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1「欲望の形」

『あの子の状態はどう?』

 携帯電話を耳に当てた女。黄色の長髪、十字の紋様が浮かぶ金色の瞳。垂れ目。右目の下に涙黶なみだぼくろが一つ。筋の通る高い鼻と、赤い唇。一言で彼女を形容するなら『天使』だろう。彼女の背に翼が生えていて、頭上に輪っかが浮かんでいてもおかしくない。

 どこかの路地裏、月の光が彼女を淡く照らしている。

「えっとねぇ、体と精神の成長具合は大丈夫みたい。それにウツグちゃんが望んでる『魔王』の意識も、そろそろ目覚め始めるわぁ」
『なるほど』
「でもまだ完全に目覚めるには時間がかかるわ。そうね、私が少しくらい手伝ってもいいわよ」
『お願いするわ』

 すると女は色っぽく笑った。

「うふふ、ウツグちゃんのお願いなら仕方ないわよねぇ。またいっぱい可愛がってあげるわぁ」
『可愛がりなんていらないわよ!』
「照れちゃってぇ」

 通話は一方的に切られた。女ははぁと溜め息を吐き、携帯電話を消失させる。

「絶対にキミの計画は止めてみせるから」

 女はそう、小さく呟いた。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 先ほどまで取り乱していたドミナは、今ようやく眠った。洗面所で取り乱していたドミナを落ち着かせ、互いに寝間着へ着替えた。それまで介抱していたルノートは、天井を見上げる。

「眠い・・・」

 呟きながら、ルノートは隣でぎゅっとくっついて眠るドミナを見つめる。先ほどまでの様子とは打って変わって、穏やかな表情をしている。

「昔を思い出すなぁ」

 彼がドミナと出会ったばかりの頃、悪夢に魘されて目が覚めたルノートはいつも隣で眠るドミナの穏やかな寝顔を見ていた。彼女を見るとどこか安心するのだ。

 悪夢。彼をいつも苛めるのはかつての記憶。
 母に暴力を振るう酔い痴れた父の姿。泣き声を上げるダイアの姿。そんなダイアを、ルノートを罵倒する父の声。酒瓶を片手にルノートを激しく怒鳴る父の表情。鬼のような形相だった。

 ドミナと付き合ってからというもの、悪夢を見ることはなくなった。それまで自身を心配してくれたドミナへの恩返しもあってか、ルノートは今のドミナを支えようと尽くしている。

「ドミナ・・・」

 ルノートは彼女の頬に触れる。

「昔から変わらないね」

 ルノートは微笑み、そして目を瞑る。

 彼の心の中もまた、ドミナの寝顔のように穏やかだった。悪夢や、過去の記憶に対する恐怖や苦しみを消してくれるほどに――。

「――っ!?」

 突然だった。金縛りが彼の体を襲った。
 ルノートは息を荒げる。目は勝手に開いている。視界に広がるのはいつもと変わらない天井の光景。しかし、体が動かせない。視界の焦点すら移動できない。

 甲高い耳鳴りと間延びしたような中音の耳鳴りが脳内にまで侵食するように襲ってくる。寝起きのようなぼーっとした頭の感覚が、今の状態がまるで夢であるかのように思わせる。

「みぃつけた」

 聞いたことのない女の声だった。声は直接脳内に響いているような気がした。
 視界がぼやける。

「仲良く共寝なんて素敵ねぇ。人間の営みってとても素晴らしいと思うの!」

 声の主と思しき者が、視界に映り込む。黄色い髪。それ以外の姿はぼやけてはっきりと見えない。
 ルノートは必死に体を動かそうとする。

「そんなに怖がらなくても平気よぉ。私はぁ、キミにしか用がないしぃ、痛いことなんてしないよ!」

 信用できない。ルノートは本気でそう思う。

「キミには知ってもらわないといけないのぉ。ほら、こうやって――」

 突如として額に感触が伝う。人の温もりを一切感じない、ひんやりとした指の感触だった。

「えいっ!」

 女がそう言った瞬間、突如として世界が変わった。

 ルノートの全身を襲っていた金縛りが消えている。彼は勢いよく体を起こして辺りを確認する。
 見知らぬ草原の上に座っていた。周りは森が囲んでいる。うざったいほどの晴天。今の季節にしてはやけに温かな太陽の光が降り注いでいた。

