「おやすみ、__」
____好きだった。
雨音が静かに車の屋根を叩いていた。曇りきった窓の向こう、流れる景色は
どこまでも灰色で、まるで未来のないふたりの心の中を写しているようだった。
「本当に、よかったのか?」
運転席から聞こえた低く掠れた声に、後部座席に座っていた蓮は目を閉じ、かすかに笑った。
「全部、捨ててきたんだろ。スマホも、金も、身分証も、」
「捨てたんじゃない。置いてきただけだよ。もう、必要ないから」
そう言って、蓮はポケットの封筒を取り出す。中には、“2人分の”余命宣告の診断書、封は開けていない。
けれど内容は知っている。
――余命1ヶ月。
残り、たったの2日。蓮も律も、同じ運命。
身体がじゃない。心が死んだ人間に、社会は何もくれなかった。運転席の律は後ろを見た。
「、、気づいてないと思ってたのか?」
「何が?」
「おまえが、死ぬつもりで誘ったことくらい。ずっとわかってたよ」
「それでも俺は、来たんだ。蓮と、逃げたかったから」
「俺も、疲れたんだよ。仕事も、家族も、全部どうでもいい。蓮さえいればって、思ってる」
律は言葉を吐き捨てるように、だが震える手でハンドルを握りなおした。
その横顔は、泣くのを堪えるように固く、でも確かに優しさを宿していた。
「逃げよう。最期の最後まで、俺といてよ。」
蓮は律の横顔を見つめながら、静かに呟く。
朝焼けが、カーテンの間から部屋を淡く照らしていた。
潮の匂いと、少し湿った風。窓の外には、海があった。
「律、起きてる?」
蓮は、ソファから声をかけた。
律は眠そうな目を擦りながら徐ろに顔を上げた。
「起きた。、ってか、まだ五時」
「でも、空が綺麗だったから、見せたくて」
律は一瞬目を細め、蓮のほうへ目を向けた。
カーテンの間の淡い光が、蓮の顔を照らしている。痩せた頬。青白い肌。
でも、どこか安らぎが宿っていた。
二人は小さな浜辺に出た。遠くで波が静かに寄せては返す音が、聞こえている。
ふたりはふいに、笑った。
沈黙が、まるで優しい言葉のように胸に沁みた。
「、何もしなくて良いなんて、逃げてるみたいだな」
律は海を見ながら、呟く。
「逃げても、生きていればいいんだよ。おまえが笑ってるなら、それが正解。」
蓮は黙って、手を伸ばした。
それを、律は黙って受け取る。指先が触れ合い、そして自然と絡まる。
二人の影が、朝日に伸びて、ひとつになっていた。
「律、今日の夜、星見に行かない?」
「星? どっかあったっけ、」
「この前、商店のおばあちゃんが言ってた。山の方に行くと、すごくよく見えるって。」
律は少し考えてから、頷き、ふたりは笑った。
その笑顔があまりに穏やかで、不安なんてないようだった。蓮は、時折、咳をするように
なっていた。律はそのたび、背中をさすって、何も言わなかった。
「、、今だけでも、ずっとこうしていられたらいいのになぁ、」
その言葉に、律はほんの一瞬だけ目を伏せた。
けれどすぐに、蓮の肩に手を置き、力強く答える。
「今だけじゃないよ。」
律は優しく蓮に寄り添った。
夜の海は、昼よりもずっと静かだった。波の音だけが、心の奥に響いていた。
その日はふたりで市場をまわっていた。
地元の魚を使った料理は、蓮がやけに張り切って作っていた。
「ちょっと、頑張ったんだよ。」
頬を赤く染めて微笑んだ蓮の顔が、元気そうに感じた。
深夜。小さな窓からの星は、数えきれないほど瞬いていた。蓮は布団に横たわりながら、
窓の外を見つめていた。
蓮は目を細めて笑う。その顔は、もう限界が近いことを目が訴えている。
その夜、ふたりは手を繋いで眠った。静かに、静かに、時が過ぎていった。
それが二人にとっての最期だった。