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11

 園芸店でスコップと薔薇用の肥料を買い、中庭の日当たりのいい場所に、薔薇を......クラリスを植えた。雪が言っていた半蔓薔薇という言葉の意味もこのとき初めて知った。この薔薇は立ち木ではなく、半分蔓のような性質を持っているのだそうで、やがては添え木が必要になることもあるらしい。わたしは雪の説明を聞きながら小さく頷いた。切りそろえられた硬い枝が、艶やかな緑色の葉が、あげたばかりの水を受けて、きらきらと光っていた。美しい、命そのものの姿がそこにあった。
 わたしはそっと、静かに目を瞑ってみた。
 まぶたの裏に浮かぶのは、うららかな五月の空の下で、薔薇は美しいオフホワイトの花をいくつもいくつも咲かせていた。中心をほんのりと杏色に染めて。わたしの隣では雪が目を閉じて、薔薇の匂いを楽しんでいる。両手で包み込むようにすると、もっと匂いが立つんですよ、と雪が言う。わたしはその言葉に従って、そっと両の手のひらで薔薇の花を包み込む。花弁を散らさないように、そっと、優しく。薔薇の匂いはどこまでも甘く、それは女性の蜜の匂いに少しだけ似ている。......春になれば、そんな光景が現実になる気がした。
 そう。春にさえ、なれば。
「咲くといいですね」
 と雪が言った。わたしは目を開いた。
「春が待ち遠しいです」
「わたしも待ち遠しい。ねえ、......少し寒くなってきたわ。お部屋に入りましょう」
 濡れ縁から室内に入る。キッチンの流しで一緒に土で汚れた手を洗い流し、それからわたしは、雪の頬に優しく触れた。
 雪が小さく息を漏らした。雪の頬は、わたしの指よりもなお、冷たかった。
「......ハイネさん」
「今度、御堂彰彦の新しい映画が始まるのだけれど、一緒に行かない?」
「でも、わたし」
「副音声上映のある場所を選ぶわ。もしなかったら、わたしがずっと耳元で、内容を説明してあげる」
 わたしは言って、雪の耳に唇をつけた。雪のため息のような喘ぎが、わたしの首筋を震わせた。耳朶を噛むと、雪の手がわたしの腰に伸びた。
「......今日は最後まで、してもいい?」
 わたしが訊ねると、雪は返事をする代わりにわたしの唇を奪った。勢いがつきすぎて前歯が当たってしまったけれど、その痛みさえただひたすらに甘美だった。わたしたちの指は自然に動き、セーターの上から互いの胸の感触を確かめ合った。雪のソバージュの髪が、わたしの頬を優しく撫でた。
 もう、歯止めは利かなかった。我慢なんてできなかった。遠慮も何もない。そもそもここはわたしの家なのだ。誰に構うことがあると言うのだろう。
 そう思いつつ、ちらりと後ろに視線を感じて振り返ると、抱き合うわたしたちを、開け放っていた隣の部屋の暗がりから、姉の遺影がじっと見つめていた。
 一瞬気持ちがすっと冷えた、そのときだった。
 ピンポン、と。玄関のチャイムが鳴った。
「ハイネさん。お客さんが」
「そんなの、どうでもいい。今、雪よりも優先することなんて、何もない」
 わたしはかぶりを振って、自分の服を脱ぎながら、雪の服も脱がせていった。
 姉さんにも、誰にも、邪魔なんかされたくない。
 チャイムは二度、三度鳴らされたあと、凍りついたように黙った。まるで砂漠に降った少しだけの雨みたいに。わたしたちのしていることに、何の影響も及ぼさないまま。
 床に押し倒し、下着をたくし上げて雪の胸に顔を埋めていると、もう、どうしようもないくらい自分が濡れていることに気づいた。雪の乳首が赤く、硬くなっているのと同じように、わたしは滴るほどにしとどに濡れながら、植物園で葉っぱを撫でていたあの指を思い出していた。ここに。ここに雪の指が欲しい。そう思った。雪の中にも入っていきたい。そう思った。それ以外のことなんて、何も考えられなかった。雪の肌の上に唇で薔薇の花を幾つも、幾つも散らすのだ。
 再び視線を感じた。
 でも、姉の怨念だろうと思って無視した。
 すると、
 コンコン、と。
 庭に通じるガラスの扉を、誰かが叩いていた。
 わたしは悲鳴をあげて起き上がり、とっさに自分の胸を隠した。それから雪を自分の背にして視線を遮った。何? 誰が? 見られた? 思考がまとまらなくて、頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が痛いくらいに早くなって、全身に嫌な汗が浮かんだ。
 薄いレースのカーテン越しの、窓の外に、髪の長い、背の高い、女のシルエットが浮かんでいる。こっちを覗き込んでいる。あれは、あれは一体、なんなのだろう。
「ハイネさん? 何があったんですか」