「一体何が・・・」

 ルノートは慌てて立ち上がる。彼はつい先ほどまでドミナと一緒に部屋で寝ていたはずだ。
 この場所までワープさせるような魔法を使われたのだろうか。夢にしては感覚が鮮明だ。明晰夢の類だろうか。

「よく分からない・・・どうにかして戻らないと」

 ルノートは取り敢えず森の方へと歩き始めた。進まなければ、何も分からない。
 森へ入ろうとした途端だった。近くから笛の音が聞こえる。

 ルノートは頭上を見上げた。太い木の枝に、一人の男が座っている。
 細長い木の横笛を口元にあてがった男。彼はルノートの視線に気が付き、笛を口から離す。

「えっと、あなたは・・・?」

 ルノートが問いかけると、彼は枝から飛び降りた。とても綺麗な着地だった。着地した時の音が一切立たず、まるで彼は音を操っているかのようだった。

 高い背丈に細身な体。ドミナと同じ赤髪。羊飼いのようなみすぼらしい服装。中世からそれ以前の時代を想起させるような姿をしている。

「僕はリンジュ。ここでいつも笛を吹いているんだ」
「えっと、ルノートです」
「見慣れない恰好に、見慣れない髪色、いつも誰もいないこの場所にいた・・・君からどうやら特別な香りを感じるよ」

 リンジュは爽やかにそう言って笑みを浮かべた。
 それからルノートは彼と共に森を進んだ。どうやら近くに彼の住む村があるようで、そこに案内してくれるとのこと。

「君はどこから来たの?」
「シンフォニ王国です」
「シンフォニ王国・・・?初めて聞いたな」

 彼の言動から察するに、この世界はルノートのいた世界とは別か、シンフォニ王国が建国される前の時代なのかの二択だ。
 ルノートは考え込む。

「なら旅人かい?」
「そういう感じです」

 彼と会話をしながら進んでいると、地面の色が徐々に変わってきた。踏み慣らされた土。
 名前の分からない鳥が、どこか遠くで鳴いている。

「そろそろ着くよ」

 すると目の前に木の看板が見えた。杙で地面に突き立てられていて、薄汚れた板に見たことのない文字が描かれている。
 それからさらに進むと目の前に広い畑が見えた。同時に、けたたましい動物の鳴き声も聞こえる。

「僕の家はここだよ」

 畑を進むと、小さな木の家があった。あちらこちらに点々と他の家も立ち並んでいる。
 どの家の周りにも畑がある。

 すると向こうから一人の少女が駆け寄って来た。明るいオレンジの髪をした、鼻にそばかすのある少女。

「リンジュさん、おかえり!!」
「ただいま、アリスちゃん」

 アリスと呼ばれた少女は、次にルノートへと目線を向けた。彼女は驚いたように目を見開いている。

「その人は?」
「森で出会った旅人の方だよ」
「ルノートです、よろしくお願いします・・・」

 ルノートはそそくさとお辞儀をする。

「わたしはアリス!よろしくね!」

 アリスは挨拶をすると遠くへ走り去った。どうやら自分の家の方に向かったよう。

「取り敢えず、僕の家に来なよ。歓迎するよ」

 リンジュにそう言われ、彼の家まで着いて行った。
 家の側にある小さな畑と、囲いの中の数頭の羊。中に入ると、部屋は質素だった。小さなテーブル、蠟燭、調味料のようなものが多く並べられた棚。粗雑な作りのベッド。ベッドに敷かれた布の下、藁のようなものが詰められているのか床に少しだけ零れていた。

