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5話

 店を去った後、ヴィンセントは自宅であるアパートフラットに帰宅するため、教会地区の住宅街へと向かっていた。
 教会へと続く道を真っ直ぐ進み、途中の狭い路地へ入る。よく通る近道だ。
 路地を抜けた先に、白とも灰ともつかない、うすぼんやりした印象の建物が姿を現した。他所の住人からすれば、一見幽霊屋敷のようにも見えるだろう。当然幽霊など一度も出たことはないので、ただそう見えるだけだ。
 共同玄関を開けて中に入る。外からの印象に比べて、中は小綺麗で清掃が行き届いている。ここが家賃に比べて居心地が良いのは、偏に管理人のお陰だろう。有り難いことだ。
 ......不思議なことに、ヴィンセントはその姿を一度も見かけたことはないのだが。
 ロンドンの家賃は高い。中心部に近づくほど価格は上がる。故にロンドンでは、一つの部屋を複数人で共有していることが殆どだ。ヴィンセントも例に漏れず、同僚二名と寝食を共にしている。
 階段を昇り部屋の前に辿り着く。
 ――一瞬また、あ・の・奇妙な気配がした。
「......?」
 咄嗟に廊下を振り向く。
 誰もいない。
 住人らしき人影も、何も無い。
 ......このフラットは部屋にいる時はともかく、共用部では時折何かに見られているような心地がするのだ。
 まさか本当に幽霊が出る......なんてこともない。住み始めてから数年経つが、昔ここで人が亡くなったとか、そんな話も聞いたことがない。
 そもそも父が持ってきた物件だ。きな臭い噂の一つでもあれば、そんなものをあてがうとは思えない。
 ......気にしていても仕方がない。それよりも今は、早く自室に戻ってゆっくりしたかった。
「ただいまー......」
「お、帰ってきた」
 ドアを開けて中へ入ると、一人の男が出迎えた。
 くせ毛のプラチナブロンドに、黒の色付き眼鏡をかけた小柄な青年、ルーファスだ。小柄といえば、Purgatoriumプルガトリウムの店主も彼と同じくらいの背丈だったように思う。
「ごめん。遅くなった」
 何でもないように振る舞う。一晩空いているので、遅くなったどころではないのだが。
「ほんとに遅ぇよ。お前にしちゃあな」
 黒髪のやや粗暴な青年、レスターがすかさず突っ込みを入れてくる。
「お前が変なことするとな、俺らが何か吹き込んだじゃねえかって隊長に疑われんだよ」
「あー......」
 言われて、思わず苦笑する。
 父はああ見えて、息子である自分に対しては何かと心配性なところがある。ある時それを司教にこぼした際、「親は子供が大人になっても気にかかってしまうものだよ」と諭されたことを思い出した。
「あと、お前が居なくなったら飯に困るんだよ」
「ああ、そう......」
 他愛もないやり取りに、心が落ち着く。
 一度死にかけた身だ。変わらないものがあることに、酷く安堵する。

 ヴィンセントは着ていたコートを放り投げ制服を脱ぐと、カジュアルな部屋着へと着替えた。
 改めて、自分の腹部を確認する。
 傷跡の無い、綺麗な身体。
 聖統教会擁する救護院でも、一晩でここまでの治療は不可能だ。これも魔術の成せる業、ということなのだろうか。
 自分の身体を見つめているのも不自然なので、さっさと腹をしまい、ソファへ身を投げる。漸く安全地帯へ戻れたせいか、どっと肩の力が抜けた。
「明日は『会議』やるらしいから、今日はさっさと寝るぞ」
 二人にルーファスが呼びかける。
 「会議」ということは、今日の調査で情報がまとまったのだろう。流石というべきか、仕事が早い。
「明日から何やらされんだろうなあ」
 頭を搔きながらレスターがぼやく。
 ヴィンセントは内容について検討がついているのだが、黙っておいた。何にせよ、明日には分かることだ。
 
 自室のベッドに身体を預けた瞬間、疲労で瞼が重くなる。
 その瞼の裏に、イルマの姿が朧気に浮かんだ。
 イルマはとうに、あの館に戻っているだろう。あの誰も寄り付かない場所に。
 彼女はずっと、あんな風に暮らしてきたのだろうか。
 そう考えると、胸がつまった。
 ヴィンセントにはそれが、とても寂しいことのように思えたからだ。たとえ彼女自身が、そう感じていないとしても。
 そんなことを考えながら、ヴィンセントは眠りについた。

