ホーム›禁断の懺悔。›禁断の懺悔。
目次

禁断の懺悔。

父親が語った、秘密・・・禁断の懺悔とは?
午前一時三十二分。
枕元で、スマートフォンが震えた。
ブ――ッ。
短い振動だった。
だが、静まり返った部屋では、それが妙に大きく聞こえた。

北九州の夜は深かった。
窓の向こうには、眠りについた街の灯が、湿った闇の底に滲んでいる。
良平は布団から片腕だけを伸ばし、スマートフォンを手に取った。

父からだった。
こんな時間に。
嫌な予感がした。

画面には、たった三行。

 
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
 

良平はしばらく瞬きすらできなかった。
「......は?」

もう一度読む。

意味は変わらない。
父――栄治は、天草の高浜地区にいる。
七十をとうに越えた、頑固な男だった。

普段なら、電話をしても、
「変わりない」
「こっちは元気だ」
「仕事頑張れ」
それだけで切る。

そんな男が、
――もう、終わりだ。
良平はすぐに電話をかけた。

三回目の呼び出し音で繋がった。
『............良平か』
聞こえてきた声は、父のものとは思えなかった。
低く、乾き、どこか遠い。


古いブラウン管テレビの奥から聞こえてくるような、ざらついた声だった。
「父さん? 何があった?」
『......バレた』
「だから、何が?」
『母さんに......全部バレてしもうた』
「何を隠してたんだよ」
しばらく沈黙が続いた。

ザ――。

電話の向こうで、潮騒のような雑音が聞こえた。
『最初は......ほんの出来心だった』
良平の眉が動いた。
「......出来心?」
『ああ』
父は深く息を吐いた。
『興味本位だったんじゃ。まさか、こんなことになるとは思わなんだ』

良平は布団から起き上がった。
「何をしたんだよ」
『一度だけのつもりだった』
「............」
『ところがな。一度うまくいくと......またやりたくなる』
背筋に冷たいものが走った。

「父さん」
『それで、何度か繰り返した』
「何度か......?」
『母さんには黙ってな』

良平は唾を飲み込んだ。
『今まで一度もバレなかった』
「何年やってたんだよ」
『さあな......』


父は、かすかに笑ったようだった。
その笑いが、妙に気味悪かった。
『市場に出したこともある』
「......売ったのか?」
『ああ』
「何を?」
『出せば、すぐになくなった』
「............」
『評判が良くてな。また欲しい、次はいつだと言う者までおった』


良平の手のひらに汗が滲んだ。
『ほんの少し、小遣いになればと思っただけなんじゃがな』
「父さん......」
『それで、ついつい何度も育ててしもうた』
育てた。


その一言だけが、妙に耳に残った。
「......何を?」
また沈黙。


ザザ――ッ。
一瞬、音声が乱れた。
『今年のは......特別だった』
「特別?」
『今までで一番じゃ』
父の声が震えた。

『過去になく出来が良かった。わしの最高傑作だった』

最高傑作。
育てた。
何度も。
市場。
すぐになくなる。
小遣い。
母には秘密。
良平の頭の中で、バラバラだった言葉が、一本の黒い糸で繋がっていく。
――大麻?

いや。
まさか。
――ケシ?
そんなはずはない。

だが。
『もう少しだったんじゃ』
父が呟いた。

『もう少しで、誰にも知られず収穫できた』
良平の喉が鳴った。
「密かに......収穫?」
『ああ』
「それを母さんに見つかった?」
『そうじゃ』
「母さんは今どこにいる?」
『寝とる』
「寝てる?」
『ああ。起きてこん』
心臓が強く打った。

「......大丈夫なんだろうな?」
『知らん』
「知らんって何だよ!」
『わしはもう......食べる気すら起きん』
「父さん!」
『しかも母さんは......』
声が途切れた。

