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第四話 古巣

 岳隠支部の外観は二階建ての大きな家である。敷地面積は大きな道の駅と遜色ない。
 天々館と同じ瓦屋根が雪に埋もれていた。
 優里菜と別れた広輝は、岳隠支部へと足を踏み入れる。
 およそ十ヶ月ぶりの天宿てん。懐かしい空気、蘇る思い出、安心する匂い。全てが広輝の心をきゅうっと締め付ける。
 岳隠支部に侍女は居ない。入り口の内線用の電話で事務室に電話を掛けるシステムだ。
 広輝は色とりどりのたくさんの靴が入った下駄箱の端っこに靴を置く。スリッパを履くと電話の横を通り、奥へと歩を進める。なるべく音を立てないように静かに。子どもたちの集中を切らせないように。静かな廊下に、教鞭をとる男性の穏やかな声が落ちる。広輝は自然と頭を下げていた。
 そしてある部屋の前で立ち止まる。帽子を取り、上着を脱ぐ。
 深呼吸を一つ置いて、木のドアをノックした。
「広輝です」
「入れ」
「失礼します」
 広輝が緊張しながらドアを開けたその部屋は天守室。岳隠支部最高責任者の執務部屋だった。
 窓を背にした天守の立派な机。両脇に二人の男が控えている。
「ご無沙汰しています」
「全くだ。盆と正月くらい顔を出しに来ても良いだろうに。実家にも帰ってないらしいじゃないか」
 天守の左手に居る男が苦言を呈した。
 彼は宮永みやなが鷹之たかゆき。星月二刀流剣術師範であり、天守の補佐として岳隠を支えている。髪をオールバックに整え、黒いスーツに身を包む。指の先まできっちりと襟を正していた。
「そう責めるな、タカ。よく帰ってきた。広輝」
 広輝が帰って来づらい事情は誰もが承知している。椅子に座る和装の天守が苦言の多い鷹之を抑えて、広輝を歓迎した。
 岳隠の天守、星永ほしなが泰平たいへい。星月流剣術の総師範を務め、月永大悟と並び国内外に影響力を持つ御仁である。
「慧輔けいすけたちには会いに行くのか」
「今朝行ってきました。明日は誰かに会いそうでしたので」
「そうか」
 彼らの命日は明日の一月二十三日。広輝は墓前での啀いがみ合いを避ける為に前日を、更に念を押して明朝を選んでいた。
 微妙な間が生まれそうなところに、鷹之の反対側に控えるスキンヘッドの男性が、香桜同様に天々館で広まった誤解で広輝をいじり始める。
「それにしても月永の孫娘と射止めてくるなんて、手が早いな」
「違います。一緒の部屋なのは円さんのせいです。僕はきちんと二部屋お願いしました」
 スキンヘッドの男性に被せるように広輝は即座に否定する。万一にも鳴上に、月永に伝わると面倒である。
 法衣のような和服に身を包むスキンヘッドの男性は永嶺ながみね鷲一しゅういちと言い、こちらは星月一刀流剣術師範。天守不在の際は天守の代理として岳隠を纏めている。
 目を開けているのかわからないほどの細目ながら、ガタイはオリバー・エクスフォードを一回り小さくした感じでがっしりしている。
 広輝の師の師と言っても良い人物である。ちなみに法曽ではない。
 三人は広輝の言い訳を聞くと、円の顔を思い浮かべ、そして妙に納得した。
「円あいつならやりかねないな」
「そうですね。サプライズ好きですし」
「そのサプライズがずれてしまうから残念なんだがな」
 泰平が頷き、鷲一が同意し、鷹之が小さな溜め息をついた。
 その後は他愛もない雑談をし始めたが、やはり話題は立ち戻る。
 この天宿を後にしてから一回も近づこうとしていなかった広輝が命日を前にして戻ってきた。命日ということは事件が起こった日を示す。
「理由は色々あるのだろうが、帰ってきたということは話す・・気になったのか」
「......そのつもりで来ました。けど、正直なところ、まだ覚悟が決まりません。千花ちかにもまだ会っていませんし」
「そうか」
 広輝は覚悟してここにいるが、震えを覚えるくらい怖さが顕在していた。話さなくて済めばいいともどこかで思ってもいる。その方が今の関係のままでいられるから。
「千花は、千花たちは相変わらずですか?」
「そうだな。概ね変わりない。変わらず、お前を憎んでいる」
「そうですか......そうですよね」
 泰平の口ぶりから香桜のように広輝への態度を改めた者が極少数ながらいるようだった。
 それを喜んで良いのか、嬉しくも思ってはいけないのか、広輝には判断できなかった。
 泰平が静かに後悔の念を口にする。
「広輝。儂はな、お前に恨まれて当然だと思っている。お前の十字架も儂が負うものだったとも。だから」
「いえ。いいえ、天守。僕は天守の判断を間違いだと思っていませんし、僕はそれを負うと決めたんです」
 広輝が暴走した折、天守が下した指令は「広輝を殺してでも止めること」。泰平とて子供を殺すこと、殺させることに抵抗がなかった訳ではない。苦渋の決断だったのだ。それでも天守は下した。広輝が誰かを、一般人を殺す前に、と。
 だから「殺せ」と命じた天守泰平は生き残った広輝に恨まれるのも憎まれるのも覚悟していた。それが役目だとも。けれど当時も今も広輝は受け止めるだけである。それが当然の判断だったかのように。
「記憶も有る、感触も残っている。ただただ泣いてばかりで抗わなかった僕が悪いのです」
 天守が寂しそうな顔をしても、広輝の自責は止まらないし、認識も変わらない。堕天子であろうとする。それが正解だと疑わない。
 鷹之と鷲一は天守の両側で口を閉ざしたまま。天守と広輝を肯定も否定もしなかった。
 天守が広輝を諭そうと言葉を重ねようとした時、子どもたちの元気な声が廊下から聞こえてきた。
 その声が会談の終わりの合図となり、広輝は天守の部屋を後にするのだった。



