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第三十七話 レオナの願い


 少し込み入った話になった。

「林間学校に行くだけで、いいんでしょうか」

 発端は、わたしのこの一言だった。自分でも少し曖昧だと思ったけれど。レオナさんにとって、林間学校に参加するだけでも大きなことだ。森の中を歩いたり、みんなでご飯を作ったり、夜にお話をしたりする。それだけでも、きっと十分に特別だと思う。だけど、九月七日という日付を聞いてしまった後では、どうしても、それだけでいいのかと思ってしまう。

 レオナさんは、みんなと同じことをしたいのは確か。でも、それだけじゃなくて、何か、ずっと覚えていられるもの、思い出を作れないか。ただ参加しました、で終わるんじゃなくて、レオナさんが、ちゃんとみんなと一緒にいたって思えるようなものを、という考えに、みんなが乗り気になってしまった。

 場所は、いつもの秘密基地だった。わたしとヴァンさん、オーレリアさん、ローティさんだけでは足りないので、ハリエットさん、ハリスさん、ロイさんにも来てもらっていた。レオナさんの病気や、永眠封印エターナル・ソーンのことを全部細かく話し直し終えると、部屋の空気は十分に重くなった。九月七日、十歳の誕生日、その日にレオナさんが眠るという事実だけで、みんな黙ってしまった。

「きっと......レオナ様の願いは、林間学校へ行くことだけではないのかもしれませんね」

 ハリエットさんが、静かに言った。

「みんなと同じ時間を過ごすこと。自分も、そこにいたと思えること。それが本当の願いなのかもしれません」

 その言葉で、わたしの胸の中にあったものが少し形になった気がした。レオナさんは、ただ森を見たいのではない。ただ行事に参加したいのでもない。みんなと一緒に、何かを覚えていたいのだと思う。

「なら、何をするかですね」

 ハリスさんが言った。

「思い出を作る、という方針は分かります。ですが、具体的に何をするのか決めないと、準備も計算もできません」

「おそろいのものを持つのはどうでしょうか」

 ハリエットさんが、少し考えてから言った。

「おそろい、ですか」

「はい。みんなと同じものを持っていたら、レオナ様も同じ班の一員だと感じやすいかもしれません。身に付けるものでも、小さな飾りでもいいと思います」

「それ、いいと思います」

 わたしはすぐに頷いた。みんなと同じもの。たったそれだけでも、自分もその中にいると思えることがある。わたしにも、なんとなく分かる気がした。

「他には?」

 ロイさんが聞いた。

「林間学校のしおりを作るとか」

 わたしが言うと、全員がこちらを見た。

「しおりってなに?」

 最初に聞いたのは、ローティさんだった。

「本に挟むものですか?」

 ハリエットさんも少し首を傾げる。

「えっと、本に挟むしおりじゃなくて、予定表とか、持ち物とか、班の名前とか、行く場所とかを書いた小さな冊子です。あと、あとで思い出を書いたり、みんなで一言ずつ書いたりするんです」

