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第六十三話 黒騎士と姫


 これは、本当はイネヴェアさんの役だった。

 白いドレスも、百合の刺繍も、小さな冠も、白い花飾りも、本当ならイネヴェアさんが身に着けるはずだった。わたしは白百合姫ではなく、ただの雑用係で、台本を運んだり、小道具を確認したり、舞台袖で合図を伝えたり、オーレリアに呼ばれてあちこち走ったりするはずだった。

 だから、わたしが失敗すれば、わたし一人が恥をかくだけでは済まない。

 イネヴェアさんが立つはずだった舞台を壊す。オーレリアが作った劇を壊す。エインさんが何度も直してくれた小道具も、ハリエットが縫ってくれた衣装も、ローティさんやウォールさんが何度も倒れる練習をした時間も、ヴァンが黒騎士として積み上げてきたものも、全部、わたしの失敗の中に巻き込んでしまう。

 それが怖い。

 白百合姫に相応しいから、ここに立ってるんじゃない。

 相応しくないと分かっている。イネヴェアさんの代わりになんてなれないと分かっている。観客の前に出るのも怖い。眼鏡を外した顔を見られるのも怖い。舞踏会で踊りを間違えるのも、台詞が詰まるのも、全部怖い。

 それでも、受け取ってしまった。

 イネヴェアさんが、あの冠をわたしの頭に乗せてくれた。悔しかったはずなのに、痛かったはずなのに、自分が立つはずだった場所を、わたしに渡してくれた。

 だから、もう舞台袖に隠れてはいられなかった。

 裏方として、みんなの後ろにいる安全な場所。失敗しても目立たない場所。自分には無理ですと言って下がることのできる場所。イネヴェアさんと比べられずに済む場所。

 その全部を捨てる。

 鏡の中には、わたしではないみたいな、見慣れないわたしが立っていた。

 眼鏡がないだけで、世界は頼りなくなる。黒縁眼鏡の奥に隠れていた目元や、困るとすぐ下がる眉や、何かを探すように揺れてしまう視線が、全部そのまま外へ出てしまっている。白いドレスは綺麗だった。百合の刺繍も、薄く重なった布も、小さな冠も、白い花飾りも、本当に綺麗だった。けれど、その綺麗さが自分のものではない気がして、身に着けているほど落ち着かなくなる。

 イネヴェアさんなら、きっと違った。

 背筋を伸ばして、顎を上げて、ドレスに負けない顔で立てたはずだ。舞踏会の場面でも、足先まで綺麗に揃えて、相手役の動きが少しずれても何もなかったように流せたはずだし、最後の嘆きの口付けも、観客が息を呑むような角度で止められたはずだ。

 白百合姫は、本当ならそういう姫だった。

 けれど、今ここにいるのは、わたしだった。

「ミコト」

 オーレリアが、いつもより少し低い声で呼んだ。わたしの顔をじっと見て、何も言わず、肩の辺りの布を整え、花飾りの位置を確かめてから、いつもの監督の顔で言った。

「立ち位置は、床の印じゃなくて歩数で思い出して。眼鏡がないから、印を頼りにしすぎないこと」

 練習はした。舞踏会の歩き方も、父王の前へ出る歩数も、地下牢から出る時の向きも、森で迷う位置も、黒騎士のそばへ戻るタイミングも、包帯を巻く手順も、最後の場面で膝をつき、黒騎士の頭を膝に乗せ、顔を近づける角度も、何度も確認した。

 覚えたことと、自分のものになったことは違うけれど、怖くても答える。

「はい」

 わたしは、イネヴェアさんのために考案された所作を、付け焼き刃で身体へ入れただけだった。それでも、やるしかなかった。怖いからやめる、という選択肢は、もう手放した。

 ハリエットが、わたしの手をそっと握ってくれた。

「ミコトちゃんなら、大丈夫。イネヴェアも、きっとそう言うと思う」

 その名前を聞いた途端、胸が少し痛くなった。

「......はい」

 わたしは、もう一度頷いた。

 ふと振り向くと、舞台袖の奥には、ヴァンがいた。

 黒い外套と胸当てを身に着け、舞台用の剣を持っている。いつものヴァンなのに、黒騎士の衣装を着ているだけで少し遠く見えた。

 こんな時、もしも目が合ったなら、いつもの仕草でヴァンは何も言わずに小さく頷いてくれたと思う。本当は一言だけでも、なにか話をしたかったけれど。それでも待機室へ向かうヴァンの背中を見て、少しだけやる気をもらえた気がする。

