ホーム›緋鋼皇國物語Ⅰ›第五十二話 配役
← 次の話目次前の話 →

第五十二話 配役


「......は?」

 ヴァンさんの声は、教室の真ん中に落ちた。

 本人は、本当に分かっていない顔をしていた。窓の外を見ていたところを急に呼び戻されて、気がついたら教室中の視線を浴びている。そんな顔だった。

「いや、は? じゃないのよぅ」

 オーレリアさんが手帳を持ち上げる。

「黒騎士役の話なのよぅ。ハリスさんが、ヴァンさんが適任だと言ったのよぅ」

「なんでだ」

「似合うからなのよぅ」

「理由になってない」

「理由になるのよぅ」

 オーレリアさんは、かなり本気の顔で言った。けれど、そこで黙っていられなかった人がいる。

「待て待て待て!」

 ローティさんだった。椅子から半分立ち上がったまま、机に両手をついている。

「黒騎士って、主役だろ? 剣で戦うんだろ? だったら俺だって、かなり向いてると思うんだけど!」

「その主張は、さっき聞いたのよぅ」

「聞いただけじゃん! 採用してないじゃん!」

 ローティさんは、不満そうにヴァンさんを指さした。

「だいたい、ヴァンって台詞喋れるのかよ。舞台だぞ? みんなの前で喋るんだぞ? 演技とかできるのか?」

 それを言われて、教室の何人かが少しだけ黙った。わたしも、少しだけ黙った。

 たしかに。

 ヴァンさんは黒騎士っぽい。とても似合う。似合いすぎるくらい似合う。けれど、舞台で大きな声を出して、決められた台詞を言って、演技をする姿が想像できるかと言われると、少しだけ難しかった。

 ヴァンさんは、指さされてもあまり表情を変えなかった。息を吐いて言う。

「なら、ローティがやればいい」

「え?」

「俺はやりたいと言ってない」

 教室が、また一拍止まった。ローティさんは、勝ったような、困ったような、不思議な顔をした。

「いや、まあ、そうだけど。そうなんだけど」

「何が不満なんだ」

「なんか、そう簡単に譲られると、逆に腹立つんだけど」

「面倒だな」

「お前が言うな!」

 オーレリアさんが、手帳に筆記具を当てたまま、むむ、と唸った。

「たしかに、ローティさんの言うことにも一理あるのよぅ。見た目や雰囲気だけで決めるのは、公平ではないのよぅ」

「だろ!」

 ローティさんが勢いよく頷く。

「でも、ヴァンさんが似合うという意見も多いのよぅ」

「そこなんだよなあ」

 ウォールさんが、困ったように笑った。

「ローティも合いそうだけど、黒騎士って言われると、ヴァンの方がすごく合いそうなんだよ」

「ウォールまで!」

「ごめん。でも、正直に言うと、そうなんだ」

「では、黒騎士役は、ヴァンさんとローティさんの二人を候補として、いったん保留にするのよぅ」

「保留?」

「後で決めるのよぅ。今ここで揉めていても進まないのよぅ」

 監督の声だった。

 ローティさんはまだ言いたそうだったけれど、オーレリアさんの顔を見て、一応、椅子に座り直した。

「次なのよぅ」

「次?」

「姫役なのよぅ」

 その一言で、教室の空気が変わった。黒騎士役とは違って、誰も迷っていないようだった。オーレリアさんが手帳から顔を上げるより先に、あちこちから声が上がる。

「イネヴェアさん」

「イネヴェアだな」

「イネヴェアさんでしょうね」

「ほかにいる?」

「いませんわね」

 最後の声は、イネヴェアさん本人だった。わたしは思わずそちらを見た。

 イネヴェアさんは、扇を半分だけ開いて、当然ですわ、という顔で座っていた。照れている様子はあまりない。むしろ、姫役に選ばれることを、当然の役目としてきちんと受け取っているように見えた。

「異論はあるのよぅ?」

 オーレリアさんが確認する。誰も手を上げなかった。上げるはずもなかった。

「では、姫役はイネヴェアさんで決定なのよぅ」

「お受けいたしますわ」

 イネヴェアさんは、背筋を伸ばして言った。

「舞台に立つ以上、半端な姫にはいたしません」

 その声は少し誇らしげで、でも不思議と嫌味には聞こえなかった。イネヴェアさんは、きっと本当に、綺麗な舞台を作るつもりなのだと思う。 黒板に文字が浮かぶ。

 白百合姫役、イネヴェア・リンドホルム。

 黒騎士役は保留。姫役は決定。

 それだけで、さっきまでただの題名だった『姫と黒騎士』が、少しずつ形を持ち始めた気がした。

「次は台本なのよぅ」

 オーレリアさんが言った。そこで、教室の勢いが少しだけ弱くなった。役なら、やりたい人がいる。衣装なら、楽しそうだと言う人がいる。でも、台本を書くとなると、急に皆の目が泳いだ。物語を舞台用に直して、台詞を考えて、場面を作って、人数に合わせる。考えただけで大変そうだった。