「記録用の小冊子なのよぅ?」

 オーレリアさんの目の色が、少しだけ変わった。

「記録でもありますけど、思い出帳みたいなものです」

「それは楽しそうなのよぅ」

 オーレリアさんは、ぱっと手帳を開いて、しきりに何かを書き始める。

「採用なのよぅ」

「早いですね」

「記録と思い出を同時に残せるなら、採用に決まっているのよぅ」

 もしかすると、わたしはとんでもないものを生み出してしまったのかもしれない。オーレリアさんの手帳を走るペン先が、いつもより少しだけ速かった。

「魚釣りは、元から予定にありますよね」

 ハリエットさんが話を戻した。

「小川での食材確保ですね。座ってできるなら、レオナ様も参加できると思います」

「料理は?」

 ロイさんが聞く。

「火の近くは気をつける必要がありますけど、野菜を入れたり、味を見るくらいなら一緒にできます。体調が良ければ、ですけれど」

「それなら、普通の予定の中でも一緒にできるのよぅ」

 オーレリアさんが書きながら言った。魚釣り。料理。おそろいのもの。しおり。ひとつずつ並んでいくと、少しだけ林間学校が本当に近づいてくる気がした。

「テントの設営訓練は?」

 ローティさんが言った。

「ジークハルト先生が指導するやつだろ。杭を打ったり、縄を張ったりするやつ」

「レオナ様は見学ですね」

 ハリエットさんが、すぐに答えた。

「杭を打つのも、重い布を持つのも、無理はさせられません」

「行軍訓練は?」

「それも難しいと思います。森林地帯を長く歩く訓練ですから」

「熊さん達がカゴか何かで運んでくれるんじゃないか?」

 ローティさんが言う。熊さん、というのは間違いなくベイオベア卿のことだ。

「可能性はありますね」

 ハリスさんは真面目に頷いた。

「ただ、それはレオナ様が訓練に参加するというより、訓練について行く形になるでしょう」

「見ているだけが増えるのは、少し寂しいですね」

 わたしが言うと、誰もすぐには否定しなかった。できることはある。でも、できないことも多い。レオナさんが林間学校に行けることになったとしても、全部をみんなと同じようにできるわけではない。だから、やっぱり、何かもう一つ欲しいと思った。少しの間、沈黙が過ぎた。

「八月十八日」

 突然、ヴァンさんが言った。全員がそちらを見る。ヴァンさんは、いつものように余計な前置きをしなかった。

「銀狼曜日。満月だ」

「満月、なのよぅ?」

 オーレリアさんが手帳をめくる。ハリスさんも、すぐに日付を思い浮かべたようだった。

「確かに、八月十八日は満月ですね。日没は十八時五十分前後のはずです」

「湖が白くなる」

 ヴァンさんが続けた。

「湖、ですか?」

「ああ。日が落ちたあと、南東に月が出る。場所が合えば、湖に映る」

 わたしは、すぐには想像できなかった。月が湖に映るというのは、きっと綺麗なのだろう。でも、それなら学院からでも見えないのだろうかと思った。七聖学院は湖のそばにある。寄宿舎の二階からなら、湖の方だって少しは見えそうな気がする。

「でも、学院からは見えないのよぅ?」

 オーレリアさんが、わたしの代わりに聞いてくれた。

「見えない。森がある」

 ヴァンさんが短く答えると、ハリスさんがそこへ言葉を足した。

「学院と寄宿舎は湖の北側です」

 ハリスさんが、頭の中に地図を広げるように言った。

「寄宿舎の二階から湖の一部が見えるとしても、森が邪魔になります。月が映る南東側の水面までは、まず見通せません」

「同じ湖なのに、見える場所と見えない場所があるんですね」

「あります」

 ハリスさんは、あっさり頷いた。

「見る場所、見る角度が違えば、目に映る景色も変わります」

「林間学校の野営地は、湖の南側へ回った先なのよぅ」

 オーレリアさんが言った。

「そこから山を越える」

 ヴァンさんが続ける。

「山を越えるんですか」

「ああ」

「南岸の突き出た崖まで出れば、南東の湖面が見えるはずです」

 ハリスさんがそうまとめた。

「つまり、学院にいるだけでは見えない景色なのよぅ」

 オーレリアさんが、納得したように呟いた。

「でも、どうしてヴァンさんは、その景色のことを知っているんですか?」

 わたしが尋ねると、ヴァンさんは答える前にハリスさんを見た。ハリスさんは少しだけ肩をすくめた。

「僕とヴァンは、時々舟を出して湖へ釣りに行くんです」

「それって門限......」

 ヴァンさんは、そっぽを向いた。ハリスさんも苦笑しながら続けた。

「......で、その時に見たことがあります。南東の空に月が出る夜、湖面が白く光るんです。場所と時刻が合えば、とても綺麗に見えます」

 ハリスさんは手帳に視線を落とした。

「八月十八日、銀狼曜日。満月。日没は十八時五十分前後。条件としては悪くありません」

 普段は見えないもの。学院にいるだけでは、たぶん一度も見ることのない景色。それを、林間学校に行く今なら、レオナさんに見せられるかもしれない。そう思った瞬間、さっきまで重かったものの中に、ほんの少しだけ熱が生まれた気がした。

