
新たな仲間(四日目)
ごろりと寝返りを打つと、覚醒しきれていない頭のままぼんやりと目の前を見つめる。そこに見えてきたのは、憔悴しきった様子で身を寄せ合う人々の姿。 今から三日前。見知らぬ老夫婦に助けられた僕は、こうして無事にモールまで辿り着くことができた。とはいえ、辿り着いたモールは決して安心できるような場所でもなく、こうして狭い密室に立て篭もることを余儀なくされている。「............」 もしかしたら、今となっては安全な場所などどこにも存在しないのかもしれない。だとしたら、こうして休むことができるだけだいぶマシな環境だとも言える。 そんな考えを思い浮かべながら、固い床からのろりと起き上がる。「......あら、もう起きたのね。ちゃんと眠れた?」「おはよう、カミーユ。これは今朝の分だ。しっかり食べておきなさい」 そう告げながら柔和な笑みを浮かべたのは、あの時僕に声を掛けてくれたリップ夫妻だった。「おはようございます。......ありがとうございます」 差し出された缶詰を受け取ると、ポケットから取り出したスプーンで一口頬張る。味は決して悪くはないものの、四日目ともなるとさすがに飽きてくる。とはいえ、食事が摂れるだけありがたい。 この部屋に身を寄せ合っている二十人ほどの人達を見渡しながら、いくつかの積み上げられた段ボールにチラリと視線を送る。これだけの缶詰があれば、きっと数週間は生きていけるだろう。(でも、この先誰も助けに来なかったら......?)
そんな不安が頭をよぎり、一気に気落ちして食欲も消え失せる。そんな僕の様子に気づいたのか、俯く僕の頭を優しく撫でてくれるリップ夫人。 チラリと視線を上げると、優しく穏やかな笑みを返してくれる。「大丈夫よ、きっと助けが来るから。......さ、ちゃんと食事は摂らないと」 そう告げながら僕の手を優しく握ったその手は、微かに震えているようだった。 きっと、怖くて不安なのは誰だって同じはずだ。それなのに、僕のために気丈に振る舞っているだけなんだ。そんなリップ夫人の優しさに、じんわりとした温かさが込み上げてくる。「......っ、はい......」 出会った時からそうだった。リップ夫妻は、いつだってこうして僕を励ましてくれる。あの時二人に出会っていなかったら、今こうして僕がここにいることもなかっただろう。 そんな二人に改めて感謝の言葉を口にすると、涙を流しながら食事を口に運ぶ。そんな僕のことを、温かい眼差しで見守ってくれるリップ夫妻。それがなんだか無性に嬉しくて、自然と僕の口元には小さな笑みが浮かぶ。「──おい、今の聞こえたか......?」 ドア付近にいる男性がそう口にした瞬間。その場にいた誰もが顔を強張らせ、一瞬にして静まり返った室内。束の間の休息時間は強制的に打ち切られ、張り詰めた空気が静かに流れる。 二日ほど前まで、ドアの外では悲鳴やバケモノの咆哮が鳴り止むことはなかった。その恐ろしさに、ここにいる誰もが一瞬たりとも気を抜くことができず、眠れぬ日々を震えながら過ごしていた。それが、昨夜になってやっと少しばかり緊張の糸がほぐれたばかりだというのに──。 今、あの恐怖が再び現実味を帯びて蘇ってくる。『............、......』「──! ほら、聞こえるだろ?」 男性のその声に、その場にいた全員がよくよく耳を澄ましてみる。『た......、て......』「......! 本当だ。人の声が聞こえるぞ......」 その言葉を合図に、小さくざわめき始めた室内。もしかしたら助けが来たのかもしれないと、途端に安堵の声が漏れ広がる。「......いや、待て。ちょっと皆静かにしてくれ」 騒ぎ始めた人々の声を制すると、片耳をドアに寄せて外の様子を窺う男性。その場にいた誰もが期待と不安の入り混じった表情を浮かべながら、そんな男性の姿を静かに見守る。『......たす......、け......て......』「「──!」」 室内にいる全員の注目がドア付近に集まる中、僕達の耳に届いたのは救助を求める声だった。 助けが来たわけではなかったと嘆く人。再び外の脅威に怯える人。その反応はまちまちだったものの、希望が打ち砕かれたことだけは確かだった。「............。助けた方がいいんじゃないか?」「──! 外にはまだ、あの生き物がいるかもしれないのよ? この扉を開けるなんて......っ」「じゃあ、このまま見捨てろとでも言うのか?」 意見が割れ、再びざわめき始める室内。そんな大人達のやり取りを見つめながら、カタカタと震え始める僕の身体。 三日前に見た光景が強烈なフラッシュバックとして蘇り、視界に映るドアがどす黒く歪んでゆく──。(喰われる......っ、......喰われる......。あのドアを開けたら......、全員喰われる......っ!)