「台本は、とても大事なのよぅ。元の物語があるとはいえ、そのまま学芸会で演じられるわけではないのよぅ。誰か、書けそうな人はいるのよぅ?」

 オーレリアさんが教室を見回す。誰もすぐには手を上げなかった。その時、アディさんが、控えめに手を上げた。

「クリスさんなら、書けると思います」

「私ですか?」

 クリスさんが、驚いたように顔を上げる。アディさんは、少し緊張した顔のまま頷いた。

「はい。クリスさんの文章は、綺麗です。前に読んだ文章も、場面が目に浮かぶようでした。物語を書くのに、向いていると思います」

「でも、私が書くのは小説で、台本なんて書いたことは......」

「最初から一人で全てを書かなくてもいいのよぅ」

 オーレリアさんがすぐに言った。

「元の物語はアルフォンス先生にも聞けるのよぅ。構成は私も手伝うのよぅ。役の人数や場面転換も、後で相談するのよぅ」

 クリスさんは、少し困ったように視線を下げた。けれど、嫌そうではなかった。

「......それなら、やってみます」

「助かるのよぅ」

 オーレリアさんは、すぐに黒板へ文字を加えた。

 台本、クリスティーネ・リーゼンフェルト。

 アディさんは、ほっとしたように息をついた。クリスさんはまだ不安そうだったけれど、その横顔は、少しだけ真剣になっていた。わたしは、思った。

 役に立つ場所は、人によって違うのだ。

 舞台の上に立つ人がいて、台本を書く人がいて、記録する人がいて、衣装を作る人がいる。わたしが何をするのかは、まだ全然分からない。けれど、少しずつ、皆の場所が決まっていく感じがした。

 そこで、オーレリアさんが次の項目に移った。

「では、継母妃けいぼひ役なのよぅ」

 その瞬間、教室の空気が少しだけ止まった。

「けいぼひ?」

 ローティさんが首を傾げる。

「姫を陥れる継母ままははの役なのよぅ。黒騎士に命じて、姫を排除しようとする人なのよぅ」

「悪役ですわね」

 イネヴェアさんが、少しだけ眉を寄せた。

「悪役だけど、重要な役なのよぅ。おそらく台詞も多いのよぅ」

 オーレリアさんは手帳を見ながら言った。

「姫に対して身分も高く、黒騎士に命令もできる立場なのよぅ。舞台での印象も強い役になるのよぅ」

「でも、妃だろ?」

 ローティさんが腕を組んだ。

「だったら、女子がやるのか?」

「その可能性が高いのよぅ」

 オーレリアさんがそう言うと、女子たちの何人かが、そっと目を逸らした。

 姫役は華やかだ。

 でも、継母妃役は違う。

 綺麗で、怖くて、偉そうで、嫌われる役だ。しかも、ただ悪いだけでは舞台で浮いてしまう。たぶん、品があって、迫力があって、台詞もきちんと言えなければいけない。正直に言って、かなり難しい役どころだ。

 誰も、すぐには手を上げなかった。上げられるわけがなかった。

 その時、ローティさんが言った。

「むしろ、イネヴェアって、こっちじゃね?」

 教室が止まった。

 わたしも止まった。

 たぶん、今、何か大きなものを踏んだ。

 イネヴェアさんの扇が、ぱちん、と閉じる。

「ローティさん」

 声が、いつもより少しだけ低かった。

「今の発言の意味を、もう一度、最初から最後まで、丁寧に説明してくださる?」

「え? いや、だってさ。イネヴェアって、迫力あるし。扇とか似合うし。悪い女王っぽいっていうか」

「悪い、女王」

「いや、褒めてる! 褒めてるから!」

「どのあたりがですの?」

「だから、強そうで、偉そうで、怖そうで――」

「ローティ」

 ハリスさんが静かに言った。

「もう黙れ」

「なんで⁉」

「今すぐ黙った方がいい」

「だからなんで!?」

 ローティさんは、本当に分かっていない顔をしていた。悪気はなかったのだと思う。けれど、悪気がないから許されるかというと、たぶん違う。

 イネヴェアさんは、扇を閉じたまま微笑んでいた。

 怖い。

 すごく、怖い。

 その時、ウォールさんが、少し考えるように首を傾げた。

「待って。......でも、ハリスならできそうじゃない?」

 今度は、別の意味で教室が止まった。

 ハリスさんが、ゆっくりとウォールさんを見た。

「ウォール」

「いや、真面目に。台詞を覚えられるし、噛まないし、怖い役もできそうだし」

「妃役だぞ」

「うん」

「分かって言っているのか」

「分かってる。だから、すごく大事な役だと思う」

 ウォールさんは、そこで少しだけ困ったように笑った。

「それに、ハリスなら、綺麗にやりそうだし」

 ハリスさんの眉が、わずかに動いた。

「それは見てみたいかも」

 ハリエットさんが微笑んでいる。

「姉さんまで」

 その時、窓際から声がした。

「合理的に考えると、ハリスだな」

 ヴァンさんだった。

 さっきまで自分の配役から逃げようとしていた人が、急に冷静な判定役みたいな声を出した。

 ハリスさんが、ゆっくりとヴァンさんを見る。

「待て。お前は黙っていろ」

「なぜだ」

「今、それを言う資格はないだろ」

「合理的なのは確かだ」

「お前の黒騎士も合理的だ」

 教室の何人かが、小さく笑った。

 でも、笑いながらも、皆が少しずつ納得していくのが分かった。 台詞を覚えられる。場を締められる。冷たい声も出せる。品もある。怖い役もできそう。問題は、妃役だということだけだったが、ハリスさんは、たしかに適任かもしれない。悔しいけれど、似合う気がする。へたすると、その辺の女子よりも綺麗だったりする。正直、わたしも見てみたい。