「でも、夜ですよね」

 ハリエットさんが静かに言った。

「夜に、山を越えるのですか」

 その一言で、熱くなりかけた空気が少し引き締まった。そうだ。綺麗だから見に行きましょう、で済む話ではない。レオナさんは体が弱い。そもそも夜は結界小屋バリアヒュッテで護られることになっている。山道を歩かせるどころか、外へ出すだけでも、本当なら止められるに決まっている。

「歩かせない」

 ヴァンさんが言った。

「運ぶ」

「どうやってですか?」

「籠を使う」

 その言葉に、最初に乗ったのはローティさんだった。

「それなら俺が運ぶ」

「ローティさんが?」

「レオナ様を守る騎士が必要なんだろ。だったら、俺がやる。籠を持つのが騎士の仕事なら、俺が持つ」

 ローティさんは、いつもの勢いだけで言っているようにも見えた。けれど、その目は真面目だった。

「レオナ様を乗せるなら、普通の籠では危ないと思います。騎士様達から借りるわけにもいきませんし、作るしか......」

「作る?」

 ローティさんが聞く。ハリエットさんがすぐに答えた。

「はい。背中と腰を支えて、横に倒れないようにしないと。できれば、籠の中に布を重ねて、身体を固定しすぎない程度に支えた方がいいです」

「材料は?」

 またローティさんが聞く。ハリエットさんがすぐに答える。

「持ち込める範囲で、布と紐は用意しておいた方がいいです。あとは、休憩できる場所も必要です。レオナ様が疲れた時、すぐ座れる場所がないと困ります」

「移動経路、籠、休憩地点。そこまでは必須ですね」

 ハリスさんが言った。

「加えて、時刻です。月が見える時間に着かなければ意味がありません。早すぎても、遅すぎても駄目でしょう」

「許可は取れないのよぅ」

 オーレリアさんが小さく言った。

「取れません」

 ハリスさんが即答した。

「許可を求めた時点で止められます。下手すれば参加も取り消しに...」

「それ、だめなやつじゃないですか」

 わたしは思わず言った。言わずにはいられなかった。だって、どう考えてもだめだ。夜にレオナさんを連れ出して、山を越えて、湖を見に行く。文字にしただけで怒られそうなことばかりだ。

「はい。だめなやつです。規則違反です。後で怒られましょう」

 ハリスさんは、そこを少しも誤魔化さなかった。

「罰は受ける」

 ヴァンさんが言った。悪戯に慣れた少年達は、こういう時だけ妙に清々しい。

「だからこそ、危険は可能な限り減らす必要があります。時間、経路、合図、休憩、見張り。全部ちゃんと決めます。景色を見せるだけなら、連れて行けばいい。問題は、そこへ安全に連れて行き、安全に戻すことです」

「戻すまでが作戦なのよぅ」

 オーレリアさんが帰るまでは遠足みたいなノリで言った。表情は真面目だった。

「まず、移動ルートです」

 ハリエットさんが話を戻した。

「昼間の活動の中で、山道を確認します。危ない枝を除けて、滑りやすい場所を避けて、休める場所を決めます。強い光は使えませんが、近くまで来た人だけが分かる目印なら置けます」

「目印?」

「夜になると、ほんの少しだけ光るものです。森の中でも目立ちすぎないようにできます。夜光苔か、夜灯茸を使いましょう」

 戦術ドルイドの訓練、という言葉を思い出した。森や道や植物を知っているハリエットさんは、こういう時、本当に頼りになる。

「わたしは?」

 自分で聞いてから、少し怖くなった。足は速くない。夜道にも慣れていない。レオナさんを運べる力もない。合図や計算なら、たぶんハリスさん達の方がずっと頼りになる。何もできないと言われたらどうしようと思った。