 ◇

 家の中が、異様に静かだ。
 父と母は、今日は会食があるとかで留守にしている。
 ふと妹の様子が気になって、部屋の前に立つ。すると微かな声が、ドア越しから聞こえてきた。
「うん、......はびっくりしたね。それで、どうするの......。うん......わかった......うーん、でも......」
 ジュリエッタの声だ。彼女の自室から発せられているのだから、何も可笑しなことではない。
 しかし、部屋にいるのは妹一人の筈だ。だと言うのに、誰かと会話をしているような素振りをしている。
 だが予想はつく。例の「星さん」と会話でもしているのだろう。
「......うん、うん。......じゃあ、そうしよう......」
 足音がしたかと思うと、ジュリエッタが部屋から出てきた。いつも通り、右手に人形を嵌めて。
「あ、お兄ちゃん......」
 こちらはまだ何も言っていないのに、妹はばつの悪そうな顔をした。
「......お前、何するつもりだ?」
 嫌な予感、とでも言うだろうか。
 ここで彼女を引き留めておかないと、何か良・く・な・い・ことが起こる。そんな予感がしたのだ。
「お兄ちゃんは、私のこと好き?」
 妹は唐突に、そんなことを聞いてきた。
 まずは質問に答えろ、と叱りたかったが、アンドレイはその言葉を飲み込んだ。
 ジュリエッタの問いが、兄である自分に縋っているように感じたからだ。
「お前、家族のことは好きとか嫌いとか、そういうのじゃないだろ」
 声が震える。
 何故だかアンドレイは悲しくなって、唇を強く噛んだ。
「お兄ちゃん」
 ジュリエッタは同じように、泣きそうな顔で兄を見つめている。
「好きなら、私のこと全部許してよ」

 ――瞬間、頭上の電球が白く弾けた。
 予想だにしなかった出来事に、反射的にうずくまる。
 電球の破片が辺りに飛び散っているが、身体に痛みはない。幸い怪我はしなかったようだ。
「ジュリエッタ......!?」
 妹に呼びかける。
 しかし、返事はない。
 嫌な汗が出る。明かりが無くなったことで、視界が闇に染まる。
 生憎、懐中電灯の場所は失念してしまっている。広い家の中を探し回るのは諦めて、一旦外へ出ようとドアノブに手をかける。
 そこで、アンドレイは気が付いた。
 ――玄関が、開いている。
 鍵はアンドレイが帰って来た際、しっかりと閉めた筈だ。日頃の習慣なのだから、忘れるとは思えない。
 だとすれば。
 今さっき、ジュリエッタが開けて出て行ったとしか考えられない。
 現在の時刻は深夜手前。当前、外はとうに陽が落ちて真っ暗だ。
 妹は一体全体、こんな時間に何処へ向かうというのだろうか。
 もう何もかも、訳が分からない。
 こればかりは、自分の力だけではどうもできないと悟った。
 けれど、ジュリエッタのことをこのまま放っておくわけにもいかない。
 しかし両親は不在だ。一体誰に助けを求めれば――。
 
 そこでアンドレイはふと、電話越しでのロナルドの言葉を思い出した。昼に見かけた黒衣の集団も。
 そして殆ど無意識に、何かの天啓に導かれるように、闇の中を走りだした。
 
 ロンドンには教会がいくつもある。小さな教会から大聖堂まで様々だ。
 それでもこうして、聖統教会の門を叩いたのは、今日ここの信徒たちに出会ったからだろうか。
「おや、こんな夜更けにどうしたのかな」
 一人の男性が出迎えた。服装を見るに、この大聖堂を統括する司教だろう。
 搾り出すような声で、アンドレイは司教に請うた。
「悪魔が......」
 司教は黙って、続く言葉を待つ。
「......俺は正直、あんたらが普段何やってる人なのか、よくわかんないんですよ。神様だとか天使や悪魔だとかも、本当にいるのかよく分からないし。......俺は信心深いわけじゃない。でも殆どの人間なんて、そんなモンだと思ってます」
 助けを請うべき言葉は、いつの間にか皮肉へ変わっていた。
「......悪魔と言っていたね。じゃあ君は、悪魔を信じていないのかな」
「......分かりません」
「でも今の君は、悪魔の存在に怯えているようにしか思えないけれど」
 アンドレイは、言われて漸く気が付いた。
 ロナルドが言っていた、「悪魔憑き」という言葉。それを聞いた時、自分でも半ば確信していたのだと思う。いや、信・じ・て・しまった。
 だから自分は、恐怖してしまった。
 妹が、悪魔が、怖かったのだ。
「悪魔に対する恐怖は信仰心に比例する、とされていてね。だからこそ我々は、悪魔に対抗する強い心を持たなければならない。月並みな表現だけれどね」
 そうだ。
 ジュリエッタに必要だったのは、セラピーや説教ではなく、彼女を受け止める愛情と心の強さだった。
 家を出る前。ジュリエッタはあの時、きっと兄に救いを求めていた。しかし、自分はその手をすぐに取らなかった。
 彼女があんなことになってしまったからこそ、兄である自分が強くならなければいけない。物理的な意味ではなく、精神的に。
 きっとそれだけが、自分に出来る唯一の方法。妹を救う手段だ。
「君が願い出るのなら、こちらも相応の対応を考えるけど、どうする?」
「......いいえ、大丈夫です。こんな時間にすみませんでした。多分、ちょっと、気が動転してたんだと思います」
 平常心を取り戻したアンドレイが踵を返す。
「もうすっかり夜だ。誰か一緒に同行させようか?」
「大丈夫です。自分のことは、自分で何とか出来ます」
 アンドレイはそう力強く返すと、一人暗い夜道を引き返していった。
 ジュリエッタの悲痛な表情を思い浮かべる。
 ――もう二度と、あんな顔はさせない。