「分かった」

 ハリスさんが、低い声で言った。教室がまた静かになる。

「俺が継母妃役をやるなら、ヴァン。お前も黒騎士をやれ」

 今度は、ヴァンさんが少しだけ眉を動かした。

「なぜそうなる」

「俺だけ巻き込まれるのは不公平だからだ」

「それはそれ。じゃないのか?」

「いいや、これも合理的な判断だ。お前が黒騎士をやるなら、俺が継母妃をやる意味も出る」

「意味?」

「重要な役同士で釣り合いが取れる」

「そうなのか?」

「待て待て待て!」

 ローティさんが、また立ち上がった。

「なんで今ので、ヴァンに決まりかけてんだよ! 俺は!? 俺も候補だろ!?」

「そうだったのよぅ」

 オーレリアさんが、手帳を強く閉じた。

 音が教室に響く。

「では、黒騎士役は演技を見て決めるのよぅ」

「演技?」

 ローティさんが聞き返す。

「そうなのよぅ。ローティさんは、ヴァンさんが演技できるのか疑問だと言ったのよぅ。それなら、実際に見ればいいのよぅ」

 それは、とても公平な決め方に聞こえた。

 聞こえたけれど、急に教室の中で演技をすることになる二人は、あまりそう思っていないようだった。

「今やるのか?」

 ヴァンさんが顔をしかめる。かなり嫌そうだ。

「今やるのよぅ」

 オーレリアさんは即答した。

「先生、何か適当な場面と台詞はありますか?」

 アルフォンス先生は、少し考えるように顎に手を当てた。

「そうですね。黒騎士役を試すなら、騎士としての名乗り口上がよいでしょう」

「口上?」

「ええ。黒騎士が、姫を追う騎士たちの前に立ち、道を塞ぐ場面です。まだクリスさんの台本ではありませんが、試演には向いています」

 アルフォンス先生が指を動かすと、黒板に白い文字が浮かび上がった。

『この先へは行かせない。

 我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた。

 だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない。

 退け。

 退かぬなら、黒騎士アルブレヒトの名において、断つ』

 教室が、静かになった。さっきまで笑っていた空気が、黒板の文字に引っ張られて、一気に重くなる。この台詞は、笑顔で言えるものじゃない。真剣だ。

「騎士としての口上です」

 アルフォンス先生が言った。

「声の大きさだけではなく、覚悟が必要ですね」

「よし」

 ローティさんが立ち上がった。

「俺からやる」

 ローティさんは教室の前に出ると、少しだけ肩を回した。ハリスさんが授業で使う木剣を投げ渡した。それを受け取って、くるりと回して腰の鞘に納めるように構えた。

 その動きは、思っていたよりずっと様になっていた。

 ローティさんは、騒がしい人だと思う。けれど、体の使い方はとても上手い。立ち方にも勢いがあって、見ている人を引きつける力があった。

 ローティさんは、一度だけ息を吸った。

「この先へは行かせない!」

 声が通った。教室の一番後ろまで届く元気な声だった。

「我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた! だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない!」

 強い。

 とても強い。

 黒騎士というより、正面から敵を倒す若い騎士みたいだった。けれど、それはそれで舞台映えした。剣を構える動きも大きくて、見ていて分かりやすい。

「退け!」

 ローティさんが、一歩踏み出す。剣先を向けて吠える。

「退かぬなら、黒騎士アルベレヒトの名において、俺が相手をする!」

 最後だけ、私、ではなく俺になっていた。名前も微妙に間違っている。

 でも、誰もすぐには笑わなかった。

 それくらい、ちゃんと格好よかった。

「おお」

 誰かが声を漏らした。

「いいじゃん」

「ローティ、上手い。名前、間違えたけど」

「動きが分かりやすいのよぅ。名前、間違えたけど」

 オーレリアさんも、手帳に何かを書き込んでいる。ローティさんは得意そうに胸を張った。

「ほらな! ちょっと名前は間違えたけど、ほらな!」

 正直、わたしも少し驚いていた。ローティさんが黒騎士でも、成立するかもしれない。そう思えるくらいには、ちゃんと舞台の上の人に見えた。

「次はヴァンさんなのよぅ」

 オーレリアさんが言った。ヴァンさんは、ものすごく嫌そうな顔をした。

「やっぱり、やらないと駄目か」

「駄目なのよぅ」

「ローティでいいだろ」

「まだ決まっていないのよぅ」

 ヴァンさんは小さく息を吐いた。それから、ゆっくりと立ち上がる。

 別の木剣を投げ渡しながら、ハリスさんが言った。

「手を抜くなよ。本気でやれよ」

「わかった」

 教室の前へ歩いていく姿は、ローティさんとは全然違っていた。ローティさんは、舞台へ飛び出すみたいに前へ出た。でも、ヴァンさんは違う。仕方なく歩いているだけに見えるのに、なぜか空気が少しずつ変わっていく。

 ヴァンさんは、黒板の文字を見た。

 一度、目を閉じる。

 それから、開いた。

 その瞬間、わたしは少しだけ息を止めた。それだけで覚えたの?