「母さんが何だよ!」
『近所にまで配ってしもうた』
良平の全身が凍りついた。

「配った......?」
『ああ』
「どれくらい?」
『三軒......いや、四軒だったか』
「そんなに!?」
『みんな喜んどったそうじゃ』
「............」
もう出回っている。

良平の頭の中で、何かが弾けた。
「父さん。今から行く」
『......そうか』
「何もするなよ。母さんにも、誰にも余計なこと言うな」
『もう遅い』

プツッ。

電話が切れた。
「父さん?」
無音。

「父さん!」
画面には、通話終了の文字だけが浮かんでいた。

良平はしばらく動けなかった。

やがて、震える手で車の鍵を掴んだ。
 
 
 
北九州を出たのは、午前二時を回っていた。

高速道路は濡れていた。

雨は降っていない。

それなのに、路面だけが黒く光っている。

ヘッドライトの白い光が、アスファルトの上を舐めるように走っていく。

対向車は少ない。

大型トラックが一台。

また一台。

そのたびに車内が一瞬だけ白く染まり、すぐに闇へ戻る。


ザ――ッ。

ラジオにノイズが入った。
良平は消した。
静寂。

聞こえるのはタイヤの音だけ。

父の言葉が何度も蘇る。
――最初は出来心だった。
――何度か繰り返した。
――市場に出した。
――すぐになくなった。
――評判が良かった。
――小遣いになった。
――今年は過去最高。
――密かに収穫するつもりだった。
――母さんにバレた。
――近所にも配られた。

「......何やってんだよ、オヤジ」
ハンドルを握る手に力が入った。
母は本当に寝ているだけなのか。

もし――。
良平は考えるのをやめた。
だが、やめようとすればするほど、想像は勝手に膨らんでいった。

父が土を掘る姿。
人目につかない畑の隅。
夜。
袋。
現金。
見知らぬ男。

そして――母。

「クソッ!」
アクセルを踏んだ。
 
天草へ入るころ、夜はさらに深くなった。
橋を渡る。
下には海があるはずだった。

だが見えない。
ただ巨大な黒い穴が口を開け、その上に橋だけが浮いている。
海峡を渡るたび、街灯がフロントガラスを横切る。

明。
暗。
明。
暗。

まるで古びた映写機のフィルムが、一コマずつ送られているようだった。
ザッ――。

一瞬、世界そのものに横線が走ったような気がした。
良平は目を擦った。
疲れている。
それでも走った。

天草へ入ってからも、高浜は遠かった。
走っても。
走っても。
まだ着かない。

闇の中に、山の影。
その向こうに、海。
また山。
古い家。
消えた街灯。
そしてまた闇。

父はいったい、何を育てていた。
空が白み始めたころだった。
色のない朝だった。
海は鉛色。
松は黒。
古い家々の壁は、濡れた灰のように沈んでいる。

良平は実家の前に車を停めた。

エンジンを切る。

急に静かになった。

波の音だけが聞こえた。
ザザァ......。
ザザァ......。

引き戸を開ける。
「父さん!」
返事はない。

土間の奥。
そこに、栄治はいた。

小さな椅子に腰を下ろし、背中を丸めている。

昨日まで人間だった何かが、そのまま抜け殻になって残っている。
そんな姿だった。

「父さん!」

栄治が、ゆっくり顔を上げた。
目の下には深い隈。
髪は乱れ、頬は落ちている。

「......来たか」
「母さんは!?」
「寝とる」
「本当に大丈夫なのか?」
「たぶんな」
「たぶんって!」

良平は父の両肩を掴んだ。

「しっかりしろ!」
栄治の身体が前後に揺れた。

「全部話してくれ。何をやってた?」
「............」
「何を育ててたんだ?」
栄治は俯いた。

「言いたくない」
「ここまで来て何言ってんだ!」
「お前には関係ない」
「関係あるだろ! 俺は北九州から四時間近く走ってきたんだぞ!」
「呼んだ覚えはない」
「夜中にあんなLINE送ってきたら来るだろ!」