「コウ兄だ!」
「ホントだ」
「おかえりー!」
 広輝の元に低学年の小学生たちが先立って駆け寄ってくる。
 堕天子の事実はごく少数の関係者しか語られていない。それが広輝と岳隠の決断である。あまりに衝撃的な内容なので、子どもたちへの影響を鑑みての判断だった。
 しかしながら中学生ともなると異様な空気と変わってしまった人間関係を疑問に思い、聡い者は察し、知りたがりは拙いながらも探りを入れて確信を得ていた。
 そういった経緯があり、思春期以上の者は大なり小なり広輝への接し方が変わったが、それ以下の子どもは変わらず広輝を兄と言って慕う。一時期顔を見せなくなった前と後で広輝の性格も人相も変わってしまい、戸惑う時間もあったが、彼からの優しさは変わらなかった。それ故、子どもたちはすぐに前と同じように広輝と接するようになった。
 久しぶりに会う弟・妹分たちに広輝の表情も和らぐ。かつて広輝もこの子どもたちの一人だった。彼らが兄・姉貴分を慕う気持ちはよく分かる。真に事情を理解するまでは、どこまでも「お兄ちゃん」なのである。
 広輝の腕を引っ張り始めた子供たち、その手首には色とりどりのミサンガが巻かれていた。
 「いつ帰ってきたの?」「ひさしぶり」「あそぼう!」「恋人出来たって本当?」
 無邪気な声の中にあるいらぬ誤解。広輝の和らいだ表情が固まった。それは広まってはならない誤解。広輝は遊ぶよりも前に誤解を解こうと床に膝を付けた。

 ぎゅ。

 背中から抱き締められた。見覚えのある白く小さな手が腰に見えた。
 広輝がゆっくりと振り返ると、薄い金色の髪の少女が嬉しそうに笑みを浮かべている。
「久しぶり、愛紗」
 柔らかい髪を撫でると愛紗は頬を少し赤らめ、こそばゆそうに表情を崩す。
 そして肩から斜めに掛けたスケッチブックの言葉を黒いペンで書き始めた。
 スケッチブックに付けられた肩紐は鳴上を離れる時には無かったものだ。世話好きな岳隠の誰かが付けてくれたものだろう。
 書き終えると丁寧な言葉を広輝に見せた。それはもう一人の姉兄きょうだいを尋ねるものだった
「(おねえちゃんは?)」
「円さんにしごかれてる。お昼食べた後に会える」
 広輝は優里菜の剣術の指導を円に直接依頼していた。それと云うのも優里菜の双剣術が初伝レベルに達したことで、広輝が教えられることが少なくなったのと、広輝が一番声を掛けやすい双剣の使い手が円だった。一抹の不安といえば、円の指導は広輝の指導よりもハードなはず。いつかこの日の為も含めて、優里菜にはきついだろうメニューを課していたが、果たして今頃どうなっていることか。
 そんな事を思っていると、愛紗とのやりとりを見ていた男の子がハッとした様子で、何かを完璧に理解した風にあらぬ誤解を叫ぶ。
「恋人ってアイちゃんのことだったのかー!」