 幕が上がる。

 最初に舞台へ出るのは、白百合姫。つまり、わたしだった。

 大広間の明かりがつき、白い布と花飾りに飾られた王城の舞踏会が客席の前に広がる。音楽が流れ、貴族役の生徒達が輪を作る中、わたしは決められた位置へ進んだ。

 一歩、二歩、三歩。

 そこで止まり、差し出された手を取る。

 舞踏は、やっぱり綺麗にはできなかったと思う。月級一年の宮廷舞踏のように揃っているわけではないし、イネヴェアさんのように、裾の揺れまで計算された動きにはならない。眼鏡がないせいで相手の足元も少し曖昧で、床の印も照明の中で滲んで見える。

 それでも、止まらないようにした。

 ここで止まったら、イネヴェアさんが渡してくれた白百合姫まで止めてしまう気がしたからだ。

 輪舞の途中で、侍女役のリーゼさんが花飾りを落とす。

 そこは台本通りだった。

 わたしは踊りの流れの中で一度だけ足を止め、落ちた花飾りを拾って、リーゼさんへ渡す。ほんの短い動きだったけれど、手渡した時、その子の手が少し震えているのが分かった。演技なのか、本当に緊張していたのかは分からない。でも、その手を見た瞬間、わたしは少しだけ笑った。

 大丈夫。

 そう伝えたかった。

 次に、父王役のエルマーさんの前へ進む。

「白百合よ」

「お父様」

 エルマーさんは、わたしの手を取って穏やかに笑った。

「お前は、昔からそうだな。誰かが困っていると、すぐ立ち止まれる」

 その言葉は台詞だった。けれど、胸の奥にそっと落ちた。白百合姫は、強くて何でもできる姫ではない。ただ、誰かが困っていると立ち止まってしまう。自分の踊りが少し崩れても、足を止めてしまう。

 そういう姫なのだと思った時、少しだけ、自分にも分かる気がした。

 エルマーさんの身体が揺れる。

「お父様......?」

「よい子だ」

 父王が倒れ、音楽が止む。

 そこから先は、華やかだった舞台の光が一つずつ消えていくようだった。

 王の死、継母妃の告発、毒殺の濡れ衣、兵士達に囲まれる白百合姫、地下牢、リーゼさんの手引き、森への逃亡。場面は次々に変わり、そのたびに、わたしはイネヴェアさんならどう見えただろうと考えてしまった。

 けれど、考えすぎると足が止まりそうになる。

 だから途中からは、上手く見せようとすることを少しだけ諦めた。イネヴェアさんのように見せることはできない。できないものを追いかければ、きっと舞台の途中で迷子になる。ならば、せめて止まらない。せめて台詞を落とさない。せめて、白百合姫が選ぶ場所まで行く。

 それだけを考えた。

 森の場面では、舞台の木々が作り物だと分かっているのに、どこへ行けばいいのか分からなくなった。青黒い照明の中で床の印が滲み、裾を踏まないように歩くだけで精一杯になる。何度も後ろを振り返り、逃げ道を探す姿は演技のはずなのに、心細さだけは本物だった。

 反対側から、黒騎士が現れる。

 ヴァンだった。

 黒い外套に照明が落ち、蓄音水晶クラング・クリスタルから重い音楽が流れ始める。ヴァンの声は、いつもの声なのに、舞台の上では黒騎士の声に聞こえた。

「見つけたぞ!」

 追われる場面。

 見つかる場面。

 剣を向けられる場面。

 劇だと分かっているのに、黒い外套が近づくと胸が縮んだ。

「戻れ。継母妃様の命令だ」

「戻れば、わたくしは殺されます」

「同じこと。命令は、連れ戻すこと。さもなくば殺すこと」

 黒騎士が剣を向ける。

「逆らうならば、今ここで斬る」

 わたしは一歩下がる。

 その時、岩場が崩れた。

 ヴァンの身体が傾き、転がり落ちる。練習で何度も見た場面のはずなのに、本番の照明と音が重なると、本当に落ちたように見えた。胸が冷たくなる。黒騎士はうつ伏せに倒れ、動かない。