栄治は黙った。
「市場に出したって言ったな?」
「ああ」
「金も受け取った?」
「少しな」
「何度も?」
「ああ」
「母さんには黙って?」
「ああ」
「今年も?」
「ああ」
「今年は過去最高?」
栄治の顔が歪んだ。

「ああ......」
「密かに収穫するつもりだった?」
「ああ!」
突然、栄治が叫んだ。

「もう少しだったんじゃ!」
良平は息を呑んだ。

「あと少し......あと少し待てば、最高の状態になった。それをわしは、この手で収穫するつもりだった!」
栄治の両手が震えている。
「それなのに......」
「父さん」
「全部なくなった」
「............」
「一枚残らずじゃ」
良平の口の中が乾いた。
「母さんが?」

栄治は頷いた。

「見つけた」
「それで?」
「全部持っていった」
「............」
「近所にも配った」
「......父さん」
「なんじゃ」
良平は覚悟を決めた。

「大麻か?」

栄治が顔を上げた。

「......は?」
「ケシか?」
「............」
「それとも、俺の知らない何かか?」
「何を言っとる」
「隠すなよ!」
良平は叫んだ。

「何年も母さんに隠れて育てて、市場で売って、金にして、評判になって、今年は過去最高で、密かに収穫しようとして、それが母さんにバレて、近所にまで出回ったんだろ!」

栄治は呆然と息子を見ていた。

「それで母さんは今も起きてこない! 父さんは食欲までなくしてる! 俺が何を考えると思うんだよ!」

長い沈黙。


波の音。

ザザァ......。
栄治の口が開いた。

「......シソじゃ」
「............」
「............」
「......は?」
「シソ」
「............」
「青ジソじゃ」
「............」
栄治は鼻をすすった。

「今年のは、ほんに出来が良かったんじゃ......」
「............シソ?」
「ああ」
「......青ジソ?」
「ああ」
「............」
「葉も大きくてな」
「............」
「香りも去年とは全然違った」
「............」
「市場でも評判が良かった」
「............」
「一束出したら、すぐ売れてな」
「............」
「いい小遣いになった」
良平の中で。

四時間かけて組み上げられた巨大な犯罪組織が、音を立てて崩壊した。
大麻畑が消えた。
ケシ畑が消えた。
密売人が消えた。
札束が消えた。
黒い車も、見知らぬ男も、秘密の取引も消えた。

最後に残ったのは――。
青々としたシソだった。

「......シソ」
「ああ」
「俺......シソで北九州から来たの?」
「知らん。勝手に来たんじゃろ」
「............」
栄治は力なく立ち上がった。

そして遠くを見るように目を細めた。
「昨日の夕方じゃった」



時は、十二時間前に遡る。

夕暮れの食卓に、それはあった。
皿いっぱいに盛られた、揚げたての天ぷら。
栄治は立ち尽くした。
シソ。
だった。
一枚。
二枚。
三枚。
何枚も。
衣の向こうに透ける葉脈。
特徴のある大きな葉。

栄治の目が震えた。
――バレた?
箸を持つ手が止まった。
――いつ?
――見られた?
いや。
待て。
違う。
これは、わしのじゃない。
似ているだけだ。
シソなんぞ、どこにでも――。

「あなた、食べないの?」
妻が言った。
「......これ」
「ん?」
「どこから......」
「ああ、これ?」

妻は何でもないように天ぷらを一枚つまんだ。
「畑の隅にシソがいっぱい自生してたのよ」
栄治の顔から血の気が引いた。
「......畑の......隅?」
「そうそう。あんなところにあったのね。全然気づかなかった」

サクッ。

妻が噛んだ。
「ん〜、美味しい〜」
栄治は動けなかった。
「採れたてだからかしら。香りが全然違うのよ」

サクッ。
「近所にも少し配ったの」
栄治の箸が落ちた。

カラン。
「どうしたの?」
「......何軒に」
「え?」
「何軒に配った」
「三軒くらいかな。食べきれないもの」
「............」
「田中さんなんて、すごく喜んでたわよ」
「............」
「あなたも食べなさいよ」
「............」
「揚げたてよ?」
栄治は皿を見つめた。

