桜の咲いた後
嘘と桜とレモネード
「久しぶりだね、颯太」
早春。
桜の蕾が膨らみ、ポツポツと咲き始めた頃、俺は春香に呼び出された。
『いつもの場所、いつもの時間に』
春香は車椅子を漕ぎながら、広いとは言い難い通路を器用に通ってくる。角を曲がるたび、樹脂製の床にタイヤが擦れて、キュっと響いた。
約三年ぶりに会う彼女は、なんだか少し大人びて見えた。
短かった髪は肩を越え、目元や唇も、ほんのり色づいている。
俺は彼女の後ろへ回り、介助用ハンドルへと手をのばした。
「やるよ」
「ありがとう」
海無し県の、淡水魚専門水族館。
小さな建物の中にところ狭しと並べられた水槽には、この地域に生息している、あらゆる水生生物が展示されていた。
規模は小さいが、展示へのこだわりは目を見張るものがあった。
各水槽の横にイラスト付きの解説はもちろん、魚の名前当てクイズ、骨の形のパズルブロック、奥にいけば地層の見本に、化石まで。
小さな子どもにも見やすいよう配慮されていたし、ひときわ大きな水槽では、渓流が再現されていて、イワナやヤマメ、ウグイが忙しそうに泳いでいた。
それらの展示がなんと中学生までは100円で見られたのだ。近所だったこともあり、魚好きの俺としては、通わない理由がなかった。
そんなある日、春香と出会った。
決まった曜日の決まった時間に、春香は来た。
住んでいる街は同じだったけど、学区が違うせいで面識はなかった。
春香は魚よりも地層が好きなようだった。
古代より積み重ねられた断面が、サンドイッチやミルクレープのようで、美しくて大好きなんだそうだ。
――美味しそう、の間違いじゃないだろうか......。
水族館なのに変なやつだなと思っていたけど、話を聞いているうちに興味が湧いていたんだから、不思議なもんだ。
地層にも、彼女にも。
「ここは変わらないね〜」
「変わってるよ、あの水槽も昔は――」
「そういうことじゃないよ。全く、情緒がないなぁ」
そう言って、彼女の肩がわずかに揺れた。
背中からでもわかる、春香の笑顔。
「でも、ここは本当に変わってない」
そこはこの地域の地層が説明されているコーナーだった。
壁に沿って薄く設置されたアクリルガラス、その中には本物の土が入れられている。
幾重も重なる層に合わせて、アクリルガラスには、時代や化石のイラストが描かれていた。
春香はそれをどこか遠くを見るように、懐かしそうに見つめていた。
「やぁ! 君たち」
「館長さん!」
「久しぶりだね」と、フロアの奥から初老のおっさんが現れた。
この水族館の館長で、ここに通い始めた時からの顔なじみだ。
「懐かしいねぇ。高校生になってからとんと来なくなってしまったんだから。寂しいったらなかったよ」
春香は地元の有名な進学校、俺は海あり県の海洋科のある高校へ進学していたから、いろいろ忙しくて、なかなかここへ来れなかったんだ。
「ところで春香ちゃん......」
館長は神妙な面持ちで春香の車椅子に目をやった。
それに気づき、春香は少しバツの悪そうな表情で説明をする。
「え? あぁ。ちょっと高いところから足を踏み外しちゃって。幸い、下に木が茂っていたので......命拾いしました」
「そんな......。でも無事でいてくれてよかった......本当に」
「へへへ。もう元気だから大丈夫。......ほんと、なんであんなことしたんだろ」
館長にそれ以上心配をかけまいとしたのか、春香は頭をかいて笑って見せた。
それでも目は少し伏せ、本気で後悔している顔だった。
苦労して進学校へ進んだのは、大学で本格的に地層学を学ぶため。それなのに、自分の足で立つことができなくなってしまったのだから。
フィールドワークを夢見てきた彼女にとって、それはあまりにもつらい現実だった。
「......きっと神様が助けてくれたんだね」
ふと、館長がつぶやいた。
「神様が?」
「そう。春香ちゃんは将来、偉くて有名な地層学者になるんだから、こんなところで死んではいけない! ......ってね」
パチンー☆
「うわっ、おっさんのウインクとか気持ち悪っ!」
