鼻先と口元をもう一度見てから、少しだけ息を吐いた。

「よかった」

 その一言で、ようやく周りの空気が動いた気がした。レオナさんは、割ったチョコレートを手の中に残したまま、俯いていた。

「ごめんなさい。わたくし、ルナさんがお腹を空かせているのだと思って......」

「分かってる」

 ヴァンさんはそう言ったけれど、声はまだ硬かった。

「でも、だめなものは、だめだ」

「......はい」

 レオナさんは、しゅんとしながら、小さく頷いた。

「好きなものを与えればよい、というわけではないのですね」

 ヴァンさんは、ルナを抱えたまま少し黙った。

「ルナには、ルナの食べるものがある」

「はい。覚えます」

 レオナさんは、今度ははっきり頷いた。ルナは、そんな空気を知ってか知らずか、ヴァンさんの腕の中で「みー」と鳴いた。チョコレートをもらえなかったことには、少し不満がありそうだった。

 それから、釣りの準備を始めた。ヴァンさんは採ってきた小さな虫を餌用の器に入れ、石の上に置いた。レオナさんはそれを見て、少しだけ身を引く。

「これを、魚が食べるのですか?」

「ああ」

「人は、食べませんよね?」

「今日は食べない」

「今日は......」

 レオナさんは、少しだけ困った顔をした。ヴァンさんは、何も言わずに餌を針につけた。針を持つ指先に迷いがない。小さな餌を通し、糸を確かめ、竿の先を軽く揺らす。

「ヴァン様は、釣りもできるのですね」

「爺ちゃんに習った」

「お爺様に?」

「ああ」

 ヴァンさんは、餌をつけ終えた竿をレオナさんに渡した。

「糸を垂らす。あまり前に出るな」

「はい」

 レオナさんは、石に座ったまま、短い竿を両手で持った。普通の竿より持ち手の下が長く、座ったまま地面に置いて扱えるようにしてある。水面に糸を落とすと、浮きが小さく揺れて、流れに合わせて少しだけ動いた。

 何も起きなかった。

「......動きませんね」

「待つ」

 ヴァンさんが言った。レオナさんは頷いて、水面を見つめた。しばらくして、また小さく聞く。

「まだでしょうか」

「まだ」

 さらに少し待つ。

「魚は、来ないのですね」

「魚にも都合がある」

 ヴァンさんが言うと、レオナさんは少しだけ目を丸くした。それから、その言葉を大切にしまうみたいに、小さく頷いた。

「魚にも、都合があるのですね。猫さんと同じように......」

「ああ」

 小川の音が続いていた。水が石に当たり、細かく砕ける音がする。わたしは二人の少し斜め後ろに座って、自分の竿を持っていたけれど、浮きを見るよりも二人の声を聞いていた。

「わたくしの祖父も、釣りをなさるそうです」

 レオナさんが、ぽつりと言った。

「そうなのか」

「はい。わたくしは一緒に行ったことはありません。けれど、昔は母と一緒に釣りへ行ったことがあると、聞きました」

 ヴァンさんは、水面を見たまま黙っていた。

「母は、わたくしを産んで、すぐに亡くなりました」

 レオナさんの声は静かだった。

「祖父は、母をとても大切にしていたそうです。母に次いで、孫のわたくしまで死んでしまったら、きっと悲しみます」

 小川の音だけが、少し大きく聞こえた。わたしは何も言えなかった。何か言わなければと思ったのに、何を言っても違う気がして、結局、黙っていた。

 ヴァンさんも、すぐには答えなかった。

「俺は、父さんと母さんを知らない」

 少しして、ヴァンさんが言った。

「いないのですか?」

「いない。顔も知らない」

 レオナさんは、ヴァンさんを見た。

「寂しくは、ありませんか」

「分からない」

 ヴァンさんは、短く答えた。

「最初から知らないから。でも、爺ちゃんと兄貴がいた」

「そうなのですね」

「ああ」

 二人とも、それ以上はすぐに話さなかった。慰める言葉も、かわいそうだという言葉もなかった。ただ、小川のそばで並んで、魚が来るのを待っていた。

 浮きが、小さく揺れた。

「動きました」

 レオナさんが言った。

「まだ」

 ヴァンさんが答える。

 浮きが、もう一度揺れる。

「今のは」

「まだ」

 レオナさんは、息を止めた。

 次の瞬間、浮きが水の中へ沈んだ。

「今」

 ヴァンさんが言った。

 レオナさんが竿を上げる。竿先が震え、水面が小さく跳ねた。

「引いています......!」

「離すな。強く引きすぎるな」

「はい......!」

 ヴァンさんは手を添えすぎなかった。けれど、竿の角度だけを少し直して、レオナさんが魚を逃がさないようにしている。

「少し上げる」

「はい」

「止める」

「はい」

「もう少し」

 水面で、小さな銀色が光った。魚は大きくなかった。けれど、レオナさんは両手で竿を握りしめ、真剣に引いていた。やがて魚が岸へ上がると、ヴァンさんがそれを受け止め、小さな桶の中へ入れた。