「この先へは、行かせない」

 声は、大きくなかった。けれど、聞こえた。

 教室の隅まで、まっすぐ届いた。間の取り方に、凄味があった。

「我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた」

 ローティさんの時は、言葉が前へ飛んできた。でも、ヴァンさんの言葉は、違った。落ちていくみたいだった。お腹に響いて来るみたいで、重くて、静かで、逃げられない。つい聞き入ってしまった。

「だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない」

 そこに、派手な動きはなかった。剣を振る真似もしない。ただ、少しだけ足を開いて、そこに立っているだけだった。なのに、本当にその先へは行けない気がした。

 たぶん、動きがない分、その台詞だけに集中させられた。

 黒い鎧も、舞台の背景も、姫も、追っ手の騎士も、何もない。ただ教室の前にヴァンさんが立っているだけなのに、その向こうへ進んではいけないように見えた。

「退け」

 短い声だった。強く声を張り上げるでもない。でも、その一言で、教室がさらに静かになる。言葉の後ろに、ものすごく強い意志が感じられる。

「退かぬなら、黒騎士アルブレヒトの名において──」

 ここで剣の柄に手を置いた。

「──断つ」

 最後の言葉が終わった後、誰もすぐには喋らなかった。

 手を置くだけで、剣は抜かない。それが逆に、本気の警告だと伝わってくる。

 ローティさんの時とは違う沈黙だった。

 拍手を忘れた、というより、少しだけ現実に戻るのが遅れたみたいだった。本当に斬られるかもと、ちょっと怖くもなった。すごい迫力だった。

 最初に息を吐いたのは、たぶんオーレリアさんだった。

「......決まりなのよぅ」

「いや、早い!」

 ローティさんが叫ぶ。けれど、その声には、さっきまでの本気の抗議とは少し違う響きがあった。たぶん、ローティさんも認めざるを得ないんだと思う。

「やはり、やればできるじゃないか」

 ハリスさんの声に、ヴァンさんは溜め息を吐きながら言った。

「騎士って言ったから、癪だけど兄貴っぽくやってみた」

「兄貴仕込みはずりぃよ。そんなの、騎士っぽくなるに決まってるじゃん」

 ローティさんが、悔しそうに口を尖らせていたけれど、もう本気で怒ってはいなかった。悔しい。けれど、認めている。そんな顔だった。

 アルフォンス先生が、穏やかに口を開く。

「ローティさんの演技も、とても良かったですよ」

「本当?」

「ええ。声が通りますし、動きも舞台向きです。この物語には、黒騎士以外にも他の騎士が登場します。そちらを任せるのも、よいと思います」

「騎士?」

 ローティさんが顔を上げた。

「姫を追う騎士、黒騎士と剣を交える騎士。台本次第ですが、見せ場を作ることはできるでしょう」

「剣、使う?」

「使います。派手な大立ち回りもあります」

「なら、まあ......」

 ローティさんは、まだ少し不満そうだった。でも、完全に納得していない顔ではなかった。オーレリアさんは、それを見届けてから、黒板に文字を加えた。

 黒騎士役、ヴァン・ラドーレ。

 継母妃役、ハリス・ヤクトブレオ。

 別の騎士役、ローティ・ネモニクト。

 ハリスさんが、黒板の文字を見て、深く眉間に皺を寄せる。

「本当に書いたな」

「決まったことは書くのよぅ」

「まだ了承していない」

「ヴァンさんが黒騎士をやるならやる、と言ったのよぅ」

「言質を取るのが早すぎる」

「監督なので」

 オーレリアさんは、少しだけ得意そうだった。わたしは黒板を見た。みんなの名前が並んでいくたびに、さっきまでただの学芸会だったものが、少しずつ大きくなっていく気がした。

「では、今日の決定はここまでなのよぅ」

 オーレリアさんが手帳を閉じた。

「え、もう終わり?」

 ローティさんが聞く。

「台本ができないと、他の役は決まらないのよぅ。それに、全員が役者になるわけではないのよぅ。衣装、大道具、小道具、照明、音楽そちらにも人員が必要なのよぅ」

「衣装は時間が掛かりますわね」

 イネヴェアさんが頷いた。

「黒騎士と姫と継母妃だけでも、かなり見栄えを考えなければなりませんわ」

「継母妃の衣装は簡素でいい」

 ハリスさんが言った。

「駄目なのよぅ」

 オーレリアさんが即答する。

「重要人物なので、ちゃんと作るのよぅ」

「余計なことを」

「ハリスさん、きっと似合いますわ」

 イネヴェアさんが微笑んだ。

 ハリスさんは、何も言わなかった。

「まずは、クリスさんに台本を書いてもらうのよぅ。それを見てから、残りの役と裏方を決めるのよぅ」

「はい」

 クリスさんが、小さく頷いた。アディさんが隣で、励ますように微笑む。

 こうして、陽級ソルネ・クラス一年生の演劇は、少しずつ形を持ち始めた。

 姫と黒騎士。

 白百合姫と、黒騎士アルブレヒト。

 まだ台本もないのに、もうその名前だけが、教室の中に残っている気がした。

「皆さん」

 そこで、アルフォンス先生が静かに口を開いた。

「学芸会は、ただ舞台に立つだけの行事ではありません。台本を書く人、衣装を作る人、道具を運ぶ人、場面を支える人。誰か一人が目立てばよい、というものではないのです」

 教室が、少しずつ静かになっていく。

「皆で一つのものを作る。そこに意味があります。陽級ソルネ・クラスらしい舞台になることを、期待しています」

 その言葉に、何人かが頷いた。これから忙しくなる。きっと、そういう青春の一頁になるような。そんな、ありふれた話なのだと思った。

 けれど、アルフォンス先生は、そこで終わらなかった。

「それから、もう一つ。大事な連絡があります」

 いつもと変わらない穏やかな声。

「今年の学芸会には、特別な御客様がいらっしゃいます」

「御客様?」

 誰かが、思わず聞き返した。

「どなたですの?」

 アルフォンス先生は、そこで一拍置いた。

「皇帝陛下です」
シェア
前の話 →
第五十一話 戸惑い
← 次の話
第五十三話 雑用係
緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
目次を見る
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません
ホーム›緋鋼皇國物語Ⅰ›第五十二話 配役
← 前の話目次次の話 →