ドクドクと高鳴る鼓動だけがやけに鮮明に鳴り響き、短い呼吸をひたすらに繰り返す。「......カミーユ。大丈夫だ、落ち着きなさい。ゆっくり息をして」「大丈夫よ、安心して。......ほら、この袋を口に当てて」 リップ夫妻に優しく背中を擦られながら、徐々に落ち着きを取り戻してゆく呼吸。それでも、この忌まわしい予感だけはどうにもならなかった。今再び、あの惨劇が繰り返される気がしてならない。 目の前のドアを見つめながら、やっと得られた居場所を奪われる気配に怯える。『た、す......け......』「この声、子供じゃないか?」「ああ、子供の声に聞こえた。......やっぱり助けるべきだ」「......嫌よ! この扉を開けるなんてやめて! アイツがいたらどうするのよ!」「じゃあ、助けを求める子供を見捨てろって言うのか!?」 小声ながらもそんなやり取りを続ける数人の大人達。その周りにいる人々は、どちらの意見に賛同するでもなく、ただ怯えた表情を浮かべている。 そんな光景を眺めながら、ついにノブに手を掛けて開かれてゆくドアを見つめる。「「────!!!」」 扉を開けた先に立っていたのは、白くぬめり気を帯びた二メートルほどのバケモノ。その姿を見て、その場にいた誰もが凍りつく。『......た、す......けて......』 ゆっくりとした歩みで目の前を通過してゆくバケモノは、確かにその口元から子供の声を発した。「きゃああああーー!!!」 部屋中に響き渡ったその悲鳴は、目の前にいるバケモノの注意を引くには充分すぎるほどだった。 くるりと向きを変えたバケモノはすぐさま悲鳴を上げた女性に飛びつき、その肩に喰らいついて抉り取る。一気に地獄と化した室内は、逃げ惑う人々の悲鳴と断末魔がそこかしこで飛び交う。突然のパニックに、腰を抜かしたまま動けなくなったのは僕だけではなかった。「......っ。二人とも、しっかりするんだ。......今すぐここを出るぞ」「............え、ええ......っ、」 リップさんに促されるようにして立ち上がると、ガクガクと震える足のままゆっくりと歩き始める。リップ夫人と僕を前に、その背後からしっかりと二人の肩を抱いてくれるリップさん。 そこかしこから飛び散る血飛沫は、ぬるりとした生暖かい感触とともに、僕の頬にビチャリと飛び散って流れてゆく。その悍ましい感触に、堪えきれない吐き気が一気に込み上げる。(......っ、無理だ......こんなの無理だ......っ)
口元を押さえて必死に吐き気を堪えると、つま先に何かが触れたような感覚に、無意識に反応した視線は足元へと落ちる。「ひぃ......っ!」 ゴロリと転がる生首。見覚えあるその顔に、つい数時間ほど前に言葉を交わした記憶が脳裏に蘇る。見るも無惨な変わり果てたその姿に、気付けば僕の瞳からは大量の涙が流れていた。 たまらず嘔吐すると、すぐ隣にいるリップ夫人に空いた右手を握られる。「......っ、見てはダメよ......。さ、扉まであともう少しよ」 顔面蒼白のリップ夫人は、そう告げると涙を流しながらも前を向く。それに促されるようにして、ゆっくりと着実にドアを目指して歩いて行く。ほんの数メートルほどの距離だというのに、僕の体感では恐ろしく長く思えた。 やっとの思いで入り口まで辿り着くと、僕達の前に出たリップさんが外の様子を確認する。「......大丈夫だ。このまま二階まで行こう。あそこならきっと食べ物もある」 怯えた表情を浮かべながらも、確かな眼差しでそう告げたリップさん。僕達を庇うようにして先頭に立つと、建物の中央付近にあるエスカレーターを目指して歩き始める。時折聞こえてくる僅かな物音にビクつきながらも、立ち止まることなく突き進んで行く。 ほどなくして、目の前に見えてきたエスカレーター。鉄骨や瓦礫で埋もれてはいるものの、なんとか使えそうだ。「......よし。ここから行けそうだ」