「この調味料は高級なものだよ。この村を訪れた商人から買い取ったんだ」

 見たことのない黒っぽい色をした粉。瓶に詰められ、丁重に保管されている。ルノートは棚から目を離す。

「僕は羊の面倒を見てくるよ。君はここでゆっくりしていってもいいし、村を散策しても構わないよ。あ、くれぐれも迷わないようにね」
「分かりました」

 リンジュは笛を布のようなものに包んでテーブルの上へ置くと、外へと出て行った。

「少し村を見て回ろうかな」

 ルノートもまた外へ。家の裏側から羊の鳴き声が聞こえる。彼が何かしているのだろう。

 取り敢えずまずは村の奥まで行ってみることにした。ここはまだ村の入り口付近。
 リンジュの家から出て少し先へ進むと、先ほどアリスが駆け込んでいった家が見える。こちらの家はリンジュの家より大きい。だが木造なのは変わらない。

 村の規模は小さい。十件ほどの家があるばかり。唯一村の中心と思える場所には、シンボルなのか誰かの石像が建てられている。
 奥まで行ったが特に何もなかった。ルノートは来た道を引き返す。リンジュの家に戻ろう。

 ルノートは思索する。

「どうやったら元の世界へ戻れるんだろう・・・それにドミナは・・・」

 どうしてもドミナのことが頭から離れない。彼女は一人で大丈夫だろうか。彼女は金縛りに遭わせてきた女に何かされていないだろうか。そんな心配の数々が、ルノートの脳内を駆け巡る。

 考え事ばかりに気を取られて注意が散漫していたせいか、腹部の方に軽い衝撃が走った。どうやら子供とぶつかってしまったようだ。

「ごめんね」

 ルノートは慌てて謝る。ぶつかったのは一人の少女。アリスとはまた違う、白い髪の少女だった。
 彼女の宝石のような深紅の瞳。儚さを感じさせる真っ白な肌。

 すると突然、少女がルノートのにおいを嗅ぎ始めた。

「ごめん、臭いかな・・・」

 少女はにおいを嗅ぐのをやめると同時に、ふと、泣きそうな目で彼を見上げた。

「ママと同じにおいがする・・・!!」

 ルノートは何も言えなかった。一体どういうことなのだろう。ドミナのにおいか、それとも自身のにおいが染み付いていたのかは分からない。
 なんだか複雑な気持ちになったルノートは、苦笑いを少女へと返した。

「もしかして、あなたも魔族?」

 その瞬間、ルノートは耳を疑った。少女は今何と言った。

「ママも魔族。わたしも、そして、あなたも」
「僕は魔族じゃないよ。普通の人間」
「うそつき」

 おそらく昔の物語や伝記にでも影響されているのだろう。『魔族』や『勇者』の伝説は、ルノートも子供の頃親に読み聞かせられた。

「魔族はみんなうそつきだ。わたしを置いて行ったママも、みんな全員――!」

 少女は途端に涙を浮かべ始めた。ルノートはどうすればいいのか分からず、困惑する。

「ごめんね、僕は魔族。うん、魔族でいいよ」
「やっぱり」
「そうだよ。僕も君も魔族」
「うんうん」

 少女は涙を引っ込め、笑顔で頷く。情緒が著しく変化するものだ。子供とはこうなのだろうかと、ルノートは考える。

「でも――」

 少女が何かを言いかけた。次の瞬間、目の前から少女の姿が消える。それと同時に、誰かが背後に立つ気配。

「なぜ貴方はここにいるの?」

 ルノートは振り返る。先ほどの少女をそのまま大人にしたような風貌の女性が立っていた。

「私はイデラ。今の状況を察するに、どうやら貴方は過去の世界の『夢』に囚われたみたいね」

 この女性は一体何者だ。

「あなたは一体・・・」

 ルノートの問いに女性は微笑んでみせた。

「『乖背の魔女』の娘と言えばいいかしら」
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ritard.――リタルダンドーー作者:花厳 聖
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『あの子の状態はどう?』