第五十二話 配役


「......は?」

 ヴァンさんの声は、教室の真ん中に落ちた。

 本人は、本当に分かっていない顔をしていた。窓の外を見ていたところを急に呼び戻されて、気がついたら教室中の視線を浴びている。そんな顔だった。

「いや、は? じゃないのよぅ」

 オーレリアさんが手帳を持ち上げる。

「黒騎士役の話なのよぅ。ハリスさんが、ヴァンさんが適任だと言ったのよぅ」

「なんでだ」

「似合うからなのよぅ」

「理由になってない」

「理由になるのよぅ」

 オーレリアさんは、かなり本気の顔で言った。けれど、そこで黙っていられなかった人がいる。

「待て待て待て!」

 ローティさんだった。椅子から半分立ち上がったまま、机に両手をついている。

「黒騎士って、主役だろ? 剣で戦うんだろ? だったら俺だって、かなり向いてると思うんだけど!」

「その主張は、さっき聞いたのよぅ」

「聞いただけじゃん! 採用してないじゃん!」

 ローティさんは、不満そうにヴァンさんを指さした。

「だいたい、ヴァンって台詞喋れるのかよ。舞台だぞ? みんなの前で喋るんだぞ? 演技とかできるのか?」

 それを言われて、教室の何人かが少しだけ黙った。わたしも、少しだけ黙った。

 たしかに。

 ヴァンさんは黒騎士っぽい。とても似合う。似合いすぎるくらい似合う。けれど、舞台で大きな声を出して、決められた台詞を言って、演技をする姿が想像できるかと言われると、少しだけ難しかった。

 ヴァンさんは、指さされてもあまり表情を変えなかった。息を吐いて言う。

「なら、ローティがやればいい」

「え?」

「俺はやりたいと言ってない」

 教室が、また一拍止まった。ローティさんは、勝ったような、困ったような、不思議な顔をした。

「いや、まあ、そうだけど。そうなんだけど」

「何が不満なんだ」

「なんか、そう簡単に譲られると、逆に腹立つんだけど」

「面倒だな」

「お前が言うな!」

 オーレリアさんが、手帳に筆記具を当てたまま、むむ、と唸った。

「たしかに、ローティさんの言うことにも一理あるのよぅ。見た目や雰囲気だけで決めるのは、公平ではないのよぅ」

「だろ!」

 ローティさんが勢いよく頷く。

「でも、ヴァンさんが似合うという意見も多いのよぅ」

「そこなんだよなあ」

 ウォールさんが、困ったように笑った。

「ローティも合いそうだけど、黒騎士って言われると、ヴァンの方がすごく合いそうなんだよ」

「ウォールまで!」

「ごめん。でも、正直に言うと、そうなんだ」

「では、黒騎士役は、ヴァンさんとローティさんの二人を候補として、いったん保留にするのよぅ」

「保留?」

「後で決めるのよぅ。今ここで揉めていても進まないのよぅ」

 監督の声だった。

 ローティさんはまだ言いたそうだったけれど、オーレリアさんの顔を見て、一応、椅子に座り直した。

「次なのよぅ」

「次?」

「姫役なのよぅ」

 その一言で、教室の空気が変わった。黒騎士役とは違って、誰も迷っていないようだった。オーレリアさんが手帳から顔を上げるより先に、あちこちから声が上がる。

「イネヴェアさん」

「イネヴェアだな」

「イネヴェアさんでしょうね」

「ほかにいる?」

「いませんわね」

 最後の声は、イネヴェアさん本人だった。わたしは思わずそちらを見た。

 イネヴェアさんは、扇を半分だけ開いて、当然ですわ、という顔で座っていた。照れている様子はあまりない。むしろ、姫役に選ばれることを、当然の役目としてきちんと受け取っているように見えた。

「異論はあるのよぅ?」

 オーレリアさんが確認する。誰も手を上げなかった。上げるはずもなかった。

「では、姫役はイネヴェアさんで決定なのよぅ」

「お受けいたしますわ」

 イネヴェアさんは、背筋を伸ばして言った。

「舞台に立つ以上、半端な姫にはいたしません」

 その声は少し誇らしげで、でも不思議と嫌味には聞こえなかった。イネヴェアさんは、きっと本当に、綺麗な舞台を作るつもりなのだと思う。 黒板に文字が浮かぶ。

 白百合姫役、イネヴェア・リンドホルム。

 黒騎士役は保留。姫役は決定。

 それだけで、さっきまでただの題名だった『姫と黒騎士』が、少しずつ形を持ち始めた気がした。

「次は台本なのよぅ」

 オーレリアさんが言った。そこで、教室の勢いが少しだけ弱くなった。役なら、やりたい人がいる。衣装なら、楽しそうだと言う人がいる。でも、台本を書くとなると、急に皆の目が泳いだ。物語を舞台用に直して、台詞を考えて、場面を作って、人数に合わせる。考えただけで大変そうだった。

