

老人と剣豪
疑えばきりがない
寛政の頃、
肥後の国......
梅雨の走りのような冷たい雨が、山あいの道を打っていた。
その雨の中を、一人の男が小走りに山里を行く。
道端にはスイセンの花が咲いていた。
全身を濡らしながらも、その背筋だけは弓のように伸びていた。 腰には太刀と小太刀。
ドンドン
「頼もう!」
ドンドン
「誰か居らぬか!?」
「はっはい。しばしお待ちを。」
「只今。」
主は戸口へ立つと、濡れ鼠の男を一瞥し、黙って戸を開けた。
「突然の雨にてな。一晩、軒を貸してはくれぬか。」
雨で全身ずぶ濡れな男は、家の主に頼んだ。
主は黙って男を土間へ招き入れた。
「まずは、その雨を拭きなされ。」
差し出された手ぬぐいを受け取り、男は編み笠を取って会釈した。
「これは、かたじけない。」
「お寒かろう。今から湯を立てましょう。」
囲炉裏では、静かに薪の爆ぜる音だけがしていた。
やがて湯の支度が整うと、男は勧められるまま風呂へ入った。
湯に浸かり、冷え切った骨の髄まで熱を入れ直すと、
囲炉裏端には湯気を立てる鍋が用意されていた。
畑で採れたニラ、芋、人参、大根。大地の恵みを煮込んだ、質素だが滋味溢れる鍋だった。
男は風呂上がりの火照った体のまま、刀を手の届くところへ置き、箸を動かした
「......旨い。」
「冷えた腹に沁みる。」
「それは良かった。何分、手前どもの粗末なものでして」
男は箸を止めた。
囲炉裏の向こうで、主が穏やかに微笑んでいた。
「これは失礼。名も申しておりませなんだ。」
「いえ。」
主は男の腰の大小へ目をやった。
「その大小を見間違えるほど、私は耄碌しておりませぬ。」
続けて、男は話す 。
「拙者は、剣の修行の身。」
「この国には、かの兵法者・宮本武蔵殿の籠もった洞があると聞きましてな。」
主が返事を返す 。
「ほぉ......武蔵殿の......。」
「拙者も剣の道に身を置く者として、一度、見てみとうなりましてな。」
「この様な旅をしております。」
男は、お椀と箸を置いた。
囲炉裏の火をしばし見つめ懐から煙管を取り出す。
火箸の先の炭を借り、ゆっくりと火を移した。
ふうぅ......
細く吐かれた煙が、囲炉裏の上へ昇ってゆく。
「こう旅を続けていると、たまに、剣の豪の者として聞かれるのです。」
「今まで何人ほど斬ってきたのか、と。」
煙管を大きく吸い、一気に煙を吐いた
「そう聞かれたならば、必ずこう答える様にしている...」
「数えたことはない」
「......五十は下るまい。」と。
「ほぉ......まこと、剣豪ですな。」
主は、お茶を啜りながら返事をした。
男は続けて語る。
「その中でも......この傷だけは、今も忘れられぬ。」
右頬へ指をやった。
「あと数寸外れたならば、目か、さもなくば首であった。」
「勝ちはした。だが、あの日ほど己の驕りを知ったことはない。」
「以来、その男の鍔を使っておる。」
鍔を見た時。
火箸の先の灰が、囲炉裏へ静かに落ちた。
主の手が、ほんの僅かに止まった。
「......ならば、その鍔は戒めというわけですな。」
主は目を細めて言葉を返した。
男は煙管の灰を囲炉裏に捨て、胸元に戻した
「......拙者と鍋を囲むのは気味が悪うござろう。」
「何がです?」
「人を五十も斬った男と、こうして囲炉裏を囲んでおる。」
主は火箸で炭を返した。
「私は、今さら人の数など数えませぬ。」
主は鍋の灰を掻き出しながら、静かに言った。
「五十......重い数字ですな。」
「私は人を斬ったことはありませぬ。」
「ですが、見送った数ならば......五十。」
「......それ以上になります。」
夜が更け、男は用意された床に就いた。
研ぎ澄まされた神経は眠りを許さない。
深夜、ふすまの向こうから、かすかな物音が聞こえてきた。
シュッ、シュッ、シュッ。
薄暗いロウソクの灯りが、ふすまの隙間から細長く漏れている。
男は息を殺して起き上がり、音の主を確かめるべく、
ふすまをわずかに開けた。
主は、何やら油で黒ずんだナタを無言で研いでいた。
ナタの刃が蝋燭の光を一瞬だけ返した 砥石の上を鋼が滑る。
シュッ。 シュッ。
蝋燭の灯が、主の横顔を半分だけ照らしていた。
その顔からは何も読み取れない。
男は息を殺した。
砥石の音は止まらない。
シュッ。 シュッ。
主の影は動かない。
「......。」
男は太刀の柄を握り、静かに重心を落とした。
主は顔も上げず、
「起こしてしまいましたかな。」 とだけ言い、
穏やかに手元を止めた。
「イヤイヤ、朝方には雨が上がりましょう、されば、朝には芋を掘れまする。」と、
淡々と告げた。
その言葉には一片の曇りもなかった。
それでも男は、無言のまま、しばらくその場を動かなかった。
やがて静かに、ふすまを閉じた。
男は、床に戻ってからも枕元には太刀と小太刀を寄せ、一瞬の隙も作らぬよう、眠りに就いた。
やがて、鳥の声と共に夜が明けた。
朝餉を終え、旅装を整えた男に、主は竹の葉に包んだ握り飯を二つ手渡した。
「道中の供になされ」
男は一礼し、草鞋を履いて立ち上がる。
その背に、主の声が掛かった。
「昨夜は、よくお眠りでしたな。」
「......。」
「風呂では、丸腰でした。」
「......。」
「......戯れ言じゃ。」
男は返事をする事無く、袴と太刀を整え、戸に向かい歩き出す。
一歩、二歩、三歩......
外への戸をくぐると、背後から主は、
【また、息子に会わせてくだされ。】
......と、一言告げた。
誰に向けた言葉なのか。
独り言だったのか。
男には分からなかった。
もう一歩 踏み出した瞬間、
男の脳裏に、一筋の違和感が走った。
(......息子?)
(......そのような話はしておらぬ。)
土間には、竹かごいっぱいのジャガイモ。
昨夜、鍋に入っていたものと同じだった。
そして、庭に目をやった時、男は息を呑んだ。
庭先にはスイセンが揺れていた。
昨日は、ただ雨に濡れた花でしかなかった。
スキは、いくらでもあった。
もし主に殺意があれば、自分は今頃この世にはいない。
風呂。
鍋。
茶。
暗がりのナタ。
そして――。
(自分は一度も主を疑わなかった・・・)
――もし!? 男の背を、冷たい汗が伝った・・・。
ゆっくりと振り返った。
男は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
(......拙者は、何をおそれている?)
ほんの僅かに頭を下げる。
主もまた、静かに会釈を返した。
(あの日も、拙者は勝つに決まっていると思っていた。)
右頬の傷が疼いた。
懐の握り飯に、そっと手を当てる。
まだ、温もりが残っていた。
握りしめた竹の葉の温もりだけが、
今朝まで確かに、そこに「人」がいたことを証明していた。
庭先には、昨日と変わらず、スイセンが揺れていた。
男は、その花から目を逸らすように山道へ足を向けた。
懐の握り飯には、まだ僅かな温もりが残っている。
その温もりだけが、主の心を知っているように思えた。
【形あるものは斬れよう、されど、人の心ばかりは斬れぬ。】
男は旅路を急いだ。
疑えばきりがない......
完