 携帯電話を耳に当てた女。黄色の長髪、十字の紋様が浮かぶ金色の瞳。垂れ目。右目の下に涙黶なみだぼくろが一つ。筋の通る高い鼻と、赤い唇。一言で彼女を形容するなら『天使』だろう。彼女の背に翼が生えていて、頭上に輪っかが浮かんでいてもおかしくない。

 どこかの路地裏、月の光が彼女を淡く照らしている。

「えっとねぇ、体と精神の成長具合は大丈夫みたい。それにウツグちゃんが望んでる『魔王』の意識も、そろそろ目覚め始めるわぁ」
『なるほど』
「でもまだ完全に目覚めるには時間がかかるわ。そうね、私が少しくらい手伝ってもいいわよ」
『お願いするわ』

 すると女は色っぽく笑った。

「うふふ、ウツグちゃんのお願いなら仕方ないわよねぇ。またいっぱい可愛がってあげるわぁ」
『可愛がりなんていらないわよ!』
「照れちゃってぇ」

 通話は一方的に切られた。女ははぁと溜め息を吐き、携帯電話を消失させる。

「絶対にキミの計画は止めてみせるから」

 女はそう、小さく呟いた。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 先ほどまで取り乱していたドミナは、今ようやく眠った。洗面所で取り乱していたドミナを落ち着かせ、互いに寝間着へ着替えた。それまで介抱していたルノートは、天井を見上げる。

「眠い・・・」

 呟きながら、ルノートは隣でぎゅっとくっついて眠るドミナを見つめる。先ほどまでの様子とは打って変わって、穏やかな表情をしている。

「昔を思い出すなぁ」

 彼がドミナと出会ったばかりの頃、悪夢に魘されて目が覚めたルノートはいつも隣で眠るドミナの穏やかな寝顔を見ていた。彼女を見るとどこか安心するのだ。

 悪夢。彼をいつも苛めるのはかつての記憶。
 母に暴力を振るう酔い痴れた父の姿。泣き声を上げるダイアの姿。そんなダイアを、ルノートを罵倒する父の声。酒瓶を片手にルノートを激しく怒鳴る父の表情。鬼のような形相だった。

 ドミナと付き合ってからというもの、悪夢を見ることはなくなった。それまで自身を心配してくれたドミナへの恩返しもあってか、ルノートは今のドミナを支えようと尽くしている。

「ドミナ・・・」

 ルノートは彼女の頬に触れる。

「昔から変わらないね」

 ルノートは微笑み、そして目を瞑る。

 彼の心の中もまた、ドミナの寝顔のように穏やかだった。悪夢や、過去の記憶に対する恐怖や苦しみを消してくれるほどに――。

「――っ!?」

 突然だった。金縛りが彼の体を襲った。
 ルノートは息を荒げる。目は勝手に開いている。視界に広がるのはいつもと変わらない天井の光景。しかし、体が動かせない。視界の焦点すら移動できない。

 甲高い耳鳴りと間延びしたような中音の耳鳴りが脳内にまで侵食するように襲ってくる。寝起きのようなぼーっとした頭の感覚が、今の状態がまるで夢であるかのように思わせる。

「みぃつけた」

 聞いたことのない女の声だった。声は直接脳内に響いているような気がした。
 視界がぼやける。

「仲良く共寝なんて素敵ねぇ。人間の営みってとても素晴らしいと思うの!」

 声の主と思しき者が、視界に映り込む。黄色い髪。それ以外の姿はぼやけてはっきりと見えない。
 ルノートは必死に体を動かそうとする。

「そんなに怖がらなくても平気よぉ。私はぁ、キミにしか用がないしぃ、痛いことなんてしないよ!」

 信用できない。ルノートは本気でそう思う。

「キミには知ってもらわないといけないのぉ。ほら、こうやって――」

 突如として額に感触が伝う。人の温もりを一切感じない、ひんやりとした指の感触だった。

「えいっ!」

 女がそう言った瞬間、突如として世界が変わった。

 ルノートの全身を襲っていた金縛りが消えている。彼は勢いよく体を起こして辺りを確認する。
 見知らぬ草原の上に座っていた。周りは森が囲んでいる。うざったいほどの晴天。今の季節にしてはやけに温かな太陽の光が降り注いでいた。