過去最高の出来。
毎朝、誰にも知られぬよう様子を見た。
雨の日も。
暑い日も。
虫がついていないか確かめた。
葉の色を見た。
大きさを見た。
もう少し。
あと少し。
最高の瞬間に、この手で――。

その最高傑作が。

目の前で。

サクッ。
「美味しい〜」
食われている。
「......いらん」
「え?」
「食欲がない」
「あら、珍しい」
食後。
栄治は一人、外へ出た。

まだだ。
全部ではない。
妻が採ったのは、食べる分だけかもしれない。

近所へ配ったといっても、全部ではない。
何枚か。
いや。
半分くらいは残っている。
そうだ。
残っている。

栄治は足早に畑へ向かった。
薄暗い畑の隅。
いつもの場所。
立ち止まった。
「............」
ない。
近づいた。
「............」
ない。
昨日まで青々と茂っていたものが。
ない。

栄治はしゃがみ込んだ。
葉を失った茎に触れた。
切り口は、まだ新しかった。
遠くで海が鳴っていた。
ザザァ......。
ザザァ......。
その夜。
栄治は眠れなかった。
目を閉じるたび、

サクッ。
「ん〜、美味しい〜」
サクッ。
「採れたてだからかしら」
サクッ。
「近所にも配ったの」


午前一時三十二分。
栄治はスマートフォンを手に取った。
 
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
 
送信。
 
 
 
「............」
良平は何も言えなかった。
栄治も何も言わない。
二人の間を、朝の冷たい空気だけが通り抜けた。

やがて良平が立ち上がった。
「帰る」
「そうか」
「今から北九州戻る」
「気をつけろ」
「......誰のせいだよ」

そのとき。
奥の襖が開いた。
ス――。
二人が振り返る。
「ふぁぁぁ......」
母が大きなあくびをしながら現れた。

寝癖がついている。
「あら?」
良平を見て目を丸くした。
「良平?」
「......おはよう」
「どうしたの、こんな朝早く」
「............」
「今日、仕事休み?」
「いや」

良平は車の鍵を握った。
「今から北九州に戻る」
「ええ? もう帰るの?」

母は時計を見た。
「せっかく来たんだから、朝ご飯くらい食べていけばいいのに」
「いや......いい」
「そう?」
母は台所へ向かいながら言った。
「あ、そうだ」

栄治の肩が、わずかに動いた。
「昨日のシソの天ぷら――」
栄治が振り返る。
「まだ冷蔵庫に二、三枚残ってるわよ」

一瞬。

時間が止まった。
栄治の濁っていた目に、光が戻った。
良平のこめかみが引きつった。

そして――。

「「まだ残っていたか!?」」
二人の声が重なった。

栄治が立ち上がった。
さっきまで死人のようだった老人とは思えない速さだった。
「食う!!」
「え?」
母が振り返る。
「わしが食う!」
「別にいいけど......」
栄治は台所へ向かった。
良平は玄関へ向かった。

正反対の方向へ歩いていく父と息子を、母だけが交互に見た。
「......何なの、あんたたち。朝から」
良平は答えなかった。
引き戸を開ける。
外は、すっかり朝だった。

それでも高浜の海には、まだ色がなかった。
鉛色の空。
黒い松。
荒い波。
ザザァ――。
ザザァ――。
背後から、父の声が聞こえた。

「母さん! 二枚しかないぞ!」
「昨日あれだけ食べたんだから当たり前でしょ!」

良平は目を閉じた。

四時間。

北九州から、四時間。

そして静かに車のドアを開けた。

天草の朝を、一本の白いノイズのような波が横切っていった。
――プツン。


完
シェア
最新話です
目次に戻る
禁断の懺悔。作者:夏目六華
目次を見る
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません

禁断の懺悔。

父親が語った、秘密・・・禁断の懺悔とは?
午前一時三十二分。
枕元で、スマートフォンが震えた。
ブ――ッ。
短い振動だった。
だが、静まり返った部屋では、それが妙に大きく聞こえた。

北九州の夜は深かった。
窓の向こうには、眠りについた街の灯が、湿った闇の底に滲んでいる。
良平は布団から片腕だけを伸ばし、スマートフォンを手に取った。

父からだった。
こんな時間に。
嫌な予感がした。

画面には、たった三行。

 
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
 

良平はしばらく瞬きすらできなかった。
「......は?」

もう一度読む。

意味は変わらない。
父――栄治は、天草の高浜地区にいる。
七十をとうに越えた、頑固な男だった。

普段なら、電話をしても、
「変わりない」
「こっちは元気だ」
「仕事頑張れ」
それだけで切る。

そんな男が、
――もう、終わりだ。
良平はすぐに電話をかけた。

三回目の呼び出し音で繋がった。
『............良平か』
聞こえてきた声は、父のものとは思えなかった。
低く、乾き、どこか遠い。


古いブラウン管テレビの奥から聞こえてくるような、ざらついた声だった。
「父さん? 何があった?」
『......バレた』
「だから、何が?」
『母さんに......全部バレてしもうた』
「何を隠してたんだよ」
しばらく沈黙が続いた。

ザ――。

電話の向こうで、潮騒のような雑音が聞こえた。
『最初は......ほんの出来心だった』
良平の眉が動いた。
「......出来心?」
『ああ』
父は深く息を吐いた。
『興味本位だったんじゃ。まさか、こんなことになるとは思わなんだ』

良平は布団から起き上がった。
「何をしたんだよ」
『一度だけのつもりだった』
「............」
『ところがな。一度うまくいくと......またやりたくなる』
背筋に冷たいものが走った。

「父さん」
『それで、何度か繰り返した』
「何度か......?」
『母さんには黙ってな』

良平は唾を飲み込んだ。
『今まで一度もバレなかった』
「何年やってたんだよ」
『さあな......』


父は、かすかに笑ったようだった。
その笑いが、妙に気味悪かった。
『市場に出したこともある』
「......売ったのか?」
『ああ』
「何を?」
『出せば、すぐになくなった』
「............」
『評判が良くてな。また欲しい、次はいつだと言う者までおった』


良平の手のひらに汗が滲んだ。
『ほんの少し、小遣いになればと思っただけなんじゃがな』
「父さん......」
『それで、ついつい何度も育ててしもうた』
育てた。


その一言だけが、妙に耳に残った。
「......何を?」
また沈黙。


ザザ――ッ。
一瞬、音声が乱れた。
『今年のは......特別だった』
「特別?」
『今までで一番じゃ』
父の声が震えた。

『過去になく出来が良かった。わしの最高傑作だった』

最高傑作。
育てた。
何度も。
市場。
すぐになくなる。
小遣い。
母には秘密。
良平の頭の中で、バラバラだった言葉が、一本の黒い糸で繋がっていく。
――大麻?

いや。
まさか。
――ケシ?
そんなはずはない。

だが。
『もう少しだったんじゃ』
父が呟いた。

『もう少しで、誰にも知られず収穫できた』
良平の喉が鳴った。
「密かに......収穫?」
『ああ』
「それを母さんに見つかった?」
『そうじゃ』
「母さんは今どこにいる?」
『寝とる』
「寝てる?」
『ああ。起きてこん』
心臓が強く打った。

「......大丈夫なんだろうな?」
『知らん』
「知らんって何だよ!」
『わしはもう......食べる気すら起きん』
「父さん!」
『しかも母さんは......』
声が途切れた。