 ◇
 
「......目の前で助けを求めてる人間を突き放すのは、いつだって胸が痛むね」
 司教は奥に控えていた神父へ、ひっそりと呟いた。
「司教殿が気に病むことはありません。本日とこれまでの調査で、事態については把握できました。明日にでも対処してもらいます」
「ありがとう。......あーあ。こういう時ドゥランテ神父だったら、もっと含蓄のあることを言えたんだろうなあ」
 司教が肩をすくめて嘆息する。
 神父は彼の言葉にぴくり、と反応した。司教はそれを察知したのか、ちらりと神父を見やりながら言葉を続ける。
「......ドゥランテ神父と言えば、ヴァチカンで彼と交流中の隊長殿は、来週には戻ってくるそうだよ」
「......!」
「あ、因みにドゥランテ神父は別件でアメリカに行くらしいから、イギリスこっちには来ないよ?」
「......」
「そんな露骨に落ち込むことある?」
 聖職者二人は最後に他愛もない話をしながら、聖堂の奥へと消えていった。
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Hellish Heaven作者:紫咲雪花
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 店を去った後、ヴィンセントは自宅であるアパートフラットに帰宅するため、教会地区の住宅街へと向かっていた。
 教会へと続く道を真っ直ぐ進み、途中の狭い路地へ入る。よく通る近道だ。
 路地を抜けた先に、白とも灰ともつかない、うすぼんやりした印象の建物が姿を現した。他所の住人からすれば、一見幽霊屋敷のようにも見えるだろう。当然幽霊など一度も出たことはないので、ただそう見えるだけだ。
 共同玄関を開けて中に入る。外からの印象に比べて、中は小綺麗で清掃が行き届いている。ここが家賃に比べて居心地が良いのは、偏に管理人のお陰だろう。有り難いことだ。
 ......不思議なことに、ヴィンセントはその姿を一度も見かけたことはないのだが。
 ロンドンの家賃は高い。中心部に近づくほど価格は上がる。故にロンドンでは、一つの部屋を複数人で共有していることが殆どだ。ヴィンセントも例に漏れず、同僚二名と寝食を共にしている。
 階段を昇り部屋の前に辿り着く。
 ――一瞬また、あ・の・奇妙な気配がした。
「......?」
 咄嗟に廊下を振り向く。
 誰もいない。
 住人らしき人影も、何も無い。
 ......このフラットは部屋にいる時はともかく、共用部では時折何かに見られているような心地がするのだ。
 まさか本当に幽霊が出る......なんてこともない。住み始めてから数年経つが、昔ここで人が亡くなったとか、そんな話も聞いたことがない。
 そもそも父が持ってきた物件だ。きな臭い噂の一つでもあれば、そんなものをあてがうとは思えない。
 ......気にしていても仕方がない。それよりも今は、早く自室に戻ってゆっくりしたかった。
「ただいまー......」
「お、帰ってきた」
 ドアを開けて中へ入ると、一人の男が出迎えた。
 くせ毛のプラチナブロンドに、黒の色付き眼鏡をかけた小柄な青年、ルーファスだ。小柄といえば、Purgatoriumプルガトリウムの店主も彼と同じくらいの背丈だったように思う。
「ごめん。遅くなった」
 何でもないように振る舞う。一晩空いているので、遅くなったどころではないのだが。
「ほんとに遅ぇよ。お前にしちゃあな」
 黒髪のやや粗暴な青年、レスターがすかさず突っ込みを入れてくる。
「お前が変なことするとな、俺らが何か吹き込んだじゃねえかって隊長に疑われんだよ」
「あー......」
 言われて、思わず苦笑する。
 父はああ見えて、息子である自分に対しては何かと心配性なところがある。ある時それを司教にこぼした際、「親は子供が大人になっても気にかかってしまうものだよ」と諭されたことを思い出した。
「あと、お前が居なくなったら飯に困るんだよ」
「ああ、そう......」
 他愛もないやり取りに、心が落ち着く。
 一度死にかけた身だ。変わらないものがあることに、酷く安堵する。