「はっはっ! 颯太くんにはまだこのダンディさがわからないんだね」
「ダンディってなんだよどこがだよ」
「さて、おじさんこれから忙しくなるぞお!」
「何かあるの?」
「バリアフリーをもっと整えなきゃね。春香ちゃん、何か気がつくことがあったら意見箱に入れておいてくれるかい?」
「わかった」
「ありがとう。それじゃ、今日も楽しんでいってね」
そう言って手を振りながら、館長はまた仕事へと戻っていった。
一通り見終わると、いつものように、館内に併設されている小さな休憩コーナーへと向かった。
道中には屋外を通る場所があって、そこにもさらさらと流れる小川が再現されている。
魚たちの鱗が光を拾って、キラキラ輝くのが好きだった。
水の流れに向かって、力強く泳ぐ姿が好きだった。
春香は見る度に「美味しそう」と言っていたけど......。
――あぁ、もうすぐ咲きそうだな。
水面はそばに植えられた桜の木を映して、ほんのり薄紅色に染まっていた。
車椅子を押しながら、なじみの席へ。
元々置いてあった椅子をどかし、そこに車椅子をつけた。
壁際には複数の自販機が設置されているが、俺は迷わずカップ式の自販機の前に立つ。
そして答えはわかっていたけど、一応春香に声をかけた。
「何飲む?」
「それはもちろん」
「「レモネード!」」
俺たちは視線を合わせると、いたずらに笑い合った。
最初は、なんとなく背伸びをして選んだレモネード。
いつの間にか、それが俺たちの定番になっていた。
安っぽいけど、甘酸っぱくて爽やかな風味が、喋りすぎて乾いた喉をいつも潤してくれた。
出来上がった二人分のレモネードを持って、席へと戻る。
「ありがとう」
「うん」
春香が、レモネードを受け取ろうと手を伸ばしてきた。
その袖口から覗く傷跡に、思わず手に力が入る。
紙コップを潰さないよう必死にこらえたが、その手は少し、震えていたかもしれない。
春香はこの春、地元を離れて東北の大学に行くそうだ。
引っ越しやら何やらいろいろ手続きが大変らしい。
俺はというと、進学は、その......諸事情で......。
「地元を離れる前に、もう一度ここに来ておきたかったんだ。またしばらく来れなくなると思うから」
春香がちらりと俺を見た。その頬は、こころなしか少し赤い。
俺はなんとなく気恥ずかしくなって、まだ手を付けていないレモネードに視線を落とした。
「......いやぁー、これだけですんで良かったよ」
彼女も気恥ずかしかったのか、大げさに頭をかいてみせた。
春香は高校2年の時、事故で高所から落ち、歩くことができなくなってしまったそうだ。
俺がその話を聞いたのは、事故からすでに半年以上経ってからだった。
「春香......」
「や、ごめんごめん、湿っぽくならないで! フィールドワークは難しいけど、それ以外の仕事もたくさんあるんだから」
彼女は苦笑いをしながらまた頭をかいているが、その時の絶望は計り知れなかった。
「そりゃ一瞬凹んだけどね。......やっぱり夢叶えたいなと思ってさ」
自力でのフィールドワークは、難しいけど......。
そうつぶやいて、春香は車椅子のタイヤをそっとなでた。
「俺は......就職かなぁ」
「え!? 進学じゃないの?」
「まぁ......」
答えを濁していると、春香は何かを悟ったようだった。
「......浪人、すれば?」
「いや、勤めながら勉強しようかなって。両親には......申し訳ないけど」
「びっくりしたー。魚の研究者になる夢、諦めちゃったのかと思った」
「諦めてはないよ」
話を遮るように、俺はレモネードを一気に喉へと流し込んだ。
いつもと変わらない味が、渇ききった喉をスッと潤していく。
「......そう言えば春香の高校は同窓会とかやるの?」
「うん、再来週に。でもまぁ......私はいけないかな」
春香の顔に、暗く影が落ちた。
その表情を見ると、心臓が締め付けられそうになる。それに耐えるように、俺は拳を強く握った。
春香に見えないよう、テーブルの下で。
「ふーん......。いいんじゃねーの?
