なずな
「なずな」
ぼくは振り返った。名前を呼ばれた気がしたからだ。
河原で女の子たちが話している。なずな。どうも草の名前だったらしい。
ぼくはその草を眺めて、ほうと息を吐いた。
――なずな。
そう呼ばれたのは、いつの頃だっただろうか。心地のいい声。ぼくに囁きかけてくれる声。独りぼっちだったぼくを、助けてくれた人の声。
懐かしいと思う。その名前も、響きも。そう思うのに、ぼくが見慣れたはずの、街並みはすっかり、景色を変えてしまっていた。
*
ぼくは歩いた。あてもなく、歩いた。ぼくがいた頃は、もっと田んぼがたくさんあった。それに、においも違う。もっとたくさん草のにおいがして、稲を刈る時期にはふわふわのもみ殻に突っ込んで、ちいちゃんとふたりして怒られた。
ちいちゃんはいま、どこにいるのだろう。
河原の先に、道路がある。その道路を渡っていく。危ないから、横断歩道というところを歩く。手をあげて、右を見て、左を見て。そうしないと危ないよと、ちいちゃんが言った。
ぼくはそのとおりにした。車が来ないことを確認して、わたる。
横断歩道を渡り切ると、公園がある。ぼくがちいちゃんと、初めて出会った公園。
「ちいちゃん」
はじめて、声を出してみる。小さな声だ。細くて、でもちゃんとした、ぼくの声。
「ちいちゃん」
もう一度、ちいちゃんを呼ぶ。周りの人が振り返った。でも、ちいちゃんじゃない。
どこに行ったのだろう。公園を見渡して、ちいちゃんを探す。その姿は、どこにも見当たらなかった。
もしかして、ちいちゃんは家に帰ったのだろうか。そう思って、ぼくはちいちゃんの家を探すことにした。
公園を出て、太陽が沈むほうへと歩く。公園から、少し行った先にちいちゃんの家がある。ぼくはきょろきょろと見渡しながら、ちいちゃんの家を探した。
「こんにちは」
青い服を着た人が、ぼくに声を掛けてきた。ぼくはきょとんとその人を見上げて、首を傾げた。
「どうしたのかな? 迷子?」
そう尋ねられて、ぼくはこの人なら、ちいちゃんの家を知っているかと思った。
「ちいちゃんの家、探してるの」
「ちいちゃん?」
その人が尋ねる。ぼくは頷いた。ちいちゃん。とても優しい男の子。ぼくに声を掛けてくれて、一緒に遊んでくれた。そう説明をする。
「上のお名前はわかるかな?」
上のお名前。ぼくはううんと唸った。
首を横に振る。ちいちゃんとしか呼んだことがない。
そう言ったら、その青い服を着た人は、少し困ったように笑った。ぼくの前に膝をつく。危ないからと、壁際にぼくを寄せた。
「きみのお名前は?」
「なずな」
ぼくは答えた。「上のお名前は?」と聞かれる。ぼくはまた、首を横に振った。
「おうちはどこかな?」
「ちいちゃんの?」
「なずなくんのお家だよ」
ぼくは少し辺りを見回して、俯いた。
わからない。ぼくは、ちいちゃんを探しているだけだ。ちいちゃんに会いたい。そう思って、会いに来た。
「赤い屋根のおうち」
ふと思い出したことを、その人に告げる。そうだ。ぼくはそこにいた。
赤い屋根と、その人が言う。この付近には、赤い屋根のおうちはない。ほとんどが黒か、白か。ときどき青い屋根がある。
「お母さんのお名前、言える?」
お母さん。そう言われて、ぼくは急に悲しくなった。涙がぽろぽろと零れるのを、必死に拭った。
「わかんない」
そうだ。だって、お母さんを探していたんだ。お母さんを探して、歩いて、そこでちいちゃんに出会った。
困ったような声がする。その人は、なにかの機械で誰かと話していた。こうばんと聞こえてくる。
そうだ。交番。困ったら交番に行くようにと、ちいちゃんが言っていた。
でも、あの時はどうだっただろう。ぼくはちいちゃんを追いかけるのに必死で、覚えていない。
「おじさん」
ぼくは涙をこらえながら、その人の服を軽く引っ張った。
「ちいちゃんの家、このあたりなんだ」
名前はわからない。でも、なんとなく、そう思った。「そうか」と言って、その人はぼくを抱き上げた。急に背が高くなったような気がして、その人にしがみ付く。濡れたぼくの頬を手で拭って、「大丈夫だよ」と笑いかけてくれた。
温かい。ちいちゃんも、同じだった。
ぼくはそのその人と一緒に、その路地を歩いた。記憶をたどりながら、ちいちゃんの家を探す。ちいちゃんの家の前には、かわいい猫の置物があった。猫が好きなちいちゃんが飾っていた。
なずなの目印だよと、ちいちゃんが笑った。ぼくはそれを聞いて、嬉しくて、ちいちゃんに抱き着いたのを、よく覚えている。
くすぐったいと笑った。鈴が付いたアクセサリーをぼくにくれた。ぼくはそのプレゼントがとっても嬉しくて、いまでも持っている。
ポケットに手を突っ込む。ちりんと、鈍く鈴が鳴った。
ちいちゃんの家は、公園からすぐのはずだった。でも、見当たらなかった。
猫の置物は、どの家にもない。
「猫はいないね」
その人が言う。ぼくは頷いた。少し寂しくなってきて、またその鈴を握った。