 ヴィンセントは着ていたコートを放り投げ制服を脱ぐと、カジュアルな部屋着へと着替えた。
 改めて、自分の腹部を確認する。
 傷跡の無い、綺麗な身体。
 聖統教会擁する救護院でも、一晩でここまでの治療は不可能だ。これも魔術の成せる業、ということなのだろうか。
 自分の身体を見つめているのも不自然なので、さっさと腹をしまい、ソファへ身を投げる。漸く安全地帯へ戻れたせいか、どっと肩の力が抜けた。
「明日は『会議』やるらしいから、今日はさっさと寝るぞ」
 二人にルーファスが呼びかける。
 「会議」ということは、今日の調査で情報がまとまったのだろう。流石というべきか、仕事が早い。
「明日から何やらされんだろうなあ」
 頭を搔きながらレスターがぼやく。
 ヴィンセントは内容について検討がついているのだが、黙っておいた。何にせよ、明日には分かることだ。
 
 自室のベッドに身体を預けた瞬間、疲労で瞼が重くなる。
 その瞼の裏に、イルマの姿が朧気に浮かんだ。
 イルマはとうに、あの館に戻っているだろう。あの誰も寄り付かない場所に。
 彼女はずっと、あんな風に暮らしてきたのだろうか。
 そう考えると、胸がつまった。
 ヴィンセントにはそれが、とても寂しいことのように思えたからだ。たとえ彼女自身が、そう感じていないとしても。
 そんなことを考えながら、ヴィンセントは眠りについた。

 ◇

 家の中が、異様に静かだ。
 父と母は、今日は会食があるとかで留守にしている。
 ふと妹の様子が気になって、部屋の前に立つ。すると微かな声が、ドア越しから聞こえてきた。
「うん、......はびっくりしたね。それで、どうするの......。うん......わかった......うーん、でも......」
 ジュリエッタの声だ。彼女の自室から発せられているのだから、何も可笑しなことではない。
 しかし、部屋にいるのは妹一人の筈だ。だと言うのに、誰かと会話をしているような素振りをしている。
 だが予想はつく。例の「星さん」と会話でもしているのだろう。
「......うん、うん。......じゃあ、そうしよう......」
 足音がしたかと思うと、ジュリエッタが部屋から出てきた。いつも通り、右手に人形を嵌めて。
「あ、お兄ちゃん......」
 こちらはまだ何も言っていないのに、妹はばつの悪そうな顔をした。
「......お前、何するつもりだ?」
 嫌な予感、とでも言うだろうか。
 ここで彼女を引き留めておかないと、何か良・く・な・い・ことが起こる。そんな予感がしたのだ。
「お兄ちゃんは、私のこと好き?」
 妹は唐突に、そんなことを聞いてきた。
 まずは質問に答えろ、と叱りたかったが、アンドレイはその言葉を飲み込んだ。
 ジュリエッタの問いが、兄である自分に縋っているように感じたからだ。
「お前、家族のことは好きとか嫌いとか、そういうのじゃないだろ」
 声が震える。
 何故だかアンドレイは悲しくなって、唇を強く噛んだ。
「お兄ちゃん」
 ジュリエッタは同じように、泣きそうな顔で兄を見つめている。
「好きなら、私のこと全部許してよ」