「ミコトさんは、姉さんと先に崖へ向かってください」

 ハリスさんが言った。

「先に?」

「はい。足が速くない人が、ヴァン達の移動に合わせて動くと、全体が遅くなります。なら、先に行って待っている方がいい。崖の上で座る場所を作る。シートを敷く。飲み物を用意する。寒くないようにする。レオナ様が到着した時、すぐ休める場所が必要です」

 言われて、少しだけ胸が軽くなった。そうか。走れなくても、運べなくても、待つ場所を作ることはできる。レオナさんが来た時に、ここなら大丈夫ですと言える安らぎの場所を用意することはできる。そうだ、クッションも運び込もう。

「やります」

 わたしが頷くと、ハリエットさんも静かに頷いた。

「では、わたしは道の確認と、目的地での準備ですね。ミコトさん、無理をしないように早めに出ましょう」

「はい」

「籠と運搬。山道。目的地の準備。時刻。合図。最低限、考えるべきことは出ました」

 ハリスさんがそこまで言うと、ロイさんが少し眉を寄せた。

「一応、だな」

「はい。一応です。予定通りにいく保証はありません」

「そこを正直に言うのがハリスらしいな」

「正直に言わなければ危険です」

 ハリスさんは淡々としていた。でも、その淡々とした声が、逆に頼もしかった。無茶を無茶のまま勢いで押し通そうとしているのではない。無茶だと分かった上で、どうすれば少しでも危なくなくなるかを考えている。無理と無茶の違い、みたいな。

「それでも、やるんですよね」

 わたしが言うと、少しの間、誰も答えなかった。夜間外出。護衛の目。先生達。結界小屋バリアヒュッテ。レオナさんの体調。山道。どれを考えても、簡単な話ではない。ほんのちょっとした何かで、全ての歯車が狂いそうな計画だった。

「でも、見せたい」

 ヴァンさんが言った。それだけだった。けれど、その言葉で十分だった。

「作戦としては無茶です」

 ハリスさんが言う。

「でも、不可能ではありません」

「それ、ハリスが言うとできそうに聞こえるな」

 ローティさんが言った。

「できそうに聞こえるだけでは困ります。できるようにします」

 ハリスさんはそう言って、紙を広げた。オーレリアさんも横から覗き込み、二人で時刻や場所の話を始める。ハリエットさんは道と休憩地点のことを考え、ローティさんは籠の持ち手をどうするかを考えているようだった。ロイさんは、腕を組んで目を閉じ、何かを真剣に考えていた。

 わたしは、その様子を見ながら、胸の中が少し熱くなるのを感じた。レオナさんは、ここにはいない。けれど、ここにいる全員が、レオナさんのために考えている。どうすれば、ただ守られているだけではない、本物の自由な時間を渡せるのか。どうすれば、レオナさんがみんなと同じ思い出を持てるのか。

「レオナさんの願いは、ただ林間学校に行くことだけじゃないんですよね」

 わたしが小さく言うと、ハリエットさんが優しく頷いた。

「きっと、そうです」

「みんなと、同じ思い出を作ること」

「なら、作ろう」

 ロイさんが言った。短い言葉だったけれど、とても頼もしかった。

「やるんだろ?」

 ローティさんが笑う。少しだけ、いつもの顔に戻っていた。

「やる」

 ヴァンさんが答えた。

 その時、わたしは本当に、この人達と一緒なら何かできるかもしれないと思った。危ないことだ。叱られるかもしれない。失敗するかもしれない。それでも、レオナさんに、ただ待つだけではない時間を渡したい。眠る日が決まっているなら、その日までの時間は、ただ数えるだけで終わらせたくない。

