永き夜を越えて
一夜は静まり啜り泣く。引きちぎられて醜くなった花だった破片をそこにばら撒いた。風が吹けばこの思いごと破片を盗って拐ってはくれないか。形のあるこの破片は吹いて飛ばされるというのに、この思いこそは形もないくせにここに残り続けるというのだから、やはり碌でもない。何故ここに残るのか。何がためにここへいるのか。
案の定、風が吹いて破片は遠くの夜景に滲んでは溶けていった。もうここへは戻らない。今日を限りの夜だった。
左側が寒さで凍える二の夜は。潮騒届くこの場所に、海水を瓶詰めにしてそこにおいた。なんとなく、そこにかけてしまうのは気が引けてしまったものだから、全く仕方がない。この瓶はあの場所で飲んだ酒の瓶。青い、小さい、まるで穢れを知らぬ青夏の海を現したもの。全く、この寒空には似つかわしくはないわけだが。この瓶にまだ酒が残っていたのならば、きっと今ここで飲み干したことだが、あいにくと今は辛い渇望のみが入れられている。そんなものを飲んだところで、この穴が満たされることはない。
案の定、寒さで手が悴んでは熱い息を吐いて手を温めた。もうここには戻らない。今日までの夜であって。
喧騒遠く解ける三の夜。三度目の正直なんてものは無かった。そこに来たとて何もありはしないが。ただそこの右隣りに座っては、空を見上げる。人差し指で星間線を掻き混ぜて、紡いで、新しい星座を描く。指先の示す星を馬鹿正直に追っては見失う、その瞳はここにはなかった。星の瞬きなんぞより、たった一度の瞬きの方がよほどに価値があることなど、疾うの昔から理解していた。煌々と、しかしさめざめと泣きながらこちらを見下ろす光に、もう興味なんてものはなかった。ただ、そこにいることだけが全てだった。
案の定、やるせなさだけが押し寄せては眠らせようとするので。もうここには戻りたくなかった。今日だけはマシは夜だった。
深雪に足を拭われる五の夜に。そこに降り積もる深海の骸を払い除けてはまた降り積もる。何度も同じことを繰り返してでも、何度も同じことを繰り返してやりたかった。ぼろぼろの赤いマフラーは、そこには必要だろうか。やはりやめておこう。これは自身が貰ったものだったのだから。形は残れど劣化していく様が、あんまりにも憂鬱に降り積もるものだから、その憂鬱ささえも覆い隠してほしいと願ってしまう。新雪は永遠に新雪であるというのに。足跡は既に埋もれて消えているというのに、この傷だけは埋めてくれることなど無かった。
案の定、体は埋もれずにただただ無駄の繰り返しをしただけだった。もうここへは戻れない。深雪だけが足跡を覚える今日の夜。
十夜に酷く煩わしい歌が鳴り響く。独りで虚しく貪るだけの無駄な飾りばかりのケーキをそこに置いた。別にそこに置いたままでもいいかも知れないが、変なものが寄ってくるのもやはり好ましくは無いのでやめる。家族の色、恋人の色、或いは友人の色。綺羅星のように明るく街を照らすそれが、こんなにも煩わしく嘆かわしいと、この日が来てようやく知った。ここにはケーキと独りの肢体があるだけというのに、まるでおまけの祝福をされているかのようで、溜息ばかりが漏れ出した。何を話すでもないこの身をも、祝福されるというのか。
案外、この無様で惨めな一瞬が嫌いにしかなれなかった。もうここには戻りたいと思えない。消してしまいたい今日は夜だった。
ハツカネズミならばもう死んでしまった二十の夜を越えて。寒椿だなんてものを、庭から手折って持ってきてしまうのは余りある愚かさであったことだろう。未だ残る雪は、そこでなければさぞ美しかったのだろうが、そんなものは深くに埋もれてもう掘り返すことすらままならない。赤いマフラーと、赤い寒椿なら、どちらのほうが尊いと言うのだろうか。そこに答えはなく、ただ沈痛で胸も頭も冷えるような沈黙だけがある。こんなものは、君のためでなければもうとっくに折って焼いて捨ててしまえたことだろうが。君が埋めたくせに、その上で咲くこの寒椿と、そこの対比があまりにも残酷で、この愚行だけはできる程度にしか、心は残っていなかった。そこにあるものは命などではないし、寒椿のような鮮やかさも、雪も痛みも溶けるような熱さえ存在してはくれない。雪と、どちらが冷たく刺し殺すのだろうか。なんて、答えはもう自分の中で分かり切っていた。寒椿が涙を溢す様など、君は見たことがないだろう。
案外、ここも悪くはないと思えてしまえる、最悪な泣き言をする。もうここに戻れないなんて、なんて。忘れてしまえたなら楽な今日も夜だった。