 ――瞬間、頭上の電球が白く弾けた。
 予想だにしなかった出来事に、反射的にうずくまる。
 電球の破片が辺りに飛び散っているが、身体に痛みはない。幸い怪我はしなかったようだ。
「ジュリエッタ......!?」
 妹に呼びかける。
 しかし、返事はない。
 嫌な汗が出る。明かりが無くなったことで、視界が闇に染まる。
 生憎、懐中電灯の場所は失念してしまっている。広い家の中を探し回るのは諦めて、一旦外へ出ようとドアノブに手をかける。
 そこで、アンドレイは気が付いた。
 ――玄関が、開いている。
 鍵はアンドレイが帰って来た際、しっかりと閉めた筈だ。日頃の習慣なのだから、忘れるとは思えない。
 だとすれば。
 今さっき、ジュリエッタが開けて出て行ったとしか考えられない。
 現在の時刻は深夜手前。当前、外はとうに陽が落ちて真っ暗だ。
 妹は一体全体、こんな時間に何処へ向かうというのだろうか。
 もう何もかも、訳が分からない。
 こればかりは、自分の力だけではどうもできないと悟った。
 けれど、ジュリエッタのことをこのまま放っておくわけにもいかない。
 しかし両親は不在だ。一体誰に助けを求めれば――。
 
 そこでアンドレイはふと、電話越しでのロナルドの言葉を思い出した。昼に見かけた黒衣の集団も。
 そして殆ど無意識に、何かの天啓に導かれるように、闇の中を走りだした。
 
 ロンドンには教会がいくつもある。小さな教会から大聖堂まで様々だ。
 それでもこうして、聖統教会の門を叩いたのは、今日ここの信徒たちに出会ったからだろうか。
「おや、こんな夜更けにどうしたのかな」
 一人の男性が出迎えた。服装を見るに、この大聖堂を統括する司教だろう。
 搾り出すような声で、アンドレイは司教に請うた。
「悪魔が......」
 司教は黙って、続く言葉を待つ。
「......俺は正直、あんたらが普段何やってる人なのか、よくわかんないんですよ。神様だとか天使や悪魔だとかも、本当にいるのかよく分からないし。......俺は信心深いわけじゃない。でも殆どの人間なんて、そんなモンだと思ってます」
 助けを請うべき言葉は、いつの間にか皮肉へ変わっていた。
「......悪魔と言っていたね。じゃあ君は、悪魔を信じていないのかな」
「......分かりません」
「でも今の君は、悪魔の存在に怯えているようにしか思えないけれど」
 アンドレイは、言われて漸く気が付いた。
 ロナルドが言っていた、「悪魔憑き」という言葉。それを聞いた時、自分でも半ば確信していたのだと思う。いや、信・じ・て・しまった。
 だから自分は、恐怖してしまった。
 妹が、悪魔が、怖かったのだ。
「悪魔に対する恐怖は信仰心に比例する、とされていてね。だからこそ我々は、悪魔に対抗する強い心を持たなければならない。月並みな表現だけれどね」
 そうだ。
 ジュリエッタに必要だったのは、セラピーや説教ではなく、彼女を受け止める愛情と心の強さだった。
 家を出る前。ジュリエッタはあの時、きっと兄に救いを求めていた。しかし、自分はその手をすぐに取らなかった。
 彼女があんなことになってしまったからこそ、兄である自分が強くならなければいけない。物理的な意味ではなく、精神的に。
 きっとそれだけが、自分に出来る唯一の方法。妹を救う手段だ。
「君が願い出るのなら、こちらも相応の対応を考えるけど、どうする?」
「......いいえ、大丈夫です。こんな時間にすみませんでした。多分、ちょっと、気が動転してたんだと思います」
 平常心を取り戻したアンドレイが踵を返す。
「もうすっかり夜だ。誰か一緒に同行させようか?」
「大丈夫です。自分のことは、自分で何とか出来ます」
 アンドレイはそう力強く返すと、一人暗い夜道を引き返していった。
 ジュリエッタの悲痛な表情を思い浮かべる。
 ――もう二度と、あんな顔はさせない。

 ◇
 
「......目の前で助けを求めてる人間を突き放すのは、いつだって胸が痛むね」
 司教は奥に控えていた神父へ、ひっそりと呟いた。
「司教殿が気に病むことはありません。本日とこれまでの調査で、事態については把握できました。明日にでも対処してもらいます」
「ありがとう。......あーあ。こういう時ドゥランテ神父だったら、もっと含蓄のあることを言えたんだろうなあ」
 司教が肩をすくめて嘆息する。
 神父は彼の言葉にぴくり、と反応した。司教はそれを察知したのか、ちらりと神父を見やりながら言葉を続ける。
「......ドゥランテ神父と言えば、ヴァチカンで彼と交流中の隊長殿は、来週には戻ってくるそうだよ」
「......!」
「あ、因みにドゥランテ神父は別件でアメリカに行くらしいから、イギリスこっちには来ないよ?」
「......」
「そんな露骨に落ち込むことある?」
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