リップさんの言葉を合図に、二階を目指して三人で登り始める。いざ登ってみると、瓦礫に埋もれたエスカレーターは予想以上に足場が悪く、瓦礫を踏み越えたり鉄骨を潜ったりと苦戦する。それでも、なんとか頂上付近まで辿り着くと、僕は目の前に見える大きな鉄骨を見上げた。 相当な重量がありそうなその鉄骨は、前方を塞ぐようにしてエスカレーターの手すり部分に乗っかっている。おそらく、崩れた天井から落ちてきたのだろう。とはいえ、下を潜ればなんとか通れそうだ。そう思って安堵の息を漏らした──その時。 僕のすぐ横にいたリップ夫人が、瓦礫を踏み外した衝撃で前方へと倒れ込んだ。そんなリップ夫人に向けてすぐさま助けの手を差し伸べるも、その視線だけは転がり落ちてゆく瓦礫から逸らすことができなかった。 カラカラと音を立てながら、一階まで落ちてゆく瓦礫──。その場にいた誰もが肝を冷やし、ゴクリと喉を鳴らした音だけが静かに響く。
『──ボォアアアー!!』 牛のような咆哮を響かせながら、もの凄い勢いで姿を現したバケモノ。その恐ろしさに、途端にガクガクと震える足元。 エスカレーター下を振り返ったリップ夫人は、その視線を僕達に向けると涙を流した。「二人で逃げて......」「──! 何を言ってるんだ! ......さ、早く逃げよう」 慌ててリップ夫人の傍に身を屈めると、その手を掴んで立ち上がらせようとするリップさん。そんな二人のやり取りを眺めながら、すぐ下にいるバケモノにチラリと視線を送る。 今にも襲いかかってきそうな体勢に、背筋を凍りつかせた僕はへたりと尻餅をつく。「ダメなのよ......っ、足を捻って歩けないの......。お願い......二人だけでも逃げて......」 泣きながらそう告げるリップ夫人を見て、悲痛に顔を歪めたリップさんは静かに俯いた。「............。カミーユ......よく聞きなさい。一人で逃げるんだ」「............え、?」「ここを上がって右に行けばレストランがある。そこなら食料もきっとあるから......さ、早く行きなさい」「で、でも......っ」「......早く行くんだ!」 俯いていた顔を上げると、悲痛に顔を歪ませながら優しく微笑んだリップさん。「必ず生き抜くんだよ」 リップさんがそう告げた次の瞬間。咆哮を上げたバケモノは、勢いよくエスカレーターを駆け上がってくる。それを見たリップさんは、僕と夫人を庇うようにして立ち上がる。(......そんなの嫌だ......っ、)