 魚が、ぱしゃ、と跳ねた。

 レオナさんはしばらく、竿を握ったまま動かなかった。

「釣れました」

「釣れたな」

 ヴァンさんが言った。

 レオナさんは、桶の中で跳ねる小魚を見つめた。

「ヴァン様、すごいです」

「今のは、おまえが釣った」

「わたくしですか?」

「おまえだ」

 レオナさんの表情が、ぱぁっと花が咲いたみたいに明るくなった。

「ミコト様、見て下さい。このお魚、わたくしが、釣りました」

「はい。レオナさんが釣りました」

 わたしが言うと、レオナさんは胸の前で竿を抱えるようにして、小さく笑った。ルナが、ヴァンさんの鞄の中から顔を出した。魚の匂いに気づいたのか、黒い鼻をひくひく動かしている。

「ルナさんは、お魚なら食べられますか?」

 レオナさんが聞いた。ヴァンさんは、桶の中の魚を見てから答えた。

「少しなら。骨を取って、味をつけない」

「骨を取って、味をつけない」

 レオナさんは、忘れないように繰り返した。

「でも、子猫の間だけだ」

「子猫の間だけ、ですか?」

「ああ。いずれ骨のある魚も食べ慣れさせる。いつか一匹で生きていけるように」

 ヴァンさんは、ルナの頭を指先で軽く撫でた。

「ずっと誰かが食べさせるわけじゃない」

 レオナさんは、少しだけ黙った。

「一匹で、生きていけるように」

「ああ」

「......はい。覚えます」

 レオナさんは、桶の中の魚を見て、それからルナを見た。

「ルナさんには、ルナさんに合ったやり方が、あるんですね」

「ああ」

「わたくし、忘れません」

 ヴァンさんは頷いた。

「そうか」

 ヴァンさんは「ああ」とか、「そうか」しか言わないのに、わたしには、苦くて甘い、とても優しい言葉に聞こえた。

 その時だった。

 上流の方から、足音が近づいてきた。小枝を踏む音と、少し慌てた息遣い。振り向くと、オーレリアさんが森の中からこちらへ走ってくるところだった。

 しおりを片手に持ったまま、髪を少し乱している。

「大変なのよぅ!」
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第四十二話 苦くて甘い

 八月十八日、銀狼曜日。

 林間学校の三日目になった。

 昨日の夕食は、学院から持ってきた保存食に、森の授業で集めた山菜や木の実を少し足したものだった。硬いパンと干し肉だけになるのかと思っていたけれど、温かい汁物があったので、思っていたよりちゃんと夕食だった。レオナさんも、わたし達と同じものを食べた。チャミーさんが用意した特別な食事ではなく、みんなと同じ椀を受け取り、みんなと同じ火のそばで、少しずつ口に運んでいた。量は多くなかったけれど、レオナさんは最後まで残さなかった。

 今朝の朝食も、残っていたパンと干し肉、乾いた果物、それから薄いスープだった。寄宿舎の食堂みたいに、次から次へ料理が出てくるわけではない。食べたら、その分だけ減る。考えてみれば当たり前のことなのに、学院にいる時は、あまり意識していなかった。

 朝食後、集合場所でジークハルト先生が、わたし達にサンドイッチを配った。

「これで、持ってきた食糧はほぼ終わりだ」

 先生がそう言うと、何人かの手が止まった。

「終わり?」

 ローティさんが、受け取ったサンドイッチを見下ろした。

「塩、油、調味料、茶葉、それと予備の非常食は教師側で預かっている。だが、おまえ達に配る食料は、昼食のそれで最後だ」

「これが昼食で、最後の食料......、つまり、夕食は?」

「現地調達」

 ジークハルト先生は、当然のように言った。

「林間学校なんだ。何を学びに来たと思っている」

 それは、たしかにそうかもしれない。けれど、急に手元のサンドイッチが貴重なものに見えてきた。残っているのは、最低限の調味料と茶葉だけ。それから、みんながそれぞれ持ってきたおやつくらいだった。