 ・ ・ ・ 。

「えー!?」
「そうなの!? アイちゃん!」
 廊下が騒然とし、高学年の女の子たちが弟・妹たちを掻き分けて愛紗に詰め寄る。
 愛紗は慌てて両手と首をぶんぶんと振るがそれで納得してくれはしなかった。
 このままでは誤解に誤解が上書きされる。それでは広輝だけでは手が負えなくなるので、今度こそ誤解を解こうと息を吸い込むが、無視できない人から声をかけられてしまった。
「おやおや、懐かしい人がいますね」
 広輝はぐっと説得を堪え、そのふくよかな男性に立ち上がって頭を下げた。
「お久しぶりです、葦北あしきた先生」
「ええ。お久しぶりです。何はともあれ、元気そうで何より」
 頭を丸刈りにし、性格も姿もまるっとしたこの人物は、定期的に岳隠を訪れて[異能]についての講義を行っている陰陽師である。岳隠が面倒を見ている子供は、天力で劣る者が多い。その為、代わりに[知]という力を養えるように天守が陰陽師へ講義を依頼していた。元々陰陽師は悪霊祓いを行う法曽向けに講義などを行っている。京都で行うこともあれば、葦北のように足を運んで行うこともあった。そこに天子が星永当主が目をつけたのである。故に、広輝が持つ天会の知識や魔術への見聞も、だいたいがこの人からの教えだった。
「せっかくです。講義を受けていきますか?」「ねえね、どういう事なの?」
「すみません。用事があるので」  「カモフラージュ?」
「それは残念です。お墓参りですか?」「お兄ちゃんみたいな人じゃなかったの?」
「いえ。それは今朝行ってきましたので、別件です」「コウ兄がロリコン?」
「そうですか」  「アイちゃん詳しく」
 広輝と葦北は何とか会話を成立させているが、子どもたちの声で非常に聞き取りにくい。広輝は声の通り道を風を使って作り、葦北は読唇術で聞こえないところをカバーしているのだった。
 [広輝の恋人が愛紗]というトンデモ説に沸く子どもたち。愛紗の言葉が追いついておらず、一向に消火される気配はなかった。
 広輝は困った顔で下の様子をちらちら伺う。ここで鎮火しないと誤解に尾ひれがついて色んな人から白い目で見られそうだった。
 葦北も今のままでは落ち着いて広輝と話もできず、この後の講義にも影響しそうだったので、手のひらを広輝に見せるように右手で説明を促した。その際、葦北にしてはカラフルなミサンガがちらりと見えた。いつもの広輝だったらそのミサンガについて聞いていたかもしれないが、今はそれどころではなかった。
 愛紗と一緒になって子どもたちを説得すること五分。広輝の恋人が愛紗ではないことは理解してもらえたが、「じゃあ噂の恋人はだれ?」という話になったところでタイムリミット。
 葦北の掛け声でみんな教室へと戻ってしまった。もちろん愛紗もである。 
 どうやって子どもたちの誤解を解くか思案し始めるのと同時に、円に一言言わなければ気がすまなくなり始めていた。
 大人の誤解は、説明すれば理解してもらえる可能性があるからまだ許容できた。しかし子どもたちまで広まっているとなると、誤解を解いた後でも冗談で言うかもしれない誤解が噂レベルでどこまでも浸透していく。回りに回って月永まで届くかもしれない。『堕天子の恋人は月永』だと。
 青筋を立てた隆平と隆也の顔が浮かび、背筋に冷たいものが走る広輝だった。
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深緑のシルフィード作者:U
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第四話 古巣

