オッサン社員と食堂のおばちゃん
もう少しで上場できる規模まで成長した中堅企業『MCTCテクノロジー』には、全社員が首をかしげる「不条理」が存在した。
三階の奥にある、日当たりのいい個室。
そこには、四六時中エアコンを効かせ、テレビを見たり、新聞を読んだり、時にいびきをかいて昼寝をしているだけの謎のオッサン社員――赤城宗一郎がいた。
社長でもなければ、その親族でもない。それなのに役員クラスの年俸を貰っているという噂だ。
新製品の開発が行き詰まると、社長や技術部長だけが、赤城の個室を訪れることがあった。
数分後には、決まって問題が解決している。
だが、その事実を若い社員たちは知らなかった。
「おい、また赤城のオッサン、テレビ見て笑ってるぞ」
「いいよな、何もしてないのに俺たちの何倍も稼いでさ。上場を前にピリピリしてる時期だってのに、緊張感ゼロかよ」
若い社員たちが不満を漏らす中、今年入社した新人の坂本は、ある日、上長から
「資料室の古いデータの整理」を命じられた。
そこで坂本は、色褪せた一枚の新聞記事と古い技術資料を見つける。
そこにあったのは、現在の世界中の通信インフラの基盤となった、革新的な半導体設計技術の発明に関する記述だった。
『名もなき天才、特許を無償公開』
驚くべきは、その下に載っていた若き日の開発者の写真と名前だ。
「赤城......宗一郎。まさか、ね」
坂本は思わず、廊下で軍手をポケットから出しながら「昼から草むしりでもするかなぁ」と呟き歩いていた赤城に資料を突きつけた。
「赤城さん。この資料室にある発明者の名前......同姓同名ですよね?」
「ん? ああ、世の中、同じ名前なんていくらでもあるからなぁ」
赤城はのらりくらりと躱(かわ)す。
「でも、この写真......」
「よく似た人だ。他人の空似ってやつよ」
「いや、どう見てもあなたです! なんで特許を取らなかったんですか? これ、特許を独占してたら何千億円っていう価値ですよ!?」
すると赤城は、両手に軍手をしっかりはめて、少しだけ真面目な顔をして言った。
「あの頃は、世界がその技術を必要としてた。特許で囲って金儲けしてもいいけどよ、世界中で使ってくれた方が、そいつも本望じゃねぇか」
「でも、何千億円を捨てたんですよ!?」
「捨てちゃいねぇよ。世界中に預けただけだ」
赤城はハハハと笑う。
「俺一人で抱えてても、何億人も使えねぇだろ? 世界中で使ってもらって、世界中で改良してもらって、また次の誰かが、その先を作る。そっちの方が面白ぇじゃねぇか。俺一人が数千億円の金持ちになるより、世界中の会社が百万円ずつ儲かった方が面白い。その方が仕事も増える。飯も食える。子どもも学校へ行ける。発明ってのは、そういうもんだ」
「そんな肩書きがあれば、もっと有名になれるじゃないですか」と食い下がる坂本に、赤城は呆れたように首を振った。
「肩書きなんてもんが付いたら、動きにくくなるだろ。草刈りしてたらニュースになる。花植えてたら取材される。食堂で唐揚げ食ってても写真撮られる。若い連中とバカ話もできなくなる。おばちゃんにも説教されなくなる......そんな人生、おもしれぇか?」
「今の日常に、何の価値があるんです?」
赤城は、坂本の言葉には答えず、「じゃ、タンポポが咲いてるから見てくるわ」とスタスタ歩いて行ってしまった。
一人残された赤城の個室。主(あるじ)のいない部屋のパソコン画面には、世界中から届いた新着メールの通知が信じられない数で点滅していた。
【受信件数:482件】
・MIT(マサチューセッツ工科大学)基調講演依頼・
・国際最先端AI技術関連シンポジウム招聘・
・欧州主要企業CEO会談の申し入れ・
・世界特許史記念式典・主賓出席要請
画面に並んだ重要案件には、いずれも赤城が午前中のうちに送った『申し訳ありません。今回も辞退させていただきます』という素っ気ない定型文の返信が残されていた。
世界中が彼を「先生」と崇め、一目会いたがっている。
だからこそ、その依頼を断り続けるだけで、赤城は午後には疲れ果てて昼寝をしてしまうのだ。
そして数日後、
MCTCテクノロジーの社内食堂は、今日も賑わっていた。
その日、会社には重大な局面が訪れていた。
今後の命運を左右する、世界的な巨大IT企業『タイタン・グループ』との取引商談が行われていたのだ。
食堂へ、タイタン社のCEOをはじめ、隙のないスーツ姿の幹部たちが、社長の案内で入ってきた。
