第二十話 忘却の吸血鬼
数日後の夜、神崎は薄暗い公園へとやって来ていた。
以前、女の吸血鬼と出会った場所に立つ。
その半歩後ろでレイも足を止めた。
「奴の気配はあるか?」
「まだ分かりません。ですが......」
夜の公園に人の気配はない。
人間は吸血鬼の襲撃を恐れ、夜の間は可能な限り自宅や人の目のある場所に留まる。
風が木々を揺らす音だけが響く公園の中を、レイは緩慢に見回した。
「すぐに来るでしょう」
「なぜ分かる」
「勘です」
そう言ったレイの耳が風とは違う音を捉える。
視線を向けた先には、あの夜と変わらない姿の女が立っていた。
黒い髪を風に靡かせ白いワンピースに身を包んだ、一見すれば人間と変わらない容姿を持つ、美しい吸血鬼だった。
「あの傷は痛んだ?」
女は楽しい話でもするかのように明るい声で、レイに問い掛ける。
「ええ、まあ。多少は」
何ということもない会話を続けるように、レイも答える。
銃を撃った者と撃たれた者とは思えない気軽さに、神崎は一人眉根を寄せるがすぐに女へと視線を向けた。
「お前は佐伯という人間を忘れたと言ったな」
「そうね」
「これを見ろ」
そう言って取り出したのは、例の写真だった。
神崎の隣に、笑顔の男性が映っている。
不意に、一際強い風が吹き、神崎の手から写真を奪う。
それはまるで導かれるように、吸血鬼の女が伸ばした手の内に収まった。
温度のない瞳で、女が写真を見下ろす。
「顔を見て思い出したか?」
「忘れたわ」
そう紡ぐ口元に先程までの笑みはない。
「あんなおかしな男のことなんて」
まるで自分に言い聞かせるように、女はそう呟いた。
「忘れませんよ」
その言葉に重ねるように、隣でレイが口を開いた。
「名前も知らない相手ならまだしも、自分が好いた人間の味は忘れられない。吸血鬼とは、そういう風に出来ています」
写真を握ったまま、女はその言葉に瞳を丸めてみせた。
そして長い髪を風に揺らしながら、首を傾げる。
「半血のあなたでも、好いた人間の血を飲んだことがあるの?」
「一度くらいは。......いや、二度でした」
そう言ったレイの足を、神崎が横から小突くように蹴る。
そして女へと視線を戻す。
「覚えているだろう。面白いこともないのに、いつも笑っているような男だった」
女は再び写真へと視線を落とした。
その中には、白い歯を覗かせて笑う男がいた。
少しだけ間を置いて、女は諦めたように息を吐く。
「......ええ、いつも楽しそうにしている人間だったわ」
写真の中の男を真似るように唇に笑みを浮かべ直し、女は笑った。
「私が吸血鬼だと知った後も、私を信じると。そう言って笑っていた」
その言葉に神崎の指先が小さく揺れる。
「......知っていたと?」
「当然よ。私とは夜しか会えないもの。ただの人間ならまだしも、吸血鬼狩りならいずれ気付くわ」
「吸血鬼だと知っていて、なぜ」
問い返す声が僅かに掠れた。
女は小さく首を傾げる。
「半血の吸血鬼と共にいるあなたが、それを尋ねるの?」
返す言葉などあるはずもない問いに言葉を詰まらせ、神崎の視線が女から逸らされた。
女は写真を抱き締めるように、両手で胸元に寄せる。
「私を愛していると、あの人は言った。私も愛していたのは本当なの。......そう言ったら、信じる?」
静かな声で女はそう言った。
神崎は眉根を寄せながら女へと視線を戻し、僅かな間を置いてから口を開く。
「吸血鬼は、親しい者を優先して狙うそうだな」
「あら、そんなことまで人間に話したの? ダメよ、吸血鬼だけの秘密なんだから」
「そうなんですね。知りませんでした」
子供を嗜めるような女の声に、興味なさげにレイは答える。
女は諦めたように笑って肩を竦め、そして真っ直ぐに神崎を見た。
「そう。私だって彼を愛していた。叶うなら、共に生きていきたかった」
抱き締めた写真に皺が入らないよう、指先はそっと優しく添えられていた。
「でも彼だけではない。今まで愛したどの人間も......どうしても、どれだけ共に居たいと願っても、いずれ吸血鬼の本能が食らってしまう」
初めて女の表情が陰った。
「吸血鬼は人間を愛するように出来ているわ。それなのに、共に生きることは許されない」
長い睫毛を伏せ、薄い唇が細く息を吐く。
「矛盾した生き物なのよ」
一歩、女の足が神崎へと距離を詰める。
神崎は銃を取り出し、女へと向けて構えた。
「止まれ」
「あの夜だって、殺すつもりじゃなかったの」
向けられた銃口に怯みもせず、女はまた一歩前へ歩む。
「ただ愛していると、顔を見て伝えたかった。でも、お腹が空いて、一瞬朦朧として」
女が立ち止まったのは、銃口が額に触れてからのことだった。
「気付いたら、血を啜り、彼の首を裂いていたの」
女の瞳に涙が滲んだ。それを零すまいとして、女は視線を上げ、突き付けられた銃を見上げる。
その先で、神崎と視線がぶつかった。
引き金に掛けた指の僅かな動揺を悟られないように、神崎は銃を握り直した。
「......佐伯はあの時、まだ息があっただろう」
短く問うと、女は小さく頷いた。
「ええ。私に逃げろと。そして......」
堪えたはずの涙が、白い頬を伝った。
「ただ、女を見る目がなかったってことにしておくから、と」
女はそう言って、写真の中の男と同じように笑った。
けれど、涙に濡れた笑みはひどく歪だった。
神崎は苦い溜息を一つ吐く。
「......俺にも隠しやがったな」
もういない後輩へ、小さく吐き捨てる。
すみません、と。悪びれることもなく笑う声が聞こえた気がした。
不意に、濡れた女の視線がレイに向く。
「あなたを撃ったのは、妬ましかったからよ。吸血鬼なのに、人間と生きていられるのが」
そう笑って静かに語った女を、レイは黙って眺めていた。
「でも、急所を狙えなかったのは、きっと羨ましかったからね」
薄い唇から小さな息を零し、大きな瞳が再び銃を捉えた。
銃口は、今も女の額に押し当てられている。
「これ、返すわ。汚れたら困るもの」
女が写真を差し出した。
その中で屈託なく笑う男と目が合った気がした。
「お前が持っていろ」
そう告げると、女は目を瞬かせた後、また静かに笑った。
もう一度大事な物を抱えるように、胸元に寄せ、瞼を伏せる。
神崎はその指先が震えていることに気付きはしたが、何も言わず視線を逸らした。
「......私、あなたを、愛していたわ」
受け取る相手がいない言葉が静かに響いた後、静寂を銃声が掻き消した。