リップさんの背中を見つめながら、静かに涙を流した──その時。「──伏せろ!!」 突然聞こえてきた声に振り返ってみると、エスカレーターの頂上付近にあった鉄骨が勢いよく滑り落ちてくる。「────!」 呆然とする僕の頭を押さえたリップさんは、夫人と僕を庇うようにして覆い被さる。何が起きたのか分からない状況に、ただ、滑り落ちてきた鉄骨にぶつかったのであろうバケモノの衝撃音だけが耳に届く。「立てるか?」 見知らぬその声に顔を上げてみると、そこにいたのは三十代ほどの精悍な顔つきの男性だった。「......妻が足を挫いて歩けないんだ」「分かった。じゃあ俺が抱えて行く。二人は大丈夫か?」「ああ、すまない。ありがとう」 そんなやり取りを交わす中、呆然としながらもリップさんに促されて立ち上がる。チラリと階下を見てみると、鉄骨の下敷きになっているバケモノがいる。「急いで逃げるぞ」 肩下まで伸びたブロンズの髪を一つに束ねた男性は、鍛えぬかれた巨体で軽々とリップ夫人を抱き上げる。そのまま三人でエスカレーターを駆け上がるも、一階まで落ちたバケモノはすぐさま起き上がってくる。このままではすぐに追いつかれてしまうだろう。 そんなことを考えながら頂上まで登り切ると、リップ夫人を抱きかかえた男性は声を上げた。「ニッピー! 今だ!」「......おっ、りゃあああ!!」 もの凄い勢いで横をすり抜けていったのは、僕と同い歳くらいの赤毛の少年だった。後ろを振り返って見てみると、キャスター付きの重そうな冷蔵庫ごとバケモノに体当たりしている。 再び一階へと落ちていったバケモノは、鈍い衝撃音とともに不気味な雄叫びを上げる。それを確認すると、すぐさまこちらに引き返して来た少年。「......こっちだ!」 近くにあったスタッフルームの扉を開くと、赤毛の少年は軽く頭をしゃくって中を示す。それに従って次々と室内へ逃げ込むと、パタリと閉じられた扉を見て安堵する。ほんの少し気を緩めただけでその場に崩れ落ちた僕は、バクバクと鼓動を響かせながら浅い呼吸を繰り返した。 ──情けないことに、僕は自分一人では何一つできなかった。カタカタと震える身体で項垂れると、ポンと肩を叩かれてゆっくりと顔を上げる。「頑張ったな。大丈夫か? 俺の名前はユリオプス。皆からはユリさんって呼ばれてる。よろしくな」 そう告げながら優しく微笑んだ男性は、何故だかとても眩しく見えた。

新たな仲間(四日目)
ごろりと寝返りを打つと、覚醒しきれていない頭のままぼんやりと目の前を見つめる。そこに見えてきたのは、憔悴しきった様子で身を寄せ合う人々の姿。 今から三日前。見知らぬ老夫婦に助けられた僕は、こうして無事にモールまで辿り着くことができた。とはいえ、辿り着いたモールは決して安心できるような場所でもなく、こうして狭い密室に立て篭もることを余儀なくされている。「............」 もしかしたら、今となっては安全な場所などどこにも存在しないのかもしれない。だとしたら、こうして休むことができるだけだいぶマシな環境だとも言える。 そんな考えを思い浮かべながら、固い床からのろりと起き上がる。「......あら、もう起きたのね。ちゃんと眠れた?」「おはよう、カミーユ。これは今朝の分だ。しっかり食べておきなさい」 そう告げながら柔和な笑みを浮かべたのは、あの時僕に声を掛けてくれたリップ夫妻だった。「おはようございます。......ありがとうございます」 差し出された缶詰を受け取ると、ポケットから取り出したスプーンで一口頬張る。味は決して悪くはないものの、四日目ともなるとさすがに飽きてくる。とはいえ、食事が摂れるだけありがたい。 この部屋に身を寄せ合っている二十人ほどの人達を見渡しながら、いくつかの積み上げられた段ボールにチラリと視線を送る。これだけの缶詰があれば、きっと数週間は生きていけるだろう。(でも、この先誰も助けに来なかったら......?)