 雪の不安そうな声が聞こえた。背中にしがみつく体が微かに震えている。ううん。もしかしたら、わたし自身が震えていたのかもしれない。
 男じゃない。それはつまり、雪の夫ではないということ。不倫が露見したわけではないということ。......なのだろうか。本当にそうなのだろうか。
 あれは、さっきチャイムを押していた、誰かなのだろうか。
 もう一度、女が窓ガラスを叩く。
 コンコン、と。
 そして、
「......おばちゃん? 中にいるの?」
 と、女が言った。
 ......志子の声だった。
「悲鳴がしたけど、大丈夫?」
「ちょ、待って、玄関、玄関に回りなさい。今、鍵を開けるからっ」
 わたしは叫んだ。裏声になってしまって、めちゃくちゃ恥ずかしかった。それから思い出したように慌てて服を身につけた。状況が理解できず、目を白黒させている雪にも、ごめんなさい、姪が急に遊びに来たみたいで、と小声で素早く言って、服と髪を整えてもらった。
「姪御さん?」
「うん。本当にごめんなさい」
「ハイネさんが謝ることじゃないですから」
 雪はそう言って、苦笑を浮かべて見せた。
 わたしはなんだかどっと疲れてしまって、三つくらい急に年を取ってしまったような気がした。
 いろいろな思いに打ちのめされていると、もう一度ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。わたしは髪を指先で梳きながら玄関の鍵を開け、志子を向かえ入れた。志子はいつもの通りの制服姿だった。
「......今日はどうしたの?」
「おば」
「お姉ちゃん」
「お姉ちゃんに、お土産を持ってきたんだけど」
「お土産?」
「うん。修学旅行で京都に行ったの」
 見ると片手に、紙の手提げ袋を所在なさげにぶらさげている。有名な八橋のロゴタイプがそこには描かれていた。
「お客さんがいるの? 志子、帰ったほうがいい?」
 わたしはすっかり毒気を抜かれてしまって、これからもう一度ことに及ぶ気にもなれなくて、遠慮しないで上がっていきなさい、と返すだけだった。
 志子は玄関に立てかけてある白杖をちらりと一瞥して、てとてとと音を立てながら、雪の真横に座った。制服のスカートがひらりと広がって、丸い円を作った。人見知りの激しい志子には珍しく、物怖じする様子が全然見られなかった。とても自然な感じだった。あるいはここがわたしの家で、わたしが近くにいるから、そんな行動に出たのかもしれなかった。
「はじめまして。志子です。中学三年生です」
 志子は頭を下げ、にっこりと笑った。
「はじめまして、わたしは岩井美雪といいます。いつも......その......」
 雪はちょっと困ったように、顔をあげた。見えないその目は、わたしを探していた。どこか遠いところを見つめながら、助けを求めていた。
 けれどわたしが声をかけるよりも早く、
「大丈夫、全部知ってるから」
 と志子が言った。
 わたしと雪は何を、と訊ねることもできず、沈黙を守りながら、志子の言葉の真意を伺っていた。
「岩井美雪さんはお姉ちゃんの恋人のひと、でしょ? ね? お姉ちゃん」
「うん。そう、そうなんだけど」
 わたしはそれを聞いてちょっとだけほっとして、ちょっとだけ、冷や汗をかいた。だって、わたしと雪が思っていることと、志子が思っていることは、違うから。
 志子は、雪がわたしをハイネと呼ぶことを知らない。
 雪は、わたしの本名を知らない。
 だからそこに漂っていたのは、ある種の不思議な緊張感なのだった。
 名前の開示は、はたしてどこまでなされるべきなのか。いきなりハイネと言われても、きっと志子も混乱するだけだろう。それに雪は以前、わたしの名前を当ててみせると言っていた。こんなところで、こういう風に第三者から知らされてしまうのは、あるいは不本意なことなのかもしれない、と思った。
「お茶を淹れるね。二人ともそのまま座って待っていて」
「志子、お姉ちゃんに聞いたの」
「......何を、かな」
 雪が恐る恐る訊ね返す。わたしは耳をダンボにして二人の会話に集中させながら、機械のようにお茶の準備を進めていた。志子が何を言い出すのだろうと、内心、戦々恐々としていた。
「お姉ちゃんの恋人は、白い杖を使っている人なんだって。玄関に置いてあったのは岩井美雪さんの杖でしょう? 岩井美雪さん、目が見えないのね」
「志子、失礼なことを聞かないの」
「いいんです。......本当のことだから。でも、見えなくてもわかることはいっぱいあるんだよ?」
「例えば?」
「志子ちゃんは背が高いよね。きっと、......ええと、お姉ちゃんよりも。それから髪の毛も長いのね。あと、美人さん。合っているかな」
「全部合ってる。すごい」
 志子が言い、わたしは苦笑してしまった。美人と言われても謙遜しないところなどは、いかにも志子らしい。