ちいちゃんの家から少し先に、大きな犬がいた。それはよく覚えている。ワンと大きく吠えられて、ちいちゃんとふたりで喚きながらその家の前を通り過ぎたからだ。
その犬の声がする。このあたりのはずだ。でも、ちいちゃんがぼくのために置いてくれた目印は、やっぱりなかった。
肌寒い。太陽が傾いている。暗くなる前には帰りなさいと、いつもちいちゃんのお母さんが言っていたのを思い出す。
その人に抱かれるぼくの横を、手を繋いだ親子やきょうだいが、「今日のごはんはどうする?」なんて言いながら通り過ぎていく。
ぐうとおなかが鳴った。でも、それよりも、ちいちゃんに会えないことが、悲しかった。
「ちいちゃん、どこに行ったんだろう?」
その人が困ったような顔をした。「一度交番に行こう」と言った。そして、その人はぼくを抱えたまま、あの公園のほうへと向かった。
公園がどんどん近付いてくる。ぼくはくすんと鼻をすすりながら、その人を見上げた。
「ぼく、歩けるよ」
歩きたいと、その人に告げる。そうしたら、その人はぼくを下ろしてくれた。危なくないようにと、手をつないでくれる。大きい。暖かい。ぼくは少しうれしくなって、その人の手を握り返した。
ちいちゃんも、ぼくの手を握ってくれた。こうやって、手を温めてくれた。どこに行ってしまったんだろう。不安になりながらも、公園の中を歩く。
サイレンが鳴った。夕方のサイレンだ。
ああ、思い出した。ちいちゃんは、これを聞いたら走って帰ってしまう。
「おじさん」
ぼくは不安になって、おじさんを見上げた。
「どうしたの?」
その人は、不思議そうな顔をしている。
目を閉じると、車の音が聞こえてきた。
公園の向こう。横断歩道。危ないよ。気を付けようね。ちいちゃんがいつも言ってくれた。
――なずな。ちいちゃんが、ぼくを呼んだ。
おなかがすいたと泣くぼくに、ちいちゃんは家からソーセージを持ってきてくれた。ぼくとちいちゃんは、それをはんぶんこして食べた。
おいしいねってちいちゃんが笑った。ぼくも嬉しくて、ちいちゃんに笑いかけた。
そのあとで、ぼくはちいちゃんと一緒に家に行った。だから、やっぱりここで間違いない。
なのに、どうしてちいちゃんの家には、あの置物がなかったんだろう。ちいちゃんのおうちが変わってしまったのだろうか。
ぼくは溢れてくる涙を拭いながら、もう一度ポケットの中の鈴を握った。
ちいちゃん。ぼくはここにいるのに、どうしてちいちゃんはいないの?
そう聞きたかったけれど、言葉にならなかった。
わんわん声をあげて泣く。ぼくにとって、たった一人の友だちだった。
それなのに、――。
泣きじゃくるぼくの横で、その人はまた機械を取り出して、誰かと話していた。迷子とその人が言っている。
帰るおうちがわからないことを迷子っていうなら、ほんとうにそうだ。
息を切らせてなくぼくの頭を、その人がぽんと軽く撫でた。
「一緒に行こうか」
ぼくはその人を見上げて、頷いた。
また明日、ちいちゃんを探そう。今度は、公園で待っていよう。そう思いながら、その人と歩く。
ちいちゃんと一緒にソーセージを食べた土管がある広場を抜けて、横断歩道がある場所へと向かう。途中で、鳥の声がした。
ぴいぴいと鳴く。この鳥が鳴く間は、横断歩道を渡っていいんだよと、ちいちゃんが言っていた。
「あそこだ」
ぼくはその人の手を振り払って、その横断歩道があるほうへと走った。
「ちいちゃん!」
ぼくは力の限り叫んだ。
ぼくは悔しかった。この声が、あの時にあったら。
――思い出した。ぼくがちいちゃんを呼んだ理由を。
危ないよ、ダメだよって、ちいちゃんに叫んだ。でも、届かなかった。
もう一度、ちいちゃんを呼ぶ。
「なずな」
泣きながら辺りを見回していたら、ふとちいちゃんの声がした。
ちいちゃんだ。ちいちゃんは、信号機の下の小さな石碑の横に座っていた。
「なずな!」
ちいちゃんが駆け寄ってくる。ぼくは泣きながら走って、勢いよく抱き着いた。
「ちいちゃん!」
ちいちゃんの手が、ぼくを抱き寄せる。ぼくも一生懸命に短い手を伸ばして、ちいちゃんにしがみ付いた。
「危ないよって言ったのに」
ちいちゃんの腕の中で、ぼくは震える声で言った。
「なずなこそ。車に気を付けろって、言ったじゃないか」
ぼくはちいちゃんとふたりで抱き合って、声をあげて泣いた。
ぴいぴいと、鳥が鳴く。
でも、あの日は違った。
ぼくは車が来ることに気付いた。危ないよって叫んで、ちいちゃんを守ろうとした。でもぼくもちいちゃんも、車にぶつかった。
そこまでしか、覚えていない。ぼくが目を覚ましたら、ぼくの手の中には少し潰れた鈴のアクセサリーがあった。
それからぼくはずっと、ちいちゃんを探していた。
ずっと一緒だよ。ちいちゃんが笑う。ぼくはちいちゃんの鼻に鼻をくっつけて、笑い返した。
その信号機の下の、石碑の傍らで、黒猫の置物とちいちゃんを模した人形が、静かにぼくらを見つめていた。