梅なんてもう散ってしまった百日の夜よ。桜が我が物顔でそこかしこを舞台に染めあげてしまうものだから、目をそらすも上げるも下げるも、二進も三進もいかない道のりだった。風に舞うその花弁は、ただ生きて蠢く龍のようでもあり、ここにあるものこそが生命の息吹きなのだと巻き取られ足元から転げ落ちる気さえした。引き出しから見つけた手紙に書かれていたことが信じられなくて、答えなどとうに貰えないことを理解していながらも、自傷するかのようにここに流れ着いてしまった。川に溺れたのか、君に溺れたのか、或いは独りよがりの恋心に溺れてしまったのか。忘れることができないほどに君の存在は当たり前のものになっていたというのに、それを自覚しながら忘れろと宣う君は、一体悪魔か天使か。天啓とでも言うつもりなのだろうか、それとも死を告げようとでも。悪魔でも天使でも、もうどちらであっても構わないが、そこには君の死体しか埋まっていないということだけは事実であった。
ああいっそ、君自身の手で慈悲をやってはくれないか。会うための口実を欲しがった。もうこんな場所には戻りたくなんてない。やっぱり忘れられない今日だけは、もう夜明けなんだ。もう、もう帰れない。ここには戻れない。
夜明けの明星、まだ待ってはくれないか。この情けない顔を照らして、彼女に見せつけようだなんて、そうか、お前が悪魔なのか。もういい。ここで、そこで、今日はただ居たい。どうせもう帰れない、時間は逆巻くことなんてない。花に嫉妬してしまうだなんて、君が聞けば大いに笑うのだろう。寒椿も梅も桜も。蕾は花に、花は葉に、と姿を変えたとてその存在は変わりようがないのに、どうしてこの体は時間が立つほどに変化していってしまうのか、退化していってしまうのか。進化していこうとさえしてしまうのか。いつも左側に居た君はもういない。
日、いづる国よ。ならば黄泉路も照らしてくれないか。自分のこの命とそこで全てを引き換えてしまいたいのだ。刺さる陽光は暖かく、だがここは未だ冷たく。その眩しさに、もう諦めて目を瞑ってしまおうか。雨は降らなかったけれど、草に落ちる露が、綺羅綺羅と光を反すものだから。手で払い除けるけれど、どうにも雨が止まないようで、やっぱりここに戻ってこなければよかったと後悔したかった。
三百の夜を越えれば。ようやく傷も思い出の痂として進化していく。手折った寒椿の枝は逞しく再生し、この下手くそな手編みのマフラーも自力で直した。庭の花に水をやり、涼風の恋しい漣を蹴っては、星をなぞって星座を数え、その墓のそばに小さな雪だるまを作ろう。まだこの傷は直したくないけれど、だからといって新しく傷を付ける必要もないことにようやく気付いた。手紙は、焚くも捨てるもできなかったけれど、代わりにもう二度と見ることはない。ただ、そこにいられたら。
今日は花束を抱えて昼に訪れていた。今思えば、酷い体たらくだったことだろう、見苦しかっただろう。ようやく泣き喚かなくなったこの姿を見て、少しは心配も拭えるだろうか。寒さも温かさも、花も星も月も潮の匂いも、その全てをただ胸に置いて、しかと思い留めていよう。この花は、献花には向いてはいないけれど、君の好きな花だけを添えたものだからどうか許してほしい。
そっと目を閉じて、思い出も傷も抱きしめて。小鳥の鳴き声が微かに聞こえる。寄せては引いてと繰り返す波の音も。靴を鳴らす音に、楽しげな親子の声。自身の輪郭を撫でていく風は温かいし、どこか美味しそうな匂いも一緒に運んでいた。一人であることには変わりがないが、独りではなくなったのは君の思い出が痂になったからだろう。夜にばかり来るはた迷惑で不審者のような男だっただろうに、君は特に何も言ってくれないものだから、やはり寂しさだけはここに残っていた。
君は風になるのだろうか。それとも鳥、或いは自由気ままな猫か。潮騒になっているかもしれないし、意外ともう戻ってきたのかもしれない。蝶、はきっとありえないか。君は確か、虫はあまり好きではなかったから。となると、花というのもきっとないなんて。馬鹿馬鹿しいことも、無性に愛おしくて、それだけあの時間が特別だったのだと、今でははっきり理解できた。
いつかの日に洗って献花を入れていた、かつては海水だけで満たされていた瓶に、そっと献花を挿し替えて、新しく息を吸う。永い夜は終わったけれど、まだ君に恋したままでいさせてほしい。愛していたい。ただ、愛していたいのだ。君に傷つけられて、毎夜通っていた癖は、未だ治らなくて。だからこそ、自分はまた毎夜通い続けてしまうだろうし、毎朝思い出してしまうだろうが、それだけの愛を受け止めてほしい。なんて、もう口無しの君には重すぎただろうか。
その墓石に背を向けて、一歩を踏み出す。草を踏み出す音は、何度目かの青草であった。傷ごと君を愛せれば、もう痛みはないなんてこともきっとないだろうが。それでも、たしかにここに救われる思いはあったのだ。
風が吹いても、もう寒くはなくって。いつの間にか春も夏も。秋、冬と越えてまた過ごしてきていたみたいだ。ここからの夜は、恐らく寂しいままではあれど、愛おしい時間で、いつか君の年を超えていってしまう長い永い夜だろう。
だがもう苦しいことだけはない、と。それだけはわかるのだ。