そんな不安が頭をよぎり、一気に気落ちして食欲も消え失せる。そんな僕の様子に気づいたのか、俯く僕の頭を優しく撫でてくれるリップ夫人。 チラリと視線を上げると、優しく穏やかな笑みを返してくれる。「大丈夫よ、きっと助けが来るから。......さ、ちゃんと食事は摂らないと」 そう告げながら僕の手を優しく握ったその手は、微かに震えているようだった。 きっと、怖くて不安なのは誰だって同じはずだ。それなのに、僕のために気丈に振る舞っているだけなんだ。そんなリップ夫人の優しさに、じんわりとした温かさが込み上げてくる。「......っ、はい......」 出会った時からそうだった。リップ夫妻は、いつだってこうして僕を励ましてくれる。あの時二人に出会っていなかったら、今こうして僕がここにいることもなかっただろう。 そんな二人に改めて感謝の言葉を口にすると、涙を流しながら食事を口に運ぶ。そんな僕のことを、温かい眼差しで見守ってくれるリップ夫妻。それがなんだか無性に嬉しくて、自然と僕の口元には小さな笑みが浮かぶ。「──おい、今の聞こえたか......?」 ドア付近にいる男性がそう口にした瞬間。その場にいた誰もが顔を強張らせ、一瞬にして静まり返った室内。束の間の休息時間は強制的に打ち切られ、張り詰めた空気が静かに流れる。 二日ほど前まで、ドアの外では悲鳴やバケモノの咆哮が鳴り止むことはなかった。その恐ろしさに、ここにいる誰もが一瞬たりとも気を抜くことができず、眠れぬ日々を震えながら過ごしていた。それが、昨夜になってやっと少しばかり緊張の糸がほぐれたばかりだというのに──。 今、あの恐怖が再び現実味を帯びて蘇ってくる。『............、......』「──! ほら、聞こえるだろ?」 男性のその声に、その場にいた全員がよくよく耳を澄ましてみる。『た......、て......』「......! 本当だ。人の声が聞こえるぞ......」 その言葉を合図に、小さくざわめき始めた室内。もしかしたら助けが来たのかもしれないと、途端に安堵の声が漏れ広がる。「......いや、待て。ちょっと皆静かにしてくれ」 騒ぎ始めた人々の声を制すると、片耳をドアに寄せて外の様子を窺う男性。その場にいた誰もが期待と不安の入り混じった表情を浮かべながら、そんな男性の姿を静かに見守る。『......たす......、け......て......』「「──!」」 室内にいる全員の注目がドア付近に集まる中、僕達の耳に届いたのは救助を求める声だった。 助けが来たわけではなかったと嘆く人。再び外の脅威に怯える人。その反応はまちまちだったものの、希望が打ち砕かれたことだけは確かだった。「............。助けた方がいいんじゃないか?」「──! 外にはまだ、あの生き物がいるかもしれないのよ? この扉を開けるなんて......っ」「じゃあ、このまま見捨てろとでも言うのか?」 意見が割れ、再びざわめき始める室内。そんな大人達のやり取りを見つめながら、カタカタと震え始める僕の身体。 三日前に見た光景が強烈なフラッシュバックとして蘇り、視界に映るドアがどす黒く歪んでゆく──。(喰われる......っ、......喰われる......。あのドアを開けたら......、全員喰われる......っ!)
ドクドクと高鳴る鼓動だけがやけに鮮明に鳴り響き、短い呼吸をひたすらに繰り返す。「......カミーユ。大丈夫だ、落ち着きなさい。ゆっくり息をして」「大丈夫よ、安心して。......ほら、この袋を口に当てて」 リップ夫妻に優しく背中を擦られながら、徐々に落ち着きを取り戻してゆく呼吸。それでも、この忌まわしい予感だけはどうにもならなかった。今再び、あの惨劇が繰り返される気がしてならない。 目の前のドアを見つめながら、やっと得られた居場所を奪われる気配に怯える。『た、す......け......』「この声、子供じゃないか?」「ああ、子供の声に聞こえた。......やっぱり助けるべきだ」「......