 背の高さは声の発生場所から、髪の長さは服をこする音から、わかるのだという。美人云々については、雪はやんわりと言葉を濁した。
「志子ちゃんはあまり驚かないのね」
 と、雪が小さな声で訊ねた。わたしはやかんを火にかけながら、ちらりと二人の会話している姿を横目に見ていた。
 志子は首をかしげたまま、雪を見つめている。返事がないことに少し訝しむ様子を見せながら、雪が先を続けた。
「わたしのこと。お姉ちゃんの恋人が女の人だったり、目の見えない障害者だったりすること。志子ちゃんは......変だと思わない?」
「思わない」
「どうして?」
 どうして、と志子が繰り返して呟いた。少し考えるそぶりを見せてから、志子ははっきりとした声で言った。
「だって、それはわたしの問題じゃないもの」
 と。
「お姉ちゃんが問題にするのならわかる。あなたが問題にするのもわかるわ。でも、どうして志子が問題にしたり驚いたりしなくちゃいけないの?」
 わたしは唖然としている雪の前に茶托を置き、湯呑みを乗せた。もらったばかりの八橋をいくつか小皿に乗せて、それを雪と志子の前に置く。志子はその隙に自分のお気に入りのマグカップを持ってきて、わたしの用意した急須のお茶を注いでいる。
 そっと雪の手を取り、湯呑みの位置と、八橋の位置を、彼女に知らせた。湯呑みは熱いから気をつけて、と言い添えて。雪はハンドバックからアルコールティッシュを取り出して、指先を軽く拭いた。
「こういう子なの。悪気はないし、悪い子ではないから、気にしないでね」
 わたしは志子の頭を撫でながら、雪に向かってそう言った。
「いえ。大丈夫です。そんなことは」
「岩井美雪さんはどうして自信がないの?」
 安心しきった猫のような表情のまま、唐突に志子が言った。
「お姉ちゃんにそれを期待してもダメだよ。だって、お姉ちゃんは別の人だもの」
 今度はわたしが唖然とする番だった。雪が湯呑みに伸ばしかけた手を引いて、左手を覆うように握り合わせた。
「志子、お姉ちゃんのお姉ちゃんにも八橋持って行くね」
 志子が中座した。最初は意味がわからなかった。いったい志子は何を言っているのだろうと思った。別の人というは、わたしではなくて......もしかしなくても雪の夫のことを指しているのだと思った。志子には現在進行形の恋愛が不倫の恋だなんて、もちろん言っていない。言っていないけれど、少しでも注意深く見ればわかってしまう。だって雪の左手の薬指には今は覆い隠されているけれど、今日も結婚指輪が静かに光を放っているのだから。
 そう考えると少し合点がいく。
 雪は言わなかった。
 女性同士の恋、障害者と健常者の恋、その是非について。それだけしか志子に訊ねなかった。だから、言わなかった不倫の恋に対しての、その答えとして。
 暗に......志子はわたしたちを責めているのかもしれない。
 隣の部屋からお鈴の音がちーん、と長く鳴った。
「今日も泊まっていっていい?」
「明日学校は? 平日でしょう?」
「修学旅行の振替休日」
「......なら、いいけど」
 雪がこわごわと湯呑みに触れた。
 八橋を探るようにして手に取り、口に入れた。美味しい、と。小さな声で言った。それはまるでビー玉を地面にばらまいたような、感情のこもっていない、とても無機質な声だった。
「わたしの実家、京都なの。八橋、久しぶりに食べた」
「そうなの?」
 わたしは雪の言葉に驚いて、ちょっとだけ大きな声を出してしまった。
「うん。......言ってませんでしたっけ」
「聞いていないわ」
 わたしはなんだか喉が渇いたようになって、どうして自分のお茶を用意しなかったのだろう、と後悔した。戻ってきた志子はそれを察したように再び立ち上がり、わたしのマグカップに牛乳をなみなみと注いで持ってきてくれた。......牛乳。
「そうどすなぁ、って言う?」
 志子が訊ねる。
「言わない。今時、誰もそんな話し方しないよ。言うのは舞妓さんだけ」
「舞妓さんは京都の人じゃないの」
「そうとも言えるし、違うとも言える、かな」
 雪は話を区切るようにお茶を一息で飲んで、左手で触れていた茶托に、湯呑みを戻した。
「今日は帰ります。......またね、志子ちゃん」
「うん。またね、岩井美雪さん」
 雪が立ち上がる。わたしもマグをテーブルに置いて、壁にかけていたコートに手を伸ばした。
「わたし、彼女を駅まで送って行くから、留守番していて」
「わかった。志子は大人しくお留守番してる」
 志子はそう言うと、八橋の端を噛みながら目を細めていた。
 立ち上がると今まで気づかなかったのに下着が濡れて貼り付いているのがわかって、少し気持ちが悪かった。
 もしかしたら、雪もそうだったのかもしれない。わずかに顔を、歪めるようにしていた。