 話がまとまりかけた時、ヴァンさんがふいに言った。

「ルナも連れてく」
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第三十七話 レオナの願い


 少し込み入った話になった。

「林間学校に行くだけで、いいんでしょうか」

 発端は、わたしのこの一言だった。自分でも少し曖昧だと思ったけれど。レオナさんにとって、林間学校に参加するだけでも大きなことだ。森の中を歩いたり、みんなでご飯を作ったり、夜にお話をしたりする。それだけでも、きっと十分に特別だと思う。だけど、九月七日という日付を聞いてしまった後では、どうしても、それだけでいいのかと思ってしまう。

 レオナさんは、みんなと同じことをしたいのは確か。でも、それだけじゃなくて、何か、ずっと覚えていられるもの、思い出を作れないか。ただ参加しました、で終わるんじゃなくて、レオナさんが、ちゃんとみんなと一緒にいたって思えるようなものを、という考えに、みんなが乗り気になってしまった。

 場所は、いつもの秘密基地だった。わたしとヴァンさん、オーレリアさん、ローティさんだけでは足りないので、ハリエットさん、ハリスさん、ロイさんにも来てもらっていた。レオナさんの病気や、永眠封印エターナル・ソーンのことを全部細かく話し直し終えると、部屋の空気は十分に重くなった。九月七日、十歳の誕生日、その日にレオナさんが眠るという事実だけで、みんな黙ってしまった。

「きっと......レオナ様の願いは、林間学校へ行くことだけではないのかもしれませんね」

 ハリエットさんが、静かに言った。

「みんなと同じ時間を過ごすこと。自分も、そこにいたと思えること。それが本当の願いなのかもしれません」

 その言葉で、わたしの胸の中にあったものが少し形になった気がした。レオナさんは、ただ森を見たいのではない。ただ行事に参加したいのでもない。みんなと一緒に、何かを覚えていたいのだと思う。

「なら、何をするかですね」

 ハリスさんが言った。

「思い出を作る、という方針は分かります。ですが、具体的に何をするのか決めないと、準備も計算もできません」

「おそろいのものを持つのはどうでしょうか」

 ハリエットさんが、少し考えてから言った。

「おそろい、ですか」

「はい。みんなと同じものを持っていたら、レオナ様も同じ班の一員だと感じやすいかもしれません。身に付けるものでも、小さな飾りでもいいと思います」

「それ、いいと思います」

 わたしはすぐに頷いた。みんなと同じもの。たったそれだけでも、自分もその中にいると思えることがある。わたしにも、なんとなく分かる気がした。

「他には?」

 ロイさんが聞いた。

「林間学校のしおりを作るとか」

 わたしが言うと、全員がこちらを見た。

「しおりってなに?」

 最初に聞いたのは、ローティさんだった。

「本に挟むものですか?」

 ハリエットさんも少し首を傾げる。

「えっと、本に挟むしおりじゃなくて、予定表とか、持ち物とか、班の名前とか、行く場所とかを書いた小さな冊子です。あと、あとで思い出を書いたり、みんなで一言ずつ書いたりするんです」

