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第十六話 戻った日常


 部屋の中には沈黙が満ちていた。
 テーブルも椅子もない、狭い部屋の中でレイの纏う空気は冷たかった。

「何故、一人で出て行ったんです」

「別にお前に報告する義務もないだろう」

「俺が出て行った時、あなたは危険だと怒鳴りました」

「ハンターが待ち構えているかもしれない家に、勝手に戻ったからだ」

「あなただって、ハンターに会いに行った」

 神崎は口を閉ざした。
 上手く返す言葉が見当たらなかった。
 
「......かつての同僚だ」

「銃を向けられていました」

「撃たれはしなかっただろ」

「ええ」

 レイが神崎に向け、一歩詰める。
 神崎も無意識に足を引くが、踵はすぐ後ろの壁に当たった。
 レイの指が神崎の首元へと伸び、瘡蓋になった傷跡へ触れた。

「結果的に、あなたは無傷でした」

 まだ治りきっていない傷が、疼くような痒みを伴った。
 神崎は僅かに眉根を寄せる。

「でも、撃たれる可能性はあった」

 神崎は顔を上げ、そして息を詰めた。
 黒いレイの瞳に、僅かな赤色が滲んでいた。
 吸血鬼という生き物が、感情を大きく揺さぶられた時に見せる、本能の色。
 それが今、真っ直ぐに神崎へと向けられていた。

「人間は知らないと思いますが、吸血鬼はとても嫉妬深いんですよ」

「......何?」

 神崎の喉の奥から、乾いた声が漏れた。
 レイは目を合わせないように、少しだけ瞼を伏せた。

「人の血を飲む時も、自分に近い者を手に掛けることが多いです。あれは、無防備な人間を嘲笑っているわけじゃない」

 蒸し暑い季節に不自然なほど冷たい指先が、神崎の首の傷を辿る。
 背筋に凍るような感覚が走り、小さく喉が鳴る。

「気に入った人間を、いつか他の何かに奪われるくらいなら、自分の物にしてしまいたい。そう思ってしまうんです」

 神崎の指が無意識に腰に下げた銃へと伸びる。
 だが、それを握ることはしなかった。
 
「あなたはあの提案を受けるべきでした」

「どの提案だ?」

「彼と組んで、吸血鬼狩りハンターを続けること」

 反射的に呼吸が詰まった。
 決して後ろ暗いことをしていたわけではない。
 けれど、知られてはならない何かを知られてしまったような、そんな感情の揺れ方だった。

「......聞いていたのか」

「ええ、聞こえました」

 赤く染まった瞳が閉ざされ、ほとんどない距離が縮まる。
 レイの身体を押し返そうとして持ち上がった神崎の腕は、レイの肩に触れただけで止まった。

「おい」

 代わりに咎めるような言葉が口から漏れる。
 昨夜とはまた違う、本能に駆られた吸血鬼の腕の中にいるという事実だけで、喉が絞まったような気分だった。
 首に残る傷跡にレイの息が掛かり、神崎の肩が強張る。
 普段よりも早い自分の心臓の音が耳元で聞こえた。

「共にいると効率がいい。その理由だけで、俺には十分です」

 傷のある場所にまた痛みが走ることを覚悟していたが、それは訪れなかった。
 代わりにレイの鼻先が擦り寄るように、僅かに首筋を擦る。
 その直後、治りかけの咬傷にレイの唇が触れた。遅れてそう気付いたのは、身体が離れた時のことだった。

「だから、勝手に死なないでください。俺のいないところで」

 そう告げたレイの表情からは、今度こそ何の感情も読み取れなかった。
 

 *


 その後、レイは不自然な程にいつも通りだった。
 朝が近付けば眠り、陽が落ちれば起きてくる。
 夜には共に吸血鬼を狩り、朝になる前に家へ戻る。
 元々倉庫に近い扱いをしていた家を離れ、新たな拠点となるマンションに住み始めても、それは変わらなかった。