嫌よ! この扉を開けるなんてやめて! アイツがいたらどうするのよ!」「じゃあ、助けを求める子供を見捨てろって言うのか!?」 小声ながらもそんなやり取りを続ける数人の大人達。その周りにいる人々は、どちらの意見に賛同するでもなく、ただ怯えた表情を浮かべている。 そんな光景を眺めながら、ついにノブに手を掛けて開かれてゆくドアを見つめる。「「────!!!」」 扉を開けた先に立っていたのは、白くぬめり気を帯びた二メートルほどのバケモノ。その姿を見て、その場にいた誰もが凍りつく。『......た、す......けて......』 ゆっくりとした歩みで目の前を通過してゆくバケモノは、確かにその口元から子供の声を発した。「きゃああああーー!!!」 部屋中に響き渡ったその悲鳴は、目の前にいるバケモノの注意を引くには充分すぎるほどだった。 くるりと向きを変えたバケモノはすぐさま悲鳴を上げた女性に飛びつき、その肩に喰らいついて抉り取る。一気に地獄と化した室内は、逃げ惑う人々の悲鳴と断末魔がそこかしこで飛び交う。突然のパニックに、腰を抜かしたまま動けなくなったのは僕だけではなかった。「......っ。二人とも、しっかりするんだ。......今すぐここを出るぞ」「............え、ええ......っ、」 リップさんに促されるようにして立ち上がると、ガクガクと震える足のままゆっくりと歩き始める。リップ夫人と僕を前に、その背後からしっかりと二人の肩を抱いてくれるリップさん。 そこかしこから飛び散る血飛沫は、ぬるりとした生暖かい感触とともに、僕の頬にビチャリと飛び散って流れてゆく。その悍ましい感触に、堪えきれない吐き気が一気に込み上げる。(......っ、無理だ......こんなの無理だ......っ)
口元を押さえて必死に吐き気を堪えると、つま先に何かが触れたような感覚に、無意識に反応した視線は足元へと落ちる。「ひぃ......っ!」 ゴロリと転がる生首。見覚えあるその顔に、つい数時間ほど前に言葉を交わした記憶が脳裏に蘇る。見るも無惨な変わり果てたその姿に、気付けば僕の瞳からは大量の涙が流れていた。 たまらず嘔吐すると、すぐ隣にいるリップ夫人に空いた右手を握られる。「......っ、見てはダメよ......。さ、扉まであともう少しよ」 顔面蒼白のリップ夫人は、そう告げると涙を流しながらも前を向く。それに促されるようにして、ゆっくりと着実にドアを目指して歩いて行く。ほんの数メートルほどの距離だというのに、僕の体感では恐ろしく長く思えた。 やっとの思いで入り口まで辿り着くと、僕達の前に出たリップさんが外の様子を確認する。「......大丈夫だ。このまま二階まで行こう。あそこならきっと食べ物もある」 怯えた表情を浮かべながらも、確かな眼差しでそう告げたリップさん。僕達を庇うようにして先頭に立つと、建物の中央付近にあるエスカレーターを目指して歩き始める。時折聞こえてくる僅かな物音にビクつきながらも、立ち止まることなく突き進んで行く。 ほどなくして、目の前に見えてきたエスカレーター。鉄骨や瓦礫で埋もれてはいるものの、なんとか使えそうだ。「......よし。ここから行けそうだ」
リップさんの言葉を合図に、二階を目指して三人で登り始める。いざ登ってみると、瓦礫に埋もれたエスカレーターは予想以上に足場が悪く、瓦礫を踏み越えたり鉄骨を潜ったりと苦戦する。それでも、なんとか頂上付近まで辿り着くと、僕は目の前に見える大きな鉄骨を見上げた。 相当な重量がありそうなその鉄骨は、前方を塞ぐようにしてエスカレーターの手すり部分に乗っかっている。おそらく、崩れた天井から落ちてきたのだろう。とはいえ、下を潜ればなんとか通れそうだ。そう思って安堵の息を漏らした──その時。 僕のすぐ横にいたリップ夫人が、瓦礫を踏み外した衝撃で前方へと倒れ込んだ。そんなリップ夫人に向けてすぐさま助けの手を差し伸べるも、その視線だけは転がり落ちてゆく瓦礫から逸らすことができなかった。 カラカラと音を立てながら、一階まで落ちてゆく瓦礫──。その場にいた誰もが肝を冷やし、ゴクリと喉を鳴らした音だけが静かに響く。