 今なら逃げられる。

 白百合姫は助かる。

 わたしは一度、森の奥を見た。逃げ道を見る。次に、倒れている黒騎士を見る。

 戻る。

 それが白百合姫の選択だった。

 わたしは黒騎士のそばに膝をついた。

「しっかりしてください」

 ドレスの布を掴む。

 ここが、不安だった。

 練習では、本当に破ることはほとんどできなかった。イネヴェアさんでさえ数えるほどしかやっていない。わたしは、ほとんど本番で初めて破るようなものだった。布を掴んで引く。けれど、破れない。

「......あ」

 小さな声が漏れた。

 指に力を込めても、布は伸びるだけだった。頭が真っ白になりかける。ここで止まったら駄目だ。止まったら、白百合姫が黒騎士を助けられない。イネヴェアさんから受け取った場面を、ここで落としてしまう。

 どうしよう、と思った時には、体が勝手に動いていた。

 布を歯で噛み、両手で掴み、全身を使って引く。

 びり、と音がした。

 破れた。

 客席の空気が少し動いた気がしたけれど、もう気にしていられなかった。破いた布を包帯代わりにして、黒騎士の腕と足に巻く。ずれないように、きつくしすぎないように、でもほどけないように。本当に怪我をした人が目の前にいて、包帯もなくて、他に誰もいなかったら、たぶんわたしは同じことをする。

「なぜ......」

 黒騎士が言う。

「逃げればよかった」

「あなたが、死にそうだったからです」

「おれは、お前を捕らえに来た」

「知っています」

「斬るとも言った」

「それでもです」

 声は震えた。けれど、退かなかった。

「目の前で誰かが死にそうなのに、放ってはおけません」

 それは白百合姫の台詞だった。でも、口にした時、自分の言葉のようにも聞こえた。

 白百合姫に相応しいから言えたのではない。

 怖くても、言うと決めたから言えた。

 そう思った。

 黒騎士は、わたしを見た。

「愚かな姫だ」

「はい」

 わたしは小さく頷いた。

「そうかもしれません」

 そこから舞台は速かった。

 追手の黒騎士達が現れ、黒騎士が傷ついた体で立ち上がり、わたしは木陰に隠れる。音楽が高まり、剣と剣がぶつかる音がして、観客の息が一斉に動く。詳しい動きは追えなかった。けれど、ヴァンの剣さばきが何から何まですごく上手で、黒い外套が照明の中で翻り、ローティさんが高く跳び、次の瞬間には宙返りをしながら吹き飛んで、客席から大きな歓声が上がった。

 すごい、と思った。

 けれど、そのすごさに息を呑んだ直後、黒騎士は膝をつく。わたしは駆け寄ろうとして、止められる。

「来るな」

 黒騎士が片腕を伸ばす。

「城へ戻る」

「戻る?」

「戻って報告をする。白百合を斬った。だが谷へ落ちた。それで、おまえは安全になる」

 嘘だと思った。

 劇の中の嘘。けれど、その嘘は痛かった。黒騎士は平気ではない。傷ついている。戻れば危ない。それなのに、平気な顔をしている。ヴァンも、そういう嘘をつく気がした。痛いのに痛くないと言い、大丈夫ではないのに大丈夫だと言う。そういう顔が、少しだけ浮かんでしまった。

「問題はない。ここで待て」

「黒騎士様」

「必ず戻る」

 そう言って、黒騎士は城へ行く。

 必ず戻る。

 でも、戻らないことを、わたしは知っていた。

 舞台袖へ下がると、王城の場面は全部は見えなくなった。それでも音は聞こえる。ハリスさんの声。凍結針フロスト・ナーデルの音。ヴァンの剣が風を切る音。観客が息を呑む気配。わたしは待機位置で手を握りしめながら、今すぐ走り出したくなるのをこらえていた。