 リビングとは別に、それぞれ使える部屋が一つずつ。
 もう狭い部屋で、背中合わせに眠る必要もなくなった。
 だが、神崎と目が合う回数だけは、明らかに減っていた。

「おやすみなさい」

「ああ」

 朝が来る前に、こうして部屋に戻る時でさえ、一度も視線を向けない。
 神崎が銃の手入れをしているのを知っていて、それを邪魔しないようにしているとも取れる。
 だが、神崎は気付いていた。
 あの日からたまに、レイの瞳に赤い色が差していることを。

「............」

 しばらく血を飲んでいないせいもあるだろう。
 だが、それだけではない。感情が揺らいでいる。
 本人が自覚しているのかは分からないが、あの日からずっとレイの中で燻る何かがある。

 神崎は手入れを終えた銃を、油の匂いの染みた布で拭う。
 吸血鬼に対しては何度も銃を向けてきた。
 だが、よく知った同僚から向けられた銀の銃は、これまでとは違う重みを胸の内に残していた。
 結果的に、あの日もレイに救われたことになるが、その礼さえ言えていないままだった。

 神崎は溜息にもならない吐息を一つ零した。
 自分に言葉が足りていないのは知っている。
 皮肉や罵倒ならいくらでも出てくるくせに、礼となるとたった一言すら出てこない。
 頭が痛むような感覚に、銃を置いてこめかみを押さえながら立ち上がる。

 手を洗った後、レイに与えた部屋の扉の前に立つ。
 右手を持ち上げ、扉を叩こうとするものの、寸前でその手は止まった。
 何と伝えるべきか。そう考えるだけで持ち上げた手が落ちそうになる。
 しばらくそうして立ち尽くしていた時、その扉が勝手に開いた。

「さっきから、何をしているんです?」

 不思議そうな顔をしたレイが扉の向こうから顔を覗かせる。
 しかし、やはり神崎の目を見ようとはしない。
 その視線は、中途半端に持ち上がっている右手にのみ向けられていた。
 
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 部屋の中には沈黙が満ちていた。
 テーブルも椅子もない、狭い部屋の中でレイの纏う空気は冷たかった。

「何故、一人で出て行ったんです」

「別にお前に報告する義務もないだろう」

「俺が出て行った時、あなたは危険だと怒鳴りました」

「ハンターが待ち構えているかもしれない家に、勝手に戻ったからだ」

「あなただって、ハンターに会いに行った」

 神崎は口を閉ざした。
 上手く返す言葉が見当たらなかった。
 
「......かつての同僚だ」

「銃を向けられていました」

「撃たれはしなかっただろ」

「ええ」

 レイが神崎に向け、一歩詰める。
 神崎も無意識に足を引くが、踵はすぐ後ろの壁に当たった。
 レイの指が神崎の首元へと伸び、瘡蓋になった傷跡へ触れた。

「結果的に、あなたは無傷でした」

 まだ治りきっていない傷が、疼くような痒みを伴った。
 神崎は僅かに眉根を寄せる。

「でも、撃たれる可能性はあった」

 神崎は顔を上げ、そして息を詰めた。
 黒いレイの瞳に、僅かな赤色が滲んでいた。
 吸血鬼という生き物が、感情を大きく揺さぶられた時に見せる、本能の色。
 それが今、真っ直ぐに神崎へと向けられていた。