 駅までの道は、お互いにほとんど無言だった。雪の左手はいつものようにわたしの右腕を掴んでいて、けれどもいつもと違って、そこには感情らしい感情はこもっていなかった。ただ、添えられているだけ。そんな気がしてすこしさびしくて、だからわたしもなんとなく、言葉をかけそびれてしまった。
「......風がちょっと冷たくなってきましたね」
 雪はそう言って、少しだけ目を細めた。
「ねえ、ハイネさん」
「なに?」
「わたしって、そんなに自信なさげに見えますか」
 雪が最初に足を止めて、つられるようにわたしも立ち止まった。
 自転車が迷惑そうにわたしたちを追い抜かして行った。夕焼けの空が、ビルの向こう側で、少しずつ藍色に染まっていく。どこかで布を裂くような、甲高い鳥の鳴き声がした。翼の大きな黒い鳥が、空を渡っていくのが見えた。不吉な使者のように。
「志子の言ったこと、気にしているの?」
「......そういうわけじゃないんですけど」
「志子は、時々突拍子もないことを言うから。あまり気にしないでね」
 わたしは苦笑混じりにフォローめいたことを言いながら、違う、と思っていた。
 志子の言葉は、どこか託宣じみているから。
 志子がそう言うのならば、雪は何か、あるいは誰かに対して、確かに自信がないのだろう。その自信のなさが何に起因しているのかなんて、わたしには想像もつかないのだけれど。
「それより、生まれが京都って」
「嵐山の近くです」
「お国の言葉、全然出ないのね」
「郷に帰れば......知らず識らずのうちに出ちゃいますよ。どうしても」
「ねえ、ちょっと喋ってみて」
 わたしが言うと、嫌です、恥ずかしいから、と雪はすげなく答えて、再び歩き出した。
「確かに、わたしは自信がないのかもしれません」
 最寄りの駅に着いたときに、再び雪はそのことを口にした。駅の改札から出てきた仕事帰りのサラリーマンが家路につくのを横目に見ながら、わたしは雪と静かに向かい合っていた。そして。
 自信。自信って何だろう、とわたしは改めて思った。
 例えばここで、わたしが雪に夫と別れて一緒に暮らしましょう、と伝えたら。
 彼女はどんな顔をするのだろう。
 ......辛そうな顔をされたら、きっと立ち直れないだろうな、と思う。
 わたしは、彼女の生活を知らない。日々どんな風に過ごしているのか、わからない。わたしが彼女について知っていることは本当に瑣末なことだけだ。
 ううん違う。それだけじゃない。そんなことじゃない。
 目の見えない彼女と、しかも女同士で公的な保証が何もない生活を、本当に送ることができるのか。そう問いかける自分の声が、耳の後ろから聞こえてくるようだった。
 それも違う。そうじゃない。だって......わたしはできる、と思っていたのだもの。彼女を、雪を養っていくことだってできると、本気でわたしは思っていた。
「ハイネさん、そういえばハイネさんって......」
 病棟では中堅どころで、そこそこのキャリアもあって、収入だって安定している。もちろんそれだけで、お金があるということだけで渡っていけるほど、この世界はわたしたちに優しくないことだって、ちゃんとわかっている。
 パートナーシップ制度を導入している区や市町村も増えた。わたしたちのような性的なマイノリティーにとって、それはとてもありがたいことだと思う。もっと、もっと増えればいいと思う。
 しかし、やっぱり違う。そんなことは、あるいはどうでもいい事柄なのだ。
 わたしたちの恋愛のおおもとにあるのは、これが不倫の恋だということ。最初からどこにも行けない、行くことを許されていない、女同士の、不倫の恋だということだった。深い沼の底に沈んでいくような未来のない恋を、わたしたちはしている。その後ろめたさは、どんなことをしても、どんなに制度が整っても、満たされない。払拭できるものではなかった。
 それに。
 ......彼女は夫との生活を、結局のところ、捨てたりはしないだろう。
 わたしは雪の薬指に光る結婚指輪を見つめるたびに、そう思っていた。わたし自身のその思いこそが、雪が自信を持てない、一番大きな理由である気がした。
「ハイネさん?」
 黙り込んだわたしに、雪は問いかけるように、少し大きな声でわたしの名前を呼んだ。雪が名付けた、わたしの名前を。
「ごめんなさい、なに?」
「......なんでもないです」
 何故だろう。そのときにふと、庭に植えたあの薔薇は、枯れてしまうかもしれない、と思った。なんの根拠もなく、ただ、そう思った。
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月とイルカに捧げる歌。作者:月庭 一花
