海とスナメリと信じなかったあいつ
俺の住む町には海がある。
その海にはスナメリがいる。
そこに生息しているわけではなく、この町から数十㎞ほど離れた静かな港から数頭、泳ぎ着くことがある。
もちろん滅多にお目にかかれない。
見ることが出来た人間は運が良いと言われる。俺も運は良い方だから見られるはずなのだが、まだ奴らは俺の前には現れない。親父が一度、この町の港に釣りに行った時に見たそうだ。俺はその話を聞いて素直に
「すげー! 」
と叫んだ。だが信じない奴もいる。
「うちの親父、この間釣りに行ったらスナメリ見たんだって」
と、彼女に言ったら
「スナメリって何やの」
と、彼女......あいつは真顔で言った。
スナメリを知らない人間だってそりゃいるだろう。俺はそう思って説明した。
「イルカを小さくしたような奴で、海にいる」
「はあ? 嘘やろ? 」
形の良い眉の間に皺を寄せて、あいつは言った。切れ長のアーモンド・アイに、通った鼻筋、厚くもなく薄くもない、コーラル系の口紅を乗せた唇。見てくれは小綺麗なのだ。中身は小悪魔だが。
「嘘じゃないって! 」
俺はスマホを取り出して検索した画像を見せた。
あいつは長い髪を耳にかけながら、画像をじっと凝視した後、
「こんなんおるわけないやろ」
スマホを俺に突き返した。
「いるって! 」
「嘘言わんといて」
画像を見せてもこの反応だ。本当に頭から信じていないのか、俺が遊ばれているのか全く分からない。何なんだこいつは。
そういえば以前、俺が
「この海の向こうに見える島はA市」
と地理を説明したら
「信じられへん。あんなに近いわけないやろ」
と言いやがった。
そもそもあいつは俺をまともに相手にしていない。
あいつとは同じ職場の同期として知り合ったのだが、あいつは関西から入社してきた。うちの職場にはいまだに、上役に年賀状を出すというめんどくさい習慣がある。そろそろその準備をしなければならないその時季に、あいつは俺に言ってきた。
「年賀状書かなあかんのやてね」
「そうだよ」
「年賀状の書き方知ってる? 郵便番号って言うのを書くんだよ。相手と自分の住所と名前も書くんやで」
「知ってるわ! 」
全てにおいてこんな感じだった。そしてこの頃には、あいつの関西弁にたまに標準語が交じるようになっていた。慣れてきたと言うことだろう。俺があいつの態度に慣れてきたのと同様に。
慣れて終わりと思っていた。
それなのに何故今こういう関係になってしまったのだろう。ときめきとか愛おしさとか感じたためしもないのに何故かこうなった。
「髪、短くして眉見せた方がええんやない? 今のキノコ頭よりキリッとした感じするで」
好きでマッシュにしてるんだ、ほっとけ。
そこまで言われる関係に、いつの間になってしまったのだったか。
「好きになったから付き合ってくれへん? 」
冬の終わりにいきなりそう言われて、断る理由もなく頷いてしまった自分の心理が分からない。嫌いじゃないが恋愛感情と思ったことはない。だがはっきり、悪くないとは思っている。絶対あいつには言ってやらないが。
あんまりカレカノらしくないとこぼすと、自然体でいいじゃないと言ってくれる人もいる。だが、恋愛とはこういうものだっただろうか?
あいつを――お前を連れて俺の自宅に向かっている今もなお不思議だ。
今は初夏。
お前と付き合って四年目だ。
実はまだ家族に会わせたことがない。何だか恥ずかしかったからだ。
しかし結婚を決めたからには会わせないわけにはいかない。
港通りを歩いている時、俺は忠告した。
初めて俺の家族に会わせる前に注意喚起だ。
「あのさ、親父の前ではスナメリを否定するなよ」
「スナメリって何やの」
またしても真顔で言う。作った真顔か、そんな過去のことは忘れてしまっているのか。
「だーかーら! 」
「心配あらへん」
お前は今日の晴天みたいな明るい笑顔を見せた。
「スナメリも信じてるし、この海の向こうがA市って言うのも信じてる。あなたが言ったことや。信じて当たり前やろ」
俺は拍子抜けしてしばらく言葉が出なかった。
人をおちょくってるようで、決めるところは決めてきやがる。こいつを嫁にするのは多分正しい判断だし、だからやっぱり俺は運が良いのだろう。
「......信じてもらっても、今日もスナメリは見えないけどな」
俺はそれだけ答えて、潮の香りを感じながら自宅への道をお前とのんびり歩いた。