「記録用の小冊子なのよぅ?」

 オーレリアさんの目の色が、少しだけ変わった。

「記録でもありますけど、思い出帳みたいなものです」

「それは楽しそうなのよぅ」

 オーレリアさんは、ぱっと手帳を開いて、しきりに何かを書き始める。

「採用なのよぅ」

「早いですね」

「記録と思い出を同時に残せるなら、採用に決まっているのよぅ」

 もしかすると、わたしはとんでもないものを生み出してしまったのかもしれない。オーレリアさんの手帳を走るペン先が、いつもより少しだけ速かった。

「魚釣りは、元から予定にありますよね」

 ハリエットさんが話を戻した。

「小川での食材確保ですね。座ってできるなら、レオナ様も参加できると思います」

「料理は?」

 ロイさんが聞く。

「火の近くは気をつける必要がありますけど、野菜を入れたり、味を見るくらいなら一緒にできます。体調が良ければ、ですけれど」

「それなら、普通の予定の中でも一緒にできるのよぅ」

 オーレリアさんが書きながら言った。魚釣り。料理。おそろいのもの。しおり。ひとつずつ並んでいくと、少しだけ林間学校が本当に近づいてくる気がした。

「テントの設営訓練は?」

 ローティさんが言った。

「ジークハルト先生が指導するやつだろ。杭を打ったり、縄を張ったりするやつ」

「レオナ様は見学ですね」

 ハリエットさんが、すぐに答えた。

「杭を打つのも、重い布を持つのも、無理はさせられません」

「行軍訓練は?」

「それも難しいと思います。森林地帯を長く歩く訓練ですから」

「熊さん達がカゴか何かで運んでくれるんじゃないか?」

 ローティさんが言う。熊さん、というのは間違いなくベイオベア卿のことだ。

「可能性はありますね」

 ハリスさんは真面目に頷いた。

「ただ、それはレオナ様が訓練に参加するというより、訓練について行く形になるでしょう」

「見ているだけが増えるのは、少し寂しいですね」

 わたしが言うと、誰もすぐには否定しなかった。できることはある。でも、できないことも多い。レオナさんが林間学校に行けることになったとしても、全部をみんなと同じようにできるわけではない。だから、やっぱり、何かもう一つ欲しいと思った。少しの間、沈黙が過ぎた。

「八月十八日」

 突然、ヴァンさんが言った。全員がそちらを見る。ヴァンさんは、いつものように余計な前置きをしなかった。

「銀狼曜日。満月だ」

「満月、なのよぅ?」

 オーレリアさんが手帳をめくる。ハリスさんも、すぐに日付を思い浮かべたようだった。

「確かに、八月十八日は満月ですね。日没は十八時五十分前後のはずです」

「湖が白くなる」

 ヴァンさんが続けた。

「湖、ですか?」

「ああ。日が落ちたあと、南東に月が出る。場所が合えば、湖に映る」

 わたしは、すぐには想像できなかった。月が湖に映るというのは、きっと綺麗なのだろう。でも、それなら学院からでも見えないのだろうかと思った。七聖学院は湖のそばにある。寄宿舎の二階からなら、湖の方だって少しは見えそうな気がする。

「でも、学院からは見えないのよぅ?」

 オーレリアさんが、わたしの代わりに聞いてくれた。

「見えない。森がある」

 ヴァンさんが短く答えると、ハリスさんがそこへ言葉を足した。

「学院と寄宿舎は湖の北側です」

 ハリスさんが、頭の中に地図を広げるように言った。

「寄宿舎の二階から湖の一部が見えるとしても、森が邪魔になります。月が映る南東側の水面までは、まず見通せません」

「同じ湖なのに、見える場所と見えない場所があるんですね」

「あります」

 ハリスさんは、あっさり頷いた。

「見る場所、見る角度が違えば、目に映る景色も変わります」

「林間学校の野営地は、湖の南側へ回った先なのよぅ」

 オーレリアさんが言った。

「そこから山を越える」

 ヴァンさんが続ける。

「山を越えるんですか」

「ああ」

「南岸の突き出た崖まで出れば、南東の湖面が見えるはずです」

 ハリスさんがそうまとめた。

「つまり、学院にいるだけでは見えない景色なのよぅ」

 オーレリアさんが、納得したように呟いた。

「でも、どうしてヴァンさんは、その景色のことを知っているんですか?」

 わたしが尋ねると、ヴァンさんは答える前にハリスさんを見た。ハリスさんは少しだけ肩をすくめた。

「僕とヴァンは、時々舟を出して湖へ釣りに行くんです」

「それって門限......」

 ヴァンさんは、そっぽを向いた。ハリスさんも苦笑しながら続けた。

「......で、その時に見たことがあります。南東の空に月が出る夜、湖面が白く光るんです。場所と時刻が合えば、とても綺麗に見えます」

 ハリスさんは手帳に視線を落とした。

「八月十八日、銀狼曜日。満月。日没は十八時五十分前後。条件としては悪くありません」

 普段は見えないもの。学院にいるだけでは、たぶん一度も見ることのない景色。それを、林間学校に行く今なら、レオナさんに見せられるかもしれない。そう思った瞬間、さっきまで重かったものの中に、ほんの少しだけ熱が生まれた気がした。