 出て行きたい。

 でも、まだ出てはいけない。

 白百合姫は、間に合わない。

 役だと分かっていても、それが一番つらかった。

 黒騎士が継母妃を倒し、王国騎士達が現れる。

「黒騎士、観念しろ!」

「王国に仇なす反逆者め!」

 黒騎士は反撃しない。言い訳もしない。剣が落ちる音がして、その後に、ヴァンの声が聞こえた。

「白百合姫を、頼む」

 胸が、ぎゅっと痛くなった。

 照明が赤く落ち、騎士達が去る。

 合図。

 わたしは走った。

 森で待っているはずの白百合姫が、約束を破って城へ戻ってくる場面だった。けれど、舞台へ走り出した瞬間、自分が白百合姫なのか、ミコトなのか、分からなくなっていた。

「黒騎士様!」

 黒い外套が床に倒れている。

 ヴァンが、そこにいる。

 動かない。

 演技だと分かっていても怖かった。わたしは黒騎士のそばに膝をつき、頭を膝に乗せる。練習通りの位置。練習通りの角度。ここで、最後の言葉をかける。

 照明が、落ち始める。

「誰も信じなくても、あなたは、わたくしの騎士です」

 声が震えた。それでも、言葉は出た。

「あなたのこと、忘れません」

 ここからは、嘆きの口付け。

 実際には触れない。寸前で止める。白百合姫の背中側から影だけを重ねて、観客には口付けをしたように見せる。練習では何度も確認した。顔の角度も、膝の位置も、手を置く場所も、どこまで近づいて、どこで止まるかも、ちゃんと覚えている。

 けれど、練習の時は、ここまで暗くなかった。

 照明を落とすと言っても、練習では立ち位置や顔の距離が見えていた。オーレリアも、危ないから最後の寸止めは明るめの照明で確認すると言っていた。本番では影を綺麗に見せるために暗くする。それは分かっていた。けれど、実際にどれくらい暗くなるのかを、わたしの体は知らなかった。

 思っていたより、ずっと暗い。

 眼鏡がないせいで、黒い外套は床の影に溶け、ヴァンの顔の輪郭もぼやけている。練習で覚えた距離が、暗さの中で頼りなくなっていく。ここで止まるはずだと思っても、まだ遠い気がする。影が重なっていない気がした。

 もう少しだけ近づかないと、届かない気がする。

 ここで最後を壊したくない。

 イネヴェアさんから受け取った白百合姫を、最後まで落としたくない。

 だから、もう少しだけ近づく。

 もう少し。

 もう少しだけ。

 髪が頬に落ちる。

 息が触れる。

 近い。

 近すぎる。

 そう気付いた時には、もう遅かった。

 唇に、やわらかいものが触れた。

 ほんの一瞬。

 けれど、確かに触れた。

 演技では、なかった。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第六十三話 黒騎士と姫


 これは、本当はイネヴェアさんの役だった。

 白いドレスも、百合の刺繍も、小さな冠も、白い花飾りも、本当ならイネヴェアさんが身に着けるはずだった。わたしは白百合姫ではなく、ただの雑用係で、台本を運んだり、小道具を確認したり、舞台袖で合図を伝えたり、オーレリアに呼ばれてあちこち走ったりするはずだった。

 だから、わたしが失敗すれば、わたし一人が恥をかくだけでは済まない。

 イネヴェアさんが立つはずだった舞台を壊す。オーレリアが作った劇を壊す。エインさんが何度も直してくれた小道具も、ハリエットが縫ってくれた衣装も、ローティさんやウォールさんが何度も倒れる練習をした時間も、ヴァンが黒騎士として積み上げてきたものも、全部、わたしの失敗の中に巻き込んでしまう。

 それが怖い。

 白百合姫に相応しいから、ここに立ってるんじゃない。

 相応しくないと分かっている。イネヴェアさんの代わりになんてなれないと分かっている。観客の前に出るのも怖い。眼鏡を外した顔を見られるのも怖い。舞踏会で踊りを間違えるのも、台詞が詰まるのも、全部怖い。

 それでも、受け取ってしまった。

 イネヴェアさんが、あの冠をわたしの頭に乗せてくれた。悔しかったはずなのに、痛かったはずなのに、自分が立つはずだった場所を、わたしに渡してくれた。

 だから、もう舞台袖に隠れてはいられなかった。

 裏方として、みんなの後ろにいる安全な場所。失敗しても目立たない場所。自分には無理ですと言って下がることのできる場所。イネヴェアさんと比べられずに済む場所。

 その全部を捨てる。

 鏡の中には、わたしではないみたいな、見慣れないわたしが立っていた。

 眼鏡がないだけで、世界は頼りなくなる。黒縁眼鏡の奥に隠れていた目元や、困るとすぐ下がる眉や、何かを探すように揺れてしまう視線が、全部そのまま外へ出てしまっている。白いドレスは綺麗だった。百合の刺繍も、薄く重なった布も、小さな冠も、白い花飾りも、本当に綺麗だった。けれど、その綺麗さが自分のものではない気がして、身に着けているほど落ち着かなくなる。

