禁断の懺悔。
父親が語った、秘密・・・禁断の懺悔とは?
午前一時三十二分。
枕元で、スマートフォンが震えた。
ブ――ッ。
短い振動だった。
だが、静まり返った部屋では、それが妙に大きく聞こえた。
北九州の夜は深かった。
窓の向こうには、眠りについた街の灯が、湿った闇の底に滲んでいる。
良平は布団から片腕だけを伸ばし、スマートフォンを手に取った。
父からだった。
こんな時間に。
嫌な予感がした。
画面には、たった三行。
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
良平はしばらく瞬きすらできなかった。
「......は?」
もう一度読む。
意味は変わらない。
父――栄治は、天草の高浜地区にいる。
七十をとうに越えた、頑固な男だった。
普段なら、電話をしても、
「変わりない」
「こっちは元気だ」
「仕事頑張れ」
それだけで切る。
そんな男が、
――もう、終わりだ。
良平はすぐに電話をかけた。
三回目の呼び出し音で繋がった。
『............良平か』
聞こえてきた声は、父のものとは思えなかった。
低く、乾き、どこか遠い。
古いブラウン管テレビの奥から聞こえてくるような、ざらついた声だった。
「父さん? 何があった?」
『......バレた』
「だから、何が?」
『母さんに......全部バレてしもうた』
「何を隠してたんだよ」
しばらく沈黙が続いた。
ザ――。
電話の向こうで、潮騒のような雑音が聞こえた。
『最初は......ほんの出来心だった』
良平の眉が動いた。
「......出来心?」
『ああ』
父は深く息を吐いた。
『興味本位だったんじゃ。まさか、こんなことになるとは思わなんだ』
良平は布団から起き上がった。
「何をしたんだよ」
『一度だけのつもりだった』
「............」
『ところがな。一度うまくいくと......またやりたくなる』
背筋に冷たいものが走った。
「父さん」
『それで、何度か繰り返した』
「何度か......?」
『母さんには黙ってな』
良平は唾を飲み込んだ。
『今まで一度もバレなかった』
「何年やってたんだよ」
『さあな......』
父は、かすかに笑ったようだった。
その笑いが、妙に気味悪かった。
『市場に出したこともある』
「......売ったのか?」
『ああ』
「何を?」
『出せば、すぐになくなった』
「............」
『評判が良くてな。また欲しい、次はいつだと言う者までおった』
良平の手のひらに汗が滲んだ。
『ほんの少し、小遣いになればと思っただけなんじゃがな』
「父さん......」
『それで、ついつい何度も育ててしもうた』
育てた。
その一言だけが、妙に耳に残った。
「......何を?」
また沈黙。
ザザ――ッ。
一瞬、音声が乱れた。
『今年のは......特別だった』
「特別?」
『今までで一番じゃ』
父の声が震えた。
『過去になく出来が良かった。わしの最高傑作だった』
最高傑作。
育てた。
何度も。
市場。
すぐになくなる。
小遣い。
母には秘密。
良平の頭の中で、バラバラだった言葉が、一本の黒い糸で繋がっていく。
――大麻?
いや。
まさか。
――ケシ?