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 園芸店でスコップと薔薇用の肥料を買い、中庭の日当たりのいい場所に、薔薇を......クラリスを植えた。雪が言っていた半蔓薔薇という言葉の意味もこのとき初めて知った。この薔薇は立ち木ではなく、半分蔓のような性質を持っているのだそうで、やがては添え木が必要になることもあるらしい。わたしは雪の説明を聞きながら小さく頷いた。切りそろえられた硬い枝が、艶やかな緑色の葉が、あげたばかりの水を受けて、きらきらと光っていた。美しい、命そのものの姿がそこにあった。
 わたしはそっと、静かに目を瞑ってみた。
 まぶたの裏に浮かぶのは、うららかな五月の空の下で、薔薇は美しいオフホワイトの花をいくつもいくつも咲かせていた。中心をほんのりと杏色に染めて。わたしの隣では雪が目を閉じて、薔薇の匂いを楽しんでいる。両手で包み込むようにすると、もっと匂いが立つんですよ、と雪が言う。わたしはその言葉に従って、そっと両の手のひらで薔薇の花を包み込む。花弁を散らさないように、そっと、優しく。薔薇の匂いはどこまでも甘く、それは女性の蜜の匂いに少しだけ似ている。......春になれば、そんな光景が現実になる気がした。
 そう。春にさえ、なれば。
「咲くといいですね」
 と雪が言った。わたしは目を開いた。
「春が待ち遠しいです」
「わたしも待ち遠しい。ねえ、......少し寒くなってきたわ。お部屋に入りましょう」
 濡れ縁から室内に入る。キッチンの流しで一緒に土で汚れた手を洗い流し、それからわたしは、雪の頬に優しく触れた。
 雪が小さく息を漏らした。雪の頬は、わたしの指よりもなお、冷たかった。
「......ハイネさん」
「今度、御堂彰彦の新しい映画が始まるのだけれど、一緒に行かない?」
「でも、わたし」
「副音声上映のある場所を選ぶわ。もしなかったら、わたしがずっと耳元で、内容を説明してあげる」
 わたしは言って、雪の耳に唇をつけた。雪のため息のような喘ぎが、わたしの首筋を震わせた。耳朶を噛むと、雪の手がわたしの腰に伸びた。
「......今日は最後まで、してもいい?」
 わたしが訊ねると、雪は返事をする代わりにわたしの唇を奪った。勢いがつきすぎて前歯が当たってしまったけれど、その痛みさえただひたすらに甘美だった。わたしたちの指は自然に動き、セーターの上から互いの胸の感触を確かめ合った。雪のソバージュの髪が、わたしの頬を優しく撫でた。
 もう、歯止めは利かなかった。我慢なんてできなかった。遠慮も何もない。そもそもここはわたしの家なのだ。誰に構うことがあると言うのだろう。
 そう思いつつ、ちらりと後ろに視線を感じて振り返ると、抱き合うわたしたちを、開け放っていた隣の部屋の暗がりから、姉の遺影がじっと見つめていた。
 一瞬気持ちがすっと冷えた、そのときだった。
 ピンポン、と。玄関のチャイムが鳴った。
「ハイネさん。お客さんが」
「そんなの、どうでもいい。今、雪よりも優先することなんて、何もない」
 わたしはかぶりを振って、自分の服を脱ぎながら、雪の服も脱がせていった。
 姉さんにも、誰にも、邪魔なんかされたくない。
 チャイムは二度、三度鳴らされたあと、凍りついたように黙った。まるで砂漠に降った少しだけの雨みたいに。わたしたちのしていることに、何の影響も及ぼさないまま。
 床に押し倒し、下着をたくし上げて雪の胸に顔を埋めていると、もう、どうしようもないくらい自分が濡れていることに気づいた。雪の乳首が赤く、硬くなっているのと同じように、わたしは滴るほどにしとどに濡れながら、植物園で葉っぱを撫でていたあの指を思い出していた。ここに。ここに雪の指が欲しい。そう思った。雪の中にも入っていきたい。そう思った。それ以外のことなんて、何も考えられなかった。雪の肌の上に唇で薔薇の花を幾つも、幾つも散らすのだ。
 再び視線を感じた。
 でも、姉の怨念だろうと思って無視した。
 すると、
 コンコン、と。
 庭に通じるガラスの扉を、誰かが叩いていた。
 わたしは悲鳴をあげて起き上がり、とっさに自分の胸を隠した。それから雪を自分の背にして視線を遮った。何? 誰が? 見られた? 思考がまとまらなくて、頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が痛いくらいに早くなって、全身に嫌な汗が浮かんだ。
 薄いレースのカーテン越しの、窓の外に、髪の長い、背の高い、女のシルエットが浮かんでいる。こっちを覗き込んでいる。あれは、あれは一体、なんなのだろう。
「ハイネさん? 何があったんですか」
 雪の不安そうな声が聞こえた。背中にしがみつく体が微かに震えている。ううん。もしかしたら、わたし自身が震えていたのかもしれない。