「台本は、とても大事なのよぅ。元の物語があるとはいえ、そのまま学芸会で演じられるわけではないのよぅ。誰か、書けそうな人はいるのよぅ?」

 オーレリアさんが教室を見回す。誰もすぐには手を上げなかった。その時、アディさんが、控えめに手を上げた。

「クリスさんなら、書けると思います」

「私ですか?」

 クリスさんが、驚いたように顔を上げる。アディさんは、少し緊張した顔のまま頷いた。

「はい。クリスさんの文章は、綺麗です。前に読んだ文章も、場面が目に浮かぶようでした。物語を書くのに、向いていると思います」

「でも、私が書くのは小説で、台本なんて書いたことは......」

「最初から一人で全てを書かなくてもいいのよぅ」

 オーレリアさんがすぐに言った。

「元の物語はアルフォンス先生にも聞けるのよぅ。構成は私も手伝うのよぅ。役の人数や場面転換も、後で相談するのよぅ」

 クリスさんは、少し困ったように視線を下げた。けれど、嫌そうではなかった。

「......それなら、やってみます」

「助かるのよぅ」

 オーレリアさんは、すぐに黒板へ文字を加えた。

 台本、クリスティーネ・リーゼンフェルト。

 アディさんは、ほっとしたように息をついた。クリスさんはまだ不安そうだったけれど、その横顔は、少しだけ真剣になっていた。わたしは、思った。

 役に立つ場所は、人によって違うのだ。

 舞台の上に立つ人がいて、台本を書く人がいて、記録する人がいて、衣装を作る人がいる。わたしが何をするのかは、まだ全然分からない。けれど、少しずつ、皆の場所が決まっていく感じがした。

 そこで、オーレリアさんが次の項目に移った。

「では、継母妃けいぼひ役なのよぅ」

 その瞬間、教室の空気が少しだけ止まった。

「けいぼひ?」

 ローティさんが首を傾げる。

「姫を陥れる継母ままははの役なのよぅ。黒騎士に命じて、姫を排除しようとする人なのよぅ」

「悪役ですわね」

 イネヴェアさんが、少しだけ眉を寄せた。

「悪役だけど、重要な役なのよぅ。おそらく台詞も多いのよぅ」

 オーレリアさんは手帳を見ながら言った。

「姫に対して身分も高く、黒騎士に命令もできる立場なのよぅ。舞台での印象も強い役になるのよぅ」

「でも、妃だろ?」

 ローティさんが腕を組んだ。

「だったら、女子がやるのか?」

「その可能性が高いのよぅ」

 オーレリアさんがそう言うと、女子たちの何人かが、そっと目を逸らした。

 姫役は華やかだ。

 でも、継母妃役は違う。

 綺麗で、怖くて、偉そうで、嫌われる役だ。しかも、ただ悪いだけでは舞台で浮いてしまう。たぶん、品があって、迫力があって、台詞もきちんと言えなければいけない。正直に言って、かなり難しい役どころだ。

 誰も、すぐには手を上げなかった。上げられるわけがなかった。

 その時、ローティさんが言った。

「むしろ、イネヴェアって、こっちじゃね?」

 教室が止まった。

 わたしも止まった。

 たぶん、今、何か大きなものを踏んだ。

 イネヴェアさんの扇が、ぱちん、と閉じる。

「ローティさん」

 声が、いつもより少しだけ低かった。

「今の発言の意味を、もう一度、最初から最後まで、丁寧に説明してくださる?」

「え? いや、だってさ。イネヴェアって、迫力あるし。扇とか似合うし。悪い女王っぽいっていうか」

「悪い、女王」

「いや、褒めてる! 褒めてるから!」

「どのあたりがですの?」

「だから、強そうで、偉そうで、怖そうで――」

「ローティ」

 ハリスさんが静かに言った。

「もう黙れ」

「なんで⁉」

「今すぐ黙った方がいい」

「だからなんで!?」

 ローティさんは、本当に分かっていない顔をしていた。悪気はなかったのだと思う。けれど、悪気がないから許されるかというと、たぶん違う。

 イネヴェアさんは、扇を閉じたまま微笑んでいた。

 怖い。

 すごく、怖い。

 その時、ウォールさんが、少し考えるように首を傾げた。

「待って。......でも、ハリスならできそうじゃない?」

 今度は、別の意味で教室が止まった。

 ハリスさんが、ゆっくりとウォールさんを見た。

「ウォール」

「いや、真面目に。台詞を覚えられるし、噛まないし、怖い役もできそうだし」

「妃役だぞ」

「うん」

「分かって言っているのか」

「分かってる。だから、すごく大事な役だと思う」

 ウォールさんは、そこで少しだけ困ったように笑った。

「それに、ハリスなら、綺麗にやりそうだし」

 ハリスさんの眉が、わずかに動いた。

「それは見てみたいかも」

 ハリエットさんが微笑んでいる。

「姉さんまで」

 その時、窓際から声がした。

「合理的に考えると、ハリスだな」

 ヴァンさんだった。

 さっきまで自分の配役から逃げようとしていた人が、急に冷静な判定役みたいな声を出した。

 ハリスさんが、ゆっくりとヴァンさんを見る。

「待て。お前は黙っていろ」

「なぜだ」

「今、それを言う資格はないだろ」

「合理的なのは確かだ」

「お前の黒騎士も合理的だ」

 教室の何人かが、小さく笑った。

 でも、笑いながらも、皆が少しずつ納得していくのが分かった。 台詞を覚えられる。場を締められる。冷たい声も出せる。品もある。怖い役もできそう。問題は、妃役だということだけだったが、ハリスさんは、たしかに適任かもしれない。悔しいけれど、似合う気がする。へたすると、その辺の女子よりも綺麗だったりする。正直、わたしも見てみたい。