「でも、夜ですよね」

 ハリエットさんが静かに言った。

「夜に、山を越えるのですか」

 その一言で、熱くなりかけた空気が少し引き締まった。そうだ。綺麗だから見に行きましょう、で済む話ではない。レオナさんは体が弱い。そもそも夜は結界小屋バリアヒュッテで護られることになっている。山道を歩かせるどころか、外へ出すだけでも、本当なら止められるに決まっている。

「歩かせない」

 ヴァンさんが言った。

「運ぶ」

「どうやってですか?」

「籠を使う」

 その言葉に、最初に乗ったのはローティさんだった。

「それなら俺が運ぶ」

「ローティさんが?」

「レオナ様を守る騎士が必要なんだろ。だったら、俺がやる。籠を持つのが騎士の仕事なら、俺が持つ」

 ローティさんは、いつもの勢いだけで言っているようにも見えた。けれど、その目は真面目だった。

「レオナ様を乗せるなら、普通の籠では危ないと思います。騎士様達から借りるわけにもいきませんし、作るしか......」

「作る?」

 ローティさんが聞く。ハリエットさんがすぐに答えた。

「はい。背中と腰を支えて、横に倒れないようにしないと。できれば、籠の中に布を重ねて、身体を固定しすぎない程度に支えた方がいいです」

「材料は?」

 またローティさんが聞く。ハリエットさんがすぐに答える。

「持ち込める範囲で、布と紐は用意しておいた方がいいです。あとは、休憩できる場所も必要です。レオナ様が疲れた時、すぐ座れる場所がないと困ります」

「移動経路、籠、休憩地点。そこまでは必須ですね」

 ハリスさんが言った。

「加えて、時刻です。月が見える時間に着かなければ意味がありません。早すぎても、遅すぎても駄目でしょう」

「許可は取れないのよぅ」

 オーレリアさんが小さく言った。

「取れません」

 ハリスさんが即答した。

「許可を求めた時点で止められます。下手すれば参加も取り消しに...」

「それ、だめなやつじゃないですか」

 わたしは思わず言った。言わずにはいられなかった。だって、どう考えてもだめだ。夜にレオナさんを連れ出して、山を越えて、湖を見に行く。文字にしただけで怒られそうなことばかりだ。

「はい。だめなやつです。規則違反です。後で怒られましょう」

 ハリスさんは、そこを少しも誤魔化さなかった。

「罰は受ける」

 ヴァンさんが言った。悪戯に慣れた少年達は、こういう時だけ妙に清々しい。

「だからこそ、危険は可能な限り減らす必要があります。時間、経路、合図、休憩、見張り。全部ちゃんと決めます。景色を見せるだけなら、連れて行けばいい。問題は、そこへ安全に連れて行き、安全に戻すことです」

「戻すまでが作戦なのよぅ」

 オーレリアさんが帰るまでは遠足みたいなノリで言った。表情は真面目だった。

「まず、移動ルートです」

 ハリエットさんが話を戻した。

「昼間の活動の中で、山道を確認します。危ない枝を除けて、滑りやすい場所を避けて、休める場所を決めます。強い光は使えませんが、近くまで来た人だけが分かる目印なら置けます」

「目印?」

「夜になると、ほんの少しだけ光るものです。森の中でも目立ちすぎないようにできます。夜光苔か、夜灯茸を使いましょう」

 戦術ドルイドの訓練、という言葉を思い出した。森や道や植物を知っているハリエットさんは、こういう時、本当に頼りになる。

「わたしは?」

 自分で聞いてから、少し怖くなった。足は速くない。夜道にも慣れていない。レオナさんを運べる力もない。合図や計算なら、たぶんハリスさん達の方がずっと頼りになる。何もできないと言われたらどうしようと思った。