『──ボォアアアー!!』 牛のような咆哮を響かせながら、もの凄い勢いで姿を現したバケモノ。その恐ろしさに、途端にガクガクと震える足元。 エスカレーター下を振り返ったリップ夫人は、その視線を僕達に向けると涙を流した。「二人で逃げて......」「──! 何を言ってるんだ! ......さ、早く逃げよう」 慌ててリップ夫人の傍に身を屈めると、その手を掴んで立ち上がらせようとするリップさん。そんな二人のやり取りを眺めながら、すぐ下にいるバケモノにチラリと視線を送る。 今にも襲いかかってきそうな体勢に、背筋を凍りつかせた僕はへたりと尻餅をつく。「ダメなのよ......っ、足を捻って歩けないの......。お願い......二人だけでも逃げて......」 泣きながらそう告げるリップ夫人を見て、悲痛に顔を歪めたリップさんは静かに俯いた。「............。カミーユ......よく聞きなさい。一人で逃げるんだ」「............え、?」「ここを上がって右に行けばレストランがある。そこなら食料もきっとあるから......さ、早く行きなさい」「で、でも......っ」「......早く行くんだ!」 俯いていた顔を上げると、悲痛に顔を歪ませながら優しく微笑んだリップさん。「必ず生き抜くんだよ」 リップさんがそう告げた次の瞬間。咆哮を上げたバケモノは、勢いよくエスカレーターを駆け上がってくる。それを見たリップさんは、僕と夫人を庇うようにして立ち上がる。(......そんなの嫌だ......っ、)
リップさんの背中を見つめながら、静かに涙を流した──その時。「──伏せろ!!」 突然聞こえてきた声に振り返ってみると、エスカレーターの頂上付近にあった鉄骨が勢いよく滑り落ちてくる。「────!」 呆然とする僕の頭を押さえたリップさんは、夫人と僕を庇うようにして覆い被さる。何が起きたのか分からない状況に、ただ、滑り落ちてきた鉄骨にぶつかったのであろうバケモノの衝撃音だけが耳に届く。「立てるか?」 見知らぬその声に顔を上げてみると、そこにいたのは三十代ほどの精悍な顔つきの男性だった。「......妻が足を挫いて歩けないんだ」「分かった。じゃあ俺が抱えて行く。二人は大丈夫か?」「ああ、すまない。ありがとう」 そんなやり取りを交わす中、呆然としながらもリップさんに促されて立ち上がる。チラリと階下を見てみると、鉄骨の下敷きになっているバケモノがいる。「急いで逃げるぞ」 肩下まで伸びたブロンズの髪を一つに束ねた男性は、鍛えぬかれた巨体で軽々とリップ夫人を抱き上げる。そのまま三人でエスカレーターを駆け上がるも、一階まで落ちたバケモノはすぐさま起き上がってくる。このままではすぐに追いつかれてしまうだろう。 そんなことを考えながら頂上まで登り切ると、リップ夫人を抱きかかえた男性は声を上げた。「ニッピー! 今だ!」「......おっ、りゃあああ!!」 もの凄い勢いで横をすり抜けていったのは、僕と同い歳くらいの赤毛の少年だった。後ろを振り返って見てみると、キャスター付きの重そうな冷蔵庫ごとバケモノに体当たりしている。 再び一階へと落ちていったバケモノは、鈍い衝撃音とともに不気味な雄叫びを上げる。それを確認すると、すぐさまこちらに引き返して来た少年。「......こっちだ!」 近くにあったスタッフルームの扉を開くと、赤毛の少年は軽く頭をしゃくって中を示す。それに従って次々と室内へ逃げ込むと、パタリと閉じられた扉を見て安堵する。ほんの少し気を緩めただけでその場に崩れ落ちた僕は、バクバクと鼓動を響かせながら浅い呼吸を繰り返した。 ──情けないことに、僕は自分一人では何一つできなかった。カタカタと震える身体で項垂れると、ポンと肩を叩かれてゆっくりと顔を上げる。「頑張ったな。大丈夫か? 俺の名前はユリオプス。皆からはユリさんって呼ばれてる。よろしくな」 そう告げながら優しく微笑んだ男性は、何故だかとても眩しく見えた。