「母さんが何だよ!」
『近所にまで配ってしもうた』
良平の全身が凍りついた。

「配った......?」
『ああ』
「どれくらい?」
『三軒......いや、四軒だったか』
「そんなに!?」
『みんな喜んどったそうじゃ』
「............」
もう出回っている。

良平の頭の中で、何かが弾けた。
「父さん。今から行く」
『......そうか』
「何もするなよ。母さんにも、誰にも余計なこと言うな」
『もう遅い』

プツッ。

電話が切れた。
「父さん?」
無音。

「父さん!」
画面には、通話終了の文字だけが浮かんでいた。

良平はしばらく動けなかった。

やがて、震える手で車の鍵を掴んだ。
 
 
 
北九州を出たのは、午前二時を回っていた。

高速道路は濡れていた。

雨は降っていない。

それなのに、路面だけが黒く光っている。

ヘッドライトの白い光が、アスファルトの上を舐めるように走っていく。

対向車は少ない。

大型トラックが一台。

また一台。

そのたびに車内が一瞬だけ白く染まり、すぐに闇へ戻る。


ザ――ッ。

ラジオにノイズが入った。
良平は消した。
静寂。

聞こえるのはタイヤの音だけ。

父の言葉が何度も蘇る。
――最初は出来心だった。
――何度か繰り返した。
――市場に出した。
――すぐになくなった。
――評判が良かった。
――小遣いになった。
――今年は過去最高。
――密かに収穫するつもりだった。
――母さんにバレた。
――近所にも配られた。

「......何やってんだよ、オヤジ」
ハンドルを握る手に力が入った。
母は本当に寝ているだけなのか。

もし――。
良平は考えるのをやめた。
だが、やめようとすればするほど、想像は勝手に膨らんでいった。

父が土を掘る姿。
人目につかない畑の隅。
夜。
袋。
現金。
見知らぬ男。

そして――母。

「クソッ!」
アクセルを踏んだ。
 
天草へ入るころ、夜はさらに深くなった。
橋を渡る。
下には海があるはずだった。

だが見えない。
ただ巨大な黒い穴が口を開け、その上に橋だけが浮いている。
海峡を渡るたび、街灯がフロントガラスを横切る。

明。
暗。
明。
暗。

まるで古びた映写機のフィルムが、一コマずつ送られているようだった。
ザッ――。

一瞬、世界そのものに横線が走ったような気がした。
良平は目を擦った。
疲れている。
それでも走った。

天草へ入ってからも、高浜は遠かった。
走っても。
走っても。
まだ着かない。

闇の中に、山の影。
その向こうに、海。
また山。
古い家。
消えた街灯。
そしてまた闇。

父はいったい、何を育てていた。
空が白み始めたころだった。
色のない朝だった。
海は鉛色。
松は黒。
古い家々の壁は、濡れた灰のように沈んでいる。

良平は実家の前に車を停めた。

エンジンを切る。

急に静かになった。

波の音だけが聞こえた。
ザザァ......。
ザザァ......。

引き戸を開ける。
「父さん!」
返事はない。

土間の奥。
そこに、栄治はいた。

小さな椅子に腰を下ろし、背中を丸めている。

昨日まで人間だった何かが、そのまま抜け殻になって残っている。
そんな姿だった。

「父さん!」

栄治が、ゆっくり顔を上げた。
目の下には深い隈。
髪は乱れ、頬は落ちている。

「......来たか」
「母さんは!?」
「寝とる」
「本当に大丈夫なのか?」
「たぶんな」
「たぶんって!」

良平は父の両肩を掴んだ。

「しっかりしろ!」
栄治の身体が前後に揺れた。

「全部話してくれ。何をやってた?」
「............」
「何を育ててたんだ?」
栄治は俯いた。

「言いたくない」
「ここまで来て何言ってんだ!」
「お前には関係ない」
「関係あるだろ! 俺は北九州から四時間近く走ってきたんだぞ!」
「呼んだ覚えはない」
「夜中にあんなLINE送ってきたら来るだろ!」