そんなはずはない。
だが。
『もう少しだったんじゃ』
父が呟いた。
『もう少しで、誰にも知られず収穫できた』
良平の喉が鳴った。
「密かに......収穫?」
『ああ』
「それを母さんに見つかった?」
『そうじゃ』
「母さんは今どこにいる?」
『寝とる』
「寝てる?」
『ああ。起きてこん』
心臓が強く打った。
「......大丈夫なんだろうな?」
『知らん』
「知らんって何だよ!」
『わしはもう......食べる気すら起きん』
「父さん!」
『しかも母さんは......』
声が途切れた。
「母さんが何だよ!」
『近所にまで配ってしもうた』
良平の全身が凍りついた。
「配った......?」
『ああ』
「どれくらい?」
『三軒......いや、四軒だったか』
「そんなに!?」
『みんな喜んどったそうじゃ』
「............」
もう出回っている。
良平の頭の中で、何かが弾けた。
「父さん。今から行く」
『......そうか』
「何もするなよ。母さんにも、誰にも余計なこと言うな」
『もう遅い』
プツッ。
電話が切れた。
「父さん?」
無音。
「父さん!」
画面には、通話終了の文字だけが浮かんでいた。
良平はしばらく動けなかった。
やがて、震える手で車の鍵を掴んだ。
北九州を出たのは、午前二時を回っていた。
高速道路は濡れていた。
雨は降っていない。
それなのに、路面だけが黒く光っている。
ヘッドライトの白い光が、アスファルトの上を舐めるように走っていく。
対向車は少ない。
大型トラックが一台。
また一台。
そのたびに車内が一瞬だけ白く染まり、すぐに闇へ戻る。
ザ――ッ。
ラジオにノイズが入った。
良平は消した。
静寂。
聞こえるのはタイヤの音だけ。
父の言葉が何度も蘇る。
――最初は出来心だった。
――何度か繰り返した。
――市場に出した。
――すぐになくなった。
――評判が良かった。
――小遣いになった。
――今年は過去最高。
――密かに収穫するつもりだった。
――母さんにバレた。
――近所にも配られた。
「......何やってんだよ、オヤジ」
ハンドルを握る手に力が入った。
母は本当に寝ているだけなのか。
もし――。
良平は考えるのをやめた。
だが、やめようとすればするほど、想像は勝手に膨らんでいった。
父が土を掘る姿。
人目につかない畑の隅。
夜。
袋。
現金。
見知らぬ男。
そして――母。
「クソッ!」
アクセルを踏んだ。
天草へ入るころ、夜はさらに深くなった。
橋を渡る。
下には海があるはずだった。
だが見えない。
ただ巨大な黒い穴が口を開け、その上に橋だけが浮いている。
海峡を渡るたび、街灯がフロントガラスを横切る。
明。
暗。
明。
暗。
まるで古びた映写機のフィルムが、一コマずつ送られているようだった。
ザッ――。
一瞬、世界そのものに横線が走ったような気がした。
良平は目を擦った。
疲れている。
それでも走った。
天草へ入ってからも、高浜は遠かった。
走っても。
走っても。
まだ着かない。
闇の中に、山の影。
その向こうに、海。
また山。
古い家。
消えた街灯。
そしてまた闇。
父はいったい、何を育てていた。
空が白み始めたころだった。
色のない朝だった。
海は鉛色。
松は黒。
古い家々の壁は、濡れた灰のように沈んでいる。
良平は実家の前に車を停めた。
エンジンを切る。
急に静かになった。
波の音だけが聞こえた。
ザザァ......。
ザザァ......。
引き戸を開ける。
「父さん!」
返事はない。
土間の奥。
そこに、栄治はいた。
小さな椅子に腰を下ろし、背中を丸めている。
昨日まで人間だった何かが、そのまま抜け殻になって残っている。
そんな姿だった。
「父さん!」
栄治が、ゆっくり顔を上げた。
目の下には深い隈。
髪は乱れ、頬は落ちている。
「......来たか」