「ミコトさんは、姉さんと先に崖へ向かってください」

 ハリスさんが言った。

「先に?」

「はい。足が速くない人が、ヴァン達の移動に合わせて動くと、全体が遅くなります。なら、先に行って待っている方がいい。崖の上で座る場所を作る。シートを敷く。飲み物を用意する。寒くないようにする。レオナ様が到着した時、すぐ休める場所が必要です」

 言われて、少しだけ胸が軽くなった。そうか。走れなくても、運べなくても、待つ場所を作ることはできる。レオナさんが来た時に、ここなら大丈夫ですと言える安らぎの場所を用意することはできる。そうだ、クッションも運び込もう。

「やります」

 わたしが頷くと、ハリエットさんも静かに頷いた。

「では、わたしは道の確認と、目的地での準備ですね。ミコトさん、無理をしないように早めに出ましょう」

「はい」

「籠と運搬。山道。目的地の準備。時刻。合図。最低限、考えるべきことは出ました」

 ハリスさんがそこまで言うと、ロイさんが少し眉を寄せた。

「一応、だな」

「はい。一応です。予定通りにいく保証はありません」

「そこを正直に言うのがハリスらしいな」

「正直に言わなければ危険です」

 ハリスさんは淡々としていた。でも、その淡々とした声が、逆に頼もしかった。無茶を無茶のまま勢いで押し通そうとしているのではない。無茶だと分かった上で、どうすれば少しでも危なくなくなるかを考えている。無理と無茶の違い、みたいな。

「それでも、やるんですよね」

 わたしが言うと、少しの間、誰も答えなかった。夜間外出。護衛の目。先生達。結界小屋バリアヒュッテ。レオナさんの体調。山道。どれを考えても、簡単な話ではない。ほんのちょっとした何かで、全ての歯車が狂いそうな計画だった。

「でも、見せたい」

 ヴァンさんが言った。それだけだった。けれど、その言葉で十分だった。

「作戦としては無茶です」

 ハリスさんが言う。

「でも、不可能ではありません」

「それ、ハリスが言うとできそうに聞こえるな」

 ローティさんが言った。

「できそうに聞こえるだけでは困ります。できるようにします」

 ハリスさんはそう言って、紙を広げた。オーレリアさんも横から覗き込み、二人で時刻や場所の話を始める。ハリエットさんは道と休憩地点のことを考え、ローティさんは籠の持ち手をどうするかを考えているようだった。ロイさんは、腕を組んで目を閉じ、何かを真剣に考えていた。

 わたしは、その様子を見ながら、胸の中が少し熱くなるのを感じた。レオナさんは、ここにはいない。けれど、ここにいる全員が、レオナさんのために考えている。どうすれば、ただ守られているだけではない、本物の自由な時間を渡せるのか。どうすれば、レオナさんがみんなと同じ思い出を持てるのか。

「レオナさんの願いは、ただ林間学校に行くことだけじゃないんですよね」

 わたしが小さく言うと、ハリエットさんが優しく頷いた。

「きっと、そうです」

「みんなと、同じ思い出を作ること」

「なら、作ろう」

 ロイさんが言った。短い言葉だったけれど、とても頼もしかった。

「やるんだろ?」

 ローティさんが笑う。少しだけ、いつもの顔に戻っていた。

「やる」

 ヴァンさんが答えた。

 その時、わたしは本当に、この人達と一緒なら何かできるかもしれないと思った。危ないことだ。叱られるかもしれない。失敗するかもしれない。それでも、レオナさんに、ただ待つだけではない時間を渡したい。眠る日が決まっているなら、その日までの時間は、ただ数えるだけで終わらせたくない。

 話がまとまりかけた時、ヴァンさんがふいに言った。

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