 男じゃない。それはつまり、雪の夫ではないということ。不倫が露見したわけではないということ。......なのだろうか。本当にそうなのだろうか。
 あれは、さっきチャイムを押していた、誰かなのだろうか。
 もう一度、女が窓ガラスを叩く。
 コンコン、と。
 そして、
「......おばちゃん? 中にいるの?」
 と、女が言った。
 ......志子の声だった。
「悲鳴がしたけど、大丈夫?」
「ちょ、待って、玄関、玄関に回りなさい。今、鍵を開けるからっ」
 わたしは叫んだ。裏声になってしまって、めちゃくちゃ恥ずかしかった。それから思い出したように慌てて服を身につけた。状況が理解できず、目を白黒させている雪にも、ごめんなさい、姪が急に遊びに来たみたいで、と小声で素早く言って、服と髪を整えてもらった。
「姪御さん?」
「うん。本当にごめんなさい」
「ハイネさんが謝ることじゃないですから」
 雪はそう言って、苦笑を浮かべて見せた。
 わたしはなんだかどっと疲れてしまって、三つくらい急に年を取ってしまったような気がした。
 いろいろな思いに打ちのめされていると、もう一度ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。わたしは髪を指先で梳きながら玄関の鍵を開け、志子を向かえ入れた。志子はいつもの通りの制服姿だった。
「......今日はどうしたの?」
「おば」
「お姉ちゃん」
「お姉ちゃんに、お土産を持ってきたんだけど」
「お土産?」
「うん。修学旅行で京都に行ったの」
 見ると片手に、紙の手提げ袋を所在なさげにぶらさげている。有名な八橋のロゴタイプがそこには描かれていた。
「お客さんがいるの? 志子、帰ったほうがいい?」
 わたしはすっかり毒気を抜かれてしまって、これからもう一度ことに及ぶ気にもなれなくて、遠慮しないで上がっていきなさい、と返すだけだった。
 志子は玄関に立てかけてある白杖をちらりと一瞥して、てとてとと音を立てながら、雪の真横に座った。制服のスカートがひらりと広がって、丸い円を作った。人見知りの激しい志子には珍しく、物怖じする様子が全然見られなかった。とても自然な感じだった。あるいはここがわたしの家で、わたしが近くにいるから、そんな行動に出たのかもしれなかった。
「はじめまして。志子です。中学三年生です」
 志子は頭を下げ、にっこりと笑った。
「はじめまして、わたしは岩井美雪といいます。いつも......その......」
 雪はちょっと困ったように、顔をあげた。見えないその目は、わたしを探していた。どこか遠いところを見つめながら、助けを求めていた。
 けれどわたしが声をかけるよりも早く、
「大丈夫、全部知ってるから」
 と志子が言った。
 わたしと雪は何を、と訊ねることもできず、沈黙を守りながら、志子の言葉の真意を伺っていた。
「岩井美雪さんはお姉ちゃんの恋人のひと、でしょ? ね? お姉ちゃん」
「うん。そう、そうなんだけど」
 わたしはそれを聞いてちょっとだけほっとして、ちょっとだけ、冷や汗をかいた。だって、わたしと雪が思っていることと、志子が思っていることは、違うから。
 志子は、雪がわたしをハイネと呼ぶことを知らない。
 雪は、わたしの本名を知らない。
 だからそこに漂っていたのは、ある種の不思議な緊張感なのだった。
 名前の開示は、はたしてどこまでなされるべきなのか。いきなりハイネと言われても、きっと志子も混乱するだけだろう。それに雪は以前、わたしの名前を当ててみせると言っていた。こんなところで、こういう風に第三者から知らされてしまうのは、あるいは不本意なことなのかもしれない、と思った。
「お茶を淹れるね。二人ともそのまま座って待っていて」
「志子、お姉ちゃんに聞いたの」
「......何を、かな」
 雪が恐る恐る訊ね返す。わたしは耳をダンボにして二人の会話に集中させながら、機械のようにお茶の準備を進めていた。志子が何を言い出すのだろうと、内心、戦々恐々としていた。
「お姉ちゃんの恋人は、白い杖を使っている人なんだって。玄関に置いてあったのは岩井美雪さんの杖でしょう? 岩井美雪さん、目が見えないのね」
「志子、失礼なことを聞かないの」
「いいんです。......本当のことだから。でも、見えなくてもわかることはいっぱいあるんだよ?」
「例えば?」
「志子ちゃんは背が高いよね。きっと、......ええと、お姉ちゃんよりも。それから髪の毛も長いのね。あと、美人さん。合っているかな」
「全部合ってる。すごい」
 志子が言い、わたしは苦笑してしまった。美人と言われても謙遜しないところなどは、いかにも志子らしい。