 イネヴェアさんなら、きっと違った。

 背筋を伸ばして、顎を上げて、ドレスに負けない顔で立てたはずだ。舞踏会の場面でも、足先まで綺麗に揃えて、相手役の動きが少しずれても何もなかったように流せたはずだし、最後の嘆きの口付けも、観客が息を呑むような角度で止められたはずだ。

 白百合姫は、本当ならそういう姫だった。

 けれど、今ここにいるのは、わたしだった。

「ミコト」

 オーレリアが、いつもより少し低い声で呼んだ。わたしの顔をじっと見て、何も言わず、肩の辺りの布を整え、花飾りの位置を確かめてから、いつもの監督の顔で言った。

「立ち位置は、床の印じゃなくて歩数で思い出して。眼鏡がないから、印を頼りにしすぎないこと」

 練習はした。舞踏会の歩き方も、父王の前へ出る歩数も、地下牢から出る時の向きも、森で迷う位置も、黒騎士のそばへ戻るタイミングも、包帯を巻く手順も、最後の場面で膝をつき、黒騎士の頭を膝に乗せ、顔を近づける角度も、何度も確認した。

 覚えたことと、自分のものになったことは違うけれど、怖くても答える。

「はい」

 わたしは、イネヴェアさんのために考案された所作を、付け焼き刃で身体へ入れただけだった。それでも、やるしかなかった。怖いからやめる、という選択肢は、もう手放した。

 ハリエットが、わたしの手をそっと握ってくれた。

「ミコトちゃんなら、大丈夫。イネヴェアも、きっとそう言うと思う」

 その名前を聞いた途端、胸が少し痛くなった。

「......はい」

 わたしは、もう一度頷いた。

 ふと振り向くと、舞台袖の奥には、ヴァンがいた。

 黒い外套と胸当てを身に着け、舞台用の剣を持っている。いつものヴァンなのに、黒騎士の衣装を着ているだけで少し遠く見えた。

 こんな時、もしも目が合ったなら、いつもの仕草でヴァンは何も言わずに小さく頷いてくれたと思う。本当は一言だけでも、なにか話をしたかったけれど。それでも待機室へ向かうヴァンの背中を見て、少しだけやる気をもらえた気がする。

 幕が上がる。

 最初に舞台へ出るのは、白百合姫。つまり、わたしだった。

 大広間の明かりがつき、白い布と花飾りに飾られた王城の舞踏会が客席の前に広がる。音楽が流れ、貴族役の生徒達が輪を作る中、わたしは決められた位置へ進んだ。

 一歩、二歩、三歩。

 そこで止まり、差し出された手を取る。

 舞踏は、やっぱり綺麗にはできなかったと思う。月級一年の宮廷舞踏のように揃っているわけではないし、イネヴェアさんのように、裾の揺れまで計算された動きにはならない。眼鏡がないせいで相手の足元も少し曖昧で、床の印も照明の中で滲んで見える。

 それでも、止まらないようにした。

 ここで止まったら、イネヴェアさんが渡してくれた白百合姫まで止めてしまう気がしたからだ。

 輪舞の途中で、侍女役のリーゼさんが花飾りを落とす。

 そこは台本通りだった。

 わたしは踊りの流れの中で一度だけ足を止め、落ちた花飾りを拾って、リーゼさんへ渡す。ほんの短い動きだったけれど、手渡した時、その子の手が少し震えているのが分かった。演技なのか、本当に緊張していたのかは分からない。でも、その手を見た瞬間、わたしは少しだけ笑った。

 大丈夫。

 そう伝えたかった。

 次に、父王役のエルマーさんの前へ進む。

「白百合よ」

「お父様」

 エルマーさんは、わたしの手を取って穏やかに笑った。

「お前は、昔からそうだな。誰かが困っていると、すぐ立ち止まれる」

 その言葉は台詞だった。けれど、胸の奥にそっと落ちた。白百合姫は、強くて何でもできる姫ではない。ただ、誰かが困っていると立ち止まってしまう。自分の踊りが少し崩れても、足を止めてしまう。