「分かった」

 ハリスさんが、低い声で言った。教室がまた静かになる。

「俺が継母妃役をやるなら、ヴァン。お前も黒騎士をやれ」

 今度は、ヴァンさんが少しだけ眉を動かした。

「なぜそうなる」

「俺だけ巻き込まれるのは不公平だからだ」

「それはそれ。じゃないのか?」

「いいや、これも合理的な判断だ。お前が黒騎士をやるなら、俺が継母妃をやる意味も出る」

「意味?」

「重要な役同士で釣り合いが取れる」

「そうなのか?」

「待て待て待て!」

 ローティさんが、また立ち上がった。

「なんで今ので、ヴァンに決まりかけてんだよ! 俺は!? 俺も候補だろ!?」

「そうだったのよぅ」

 オーレリアさんが、手帳を強く閉じた。

 音が教室に響く。

「では、黒騎士役は演技を見て決めるのよぅ」

「演技?」

 ローティさんが聞き返す。

「そうなのよぅ。ローティさんは、ヴァンさんが演技できるのか疑問だと言ったのよぅ。それなら、実際に見ればいいのよぅ」

 それは、とても公平な決め方に聞こえた。

 聞こえたけれど、急に教室の中で演技をすることになる二人は、あまりそう思っていないようだった。

「今やるのか?」

 ヴァンさんが顔をしかめる。かなり嫌そうだ。

「今やるのよぅ」

 オーレリアさんは即答した。

「先生、何か適当な場面と台詞はありますか?」

 アルフォンス先生は、少し考えるように顎に手を当てた。

「そうですね。黒騎士役を試すなら、騎士としての名乗り口上がよいでしょう」

「口上?」

「ええ。黒騎士が、姫を追う騎士たちの前に立ち、道を塞ぐ場面です。まだクリスさんの台本ではありませんが、試演には向いています」

 アルフォンス先生が指を動かすと、黒板に白い文字が浮かび上がった。

『この先へは行かせない。

 我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた。

 だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない。

 退け。

 退かぬなら、黒騎士アルブレヒトの名において、断つ』

 教室が、静かになった。さっきまで笑っていた空気が、黒板の文字に引っ張られて、一気に重くなる。この台詞は、笑顔で言えるものじゃない。真剣だ。

「騎士としての口上です」

 アルフォンス先生が言った。

「声の大きさだけではなく、覚悟が必要ですね」

「よし」

 ローティさんが立ち上がった。

「俺からやる」

 ローティさんは教室の前に出ると、少しだけ肩を回した。ハリスさんが授業で使う木剣を投げ渡した。それを受け取って、くるりと回して腰の鞘に納めるように構えた。

 その動きは、思っていたよりずっと様になっていた。

 ローティさんは、騒がしい人だと思う。けれど、体の使い方はとても上手い。立ち方にも勢いがあって、見ている人を引きつける力があった。

 ローティさんは、一度だけ息を吸った。

「この先へは行かせない!」

 声が通った。教室の一番後ろまで届く元気な声だった。

「我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた! だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない!」

 強い。

 とても強い。

 黒騎士というより、正面から敵を倒す若い騎士みたいだった。けれど、それはそれで舞台映えした。剣を構える動きも大きくて、見ていて分かりやすい。

「退け!」

 ローティさんが、一歩踏み出す。剣先を向けて吠える。

「退かぬなら、黒騎士アルベレヒトの名において、俺が相手をする!」

 最後だけ、私、ではなく俺になっていた。名前も微妙に間違っている。

 でも、誰もすぐには笑わなかった。

 それくらい、ちゃんと格好よかった。

「おお」

 誰かが声を漏らした。

「いいじゃん」

「ローティ、上手い。名前、間違えたけど」

「動きが分かりやすいのよぅ。名前、間違えたけど」

 オーレリアさんも、手帳に何かを書き込んでいる。ローティさんは得意そうに胸を張った。

「ほらな! ちょっと名前は間違えたけど、ほらな!」

 正直、わたしも少し驚いていた。ローティさんが黒騎士でも、成立するかもしれない。そう思えるくらいには、ちゃんと舞台の上の人に見えた。

「次はヴァンさんなのよぅ」

 オーレリアさんが言った。ヴァンさんは、ものすごく嫌そうな顔をした。

「やっぱり、やらないと駄目か」

「駄目なのよぅ」

「ローティでいいだろ」

「まだ決まっていないのよぅ」

 ヴァンさんは小さく息を吐いた。それから、ゆっくりと立ち上がる。

 別の木剣を投げ渡しながら、ハリスさんが言った。

「手を抜くなよ。本気でやれよ」

「わかった」

 教室の前へ歩いていく姿は、ローティさんとは全然違っていた。ローティさんは、舞台へ飛び出すみたいに前へ出た。でも、ヴァンさんは違う。仕方なく歩いているだけに見えるのに、なぜか空気が少しずつ変わっていく。

 ヴァンさんは、黒板の文字を見た。

 一度、目を閉じる。

 それから、開いた。

 その瞬間、わたしは少しだけ息を止めた。それだけで覚えたの?