「ローティさん、おやつなら、少しありますから」

 ハリエットさんが、いつも通り優しい。

「わたくしも、おやつを持って参りました」

 レオナさんは、小さな箱を両手で持っていた。

「レオナさん、それは?」

 わたしが聞くと、レオナさんは箱を少しだけ開けて見せてくれた。

「苦くて甘い、チョコレートです。チャミーが、疲れた時に少しずつ食べるようにと、持たせてくれました」

 箱の中には、小さく切られたチョコレートが、薄い紙に包まれて並んでいた。甘い匂いが、ほんの少しだけする。

「大切なおやつですね」

「はい。でも、皆様の分もあります」

 レオナさんは、嬉しそうにそう言った。

 その後すぐ、食材確保について説明があった。

「では、これから班ごとに分かれて食材を集める。ただし、単独行動は禁止だ。必ず三人一組スリーマンセルで動け」

 ジークハルト先生は、わたし達を見回した。

「二人では足りん。一人が怪我をした時、もう一人が助けを呼びに行けば、怪我人が一人で残る。逆に、その場に残れば助けを呼べない。三人いれば、一人が付き添い、一人が知らせに走れる」

 先生は、そこで少し間を置いた。

「それだけではない。森の中では、判断を間違えれば危険になる。進むか戻るか、食べられるか捨てるか、渡るか迂回するか。二人だと意見が割れた時に止まる。三人なら、多数決で決められる」

「多数決?」

 ローティさんが聞いた。

「そうだ。三人は、多数決で行動を決められる最少人数だ」

 班は、ジークハルト先生がその場で分けた。

 わたしは、ヴァンさん、レオナさんと一緒だった。どういう基準なのかは分からない。けれど、もしかすると、生存能力が平均的になるように分けたのかもしれない。そう考えると、わたし達の班は、いちばん強いヴァンさんに、いちばん弱い二人を任せた形なのかもしれなかった。さすがはジークハルト先生、わたしの虚弱体質をよくご存じでいらっしゃる。でも、そのおかげで二人と一緒になれたのなら、悪くはないと思えた。

 その他の人も、次々とチームに分けられる。

 ハリスさん、エインさん、ウォールさん。

 オーレリアさん、ロイさん、クリスさん。

 ハリエットさん、フェルトンさん、マリアンナさん。

 ローティさん、イネヴェアさん、アディさん。

 先生の選考基準が良く分からなくなった。それでも、互いに顔見知り同士が、一緒のチームになるよう配慮されている気がした。だとしたら、レオナさんと仲良し筆頭が、わたしとヴァンさんってこと?

「何を集めますか?」

 わたしが、ぼーっと考え事をしている間に、レオナさんが言った。

「わたくし、魚釣りを、してみたいです」

「魚釣りですか」

「はい。まだ一度もしたことがないので」

 ヴァンさんは短く頷いた。

「なら、小川へ行く」

  *

 野営地から少し森の中へ入ると、水の音が聞こえてきた。そこは湖のように広く開けているわけではない。木々の間を細く流れる小川だった。岸には石と土が混じっていて、流れの速いところと、少しだけ水が深くなっているところがある。木の影が水面に落ちて、ところどころ暗く見えた。

 ハリスさん達の班も、小川へ来ていた。ハリスさんは釣り糸や針の数を確認し、エインさんは小さな桶を持ち、ウォールさんはあまり喋らずに荷物を背負っていた。ハリスさん達は少し下流へ移動していた。姿は見えるけれど、声を掛け合うには遠い。

 ヴァンさんは、レオナさんが座れる場所を先に確かめた。水際に近すぎない平たい石、ちゃんと座れるか、足元が滑らないか、自分の靴で軽く押している。

「ここなら大丈夫」

「ありがとうございます」

 レオナさんはハンカチを出して広げてから、石の上に座った。ヴァンさんは肩掛け鞄を地面に置いた。鞄の中では、ルナが丸くなっていたはずだけれど、すぐに黒い耳が出てきた。それから顔を出し、周りの匂いを嗅ぐ。

「出てきました」

 レオナさんが、少し嬉しそうに言った。ルナは鞄からするりと出て、石の上に前足を置いた。水の音が気になるのか、耳を動かしている。

「遠くへ行くな」

 ヴァンさんが言うと、ルナは返事をするみたいに尻尾を揺らした。

「餌を採ってくる。待ってて」

「はい」

 ヴァンさんはそう言って、小川の岸を少し上流へ歩いていった。石の下や湿った土のあたりを見るらしい。わたしは竿を並べようとして、荷物の紐をほどいていた。釣り糸が絡まらないように置こうとしたけれど、すぐに一本が別の糸に引っかかって、少し手間取った。その時、ルナが小さく鳴いた。