栄治は黙った。
「市場に出したって言ったな?」
「ああ」
「金も受け取った?」
「少しな」
「何度も?」
「ああ」
「母さんには黙って?」
「ああ」
「今年も?」
「ああ」
「今年は過去最高?」
栄治の顔が歪んだ。

「ああ......」
「密かに収穫するつもりだった?」
「ああ!」
突然、栄治が叫んだ。

「もう少しだったんじゃ!」
良平は息を呑んだ。

「あと少し......あと少し待てば、最高の状態になった。それをわしは、この手で収穫するつもりだった!」
栄治の両手が震えている。
「それなのに......」
「父さん」
「全部なくなった」
「............」
「一枚残らずじゃ」
良平の口の中が乾いた。
「母さんが?」

栄治は頷いた。

「見つけた」
「それで?」
「全部持っていった」
「............」
「近所にも配った」
「......父さん」
「なんじゃ」
良平は覚悟を決めた。

「大麻か?」

栄治が顔を上げた。

「......は?」
「ケシか?」
「............」
「それとも、俺の知らない何かか?」
「何を言っとる」
「隠すなよ!」
良平は叫んだ。

「何年も母さんに隠れて育てて、市場で売って、金にして、評判になって、今年は過去最高で、密かに収穫しようとして、それが母さんにバレて、近所にまで出回ったんだろ!」

栄治は呆然と息子を見ていた。

「それで母さんは今も起きてこない! 父さんは食欲までなくしてる! 俺が何を考えると思うんだよ!」

長い沈黙。


波の音。

ザザァ......。
栄治の口が開いた。

「......シソじゃ」
「............」
「............」
「......は?」
「シソ」
「............」
「青ジソじゃ」
「............」
栄治は鼻をすすった。

「今年のは、ほんに出来が良かったんじゃ......」
「............シソ?」
「ああ」
「......青ジソ?」
「ああ」
「............」
「葉も大きくてな」
「............」
「香りも去年とは全然違った」
「............」
「市場でも評判が良かった」
「............」
「一束出したら、すぐ売れてな」
「............」
「いい小遣いになった」
良平の中で。

四時間かけて組み上げられた巨大な犯罪組織が、音を立てて崩壊した。
大麻畑が消えた。
ケシ畑が消えた。
密売人が消えた。
札束が消えた。
黒い車も、見知らぬ男も、秘密の取引も消えた。

最後に残ったのは――。
青々としたシソだった。

「......シソ」
「ああ」
「俺......シソで北九州から来たの?」
「知らん。勝手に来たんじゃろ」
「............」
栄治は力なく立ち上がった。

そして遠くを見るように目を細めた。
「昨日の夕方じゃった」



時は、十二時間前に遡る。

夕暮れの食卓に、それはあった。
皿いっぱいに盛られた、揚げたての天ぷら。
栄治は立ち尽くした。
シソ。
だった。
一枚。
二枚。
三枚。
何枚も。
衣の向こうに透ける葉脈。
特徴のある大きな葉。

栄治の目が震えた。
――バレた?
箸を持つ手が止まった。
――いつ?
――見られた?
いや。
待て。
違う。
これは、わしのじゃない。
似ているだけだ。
シソなんぞ、どこにでも――。

「あなた、食べないの?」
妻が言った。
「......これ」
「ん?」
「どこから......」
「ああ、これ?」

妻は何でもないように天ぷらを一枚つまんだ。
「畑の隅にシソがいっぱい自生してたのよ」
栄治の顔から血の気が引いた。
「......畑の......隅?」
「そうそう。あんなところにあったのね。全然気づかなかった」

サクッ。

妻が噛んだ。
「ん〜、美味しい〜」
栄治は動けなかった。
「採れたてだからかしら。香りが全然違うのよ」

サクッ。
「近所にも少し配ったの」
栄治の箸が落ちた。

カラン。
「どうしたの?」
「......何軒に」
「え?」
「何軒に配った」
「三軒くらいかな。食べきれないもの」
「............」
「田中さんなんて、すごく喜んでたわよ」
「............」
「あなたも食べなさいよ」
「............」
「揚げたてよ?」
栄治は皿を見つめた。