進学でこの街出るんだろ? 準備だってあるだろうし。
こんな忙しい時期に企画する奴らなんて、どーせ自分の自慢がしたいんだよ。進路未定の奴らを冷やかす気なんだ」
俺がわざと大きく肩をすくめると、春香は笑ってくれた。
その笑顔にはまだ少し影が残るものの、前を向いているようだった。
俺はスマホのフォルダに保存された、高校のクラス写真を見た。
右上には一人、丸枠に収められた春香。
スッと指を払い、画面を次へと送る。
特に、この5人には会いたい。
笑顔で写る、5人。
「また......ここに来ようね」
「......そうだな」
「その時はきっと、夢を叶えて」
「......うん」
空になった紙コップをゴミ箱に入れて、俺はまた車椅子のハンドルを握る。
待ち合わせは昼過ぎ頃だったのに、外に出てみると、陽はすでに傾いていた。
バス停まで押して歩くその時間は、やけに静かで、とても長い時間に感じた。
ふと、春香が振り返った。
「――っ颯太! あのね」
「春香」
――好きだ。
春香の言葉を遮って、飛び出してしまいそうなその言葉を、俺は必死に飲み込んだ。
なんとなく、言ってはいけない気がしたから。
聞いてもいけない気がしたから。
「......俺の分まで、夢叶えろ」
「私......私ね」
「“夢を叶えて”、またここで会おう」
本当は言いたかったし、――聞きたかった。
「また......ここで」
タイミングよくバスが到着し、音を立ててドアが開く。
まるでエスコートをするかのように車体が沈むと、運転士さんが車椅子用のスロープを設置してくれた。
二人でお礼を言って、俺は春香をゆっくりとバスの中へと送る。
この短い道のりが、永遠に終わらなければいいのに。そんな想いで。
「じゃあ......またね」
「うん」
「約束......忘れないでね」
「もちろん。春香も」
「当たり前でしょ」
約束は忘れない。
でも、多分――守れない。
桜はもうすぐ、本格的な開花を迎えそうだ。
桜が満開になり、街に春の色が満ちる頃、あいつはこの街を後にした。
――三年前は、俺が街を出たんだ。
この街には、魚のことを学べる高校はなかったから。
春香はまだ、二本の足で立っていた。
この水族館で、笑顔で、地層や魚のこと、将来の夢を語り合っていたんだ。
高校2年の春。
春香は飛んだ。
有名な進学校。
『成績が良い』
それだけで妬まれて――。
彼女はただ、夢を追って必死に勉強していただけなのに。
その夢すら諦めてしまいそうなほど、追い込まれてしまったんだ。
ごめんな、俺がいたらそんなことさせなかったのに。
ごめんな、守ってやれなくて。
ごめんな、春香。
ごめんな――......。
俺は空を仰いだ。
温かな風が頬をなでる。
今日は一人で水族館に来ていた。
二週間前、淡い薄紅を映していた小川は、花びらで染め上げられていて、魚がヒレを動かすたび、新たな模様が描かれる。
「きれいだな。春香と見れたら良かったのに」
俺はいつものようにレモネードを買うと、そのまま水族館を後にした。
その数日後。
俺はニュースに取り上げられる有名人となった
5人を殺した、殺人鬼として――。