「母さんは!?」
「寝とる」
「本当に大丈夫なのか?」
「たぶんな」
「たぶんって!」
良平は父の両肩を掴んだ。
「しっかりしろ!」
栄治の身体が前後に揺れた。
「全部話してくれ。何をやってた?」
「............」
「何を育ててたんだ?」
栄治は俯いた。
「言いたくない」
「ここまで来て何言ってんだ!」
「お前には関係ない」
「関係あるだろ! 俺は北九州から四時間近く走ってきたんだぞ!」
「呼んだ覚えはない」
「夜中にあんなLINE送ってきたら来るだろ!」
栄治は黙った。
「市場に出したって言ったな?」
「ああ」
「金も受け取った?」
「少しな」
「何度も?」
「ああ」
「母さんには黙って?」
「ああ」
「今年も?」
「ああ」
「今年は過去最高?」
栄治の顔が歪んだ。
「ああ......」
「密かに収穫するつもりだった?」
「ああ!」
突然、栄治が叫んだ。
「もう少しだったんじゃ!」
良平は息を呑んだ。
「あと少し......あと少し待てば、最高の状態になった。それをわしは、この手で収穫するつもりだった!」
栄治の両手が震えている。
「それなのに......」
「父さん」
「全部なくなった」
「............」
「一枚残らずじゃ」
良平の口の中が乾いた。
「母さんが?」
栄治は頷いた。
「見つけた」
「それで?」
「全部持っていった」
「............」
「近所にも配った」
「......父さん」
「なんじゃ」
良平は覚悟を決めた。
「大麻か?」
栄治が顔を上げた。
「......は?」
「ケシか?」
「............」
「それとも、俺の知らない何かか?」
「何を言っとる」
「隠すなよ!」
良平は叫んだ。
「何年も母さんに隠れて育てて、市場で売って、金にして、評判になって、今年は過去最高で、密かに収穫しようとして、それが母さんにバレて、近所にまで出回ったんだろ!」
栄治は呆然と息子を見ていた。
「それで母さんは今も起きてこない! 父さんは食欲までなくしてる! 俺が何を考えると思うんだよ!」
長い沈黙。
波の音。
ザザァ......。
栄治の口が開いた。
「......シソじゃ」
「............」
「............」
「......は?」
「シソ」
「............」
「青ジソじゃ」
「............」
栄治は鼻をすすった。
「今年のは、ほんに出来が良かったんじゃ......」
「............シソ?」
「ああ」
「......青ジソ?」
「ああ」
「............」
「葉も大きくてな」
「............」
「香りも去年とは全然違った」
「............」
「市場でも評判が良かった」
「............」
「一束出したら、すぐ売れてな」
「............」
「いい小遣いになった」
良平の中で。
四時間かけて組み上げられた巨大な犯罪組織が、音を立てて崩壊した。
大麻畑が消えた。
ケシ畑が消えた。
密売人が消えた。
札束が消えた。
黒い車も、見知らぬ男も、秘密の取引も消えた。
最後に残ったのは――。
青々としたシソだった。
「......シソ」
「ああ」
「俺......シソで北九州から来たの?」
「知らん。勝手に来たんじゃろ」
「............」
栄治は力なく立ち上がった。
そして遠くを見るように目を細めた。
「昨日の夕方じゃった」
時は、十二時間前に遡る。
夕暮れの食卓に、それはあった。
皿いっぱいに盛られた、揚げたての天ぷら。
栄治は立ち尽くした。
シソ。
だった。
一枚。
二枚。
三枚。
何枚も。
衣の向こうに透ける葉脈。
特徴のある大きな葉。
栄治の目が震えた。
――バレた?
箸を持つ手が止まった。
――いつ?
――見られた?