 背の高さは声の発生場所から、髪の長さは服をこする音から、わかるのだという。美人云々については、雪はやんわりと言葉を濁した。
「志子ちゃんはあまり驚かないのね」
 と、雪が小さな声で訊ねた。わたしはやかんを火にかけながら、ちらりと二人の会話している姿を横目に見ていた。
 志子は首をかしげたまま、雪を見つめている。返事がないことに少し訝しむ様子を見せながら、雪が先を続けた。
「わたしのこと。お姉ちゃんの恋人が女の人だったり、目の見えない障害者だったりすること。志子ちゃんは......変だと思わない?」
「思わない」
「どうして?」
 どうして、と志子が繰り返して呟いた。少し考えるそぶりを見せてから、志子ははっきりとした声で言った。
「だって、それはわたしの問題じゃないもの」
 と。
「お姉ちゃんが問題にするのならわかる。あなたが問題にするのもわかるわ。でも、どうして志子が問題にしたり驚いたりしなくちゃいけないの?」
 わたしは唖然としている雪の前に茶托を置き、湯呑みを乗せた。もらったばかりの八橋をいくつか小皿に乗せて、それを雪と志子の前に置く。志子はその隙に自分のお気に入りのマグカップを持ってきて、わたしの用意した急須のお茶を注いでいる。
 そっと雪の手を取り、湯呑みの位置と、八橋の位置を、彼女に知らせた。湯呑みは熱いから気をつけて、と言い添えて。雪はハンドバックからアルコールティッシュを取り出して、指先を軽く拭いた。
「こういう子なの。悪気はないし、悪い子ではないから、気にしないでね」
 わたしは志子の頭を撫でながら、雪に向かってそう言った。
「いえ。大丈夫です。そんなことは」
「岩井美雪さんはどうして自信がないの?」
 安心しきった猫のような表情のまま、唐突に志子が言った。
「お姉ちゃんにそれを期待してもダメだよ。だって、お姉ちゃんは別の人だもの」
 今度はわたしが唖然とする番だった。雪が湯呑みに伸ばしかけた手を引いて、左手を覆うように握り合わせた。
「志子、お姉ちゃんのお姉ちゃんにも八橋持って行くね」
 志子が中座した。最初は意味がわからなかった。いったい志子は何を言っているのだろうと思った。別の人というは、わたしではなくて......もしかしなくても雪の夫のことを指しているのだと思った。志子には現在進行形の恋愛が不倫の恋だなんて、もちろん言っていない。言っていないけれど、少しでも注意深く見ればわかってしまう。だって雪の左手の薬指には今は覆い隠されているけれど、今日も結婚指輪が静かに光を放っているのだから。
 そう考えると少し合点がいく。
 雪は言わなかった。
 女性同士の恋、障害者と健常者の恋、その是非について。それだけしか志子に訊ねなかった。だから、言わなかった不倫の恋に対しての、その答えとして。
 暗に......志子はわたしたちを責めているのかもしれない。
 隣の部屋からお鈴の音がちーん、と長く鳴った。
「今日も泊まっていっていい?」
「明日学校は? 平日でしょう?」
「修学旅行の振替休日」
「......なら、いいけど」
 雪がこわごわと湯呑みに触れた。
 八橋を探るようにして手に取り、口に入れた。美味しい、と。小さな声で言った。それはまるでビー玉を地面にばらまいたような、感情のこもっていない、とても無機質な声だった。
「わたしの実家、京都なの。八橋、久しぶりに食べた」
「そうなの?」
 わたしは雪の言葉に驚いて、ちょっとだけ大きな声を出してしまった。
「うん。......言ってませんでしたっけ」
「聞いていないわ」
 わたしはなんだか喉が渇いたようになって、どうして自分のお茶を用意しなかったのだろう、と後悔した。戻ってきた志子はそれを察したように再び立ち上がり、わたしのマグカップに牛乳をなみなみと注いで持ってきてくれた。......牛乳。
「そうどすなぁ、って言う?」
 志子が訊ねる。
「言わない。今時、誰もそんな話し方しないよ。言うのは舞妓さんだけ」
「舞妓さんは京都の人じゃないの」
「そうとも言えるし、違うとも言える、かな」
 雪は話を区切るようにお茶を一息で飲んで、左手で触れていた茶托に、湯呑みを戻した。
「今日は帰ります。......またね、志子ちゃん」
「うん。またね、岩井美雪さん」
 雪が立ち上がる。わたしもマグをテーブルに置いて、壁にかけていたコートに手を伸ばした。
「わたし、彼女を駅まで送って行くから、留守番していて」
「わかった。志子は大人しくお留守番してる」
 志子はそう言うと、八橋の端を噛みながら目を細めていた。
 立ち上がると今まで気づかなかったのに下着が濡れて貼り付いているのがわかって、少し気持ちが悪かった。
 もしかしたら、雪もそうだったのかもしれない。わずかに顔を、歪めるようにしていた。
