#1.プロローグ:未来から過去へ、過去から未来へ
「大丈夫。ウルフがいるから」
「大丈夫。ウルフがいるから」
少しだけ不安そうなルーシーにアーサーが優しく笑いかけると、彼女はハッと目を瞬かせた。
「お前はいつも、それを当たり前みたいに言うな」
それを聞いたウルフは呆れたように言ったが、アーサーの信頼を拒みはしなかった。
***
三人はカンタベリー巡礼のため、ロンドン方面へ向かって旅をしていた。
けれど、テムズ川にかかるメイデンヘッド橋へ着いて、三人は目の前の光景に顔を見合わせた。
古い木橋の前には、長い列ができていた。荷車は一台ずつ、橋を壊さないようにゆっくりと進んでいる。馬の鼻先は前の荷台に届きそうで、行商人も巡礼者も、諦めたように足を止めていた。
ウルフは橋の上と列の先を見比べ、低く息を吐いた。
「今日はもう昼をとっくに過ぎている。この調子では、今日中に向こうへ渡れても、宿場に入る頃には日が落ちているだろう」
「そうなると、日のあるうちに宿を取るのは厳しいかもね」
アーサーも同じように橋を眺めては、うーんと唸って腕組してから、思いついたように提案する。
「じゃあ、今日はこの手前で野営にしよう。朝早くから並べば、明るいうちに向こうへ行けるよ」
「野宿、するの......?」
まだ旅慣れないルーシーは、森の闇夜を思い出して、少しだけ声を落とした。
アーサーはウルフの背について行く足を止めると、振り返って優しく笑いかける。
「さっきも言っただろ。ウルフがいるから大丈夫だよ」
「だから、俺を理由にするな」
ウルフは肩越しにそう返した。
「取り敢えず、俺は野営場所を整えておく。お前たちは薪と、食えそうなものでも探してこい。あまり遠くへ行くなよ」
「分かってるよ」
アーサーが明るく答えると、ウルフはもう一度橋の方を見やり、それから街道を外れて川辺の方へ歩いていった。
日が傾き始めた頃、アーサーとルーシーが野営地へ戻ると、焚火の支度だけはすでに整っていた。乾いた枝が組まれ、鍋をかける場所も作られている。
けれど、そこにウルフの姿はなかった。
「あれ。居ない......ねえルーシー。火を見ていてくれる?」
アーサーは集めてきた薪を下ろしながら言った。
「どこ行くの、アーサー?」
「僕、ウルフを探してくる。そんな遠くにはいないと思うんだけど......」
「わかった。私はご飯作ってるから気を付けて行ってきてね」
「うん、ありがとう」
ルーシーの声を背に、アーサーは川の音を頼りに木立の奥へ入った。
橋や街道のざわめきは、少し離れるだけで薄れていく。葦の葉が風に擦れ、湿った土の匂いが足元から立ちのぼった。
やがて、水を叩く音が聞こえた。
アーサーが草を分けて覗き込むと、浅瀬に白い背中があった。
ウルフは腰に布を巻いただけの姿で川に入り、両手で水面を探っていた。濡れた白髪が肩に貼りつき、日に焼けにくい肌の上には、古い傷の跡がいくつも淡く浮かんでいる。
夕焼けの色を受けてなお、白く輝く美しい体に、アーサーは思わず見とれてしまい、暫しその場に立ち尽くしてしまう。だが間もなく、自分がウルフを探しに来たことを思い出し、彼に声を掛けた。
「ウルフ、魚、獲ってるの? 水、冷たくない?」
アーサーが声をかけると、ウルフは振り返りもせずに言った。
「夕飯、羊の餌みたいな草と木の実だけでいいのか?」
「それは淋しいな。だったら、僕も魚獲るの手伝おうか?」
「はっ......どうせお前には獲れまい」
「決めつけが早いなあ」
相変わらず子ども扱いのウルフの皮肉にアーサーは肩を竦めると、続けて声が掛かる。
「と言うか、川まで来て泥だらけの足で戻る気か。水が温かいうちに体を洗っておけ」
「そう言えば、そうだね......そうするよ」
アーサーは素直に靴を脱ぎ、裾をたくし上げた。そして身に着けていた濡れて困るものを岸へ置いてしまうと、思い切って上着まで全部脱いでしまった。
ウルフの真似をしてほぼ全裸になったアーサーが、そろそろと川へ足を入れた瞬間、思ったより冷たい水に声が出た。
「冷たっ」
「大げさだ」
膝まで水に浸かって体をビリビリと戦慄かせているアーサーを、ウルフは呆れたように鼻で笑った。
「ウ、ウルフは平気なの?」
「騒ぐほどではない」
そう言いながら、ウルフは素早く手を沈めた。水が跳ね、次の瞬間には銀色の魚が彼の手の中で暴れていた。
魚を掴む、その鮮やかな手さばきにアーサーは思わず笑った。
「すごい。本当に手で獲れるんだ」
「見てないで手を動かせ。コツを掴めばすぐ出来るぞ」
「じゃあ、僕はこっち」
アーサーは水をすくい、ウルフの背中へ軽くかけた。
ウルフがゆっくり振り返る。
「おい。魚を取りに来たんじゃなかったのか?」
「ごめん。ちょっとやってみたくなって」
「子どもか。少し前までお偉い司祭殿をやっていたとは思えないな」
皮肉と共に低い声で睨まれたが、その目は本気で怒ってはいなかった。
アーサーは笑いながら、今度は自分の腕についた泥を洗い落とした。
自分とは違う、ウルフの白い髪。白い肌。傷の残る背中。
初めて見た者なら、そこに恐れを覚えるのかもしれない。村の人々がそうだったように。
けれどアーサーは、彼のその類を見ないほどの肌の白さを不吉なものとして見たことは一度もない。
大きく頼もしい背中が隣にいれば、アーサーは夜の森でも眠れる。
水音の中で背を向けられても、置き去りにされたとは思わない。
それが、少し不思議だった。
「アーサー、ウルフ......」
木立の向こうからルーシーの声がした。
「お鍋、できた......わ!?」
草を分けて現れたルーシーは、浅瀬の二人を見た途端、言葉を詰まらせた。頬が見る間に赤くなる。
「ちょっと、裸じゃない! 早く川から出ないと体冷やしちゃうわ!」
「すぐ戻るよ」
アーサーが平然と答える横で、ウルフは獲った魚を片手に岸へ上がった。
「何を慌てている。飯にするぞ」
「う、うん」
濡れた腰布や肌を気にする様子もなく岸へ上がる二人の姿に、ルーシーは目を伏せたまま頷いた。
野営地へ戻ると、焚火は赤く育っていた。
魚が串に刺され、火のそばでゆっくりと焼けていく。川の匂いと煙の匂いが混ざり、夕闇の中でウルフの白い髪だけが淡く浮かんで見えた。
アーサーは自分の濡れた髪を拭きながら、その横顔を眺めた。
この旅が始まる前、自分たちはまだ、こんなふうに同じ火を囲んではいなかった。
彼の白い姿に誰もが怯えていたし、まるで歩く厄災のように噂をし、アーサーも近づくことを許されなかった。
それでも、あの嵐の夜、アーサーは運命的にウルフと出会ったのだ。
雨から逃れようと教会のひさしの下でずぶ濡れで蹲っていた、ウルフという、一人の流浪人に──。