いや。
待て。
違う。
これは、わしのじゃない。
似ているだけだ。
シソなんぞ、どこにでも――。
「あなた、食べないの?」
妻が言った。
「......これ」
「ん?」
「どこから......」
「ああ、これ?」
妻は何でもないように天ぷらを一枚つまんだ。
「畑の隅にシソがいっぱい自生してたのよ」
栄治の顔から血の気が引いた。
「......畑の......隅?」
「そうそう。あんなところにあったのね。全然気づかなかった」
サクッ。
妻が噛んだ。
「ん〜、美味しい〜」
栄治は動けなかった。
「採れたてだからかしら。香りが全然違うのよ」
サクッ。
「近所にも少し配ったの」
栄治の箸が落ちた。
カラン。
「どうしたの?」
「......何軒に」
「え?」
「何軒に配った」
「三軒くらいかな。食べきれないもの」
「............」
「田中さんなんて、すごく喜んでたわよ」
「............」
「あなたも食べなさいよ」
「............」
「揚げたてよ?」
栄治は皿を見つめた。
過去最高の出来。
毎朝、誰にも知られぬよう様子を見た。
雨の日も。
暑い日も。
虫がついていないか確かめた。
葉の色を見た。
大きさを見た。
もう少し。
あと少し。
最高の瞬間に、この手で――。
その最高傑作が。
目の前で。
サクッ。
「美味しい〜」
食われている。
「......いらん」
「え?」
「食欲がない」
「あら、珍しい」
食後。
栄治は一人、外へ出た。
まだだ。
全部ではない。
妻が採ったのは、食べる分だけかもしれない。
近所へ配ったといっても、全部ではない。
何枚か。
いや。
半分くらいは残っている。
そうだ。
残っている。
栄治は足早に畑へ向かった。
薄暗い畑の隅。
いつもの場所。
立ち止まった。
「............」
ない。
近づいた。
「............」
ない。
昨日まで青々と茂っていたものが。
ない。
栄治はしゃがみ込んだ。
葉を失った茎に触れた。
切り口は、まだ新しかった。
遠くで海が鳴っていた。
ザザァ......。
ザザァ......。
その夜。
栄治は眠れなかった。
目を閉じるたび、
サクッ。
「ん〜、美味しい〜」
サクッ。
「採れたてだからかしら」
サクッ。
「近所にも配ったの」
午前一時三十二分。
栄治はスマートフォンを手に取った。
もう、終わりだ。
母さんに全てバレた。
明日から、どうすればいい。
送信。
「............」
良平は何も言えなかった。
栄治も何も言わない。
二人の間を、朝の冷たい空気だけが通り抜けた。
やがて良平が立ち上がった。
「帰る」
「そうか」
「今から北九州戻る」
「気をつけろ」
「......誰のせいだよ」
そのとき。
奥の襖が開いた。
ス――。
二人が振り返る。
「ふぁぁぁ......」
母が大きなあくびをしながら現れた。
寝癖がついている。
「あら?」
良平を見て目を丸くした。
「良平?」
「......おはよう」
「どうしたの、こんな朝早く」
「............」
「今日、仕事休み?」
「いや」
良平は車の鍵を握った。
「今から北九州に戻る」
「ええ? もう帰るの?」
母は時計を見た。
「せっかく来たんだから、朝ご飯くらい食べていけばいいのに」
「いや......いい」
「そう?」
母は台所へ向かいながら言った。
「あ、そうだ」
栄治の肩が、わずかに動いた。
「昨日のシソの天ぷら――」
栄治が振り返る。
「まだ冷蔵庫に二、三枚残ってるわよ」
一瞬。
時間が止まった。
栄治の濁っていた目に、光が戻った。
良平のこめかみが引きつった。
そして――。
「「まだ残っていたか!?」」
二人の声が重なった。
栄治が立ち上がった。
さっきまで死人のようだった老人とは思えない速さだった。
「食う!!」
「え?」
母が振り返る。
「わしが食う!」
「別にいいけど......」
栄治は台所へ向かった。
良平は玄関へ向かった。
正反対の方向へ歩いていく父と息子を、母だけが交互に見た。
「......何なの、あんたたち。朝から」
良平は答えなかった。
引き戸を開ける。
外は、すっかり朝だった。
それでも高浜の海には、まだ色がなかった。
鉛色の空。
黒い松。
荒い波。
ザザァ――。
ザザァ――。
背後から、父の声が聞こえた。
「母さん! 二枚しかないぞ!」
「昨日あれだけ食べたんだから当たり前でしょ!」
良平は目を閉じた。
四時間。
北九州から、四時間。
そして静かに車のドアを開けた。
天草の朝を、一本の白いノイズのような波が横切っていった。
――プツン。
完