「一体何が・・・」

 ルノートは慌てて立ち上がる。彼はつい先ほどまでドミナと一緒に部屋で寝ていたはずだ。
 この場所までワープさせるような魔法を使われたのだろうか。夢にしては感覚が鮮明だ。明晰夢の類だろうか。

「よく分からない・・・どうにかして戻らないと」

 ルノートは取り敢えず森の方へと歩き始めた。進まなければ、何も分からない。
 森へ入ろうとした途端だった。近くから笛の音が聞こえる。

 ルノートは頭上を見上げた。太い木の枝に、一人の男が座っている。
 細長い木の横笛を口元にあてがった男。彼はルノートの視線に気が付き、笛を口から離す。

「えっと、あなたは・・・?」

 ルノートが問いかけると、彼は枝から飛び降りた。とても綺麗な着地だった。着地した時の音が一切立たず、まるで彼は音を操っているかのようだった。

 高い背丈に細身な体。ドミナと同じ赤髪。羊飼いのようなみすぼらしい服装。中世からそれ以前の時代を想起させるような姿をしている。

「僕はリンジュ。ここでいつも笛を吹いているんだ」
「えっと、ルノートです」
「見慣れない恰好に、見慣れない髪色、いつも誰もいないこの場所にいた・・・君からどうやら特別な香りを感じるよ」

 リンジュは爽やかにそう言って笑みを浮かべた。
 それからルノートは彼と共に森を進んだ。どうやら近くに彼の住む村があるようで、そこに案内してくれるとのこと。

「君はどこから来たの?」
「シンフォニ王国です」
「シンフォニ王国・・・?初めて聞いたな」

 彼の言動から察するに、この世界はルノートのいた世界とは別か、シンフォニ王国が建国される前の時代なのかの二択だ。
 ルノートは考え込む。

「なら旅人かい?」
「そういう感じです」

 彼と会話をしながら進んでいると、地面の色が徐々に変わってきた。踏み慣らされた土。
 名前の分からない鳥が、どこか遠くで鳴いている。

「そろそろ着くよ」

 すると目の前に木の看板が見えた。杙で地面に突き立てられていて、薄汚れた板に見たことのない文字が描かれている。
 それからさらに進むと目の前に広い畑が見えた。同時に、けたたましい動物の鳴き声も聞こえる。

「僕の家はここだよ」

 畑を進むと、小さな木の家があった。あちらこちらに点々と他の家も立ち並んでいる。
 どの家の周りにも畑がある。

 すると向こうから一人の少女が駆け寄って来た。明るいオレンジの髪をした、鼻にそばかすのある少女。

「リンジュさん、おかえり!!」
「ただいま、アリスちゃん」

 アリスと呼ばれた少女は、次にルノートへと目線を向けた。彼女は驚いたように目を見開いている。

「その人は?」
「森で出会った旅人の方だよ」
「ルノートです、よろしくお願いします・・・」

 ルノートはそそくさとお辞儀をする。

「わたしはアリス!よろしくね!」

 アリスは挨拶をすると遠くへ走り去った。どうやら自分の家の方に向かったよう。

「取り敢えず、僕の家に来なよ。歓迎するよ」

 リンジュにそう言われ、彼の家まで着いて行った。
 家の側にある小さな畑と、囲いの中の数頭の羊。中に入ると、部屋は質素だった。小さなテーブル、蠟燭、調味料のようなものが多く並べられた棚。粗雑な作りのベッド。ベッドに敷かれた布の下、藁のようなものが詰められているのか床に少しだけ零れていた。