 そういう姫なのだと思った時、少しだけ、自分にも分かる気がした。

 エルマーさんの身体が揺れる。

「お父様......?」

「よい子だ」

 父王が倒れ、音楽が止む。

 そこから先は、華やかだった舞台の光が一つずつ消えていくようだった。

 王の死、継母妃の告発、毒殺の濡れ衣、兵士達に囲まれる白百合姫、地下牢、リーゼさんの手引き、森への逃亡。場面は次々に変わり、そのたびに、わたしはイネヴェアさんならどう見えただろうと考えてしまった。

 けれど、考えすぎると足が止まりそうになる。

 だから途中からは、上手く見せようとすることを少しだけ諦めた。イネヴェアさんのように見せることはできない。できないものを追いかければ、きっと舞台の途中で迷子になる。ならば、せめて止まらない。せめて台詞を落とさない。せめて、白百合姫が選ぶ場所まで行く。

 それだけを考えた。

 森の場面では、舞台の木々が作り物だと分かっているのに、どこへ行けばいいのか分からなくなった。青黒い照明の中で床の印が滲み、裾を踏まないように歩くだけで精一杯になる。何度も後ろを振り返り、逃げ道を探す姿は演技のはずなのに、心細さだけは本物だった。

 反対側から、黒騎士が現れる。

 ヴァンだった。

 黒い外套に照明が落ち、蓄音水晶クラング・クリスタルから重い音楽が流れ始める。ヴァンの声は、いつもの声なのに、舞台の上では黒騎士の声に聞こえた。

「見つけたぞ!」

 追われる場面。

 見つかる場面。

 剣を向けられる場面。

 劇だと分かっているのに、黒い外套が近づくと胸が縮んだ。

「戻れ。継母妃様の命令だ」

「戻れば、わたくしは殺されます」

「同じこと。命令は、連れ戻すこと。さもなくば殺すこと」

 黒騎士が剣を向ける。

「逆らうならば、今ここで斬る」

 わたしは一歩下がる。

 その時、岩場が崩れた。

 ヴァンの身体が傾き、転がり落ちる。練習で何度も見た場面のはずなのに、本番の照明と音が重なると、本当に落ちたように見えた。胸が冷たくなる。黒騎士はうつ伏せに倒れ、動かない。

 今なら逃げられる。

 白百合姫は助かる。

 わたしは一度、森の奥を見た。逃げ道を見る。次に、倒れている黒騎士を見る。

 戻る。

 それが白百合姫の選択だった。

 わたしは黒騎士のそばに膝をついた。

「しっかりしてください」

 ドレスの布を掴む。

 ここが、不安だった。

 練習では、本当に破ることはほとんどできなかった。イネヴェアさんでさえ数えるほどしかやっていない。わたしは、ほとんど本番で初めて破るようなものだった。布を掴んで引く。けれど、破れない。

「......あ」

 小さな声が漏れた。

 指に力を込めても、布は伸びるだけだった。頭が真っ白になりかける。ここで止まったら駄目だ。止まったら、白百合姫が黒騎士を助けられない。イネヴェアさんから受け取った場面を、ここで落としてしまう。

 どうしよう、と思った時には、体が勝手に動いていた。

 布を歯で噛み、両手で掴み、全身を使って引く。

 びり、と音がした。

 破れた。

 客席の空気が少し動いた気がしたけれど、もう気にしていられなかった。破いた布を包帯代わりにして、黒騎士の腕と足に巻く。ずれないように、きつくしすぎないように、でもほどけないように。本当に怪我をした人が目の前にいて、包帯もなくて、他に誰もいなかったら、たぶんわたしは同じことをする。

「なぜ......」

 黒騎士が言う。

「逃げればよかった」

「あなたが、死にそうだったからです」

「おれは、お前を捕らえに来た」

「知っています」

「斬るとも言った」

「それでもです」

 声は震えた。けれど、退かなかった。

「目の前で誰かが死にそうなのに、放ってはおけません」

 それは白百合姫の台詞だった。でも、口にした時、自分の言葉のようにも聞こえた。

 白百合姫に相応しいから言えたのではない。

 怖くても、言うと決めたから言えた。

 そう思った。

 黒騎士は、わたしを見た。

「愚かな姫だ」

「はい」

 わたしは小さく頷いた。

「そうかもしれません」

 そこから舞台は速かった。

 追手の黒騎士達が現れ、黒騎士が傷ついた体で立ち上がり、わたしは木陰に隠れる。音楽が高まり、剣と剣がぶつかる音がして、観客の息が一斉に動く。詳しい動きは追えなかった。けれど、ヴァンの剣さばきが何から何まですごく上手で、黒い外套が照明の中で翻り、ローティさんが高く跳び、次の瞬間には宙返りをしながら吹き飛んで、客席から大きな歓声が上がった。