 駅までの道は、お互いにほとんど無言だった。雪の左手はいつものようにわたしの右腕を掴んでいて、けれどもいつもと違って、そこには感情らしい感情はこもっていなかった。ただ、添えられているだけ。そんな気がしてすこしさびしくて、だからわたしもなんとなく、言葉をかけそびれてしまった。
「......風がちょっと冷たくなってきましたね」
 雪はそう言って、少しだけ目を細めた。
「ねえ、ハイネさん」
「なに?」
「わたしって、そんなに自信なさげに見えますか」
 雪が最初に足を止めて、つられるようにわたしも立ち止まった。
 自転車が迷惑そうにわたしたちを追い抜かして行った。夕焼けの空が、ビルの向こう側で、少しずつ藍色に染まっていく。どこかで布を裂くような、甲高い鳥の鳴き声がした。翼の大きな黒い鳥が、空を渡っていくのが見えた。不吉な使者のように。
「志子の言ったこと、気にしているの?」
「......そういうわけじゃないんですけど」
「志子は、時々突拍子もないことを言うから。あまり気にしないでね」
 わたしは苦笑混じりにフォローめいたことを言いながら、違う、と思っていた。
 志子の言葉は、どこか託宣じみているから。
 志子がそう言うのならば、雪は何か、あるいは誰かに対して、確かに自信がないのだろう。その自信のなさが何に起因しているのかなんて、わたしには想像もつかないのだけれど。
「それより、生まれが京都って」
「嵐山の近くです」
「お国の言葉、全然出ないのね」
「郷に帰れば......知らず識らずのうちに出ちゃいますよ。どうしても」
「ねえ、ちょっと喋ってみて」
 わたしが言うと、嫌です、恥ずかしいから、と雪はすげなく答えて、再び歩き出した。
「確かに、わたしは自信がないのかもしれません」
 最寄りの駅に着いたときに、再び雪はそのことを口にした。駅の改札から出てきた仕事帰りのサラリーマンが家路につくのを横目に見ながら、わたしは雪と静かに向かい合っていた。そして。
 自信。自信って何だろう、とわたしは改めて思った。
 例えばここで、わたしが雪に夫と別れて一緒に暮らしましょう、と伝えたら。
 彼女はどんな顔をするのだろう。
 ......辛そうな顔をされたら、きっと立ち直れないだろうな、と思う。
 わたしは、彼女の生活を知らない。日々どんな風に過ごしているのか、わからない。わたしが彼女について知っていることは本当に瑣末なことだけだ。
 ううん違う。それだけじゃない。そんなことじゃない。
 目の見えない彼女と、しかも女同士で公的な保証が何もない生活を、本当に送ることができるのか。そう問いかける自分の声が、耳の後ろから聞こえてくるようだった。
 それも違う。そうじゃない。だって......わたしはできる、と思っていたのだもの。彼女を、雪を養っていくことだってできると、本気でわたしは思っていた。
「ハイネさん、そういえばハイネさんって......」
 病棟では中堅どころで、そこそこのキャリアもあって、収入だって安定している。もちろんそれだけで、お金があるということだけで渡っていけるほど、この世界はわたしたちに優しくないことだって、ちゃんとわかっている。
 パートナーシップ制度を導入している区や市町村も増えた。わたしたちのような性的なマイノリティーにとって、それはとてもありがたいことだと思う。もっと、もっと増えればいいと思う。
 しかし、やっぱり違う。そんなことは、あるいはどうでもいい事柄なのだ。
 わたしたちの恋愛のおおもとにあるのは、これが不倫の恋だということ。最初からどこにも行けない、行くことを許されていない、女同士の、不倫の恋だということだった。深い沼の底に沈んでいくような未来のない恋を、わたしたちはしている。その後ろめたさは、どんなことをしても、どんなに制度が整っても、満たされない。払拭できるものではなかった。
 それに。
 ......彼女は夫との生活を、結局のところ、捨てたりはしないだろう。
 わたしは雪の薬指に光る結婚指輪を見つめるたびに、そう思っていた。わたし自身のその思いこそが、雪が自信を持てない、一番大きな理由である気がした。
「ハイネさん?」
 黙り込んだわたしに、雪は問いかけるように、少し大きな声でわたしの名前を呼んだ。雪が名付けた、わたしの名前を。
「ごめんなさい、なに?」
「......なんでもないです」
 何故だろう。そのときにふと、庭に植えたあの薔薇は、枯れてしまうかもしれない、と思った。なんの根拠もなく、ただ、そう思った。
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月とイルカに捧げる歌。作者:月庭 一花
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