過去最高の出来。
毎朝、誰にも知られぬよう様子を見た。
雨の日も。
暑い日も。
虫がついていないか確かめた。
葉の色を見た。
大きさを見た。
もう少し。
あと少し。
最高の瞬間に、この手で――。

その最高傑作が。

目の前で。

サクッ。
「美味しい〜」
食われている。
「......いらん」
「え?」
「食欲がない」
「あら、珍しい」
食後。
栄治は一人、外へ出た。

まだだ。
全部ではない。
妻が採ったのは、食べる分だけかもしれない。

近所へ配ったといっても、全部ではない。
何枚か。
いや。
半分くらいは残っている。
そうだ。
残っている。

栄治は足早に畑へ向かった。
薄暗い畑の隅。
いつもの場所。
立ち止まった。
「............」
ない。
近づいた。
「............」
ない。
昨日まで青々と茂っていたものが。
ない。

栄治はしゃがみ込んだ。
葉を失った茎に触れた。
切り口は、まだ新しかった。
遠くで海が鳴っていた。
ザザァ......。
ザザァ......。
その夜。
栄治は眠れなかった。
目を閉じるたび、

サクッ。
「ん〜、美味しい〜」
サクッ。
「採れたてだからかしら」
サクッ。
「近所にも配ったの」


午前一時三十二分。
栄治はスマートフォンを手に取った。
 
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
 
送信。
 
 
 
「............」
良平は何も言えなかった。
栄治も何も言わない。
二人の間を、朝の冷たい空気だけが通り抜けた。

やがて良平が立ち上がった。
「帰る」
「そうか」
「今から北九州戻る」
「気をつけろ」
「......誰のせいだよ」

そのとき。
奥の襖が開いた。
ス――。
二人が振り返る。
「ふぁぁぁ......」
母が大きなあくびをしながら現れた。

寝癖がついている。
「あら?」
良平を見て目を丸くした。
「良平?」
「......おはよう」
「どうしたの、こんな朝早く」
「............」
「今日、仕事休み?」
「いや」

良平は車の鍵を握った。
「今から北九州に戻る」
「ええ? もう帰るの?」

母は時計を見た。
「せっかく来たんだから、朝ご飯くらい食べていけばいいのに」
「いや......いい」
「そう?」
母は台所へ向かいながら言った。
「あ、そうだ」

栄治の肩が、わずかに動いた。
「昨日のシソの天ぷら――」
栄治が振り返る。
「まだ冷蔵庫に二、三枚残ってるわよ」

一瞬。

時間が止まった。
栄治の濁っていた目に、光が戻った。
良平のこめかみが引きつった。

そして――。

「「まだ残っていたか!?」」
二人の声が重なった。

栄治が立ち上がった。
さっきまで死人のようだった老人とは思えない速さだった。
「食う!!」
「え?」
母が振り返る。
「わしが食う!」
「別にいいけど......」
栄治は台所へ向かった。
良平は玄関へ向かった。

正反対の方向へ歩いていく父と息子を、母だけが交互に見た。
「......何なの、あんたたち。朝から」
良平は答えなかった。
引き戸を開ける。
外は、すっかり朝だった。

それでも高浜の海には、まだ色がなかった。
鉛色の空。
黒い松。
荒い波。
ザザァ――。
ザザァ――。
背後から、父の声が聞こえた。

「母さん! 二枚しかないぞ!」
「昨日あれだけ食べたんだから当たり前でしょ!」

良平は目を閉じた。

四時間。

北九州から、四時間。

そして静かに車のドアを開けた。

天草の朝を、一本の白いノイズのような波が横切っていった。
――プツン。


完
シェア
最新話です
目次に戻る
禁断の懺悔。作者:夏目六華
目次
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません