
第四話:所沢、空にはせる夢
八月の終わり。お盆休みが明けても、埼玉の暑さは一向に衰える気配がない。 その日の朝、結衣は窓を叩く激しい雨音で目を覚ました。「あ......今日は、無理かな」 楽しみにしていた四回目の旅。本来の目的地は、岩槻の久伊豆神社だった。樹齢二百年を超える大藤や、静かな境内を歩くのを楽しみに、昨夜も遅くまで下調べをしていたのだが、この雨ではさすがに厳しい。 ため息をつきながら準備をしていると、スマートフォンの画面が明るくなった。(凛さんからだ......)
凛さんからのメッセージ。そこには、いつものように簡潔な言葉が並んでいた。『おはよう。すごい雨だね。今日は中止にする?』 その短い一文に、結衣は少しだけ胸がチクリとした。先輩にとって、この旅は「いつでもやめられるもの」なのだろうか。それとも、私の体調や疲れを気遣ってくれているのだろうか。 一分ほど迷って、結衣は何度か書き直した返信を送った。『おはようございます。雨、すごいですね。でも、私はどこか室内で楽しめるところがあれば、ぜひ行きたいです。先輩が、大丈夫なら』 すぐに既読がついた。また一分。その一分が、結衣にはとても長く感じられた。『わかった。じゃあ、航空公園駅の改札で待ち合わせよう。雨の日でも、所沢には「空」があるから』 空? 不思議な言葉を頭の中で繰り返しながら、結衣は急いで準備を始めた。マイボトルには、昨日スーパーで買っておいた少し良いほうじ茶のティーパックを入れ、ポットからお湯を注ぐ。少し水を足して、今の自分が一番「ほっ」とできる温度に調節した。 航空公園駅。改札を抜けると、大きなプロペラ機が駅前に展示されているのが見えた。少し弱まってきた雨に打たれるその機体は、どこか寂しげで、けれど凛とした強さを持っていた。「おはよう、高柳さん。......本当に、来るんだね」 柱の陰から、凛さんが現れた。ネイビーの薄手のサマーコートを凛々しく羽織り、同じ色の大きな折りたたみ傘を手にしている。 対する結衣は、たまご色のマウンテンパーカーを羽織っていた。「はい。楽しみにしてましたから」「......そう。それならいいんだけど。ほら、一本のほうが楽でしょ。入って」 凛さんはそう言って、自分の大きな傘を結衣のほうへ差し出した。「あ、でも先輩が濡れちゃいます」「いいから。こっちのほうが、効率的なの」 有無を言わせない口調。結衣は遠慮しがちに、凛さんの傘の中へと一歩踏み出した。 不意に、視界が紺色の布に覆われ、周囲の雨音がこもったような響きに変わった。 ――近い。 凛さんの肩が、自分の肩に触れそうな距離にある。ふと見上げると、凛さんの左肩が傘からはみ出し、雨に打たれていた。 上質なコートの生地が雨を吸い、そこだけ色が深く、重そうに変わっていくのがわかった。「......先輩、肩、濡れてます!」「大丈夫。......ほら、高柳さんはもっとこっちに入って」 凛さんは、自分が濡れるのを全く気にする様子もなく、ただ結衣を守るように傘を固定していた。その頑ななまでの「優しさ」が、結衣の胸をぎゅっと締め付けた。 所沢航空発祥記念館の館内に入ると、そこはまさに「空」の格納庫だった。「わあ......!」結衣は思わず声を上げてしまった。「すごい......! 天井にまで飛行機が!」 感動でしばらく見入った後、入り口で手際よくショート丈のパーカーを脱いだ。中には、ふんわりとしたアプリコット色のパフスリーブブラウスに、淡いイエローのフレアスカートを合わせている。雨の日用の、歩きやすいグレージュのバレエシューズが、広い展示室の床を軽快に踏む。 凛さんも、少し湿ったサマーコートの前を開けた。中から現れたのは、パキッとしたコバルトブルーのサマーニットに、オフホワイトのテーパードパンツ。足元は、雨用とは思えないほど艶やかな黒のエナメルローファーだ。「ここ所沢は、日本で初めて飛行場が造られた場所なんだよ。一九一一年。まだ空を飛ぶことが、命がけの冒険だった時代の記憶がここにある」 凛さんの目が、仕事モードの鋭さと、少年のものに似た輝きを持ち始めた。彼女は展示されている「アンリ・ファルマン機」のレプリカの前で足を止めた。「見て、この木製のフレーム。布を張っただけの翼。今のジェット機から見れば頼りないけれど、ここには『空を飛びたい』という純粋な意志の形が、そのまま現れている。デザイナーとして、この剥き出しの機能美には嫉妬しちゃうな」 凛さんは、まるで大切な宝物に触れるかのような愛おしげな眼差しで、その古い機体を見つめていた。「先輩、本当にかっこいいですね。......飛行機も、先輩の横顔も」「......っ、何言ってるの。行くよ」 言った方も言われた方も顔を赤らめて、足早に次の展示へと向かった。 大型ヘリコプターの機内展示を抜けた後、二人は操縦シミュレーターの前にいた。「先輩! これ、機長席と副操縦席に分かれてるみたいです。一緒にやってみませんか?」「いいよ。......私が教えるから、高柳さんが操縦してみて」 雨の日に楽しめるスポットだけあって、順番が来るまで少し並んだ。 コックピットを模した空間に入り、二人は隣り合ったシートに腰を下ろす。座席の間には計器類があり、体が密着するほど狭くはなかったが、薄暗く閉ざされた空間が独特の緊張感を生んでいた。「えっと、動かすのはこれですか?」 結衣が操縦桿を握ると、凛さんが隣からすっと身を乗り出してきた。「そう。力まないで。風を感じるように、ゆっくりと」 計器を覗き込むように顔を近づけてきた凛さんの声が、すぐ耳元で響いた。ふわりと香る、先輩の少し湿ったコートの匂い。真剣な横顔がすぐそばにあり、結衣の胸の鼓動が高鳴った。「あ、あの、先輩......っ」「集中して。滑走路が見えてきた。......あ、少し右に逸れてる。手、貸して」 凛さんが、結衣の握る操縦桿に自らの手を重ねようとした。 ――その瞬間。 結衣の手に触れた凛さんの体が、まるで熱い鉄にでも触れたかのようにビクリと震え、慌てて手を引っ込めた。「......っ、ごめんなさい。自分で、やって」
凛さんの声は低く、どこか怯えているようだった。結衣が戸惑って隣を向くと、凛さんは元の座席に深く身を沈め、ひどく険しい表情でモニターを見つめていた。膝の上で、行き場を失ったように両手が強く握りしめられている。 着陸に成功したというアナウンスが虚しく響く中、凛さんは何も言わず、逃げるようにシミュレーターを降りた。 館内を一巡りしている間。多少の気まずさと、ぎこちない気遣いの時間が流れた。 少し疲れた二人は、一階にあるカフェで足を止めた。「......お腹、空いたね。少し早いけど、お昼にしようか」 本当にお腹が空いているのかわからなかったけれど、気まずさを解消するきっかけになると思った。 凛さんは、先程の動揺を完全に隠し、いつもの「クールな先輩」の顔でメニューを開いた。「所沢牛のハンバーガー、美味しそうですよ。先輩、どうですか?」「私は、この武蔵野地粉うどんにしようかな。地元の食材を使ってるみたいだし」 運ばれてきた料理は、想像以上に本格的だった。「所沢牛」を贅沢に使ったパティの溢れる肉汁に、結衣は目を丸くした。「んむっ......美味しい! 先輩、これ、すごくお肉の味が濃いです!」「......ふふ、口の周りにソースついてるよ。高柳さんは、本当に美味しそうに食べるね」 凛さんは、自分のうどんを啜りながら、細い指でティッシュを差し出してくれた。その指先が、今度は結衣の手に触れても、震えることはなかった。 食後のデザートに頼んだ「狭山茶のジェラート」を二人でシェアする頃には、先ほどのコックピットでの重苦しい空気は、窓の外の霧雨に溶けていったようだった。 食事を終え、記念館の三階にある窓際のベンチで、雨に煙る広い公園を眺める。「......高柳さん」 凛さんが、ぽつりと呟いた。「私ね、この旅を始めてから、自分が自分じゃないみたいに感じることがあるの」 彼女は、窓ガラスに映る自分の顔を、どこか他人事のように眺めていた。「一人のほうが楽だった。誰にも期待せず、誰からも期待されず」凛さんはゆっくりと言葉を確かめるように話した。「でも......あなたが隣にいると、なんだか変になるの」 凛さんは、自分の左胸のあたりを、ぎゅっと掴むように握りしめた。「......それは、悪いことなんですか?」 結衣が訊ねると、凛さんは切なそうに目を伏せた。「......分からない。でも、このままじゃいけないっていうことだけは、分かるの」 沈黙。雨音だけが、二人の間に壁を作るように響いていた。「......ねえ、高柳さん。来月なんだけど」 凛さんが、顔を上げて結衣をまっすぐに見つめた。胸の前で右の拳を左手で包み、一度大きく息を吸い込んだ。「秩父に行こうと思ってるの。一泊で。......いいかな」 その瞳には、今までになかった真剣さと、それ以上の「何か」が同居していた。「はい。......嬉しいです、すごく」 結衣が答えると、凛さんは深いため息をつくと同時に、ふっと肩の力を抜いたようだった。 大きな重責から解放されたかのように、凛さんが静かに微笑んだ――。 ぐうぅ。 その時。静かな廊下に、可愛らしい音が響いた。「........................え?」 結衣が動きを止める。 凛さんは、顔を一瞬にして真っ赤に染め、両手でお腹を押さえた。「......っ! い、今のは......っ!」「はは、あははは! 先輩、あんなにしっかりランチ食べたのに!」「う......うどんが、意外と消化が早かっただけで......別に、お腹なんて空いてないし!」 凛さんは、涙目になりながら必死に弁解している。「もう、先輩。帰り道に、駅の近くで『焼きだんご』買いましょうよ。炭火でお醤油だけで焼いたやつ。私も、ちょっとおやつ食べたいな、って思ってたんです」 結衣が笑いながら言うと、凛さんは、観念したように俯き、小さく「......一本だけだよ」と呟いた。 駅へ向かう帰り道。雨は上がらなかったけれど、傘の下の空気は、朝よりもずっと軽やかだった。 香ばしい醤油の匂いに誘われて買った、熱々の焼きだんご。それを頬張る凛さんは、どこにでもいる、お腹を空かせた普通の女の子に見えた。 (......凛さんのこと、もっともっと、知っていきたいな)
名残惜しそうに串を片付ける先輩の横顔を見て、結衣は心の中で、来月の秩父への誓いを新たにするのだった。 つづく 第四話:所沢、空にはせる夢
八月の終わり。お盆休みが明けても、埼玉の暑さは一向に衰える気配がない。 その日の朝、結衣は窓を叩く激しい雨音で目を覚ました。「あ......今日は、無理かな」 楽しみにしていた四回目の旅。本来の目的地は、岩槻の久伊豆神社だった。樹齢二百年を超える大藤や、静かな境内を歩くのを楽しみに、昨夜も遅くまで下調べをしていたのだが、この雨ではさすがに厳しい。 ため息をつきながら準備をしていると、スマートフォンの画面が明るくなった。(凛さんからだ......)
凛さんからのメッセージ。そこには、いつものように簡潔な言葉が並んでいた。『おはよう。すごい雨だね。今日は中止にする?』 その短い一文に、結衣は少しだけ胸がチクリとした。先輩にとって、この旅は「いつでもやめられるもの」なのだろうか。それとも、私の体調や疲れを気遣ってくれているのだろうか。 一分ほど迷って、結衣は何度か書き直した返信を送った。『おはようございます。雨、すごいですね。でも、私はどこか室内で楽しめるところがあれば、ぜひ行きたいです。先輩が、大丈夫なら』 すぐに既読がついた。また一分。その一分が、結衣にはとても長く感じられた。『わかった。じゃあ、航空公園駅の改札で待ち合わせよう。雨の日でも、所沢には「空」があるから』 空? 不思議な言葉を頭の中で繰り返しながら、結衣は急いで準備を始めた。マイボトルには、昨日スーパーで買っておいた少し良いほうじ茶のティーパックを入れ、ポットからお湯を注ぐ。少し水を足して、今の自分が一番「ほっ」とできる温度に調節した。 航空公園駅。改札を抜けると、大きなプロペラ機が駅前に展示されているのが見えた。少し弱まってきた雨に打たれるその機体は、どこか寂しげで、けれど凛とした強さを持っていた。「おはよう、高柳さん。......本当に、来るんだね」 柱の陰から、凛さんが現れた。ネイビーの薄手のサマーコートを凛々しく羽織り、同じ色の大きな折りたたみ傘を手にしている。 対する結衣は、たまご色のマウンテンパーカーを羽織っていた。「はい。楽しみにしてましたから」「......そう。それならいいんだけど。ほら、一本のほうが楽でしょ。入って」 凛さんはそう言って、自分の大きな傘を結衣のほうへ差し出した。「あ、でも先輩が濡れちゃいます」「いいから。こっちのほうが、効率的なの」 有無を言わせない口調。結衣は遠慮しがちに、凛さんの傘の中へと一歩踏み出した。 不意に、視界が紺色の布に覆われ、周囲の雨音がこもったような響きに変わった。 ――近い。 凛さんの肩が、自分の肩に触れそうな距離にある。ふと見上げると、凛さんの左肩が傘からはみ出し、雨に打たれていた。 上質なコートの生地が雨を吸い、そこだけ色が深く、重そうに変わっていくのがわかった。「......先輩、肩、濡れてます!」「大丈夫。......ほら、高柳さんはもっとこっちに入って」 凛さんは、自分が濡れるのを全く気にする様子もなく、ただ結衣を守るように傘を固定していた。その頑ななまでの「優しさ」が、結衣の胸をぎゅっと締め付けた。 所沢航空発祥記念館の館内に入ると、そこはまさに「空」の格納庫だった。「わあ......!」結衣は思わず声を上げてしまった。「すごい......! 天井にまで飛行機が!」 感動でしばらく見入った後、入り口で手際よくショート丈のパーカーを脱いだ。中には、ふんわりとしたアプリコット色のパフスリーブブラウスに、淡いイエローのフレアスカートを合わせている。雨の日用の、歩きやすいグレージュのバレエシューズが、広い展示室の床を軽快に踏む。 凛さんも、少し湿ったサマーコートの前を開けた。中から現れたのは、パキッとしたコバルトブルーのサマーニットに、オフホワイトのテーパードパンツ。足元は、雨用とは思えないほど艶やかな黒のエナメルローファーだ。「ここ所沢は、日本で初めて飛行場が造られた場所なんだよ。一九一一年。まだ空を飛ぶことが、命がけの冒険だった時代の記憶がここにある」 凛さんの目が、仕事モードの鋭さと、少年のものに似た輝きを持ち始めた。彼女は展示されている「アンリ・ファルマン機」のレプリカの前で足を止めた。「見て、この木製のフレーム。布を張っただけの翼。今のジェット機から見れば頼りないけれど、ここには『空を飛びたい』という純粋な意志の形が、そのまま現れている。デザイナーとして、この剥き出しの機能美には嫉妬しちゃうな」 凛さんは、まるで大切な宝物に触れるかのような愛おしげな眼差しで、その古い機体を見つめていた。「先輩、本当にかっこいいですね。......飛行機も、先輩の横顔も」「......っ、何言ってるの。行くよ」 言った方も言われた方も顔を赤らめて、足早に次の展示へと向かった。 大型ヘリコプターの機内展示を抜けた後、二人は操縦シミュレーターの前にいた。「先輩! これ、機長席と副操縦席に分かれてるみたいです。一緒にやってみませんか?」「いいよ。......私が教えるから、高柳さんが操縦してみて」 雨の日に楽しめるスポットだけあって、順番が来るまで少し並んだ。 コックピットを模した空間に入り、二人は隣り合ったシートに腰を下ろす。座席の間には計器類があり、体が密着するほど狭くはなかったが、薄暗く閉ざされた空間が独特の緊張感を生んでいた。「えっと、動かすのはこれですか?」 結衣が操縦桿を握ると、凛さんが隣からすっと身を乗り出してきた。「そう。力まないで。風を感じるように、ゆっくりと」 計器を覗き込むように顔を近づけてきた凛さんの声が、すぐ耳元で響いた。ふわりと香る、先輩の少し湿ったコートの匂い。真剣な横顔がすぐそばにあり、結衣の胸の鼓動が高鳴った。「あ、あの、先輩......っ」「集中して。滑走路が見えてきた。......あ、少し右に逸れてる。手、貸して」 凛さんが、結衣の握る操縦桿に自らの手を重ねようとした。 ――その瞬間。 結衣の手に触れた凛さんの体が、まるで熱い鉄にでも触れたかのようにビクリと震え、慌てて手を引っ込めた。「......っ、ごめんなさい。自分で、やって」
凛さんの声は低く、どこか怯えているようだった。結衣が戸惑って隣を向くと、凛さんは元の座席に深く身を沈め、ひどく険しい表情でモニターを見つめていた。膝の上で、行き場を失ったように両手が強く握りしめられている。 着陸に成功したというアナウンスが虚しく響く中、凛さんは何も言わず、逃げるようにシミュレーターを降りた。 館内を一巡りしている間。多少の気まずさと、ぎこちない気遣いの時間が流れた。 少し疲れた二人は、一階にあるカフェで足を止めた。「......お腹、空いたね。少し早いけど、お昼にしようか」 本当にお腹が空いているのかわからなかったけれど、気まずさを解消するきっかけになると思った。 凛さんは、先程の動揺を完全に隠し、いつもの「クールな先輩」の顔でメニューを開いた。「所沢牛のハンバーガー、美味しそうですよ。先輩、どうですか?」「私は、この武蔵野地粉うどんにしようかな。地元の食材を使ってるみたいだし」 運ばれてきた料理は、想像以上に本格的だった。「所沢牛」を贅沢に使ったパティの溢れる肉汁に、結衣は目を丸くした。「んむっ......美味しい! 先輩、これ、すごくお肉の味が濃いです!」「......ふふ、口の周りにソースついてるよ。高柳さんは、本当に美味しそうに食べるね」 凛さんは、自分のうどんを啜りながら、細い指でティッシュを差し出してくれた。その指先が、今度は結衣の手に触れても、震えることはなかった。 食後のデザートに頼んだ「狭山茶のジェラート」を二人でシェアする頃には、先ほどのコックピットでの重苦しい空気は、窓の外の霧雨に溶けていったようだった。 食事を終え、記念館の三階にある窓際のベンチで、雨に煙る広い公園を眺める。「......高柳さん」 凛さんが、ぽつりと呟いた。「私ね、この旅を始めてから、自分が自分じゃないみたいに感じることがあるの」 彼女は、窓ガラスに映る自分の顔を、どこか他人事のように眺めていた。「一人のほうが楽だった。誰にも期待せず、誰からも期待されず」凛さんはゆっくりと言葉を確かめるように話した。「でも......あなたが隣にいると、なんだか変になるの」 凛さんは、自分の左胸のあたりを、ぎゅっと掴むように握りしめた。「......それは、悪いことなんですか?」 結衣が訊ねると、凛さんは切なそうに目を伏せた。「......分からない。でも、このままじゃいけないっていうことだけは、分かるの」 沈黙。雨音だけが、二人の間に壁を作るように響いていた。「......ねえ、高柳さん。来月なんだけど」 凛さんが、顔を上げて結衣をまっすぐに見つめた。胸の前で右の拳を左手で包み、一度大きく息を吸い込んだ。「秩父に行こうと思ってるの。一泊で。......いいかな」 その瞳には、今までになかった真剣さと、それ以上の「何か」が同居していた。「はい。......嬉しいです、すごく」 結衣が答えると、凛さんは深いため息をつくと同時に、ふっと肩の力を抜いたようだった。 大きな重責から解放されたかのように、凛さんが静かに微笑んだ――。 ぐうぅ。 その時。静かな廊下に、可愛らしい音が響いた。「........................え?」 結衣が動きを止める。 凛さんは、顔を一瞬にして真っ赤に染め、両手でお腹を押さえた。「......っ! い、今のは......っ!」「はは、あははは! 先輩、あんなにしっかりランチ食べたのに!」「う......うどんが、意外と消化が早かっただけで......別に、お腹なんて空いてないし!」 凛さんは、涙目になりながら必死に弁解している。「もう、先輩。帰り道に、駅の近くで『焼きだんご』買いましょうよ。炭火でお醤油だけで焼いたやつ。私も、ちょっとおやつ食べたいな、って思ってたんです」 結衣が笑いながら言うと、凛さんは、観念したように俯き、小さく「......一本だけだよ」と呟いた。 駅へ向かう帰り道。雨は上がらなかったけれど、傘の下の空気は、朝よりもずっと軽やかだった。 香ばしい醤油の匂いに誘われて買った、熱々の焼きだんご。それを頬張る凛さんは、どこにでもいる、お腹を空かせた普通の女の子に見えた。 (......凛さんのこと、もっともっと、知っていきたいな)
名残惜しそうに串を片付ける先輩の横顔を見て、結衣は心の中で、来月の秩父への誓いを新たにするのだった。 つづく