 岳隠支部の外観は二階建ての大きな家である。敷地面積は大きな道の駅と遜色ない。
 天々館と同じ瓦屋根が雪に埋もれていた。
 優里菜と別れた広輝は、岳隠支部へと足を踏み入れる。
 およそ十ヶ月ぶりの天宿てん。懐かしい空気、蘇る思い出、安心する匂い。全てが広輝の心をきゅうっと締め付ける。
 岳隠支部に侍女は居ない。入り口の内線用の電話で事務室に電話を掛けるシステムだ。
 広輝は色とりどりのたくさんの靴が入った下駄箱の端っこに靴を置く。スリッパを履くと電話の横を通り、奥へと歩を進める。なるべく音を立てないように静かに。子どもたちの集中を切らせないように。静かな廊下に、教鞭をとる男性の穏やかな声が落ちる。広輝は自然と頭を下げていた。
 そしてある部屋の前で立ち止まる。帽子を取り、上着を脱ぐ。
 深呼吸を一つ置いて、木のドアをノックした。
「広輝です」
「入れ」
「失礼します」
 広輝が緊張しながらドアを開けたその部屋は天守室。岳隠支部最高責任者の執務部屋だった。
 窓を背にした天守の立派な机。両脇に二人の男が控えている。
「ご無沙汰しています」
「全くだ。盆と正月くらい顔を出しに来ても良いだろうに。実家にも帰ってないらしいじゃないか」
 天守の左手に居る男が苦言を呈した。
 彼は宮永みやなが鷹之たかゆき。星月二刀流剣術師範であり、天守の補佐として岳隠を支えている。髪をオールバックに整え、黒いスーツに身を包む。指の先まできっちりと襟を正していた。
「そう責めるな、タカ。よく帰ってきた。広輝」
 広輝が帰って来づらい事情は誰もが承知している。椅子に座る和装の天守が苦言の多い鷹之を抑えて、広輝を歓迎した。
 岳隠の天守、星永ほしなが泰平たいへい。星月流剣術の総師範を務め、月永大悟と並び国内外に影響力を持つ御仁である。
「慧輔けいすけたちには会いに行くのか」
「今朝行ってきました。明日は誰かに会いそうでしたので」
「そうか」
 彼らの命日は明日の一月二十三日。広輝は墓前での啀いがみ合いを避ける為に前日を、更に念を押して明朝を選んでいた。
 微妙な間が生まれそうなところに、鷹之の反対側に控えるスキンヘッドの男性が、香桜同様に天々館で広まった誤解で広輝をいじり始める。
「それにしても月永の孫娘と射止めてくるなんて、手が早いな」
「違います。一緒の部屋なのは円さんのせいです。僕はきちんと二部屋お願いしました」
 スキンヘッドの男性に被せるように広輝は即座に否定する。万一にも鳴上に、月永に伝わると面倒である。
 法衣のような和服に身を包むスキンヘッドの男性は永嶺ながみね鷲一しゅういちと言い、こちらは星月一刀流剣術師範。天守不在の際は天守の代理として岳隠を纏めている。
 目を開けているのかわからないほどの細目ながら、ガタイはオリバー・エクスフォードを一回り小さくした感じでがっしりしている。
 広輝の師の師と言っても良い人物である。ちなみに法曽ではない。
 三人は広輝の言い訳を聞くと、円の顔を思い浮かべ、そして妙に納得した。
「円あいつならやりかねないな」
「そうですね。サプライズ好きですし」
「そのサプライズがずれてしまうから残念なんだがな」
 泰平が頷き、鷲一が同意し、鷹之が小さな溜め息をついた。
 その後は他愛もない雑談をし始めたが、やはり話題は立ち戻る。
 この天宿を後にしてから一回も近づこうとしていなかった広輝が命日を前にして戻ってきた。命日ということは事件が起こった日を示す。
「理由は色々あるのだろうが、帰ってきたということは話す・・気になったのか」
「......そのつもりで来ました。けど、正直なところ、まだ覚悟が決まりません。千花ちかにもまだ会っていませんし」
「そうか」
 広輝は覚悟してここにいるが、震えを覚えるくらい怖さが顕在していた。話さなくて済めばいいともどこかで思ってもいる。その方が今の関係のままでいられるから。
「千花は、千花たちは相変わらずですか?」
「そうだな。概ね変わりない。変わらず、お前を憎んでいる」
「そうですか......そうですよね」
 泰平の口ぶりから香桜のように広輝への態度を改めた者が極少数ながらいるようだった。
 それを喜んで良いのか、嬉しくも思ってはいけないのか、広輝には判断できなかった。
 泰平が静かに後悔の念を口にする。
「広輝。儂はな、お前に恨まれて当然だと思っている。お前の十字架も儂が負うものだったとも。だから」
「いえ。いいえ、天守。僕は天守の判断を間違いだと思っていませんし、僕はそれを負うと決めたんです」
 広輝が暴走した折、天守が下した指令は「広輝を殺してでも止めること」。泰平とて子供を殺すこと、殺させることに抵抗がなかった訳ではない。苦渋の決断だったのだ。それでも天守は下した。広輝が誰かを、一般人を殺す前に、と。
 だから「殺せ」と命じた天守泰平は生き残った広輝に恨まれるのも憎まれるのも覚悟していた。それが役目だとも。けれど当時も今も広輝は受け止めるだけである。それが当然の判断だったかのように。
「記憶も有る、感触も残っている。ただただ泣いてばかりで抗わなかった僕が悪いのです」
 天守が寂しそうな顔をしても、広輝の自責は止まらないし、認識も変わらない。堕天子であろうとする。それが正解だと疑わない。
 鷹之と鷲一は天守の両側で口を閉ざしたまま。天守と広輝を肯定も否定もしなかった。
 天守が広輝を諭そうと言葉を重ねようとした時、子どもたちの元気な声が廊下から聞こえてきた。
 その声が会談の終わりの合図となり、広輝は天守の部屋を後にするのだった。