「人間は知らないと思いますが、吸血鬼はとても嫉妬深いんですよ」

「......何?」

 神崎の喉の奥から、乾いた声が漏れた。
 レイは目を合わせないように、少しだけ瞼を伏せた。

「人の血を飲む時も、自分に近い者を手に掛けることが多いです。あれは、無防備な人間を嘲笑っているわけじゃない」

 蒸し暑い季節に不自然なほど冷たい指先が、神崎の首の傷を辿る。
 背筋に凍るような感覚が走り、小さく喉が鳴る。

「気に入った人間を、いつか他の何かに奪われるくらいなら、自分の物にしてしまいたい。そう思ってしまうんです」

 神崎の指が無意識に腰に下げた銃へと伸びる。
 だが、それを握ることはしなかった。
 
「あなたはあの提案を受けるべきでした」

「どの提案だ?」

「彼と組んで、吸血鬼狩りハンターを続けること」

 反射的に呼吸が詰まった。
 決して後ろ暗いことをしていたわけではない。
 けれど、知られてはならない何かを知られてしまったような、そんな感情の揺れ方だった。

「......聞いていたのか」

「ええ、聞こえました」

 赤く染まった瞳が閉ざされ、ほとんどない距離が縮まる。
 レイの身体を押し返そうとして持ち上がった神崎の腕は、レイの肩に触れただけで止まった。

「おい」

 代わりに咎めるような言葉が口から漏れる。
 昨夜とはまた違う、本能に駆られた吸血鬼の腕の中にいるという事実だけで、喉が絞まったような気分だった。
 首に残る傷跡にレイの息が掛かり、神崎の肩が強張る。
 普段よりも早い自分の心臓の音が耳元で聞こえた。

「共にいると効率がいい。その理由だけで、俺には十分です」

 傷のある場所にまた痛みが走ることを覚悟していたが、それは訪れなかった。
 代わりにレイの鼻先が擦り寄るように、僅かに首筋を擦る。
 その直後、治りかけの咬傷にレイの唇が触れた。遅れてそう気付いたのは、身体が離れた時のことだった。

「だから、勝手に死なないでください。俺のいないところで」

 そう告げたレイの表情からは、今度こそ何の感情も読み取れなかった。
 

 *


 その後、レイは不自然な程にいつも通りだった。
 朝が近付けば眠り、陽が落ちれば起きてくる。
 夜には共に吸血鬼を狩り、朝になる前に家へ戻る。
 元々倉庫に近い扱いをしていた家を離れ、新たな拠点となるマンションに住み始めても、それは変わらなかった。

 リビングとは別に、それぞれ使える部屋が一つずつ。
 もう狭い部屋で、背中合わせに眠る必要もなくなった。
 だが、神崎と目が合う回数だけは、明らかに減っていた。

「おやすみなさい」

「ああ」

 朝が来る前に、こうして部屋に戻る時でさえ、一度も視線を向けない。
 神崎が銃の手入れをしているのを知っていて、それを邪魔しないようにしているとも取れる。
 だが、神崎は気付いていた。
 あの日からたまに、レイの瞳に赤い色が差していることを。

「............」

 しばらく血を飲んでいないせいもあるだろう。
 だが、それだけではない。感情が揺らいでいる。
 本人が自覚しているのかは分からないが、あの日からずっとレイの中で燻る何かがある。

 神崎は手入れを終えた銃を、油の匂いの染みた布で拭う。
 吸血鬼に対しては何度も銃を向けてきた。
 だが、よく知った同僚から向けられた銀の銃は、これまでとは違う重みを胸の内に残していた。
 結果的に、あの日もレイに救われたことになるが、その礼さえ言えていないままだった。

 神崎は溜息にもならない吐息を一つ零した。
 自分に言葉が足りていないのは知っている。
 皮肉や罵倒ならいくらでも出てくるくせに、礼となるとたった一言すら出てこない。
 頭が痛むような感覚に、銃を置いてこめかみを押さえながら立ち上がる。

 手を洗った後、レイに与えた部屋の扉の前に立つ。
 右手を持ち上げ、扉を叩こうとするものの、寸前でその手は止まった。
 何と伝えるべきか。そう考えるだけで持ち上げた手が落ちそうになる。
 しばらくそうして立ち尽くしていた時、その扉が勝手に開いた。

「さっきから、何をしているんです?」

 不思議そうな顔をしたレイが扉の向こうから顔を覗かせる。
 しかし、やはり神崎の目を見ようとはしない。
 その視線は、中途半端に持ち上がっている右手にのみ向けられていた。
 
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