「みー」

 レオナさんが、ルナを見た。

「お腹が空いたのですか?」

 ルナはレオナさんの足元に近づき、鼻を動かしていた。お腹が空いているのか、ただ匂いを嗅いでいるだけなのか、わたしには分からなかった。レオナさんは、膝の上の小さな箱を見た。

「少しだけなら......」

 わたしが糸をほどいて顔を上げた時、レオナさんはチョコレートの包みを開いていた。小さな欠片を指先に乗せ、ルナの方へ差し出そうとしている。

「おまえ、何してる!」

 ヴァンさんの声が飛んだ。レオナさんが、びくっとした。その時には、もうヴァンさんは動いていた。濡れた土を蹴って戻り、レオナさんの手とルナの間に割り込む。次の瞬間には、ルナを抱き上げるようにして、チョコレートから引き離していた。レオナさんの手が、空中で止まった。

「......チョコレートを、ルナさんにも......」

「食べさせるな」

 ヴァンさんはルナを胸に抱えたまま、レオナさんの手元を見た。声は低く、頑としていた。

「猫には毒だ。死ぬことがある」

 レオナさんの顔から、すっと色が引いた。

「死ぬ......」

「ほんの少しでも駄目な時がある。ルナには絶対に食べさせない」

 ヴァンさんは、ルナの口元を確認した。ルナはまだ食べていなかったらしく、ただ不満そうに尻尾を揺らしている。

「大丈夫。まだ、食べていません」

 わたしが言うと、ヴァンさんはルナの鼻先と口元をもう一度見てから、少しだけ息を吐いた。

「よかった」

 その一言で、ようやく周りの空気が動いた気がした。レオナさんは、割ったチョコレートを手の中に残したまま、俯いていた。

「ごめんなさい。わたくし、ルナさんがお腹を空かせているのだと思って......」

「分かってる」

 ヴァンさんはそう言ったけれど、声はまだ硬かった。

「でも、だめなものは、だめだ」

「......はい」

 レオナさんは、しゅんとしながら、小さく頷いた。

「好きなものを与えればよい、というわけではないのですね」

 ヴァンさんは、ルナを抱えたまま少し黙った。

「ルナには、ルナの食べるものがある」

「はい。覚えます」

 レオナさんは、今度ははっきり頷いた。ルナは、そんな空気を知ってか知らずか、ヴァンさんの腕の中で「みー」と鳴いた。チョコレートをもらえなかったことには、少し不満がありそうだった。

 それから、釣りの準備を始めた。ヴァンさんは採ってきた小さな虫を餌用の器に入れ、石の上に置いた。レオナさんはそれを見て、少しだけ身を引く。

「これを、魚が食べるのですか?」

「ああ」

「人は、食べませんよね?」

「今日は食べない」

「今日は......」

 レオナさんは、少しだけ困った顔をした。ヴァンさんは、何も言わずに餌を針につけた。針を持つ指先に迷いがない。小さな餌を通し、糸を確かめ、竿の先を軽く揺らす。

「ヴァン様は、釣りもできるのですね」

「爺ちゃんに習った」

「お爺様に?」

「ああ」

 ヴァンさんは、餌をつけ終えた竿をレオナさんに渡した。

「糸を垂らす。あまり前に出るな」

「はい」

 レオナさんは、石に座ったまま、短い竿を両手で持った。普通の竿より持ち手の下が長く、座ったまま地面に置いて扱えるようにしてある。水面に糸を落とすと、浮きが小さく揺れて、流れに合わせて少しだけ動いた。

 何も起きなかった。

「......動きませんね」

「待つ」

 ヴァンさんが言った。レオナさんは頷いて、水面を見つめた。しばらくして、また小さく聞く。

「まだでしょうか」

「まだ」

 さらに少し待つ。

「魚は、来ないのですね」

「魚にも都合がある」

 ヴァンさんが言うと、レオナさんは少しだけ目を丸くした。それから、その言葉を大切にしまうみたいに、小さく頷いた。

「魚にも、都合があるのですね。猫さんと同じように......」

「ああ」

 小川の音が続いていた。水が石に当たり、細かく砕ける音がする。わたしは二人の少し斜め後ろに座って、自分の竿を持っていたけれど、浮きを見るよりも二人の声を聞いていた。