 すごい、と思った。

 けれど、そのすごさに息を呑んだ直後、黒騎士は膝をつく。わたしは駆け寄ろうとして、止められる。

「来るな」

 黒騎士が片腕を伸ばす。

「城へ戻る」

「戻る?」

「戻って報告をする。白百合を斬った。だが谷へ落ちた。それで、おまえは安全になる」

 嘘だと思った。

 劇の中の嘘。けれど、その嘘は痛かった。黒騎士は平気ではない。傷ついている。戻れば危ない。それなのに、平気な顔をしている。ヴァンも、そういう嘘をつく気がした。痛いのに痛くないと言い、大丈夫ではないのに大丈夫だと言う。そういう顔が、少しだけ浮かんでしまった。

「問題はない。ここで待て」

「黒騎士様」

「必ず戻る」

 そう言って、黒騎士は城へ行く。

 必ず戻る。

 でも、戻らないことを、わたしは知っていた。

 舞台袖へ下がると、王城の場面は全部は見えなくなった。それでも音は聞こえる。ハリスさんの声。凍結針フロスト・ナーデルの音。ヴァンの剣が風を切る音。観客が息を呑む気配。わたしは待機位置で手を握りしめながら、今すぐ走り出したくなるのをこらえていた。

 出て行きたい。

 でも、まだ出てはいけない。

 白百合姫は、間に合わない。

 役だと分かっていても、それが一番つらかった。

 黒騎士が継母妃を倒し、王国騎士達が現れる。

「黒騎士、観念しろ!」

「王国に仇なす反逆者め!」

 黒騎士は反撃しない。言い訳もしない。剣が落ちる音がして、その後に、ヴァンの声が聞こえた。

「白百合姫を、頼む」

 胸が、ぎゅっと痛くなった。

 照明が赤く落ち、騎士達が去る。

 合図。

 わたしは走った。

 森で待っているはずの白百合姫が、約束を破って城へ戻ってくる場面だった。けれど、舞台へ走り出した瞬間、自分が白百合姫なのか、ミコトなのか、分からなくなっていた。

「黒騎士様!」

 黒い外套が床に倒れている。

 ヴァンが、そこにいる。

 動かない。

 演技だと分かっていても怖かった。わたしは黒騎士のそばに膝をつき、頭を膝に乗せる。練習通りの位置。練習通りの角度。ここで、最後の言葉をかける。

 照明が、落ち始める。

「誰も信じなくても、あなたは、わたくしの騎士です」

 声が震えた。それでも、言葉は出た。

「あなたのこと、忘れません」

 ここからは、嘆きの口付け。

 実際には触れない。寸前で止める。白百合姫の背中側から影だけを重ねて、観客には口付けをしたように見せる。練習では何度も確認した。顔の角度も、膝の位置も、手を置く場所も、どこまで近づいて、どこで止まるかも、ちゃんと覚えている。

 けれど、練習の時は、ここまで暗くなかった。

 照明を落とすと言っても、練習では立ち位置や顔の距離が見えていた。オーレリアも、危ないから最後の寸止めは明るめの照明で確認すると言っていた。本番では影を綺麗に見せるために暗くする。それは分かっていた。けれど、実際にどれくらい暗くなるのかを、わたしの体は知らなかった。

 思っていたより、ずっと暗い。

 眼鏡がないせいで、黒い外套は床の影に溶け、ヴァンの顔の輪郭もぼやけている。練習で覚えた距離が、暗さの中で頼りなくなっていく。ここで止まるはずだと思っても、まだ遠い気がする。影が重なっていない気がした。

 もう少しだけ近づかないと、届かない気がする。

 ここで最後を壊したくない。

 イネヴェアさんから受け取った白百合姫を、最後まで落としたくない。

 だから、もう少しだけ近づく。

 もう少し。

 もう少しだけ。

 髪が頬に落ちる。

 息が触れる。

 近い。

 近すぎる。

 そう気付いた時には、もう遅かった。

 唇に、やわらかいものが触れた。

 ほんの一瞬。

 けれど、確かに触れた。

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