「コウ兄だ!」
「ホントだ」
「おかえりー!」
 広輝の元に低学年の小学生たちが先立って駆け寄ってくる。
 堕天子の事実はごく少数の関係者しか語られていない。それが広輝と岳隠の決断である。あまりに衝撃的な内容なので、子どもたちへの影響を鑑みての判断だった。
 しかしながら中学生ともなると異様な空気と変わってしまった人間関係を疑問に思い、聡い者は察し、知りたがりは拙いながらも探りを入れて確信を得ていた。
 そういった経緯があり、思春期以上の者は大なり小なり広輝への接し方が変わったが、それ以下の子どもは変わらず広輝を兄と言って慕う。一時期顔を見せなくなった前と後で広輝の性格も人相も変わってしまい、戸惑う時間もあったが、彼からの優しさは変わらなかった。それ故、子どもたちはすぐに前と同じように広輝と接するようになった。
 久しぶりに会う弟・妹分たちに広輝の表情も和らぐ。かつて広輝もこの子どもたちの一人だった。彼らが兄・姉貴分を慕う気持ちはよく分かる。真に事情を理解するまでは、どこまでも「お兄ちゃん」なのである。
 広輝の腕を引っ張り始めた子供たち、その手首には色とりどりのミサンガが巻かれていた。
 「いつ帰ってきたの?」「ひさしぶり」「あそぼう!」「恋人出来たって本当?」
 無邪気な声の中にあるいらぬ誤解。広輝の和らいだ表情が固まった。それは広まってはならない誤解。広輝は遊ぶよりも前に誤解を解こうと床に膝を付けた。

 ぎゅ。

 背中から抱き締められた。見覚えのある白く小さな手が腰に見えた。
 広輝がゆっくりと振り返ると、薄い金色の髪の少女が嬉しそうに笑みを浮かべている。
「久しぶり、愛紗」
 柔らかい髪を撫でると愛紗は頬を少し赤らめ、こそばゆそうに表情を崩す。
 そして肩から斜めに掛けたスケッチブックの言葉を黒いペンで書き始めた。
 スケッチブックに付けられた肩紐は鳴上を離れる時には無かったものだ。世話好きな岳隠の誰かが付けてくれたものだろう。
 書き終えると丁寧な言葉を広輝に見せた。それはもう一人の姉兄きょうだいを尋ねるものだった
「(おねえちゃんは?)」
「円さんにしごかれてる。お昼食べた後に会える」
 広輝は優里菜の剣術の指導を円に直接依頼していた。それと云うのも優里菜の双剣術が初伝レベルに達したことで、広輝が教えられることが少なくなったのと、広輝が一番声を掛けやすい双剣の使い手が円だった。一抹の不安といえば、円の指導は広輝の指導よりもハードなはず。いつかこの日の為も含めて、優里菜にはきついだろうメニューを課していたが、果たして今頃どうなっていることか。
 そんな事を思っていると、愛紗とのやりとりを見ていた男の子がハッとした様子で、何かを完璧に理解した風にあらぬ誤解を叫ぶ。
「恋人ってアイちゃんのことだったのかー!」