「わたくしの祖父も、釣りをなさるそうです」

 レオナさんが、ぽつりと言った。

「そうなのか」

「はい。わたくしは一緒に行ったことはありません。けれど、昔は母と一緒に釣りへ行ったことがあると、聞きました」

 ヴァンさんは、水面を見たまま黙っていた。

「母は、わたくしを産んで、すぐに亡くなりました」

 レオナさんの声は静かだった。

「祖父は、母をとても大切にしていたそうです。母に次いで、孫のわたくしまで死んでしまったら、きっと悲しみます」

 小川の音だけが、少し大きく聞こえた。わたしは何も言えなかった。何か言わなければと思ったのに、何を言っても違う気がして、結局、黙っていた。

 ヴァンさんも、すぐには答えなかった。

「俺は、父さんと母さんを知らない」

 少しして、ヴァンさんが言った。

「いないのですか?」

「いない。顔も知らない」

 レオナさんは、ヴァンさんを見た。

「寂しくは、ありませんか」

「分からない」

 ヴァンさんは、短く答えた。

「最初から知らないから。でも、爺ちゃんと兄貴がいた」

「そうなのですね」

「ああ」

 二人とも、それ以上はすぐに話さなかった。慰める言葉も、かわいそうだという言葉もなかった。ただ、小川のそばで並んで、魚が来るのを待っていた。

 浮きが、小さく揺れた。

「動きました」

 レオナさんが言った。

「まだ」

 ヴァンさんが答える。

 浮きが、もう一度揺れる。

「今のは」

「まだ」

 レオナさんは、息を止めた。

 次の瞬間、浮きが水の中へ沈んだ。

「今」

 ヴァンさんが言った。

 レオナさんが竿を上げる。竿先が震え、水面が小さく跳ねた。

「引いています......!」

「離すな。強く引きすぎるな」

「はい......!」

 ヴァンさんは手を添えすぎなかった。けれど、竿の角度だけを少し直して、レオナさんが魚を逃がさないようにしている。

「少し上げる」

「はい」

「止める」

「はい」

「もう少し」

 水面で、小さな銀色が光った。魚は大きくなかった。けれど、レオナさんは両手で竿を握りしめ、真剣に引いていた。やがて魚が岸へ上がると、ヴァンさんがそれを受け止め、小さな桶の中へ入れた。

 魚が、ぱしゃ、と跳ねた。

 レオナさんはしばらく、竿を握ったまま動かなかった。

「釣れました」

「釣れたな」

 ヴァンさんが言った。

 レオナさんは、桶の中で跳ねる小魚を見つめた。

「ヴァン様、すごいです」

「今のは、おまえが釣った」

「わたくしですか?」

「おまえだ」

 レオナさんの表情が、ぱぁっと花が咲いたみたいに明るくなった。

「ミコト様、見て下さい。このお魚、わたくしが、釣りました」

「はい。レオナさんが釣りました」

 わたしが言うと、レオナさんは胸の前で竿を抱えるようにして、小さく笑った。ルナが、ヴァンさんの鞄の中から顔を出した。魚の匂いに気づいたのか、黒い鼻をひくひく動かしている。

「ルナさんは、お魚なら食べられますか?」

 レオナさんが聞いた。ヴァンさんは、桶の中の魚を見てから答えた。

「少しなら。骨を取って、味をつけない」

「骨を取って、味をつけない」

 レオナさんは、忘れないように繰り返した。

「でも、子猫の間だけだ」

「子猫の間だけ、ですか?」

「ああ。いずれ骨のある魚も食べ慣れさせる。いつか一匹で生きていけるように」

 ヴァンさんは、ルナの頭を指先で軽く撫でた。

「ずっと誰かが食べさせるわけじゃない」

 レオナさんは、少しだけ黙った。

「一匹で、生きていけるように」

「ああ」

「......はい。覚えます」

 レオナさんは、桶の中の魚を見て、それからルナを見た。

「ルナさんには、ルナさんに合ったやり方が、あるんですね」

「ああ」

「わたくし、忘れません」

 ヴァンさんは頷いた。

「そうか」

 ヴァンさんは「ああ」とか、「そうか」しか言わないのに、わたしには、苦くて甘い、とても優しい言葉に聞こえた。

 その時だった。

 上流の方から、足音が近づいてきた。小枝を踏む音と、少し慌てた息遣い。振り向くと、オーレリアさんが森の中からこちらへ走ってくるところだった。

 しおりを片手に持ったまま、髪を少し乱している。

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