「この調味料は高級なものだよ。この村を訪れた商人から買い取ったんだ」

 見たことのない黒っぽい色をした粉。瓶に詰められ、丁重に保管されている。ルノートは棚から目を離す。

「僕は羊の面倒を見てくるよ。君はここでゆっくりしていってもいいし、村を散策しても構わないよ。あ、くれぐれも迷わないようにね」
「分かりました」

 リンジュは笛を布のようなものに包んでテーブルの上へ置くと、外へと出て行った。

「少し村を見て回ろうかな」

 ルノートもまた外へ。家の裏側から羊の鳴き声が聞こえる。彼が何かしているのだろう。

 取り敢えずまずは村の奥まで行ってみることにした。ここはまだ村の入り口付近。
 リンジュの家から出て少し先へ進むと、先ほどアリスが駆け込んでいった家が見える。こちらの家はリンジュの家より大きい。だが木造なのは変わらない。

 村の規模は小さい。十件ほどの家があるばかり。唯一村の中心と思える場所には、シンボルなのか誰かの石像が建てられている。
 奥まで行ったが特に何もなかった。ルノートは来た道を引き返す。リンジュの家に戻ろう。

 ルノートは思索する。

「どうやったら元の世界へ戻れるんだろう・・・それにドミナは・・・」

 どうしてもドミナのことが頭から離れない。彼女は一人で大丈夫だろうか。彼女は金縛りに遭わせてきた女に何かされていないだろうか。そんな心配の数々が、ルノートの脳内を駆け巡る。

 考え事ばかりに気を取られて注意が散漫していたせいか、腹部の方に軽い衝撃が走った。どうやら子供とぶつかってしまったようだ。

「ごめんね」

 ルノートは慌てて謝る。ぶつかったのは一人の少女。アリスとはまた違う、白い髪の少女だった。
 彼女の宝石のような深紅の瞳。儚さを感じさせる真っ白な肌。

 すると突然、少女がルノートのにおいを嗅ぎ始めた。

「ごめん、臭いかな・・・」

 少女はにおいを嗅ぐのをやめると同時に、ふと、泣きそうな目で彼を見上げた。

「ママと同じにおいがする・・・!!」

 ルノートは何も言えなかった。一体どういうことなのだろう。ドミナのにおいか、それとも自身のにおいが染み付いていたのかは分からない。
 なんだか複雑な気持ちになったルノートは、苦笑いを少女へと返した。

「もしかして、あなたも魔族?」

 その瞬間、ルノートは耳を疑った。少女は今何と言った。

「ママも魔族。わたしも、そして、あなたも」
「僕は魔族じゃないよ。普通の人間」
「うそつき」

 おそらく昔の物語や伝記にでも影響されているのだろう。『魔族』や『勇者』の伝説は、ルノートも子供の頃親に読み聞かせられた。

「魔族はみんなうそつきだ。わたしを置いて行ったママも、みんな全員――!」

 少女は途端に涙を浮かべ始めた。ルノートはどうすればいいのか分からず、困惑する。

「ごめんね、僕は魔族。うん、魔族でいいよ」
「やっぱり」
「そうだよ。僕も君も魔族」
「うんうん」

 少女は涙を引っ込め、笑顔で頷く。情緒が著しく変化するものだ。子供とはこうなのだろうかと、ルノートは考える。

「でも――」

 少女が何かを言いかけた。次の瞬間、目の前から少女の姿が消える。それと同時に、誰かが背後に立つ気配。

「なぜ貴方はここにいるの?」

 ルノートは振り返る。先ほどの少女をそのまま大人にしたような風貌の女性が立っていた。

「私はイデラ。今の状況を察するに、どうやら貴方は過去の世界の『夢』に囚われたみたいね」

 この女性は一体何者だ。

「あなたは一体・・・」

 ルノートの問いに女性は微笑んでみせた。

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