社員たちが「おい、世界的な大富豪だぞ......」と息を呑む。
社長が「こちらが我が社の食堂です」と案内すると、ちょうど社員が「社長、お先どうぞ!」と順番を譲ろうとした。
その時、厨房から鋭い声が飛んだ。
「何言ってんの!」
食堂は、水を打ったように静まり返った。
「ここじゃ、社長も新人も関係ないよ! 注文した順番! ちゃんと並びな!」
全社員が青ざめた。よりによって世界のVIPの前で、食堂のおばちゃんがブチギレたのだ。
しかし、MCTCテクノロジーの社長は慣れた様子で苦笑いし、
「はい、わかりました」と答え、順番を譲ろうとした社員に、「気を使わせて、すまなかった」と詫びを入れた。
それを見た赤城が、トレーを持って笑う。
「相変わらず強ぇな、おばちゃん」
「アンタもつべこべ言わずに並びな!」
「はいはい」
その時だった。
タイタン社のCEOが、列に並ぶ赤城の姿を捉えた。
CEOの目がこれ以上ないほど見開かれ、次の瞬間、彼は周囲のSPを突き動かすようにして赤城へと駆け寄った。
そして、世界有数の巨大企業を動かすその男が、一介の中堅企業の「謎のオッサン」に対し、九十度深く頭を下げたのだ。
「......先生! お久しぶりです! まさか、このような場所でお目にかかれるとは!」
後ろにいたタイタン社の幹部たちも、一斉に最敬礼した。
食堂のおばちゃん以外の全社員が固まった。
口を開けたまま、完全に思考が停止している。
赤城は、困ったように頭を掻いた。
「おぅ、久しぶりだな。大きくなったなぁ、お前の会社も」
「先生の発明がなければ、我が社は存在すらしていません。世界中の経営者が、あなたに感謝しています」
おばちゃんは配膳口からCEOたちを見据えた。
「ちょっと、そこのお偉いさん! 入口でいつまで立ち話してんの! 邪魔だよ! 話なら飯食ってから別の場所でしな!」
「も、もちろんです! 失礼いたしました!」
タイタン社のCEOは恐縮した様子でもう一度頭を下げた。
「先生、商談が終わりましたら、改めてご挨拶させてください」
「おう。仕事が先だ。社長を困らせんなよ」
「もちろんです」
CEOはもう一度深く頭を下げると、幹部たちとともに、商談の続きを行う会議室へ戻っていった。
その異様な光景に、社員たちは生唾を飲み込む。
呆然とそれを見ていた新人の坂本は、
CEOたちとともに食堂を出ようとする自社の社長を、震える声で呼び止めた。
「......社長。あの人、本当に何者なんですか?」
社長はゆっくり振り返り、坂本の目を見て優しく微笑んだ。
「うちの社員だ。......それ以上でも、それ以下でもないよ」
坂本は、社長の言葉を噛みしめながら、ふたたび赤城を見た。
当の赤城はといえば、全く動じる風もなく、おばちゃんから手渡された皿を見て顔をしかめていた。
「アンタ、また唐揚げ? 歳なんだから、野菜も食べなさいよ」
「おばちゃんまで説教かい」
「はい、小鉢のサラダは人参多めね。ブロッコリーも追加!」
「えぇ〜、勘弁してくれよ......」
周りの社員たちが、緊張感に耐えかねてクスクスと笑い出す。
「赤城さん、食堂のおばちゃんには勝てないっすね」
「当たり前だ、勝てるわけねぇだろ」
赤城は味噌汁を受け取りながら、しみじみと笑った。
「嫁さんより先に、このおばちゃんと知り合ってんだからな」
その声が聞こえたのか、配膳口の向こうから声が飛んだ。
「アンタ、聞こえてるよ! 余計なこと言ってないで、さっさと食べなさいよ!」
「へいへい」
世界中が彼を「先生」と呼ぶ。
しかし、この食堂のおばちゃんだけは、昔と変わらず「アンタ」と呼び、野菜を残すなと叱る。
そんな食堂のおばちゃんとの関係が、赤城にはたまらなく心地よかった。
赤城は、一般社員たちと同じテーブルに座って、ふぅふぅと味噌汁をすすった。
「今日の味噌汁も、うまいねぇ」
ただそれだけを、嬉しそうに呟いた。
赤城は、唐揚げを一つ、箸でつまんだ。
口元まで持ち上げたところで、ふと手を止めた。
「俺は、この世界一うまい唐揚げを食って、おばちゃんに怒鳴られて、若い連中が夢を語ってるのを聞く。そんなこの場所が、大好きなんだよ」
赤城は唐揚げを頬張り、いつものように社員たちの輪へ混ざっていった。
今日も中堅企業『MCTCテクノロジー』の食堂には、世界一贅沢で、世界一ありふれた、温かい笑い声が響いていた。
完