 ・ ・ ・ 。

「えー!?」
「そうなの!? アイちゃん!」
 廊下が騒然とし、高学年の女の子たちが弟・妹たちを掻き分けて愛紗に詰め寄る。
 愛紗は慌てて両手と首をぶんぶんと振るがそれで納得してくれはしなかった。
 このままでは誤解に誤解が上書きされる。それでは広輝だけでは手が負えなくなるので、今度こそ誤解を解こうと息を吸い込むが、無視できない人から声をかけられてしまった。
「おやおや、懐かしい人がいますね」
 広輝はぐっと説得を堪え、そのふくよかな男性に立ち上がって頭を下げた。
「お久しぶりです、葦北あしきた先生」
「ええ。お久しぶりです。何はともあれ、元気そうで何より」
 頭を丸刈りにし、性格も姿もまるっとしたこの人物は、定期的に岳隠を訪れて[異能]についての講義を行っている陰陽師である。岳隠が面倒を見ている子供は、天力で劣る者が多い。その為、代わりに[知]という力を養えるように天守が陰陽師へ講義を依頼していた。元々陰陽師は悪霊祓いを行う法曽向けに講義などを行っている。京都で行うこともあれば、葦北のように足を運んで行うこともあった。そこに天子が星永当主が目をつけたのである。故に、広輝が持つ天会の知識や魔術への見聞も、だいたいがこの人からの教えだった。
「せっかくです。講義を受けていきますか?」「ねえね、どういう事なの?」
「すみません。用事があるので」  「カモフラージュ?」
「それは残念です。お墓参りですか?」「お兄ちゃんみたいな人じゃなかったの?」
「いえ。それは今朝行ってきましたので、別件です」「コウ兄がロリコン?」
「そうですか」  「アイちゃん詳しく」
 広輝と葦北は何とか会話を成立させているが、子どもたちの声で非常に聞き取りにくい。広輝は声の通り道を風を使って作り、葦北は読唇術で聞こえないところをカバーしているのだった。
 [広輝の恋人が愛紗]というトンデモ説に沸く子どもたち。愛紗の言葉が追いついておらず、一向に消火される気配はなかった。
 広輝は困った顔で下の様子をちらちら伺う。ここで鎮火しないと誤解に尾ひれがついて色んな人から白い目で見られそうだった。
 葦北も今のままでは落ち着いて広輝と話もできず、この後の講義にも影響しそうだったので、手のひらを広輝に見せるように右手で説明を促した。その際、葦北にしてはカラフルなミサンガがちらりと見えた。いつもの広輝だったらそのミサンガについて聞いていたかもしれないが、今はそれどころではなかった。
 愛紗と一緒になって子どもたちを説得すること五分。広輝の恋人が愛紗ではないことは理解してもらえたが、「じゃあ噂の恋人はだれ?」という話になったところでタイムリミット。
 葦北の掛け声でみんな教室へと戻ってしまった。もちろん愛紗もである。 
 どうやって子どもたちの誤解を解くか思案し始めるのと同時に、円に一言言わなければ気がすまなくなり始めていた。
 大人の誤解は、説明すれば理解してもらえる可能性があるからまだ許容できた。しかし子どもたちまで広まっているとなると、誤解を解いた後でも冗談で言うかもしれない誤解が噂レベルでどこまでも浸透していく。回りに回って月永まで届くかもしれない。『堕天子の恋人は月永』だと。
 青筋を立てた隆平と隆也の顔が浮かび、背筋に冷たいものが走る広輝だった。
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