「この先へは、行かせない」

 声は、大きくなかった。けれど、聞こえた。

 教室の隅まで、まっすぐ届いた。間の取り方に、凄味があった。

「我が剣は罪に汚れ、我が名はすでに地に落ちた」

 ローティさんの時は、言葉が前へ飛んできた。でも、ヴァンさんの言葉は、違った。落ちていくみたいだった。お腹に響いて来るみたいで、重くて、静かで、逃げられない。つい聞き入ってしまった。

「だが、この姫君に刃を向けることだけは許さない」

 そこに、派手な動きはなかった。剣を振る真似もしない。ただ、少しだけ足を開いて、そこに立っているだけだった。なのに、本当にその先へは行けない気がした。

 たぶん、動きがない分、その台詞だけに集中させられた。

 黒い鎧も、舞台の背景も、姫も、追っ手の騎士も、何もない。ただ教室の前にヴァンさんが立っているだけなのに、その向こうへ進んではいけないように見えた。

「退け」

 短い声だった。強く声を張り上げるでもない。でも、その一言で、教室がさらに静かになる。言葉の後ろに、ものすごく強い意志が感じられる。

「退かぬなら、黒騎士アルブレヒトの名において──」

 ここで剣の柄に手を置いた。

「──断つ」

 最後の言葉が終わった後、誰もすぐには喋らなかった。

 手を置くだけで、剣は抜かない。それが逆に、本気の警告だと伝わってくる。

 ローティさんの時とは違う沈黙だった。

 拍手を忘れた、というより、少しだけ現実に戻るのが遅れたみたいだった。本当に斬られるかもと、ちょっと怖くもなった。すごい迫力だった。

 最初に息を吐いたのは、たぶんオーレリアさんだった。

「......決まりなのよぅ」

「いや、早い!」

 ローティさんが叫ぶ。けれど、その声には、さっきまでの本気の抗議とは少し違う響きがあった。たぶん、ローティさんも認めざるを得ないんだと思う。

「やはり、やればできるじゃないか」

 ハリスさんの声に、ヴァンさんは溜め息を吐きながら言った。

「騎士って言ったから、癪だけど兄貴っぽくやってみた」

「兄貴仕込みはずりぃよ。そんなの、騎士っぽくなるに決まってるじゃん」

 ローティさんが、悔しそうに口を尖らせていたけれど、もう本気で怒ってはいなかった。悔しい。けれど、認めている。そんな顔だった。

 アルフォンス先生が、穏やかに口を開く。

「ローティさんの演技も、とても良かったですよ」

「本当?」

「ええ。声が通りますし、動きも舞台向きです。この物語には、黒騎士以外にも他の騎士が登場します。そちらを任せるのも、よいと思います」

「騎士?」

 ローティさんが顔を上げた。

「姫を追う騎士、黒騎士と剣を交える騎士。台本次第ですが、見せ場を作ることはできるでしょう」

「剣、使う?」

「使います。派手な大立ち回りもあります」

「なら、まあ......」

 ローティさんは、まだ少し不満そうだった。でも、完全に納得していない顔ではなかった。オーレリアさんは、それを見届けてから、黒板に文字を加えた。

 黒騎士役、ヴァン・ラドーレ。

 継母妃役、ハリス・ヤクトブレオ。

 別の騎士役、ローティ・ネモニクト。

 ハリスさんが、黒板の文字を見て、深く眉間に皺を寄せる。

「本当に書いたな」

「決まったことは書くのよぅ」

「まだ了承していない」

「ヴァンさんが黒騎士をやるならやる、と言ったのよぅ」

「言質を取るのが早すぎる」

「監督なので」

 オーレリアさんは、少しだけ得意そうだった。わたしは黒板を見た。みんなの名前が並んでいくたびに、さっきまでただの学芸会だったものが、少しずつ大きくなっていく気がした。

「では、今日の決定はここまでなのよぅ」

 オーレリアさんが手帳を閉じた。

「え、もう終わり?」

 ローティさんが聞く。

「台本ができないと、他の役は決まらないのよぅ。それに、全員が役者になるわけではないのよぅ。衣装、大道具、小道具、照明、音楽そちらにも人員が必要なのよぅ」

「衣装は時間が掛かりますわね」

 イネヴェアさんが頷いた。

「黒騎士と姫と継母妃だけでも、かなり見栄えを考えなければなりませんわ」

「継母妃の衣装は簡素でいい」

 ハリスさんが言った。

「駄目なのよぅ」

 オーレリアさんが即答する。

「重要人物なので、ちゃんと作るのよぅ」

「余計なことを」

「ハリスさん、きっと似合いますわ」

 イネヴェアさんが微笑んだ。

 ハリスさんは、何も言わなかった。

「まずは、クリスさんに台本を書いてもらうのよぅ。それを見てから、残りの役と裏方を決めるのよぅ」

「はい」

 クリスさんが、小さく頷いた。アディさんが隣で、励ますように微笑む。

 こうして、陽級ソルネ・クラス一年生の演劇は、少しずつ形を持ち始めた。

 姫と黒騎士。

 白百合姫と、黒騎士アルブレヒト。

 まだ台本もないのに、もうその名前だけが、教室の中に残っている気がした。

「皆さん」

 そこで、アルフォンス先生が静かに口を開いた。

「学芸会は、ただ舞台に立つだけの行事ではありません。台本を書く人、衣装を作る人、道具を運ぶ人、場面を支える人。誰か一人が目立てばよい、というものではないのです」

 教室が、少しずつ静かになっていく。

「皆で一つのものを作る。そこに意味があります。陽級ソルネ・クラスらしい舞台になることを、期待しています」

 その言葉に、何人かが頷いた。これから忙しくなる。きっと、そういう青春の一頁になるような。そんな、ありふれた話なのだと思った。

 けれど、アルフォンス先生は、そこで終わらなかった。

「それから、もう一つ。大事な連絡があります」

 いつもと変わらない穏やかな声。

「今年の学芸会には、特別な御客様がいらっしゃいます」

「御客様?」

 誰かが、思わず聞き返した。

「どなたですの?」

 アルフォンス先生は、そこで一拍置いた。

「皇帝陛下です」
シェア
← 前の話
第五十一話 戸惑い
次の話 →
第五十三話 雑用係
緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
目次
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません