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目次

星詠の旅人


 老人は、星の下で日記を開いていた。

 夜風にあおられて、乾いた紙がかすかに震える。
 何度もめくられた頁の端は丸く擦り切れ、革の表紙には無数の傷があった。
 雨に濡れた跡。焚き火の火の粉で焦げた跡。砂を噛んだようにざらついた跡。

 それは、長い旅の跡だった。

 老人は膝の上に日記を置き、細い指で一頁を押さえた。
 夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。


 どの星も、見覚えがあった。
 東へ向かう時に頼った星。
 砂漠で方角を失いかけた夜、頭上にあった星。
 山の尾根で凍えながら見上げた星。
 海辺の町で、波音と共に眺めた星。

 老人は、ゆっくりと文字を追った。

 ――はじまりは、一冊の日記帳だった。

 
 
  *


 
 まだ地図のない時代だった。

 人々は、自分の生まれた村と、せいぜいその先にある隣の村のことしか知らなかった。
 山の向こうに何があるのか。森を越えた先にどんな川が流れているのか。海がどこまで続いているのか。

 誰も知らない。
 そして、知らなくても困らなかった。

 畑を耕し、家畜を育て、季節が巡れば同じ祭りを行う。
 隣村へ行く道はある。商人が荷車を引く道もある。けれどそれは、道と呼ぶにはあまりに細く、雨が降れば泥に沈み、冬になれば雪に閉ざされた。


 遠くへ行こうとする者は、愚か者だと言われた。
 道のない場所へ踏み出す者など、帰る家を捨てた者か、死に場所を探す者だけだ。
 旅人とは、そういうものだった。
 だから、若者が旅人の話を聞きたがると、村の大人たちは決まって笑った。

「そんなものに憧れるな。旅人なんて、まともな人間のすることじゃない」

「山を一つ越えれば獣が出る。森へ入れば方角を失う。知らない土地の水を飲めば腹を壊す。ろくなもんじゃないさ」

「遠くの話なんて、商人のほら話で十分だ」

 実際、この村へ来る商人も、遠い世界を知っているわけではなかった。

 商人は月に一度、隣の村からやってくる。
 価値があったり無かったりする品物を荷車に乗せ、村で干し肉や毛皮と交換する。
 その品物も、元をたどれば別の村の商人が持ってきたもので、その商人もまた、さらに別の商人から買ったのだという。

 物は、人から人へ渡る。
 話も、人から人へ渡る。

 北には一年中雪の降る山があるらしい。
 南には夜でも熱い砂の海があるらしい。
 西には水が地平の果てまで続く場所があるらしい。

 けれど、誰も見たことはない。

 商人たちの話は、荷物と同じだった。
 何人もの手を渡るうちに、どこから来たのか分からなくなる。
 

 その日、若者はいつものように村の小さな市場の隅にしゃがみ、商人の荷物を眺めていた。
 並べられているのは、錆びかけた小刀、欠けた皿、色褪せた布、乾いた薬草、誰のものとも知れない古靴。

 その中に、一冊の帳面があった。

 革の表紙は黒ずみ、紐は切れかけている。
 紙の端は黄色くなり、ところどころに染みが広がっていた。

「それは?」

 若者が尋ねると、商人はちらりと帳面を見た。

「ああ、古い紙束だよ。どこかの町で受け取ったんだ。鍋と交換したんだったか、干し魚と交換したんだったか......忘れちまったな」

「売り物?」

「欲しいのか?」

 商人は不思議そうに眉を上げた。

「字ばかりだぞ。絵もほとんどない。焚きつけくらいにはなるだろうが」

「読めるなら、欲しい」

 若者がそう言うと、商人は笑った。

「物好きだな。じゃあ、干した木の実ひと袋でいい」

 安すぎる値だった。
 けれど商人にとっては、その程度の価値しかないものだったのだろう。

 若者は家からこっそり持ってきた木の実の袋を差し出し、帳面を受け取った。
 その夜、若者は寝床の中で頁を開いた。
 最初の頁には、こう書かれていた。

 ――今夜、知らない土地の星を見た。

 若者は息を止めた。
 そこに綴られていたのは、名も知らぬ旅人の記録だった。

 深い森の奥で聞いた獣の声。
 霧の中に浮かぶ湖。
 断崖に咲く青い花。
 冬の山で見た、空を裂くような流れ星。
 乾いた土地で、地平線まで続く星の川。

 日記を書いた旅人は、ただ歩いていた。
 星を頼りに、知らない土地を歩いていた。
 そして見たものを、一つずつ文字に残していた。

 ――北の星を背に三日歩くと、白い石の谷に出る。
 ――谷の底には細い川があり、水は甘い。
 ――その夜、東の空に赤い星が見えた。村では不吉の星と呼ぶらしいが、私には道しるべに見えた。

 若者は何度も読み返した。


 村の外には、知らない世界がある。
 噂ではなく、誰かが本当に歩いた場所がある。
 誰かが見上げた星が、同じ空のどこかにある。

 胸の奥で、何かが小さく灯った。
 それは不安に似ていた。
 けれど、不安よりもずっと熱かった。

 翌日から、若者は夜になるたび空を見るようになった。

 北に動かない星があることを知った。
 季節によって、夜明け前に見える星が変わることを知った。
 月の満ち欠けで、夜道の明るさが違うことを知った。

 誰かに教わったわけではない。
 日記帳の中の旅人が、頁の向こうから教えてくれた。

 若者は木の板に村の周りを描き始めた。
 川。
 畑。
 森の入口。
 隣町へ続く道。
 大きな岩。
 夜になると北の星が見える丘。

 それは地図と呼ぶには拙いものだった。
 けれど若者にとっては、世界を形に残す初めての試みだった。


 やがて、村の者たちがそれを見つけた。

「何だこれは」

「村の絵か?」

「そんなものを描いてどうする」

 若者は答えられなかった。
 どうするのかは、自分でも分からなかった。
 ただ、描きたかった。
 見たものを、忘れないようにしたかった。

 笑われても、地図を描くことをやめなかった。
 星を見ることも、日記を読むことも、やめられなかった。

 
 ある晩、若者は村の外れの丘に立った。
 頭上には、あの日記に書かれていたのと同じ星があった。
 知らない土地で見た星。
 知らない誰かが、道しるべと呼んだ星。

 若者は思った。
 見てみたい。
 山の向こうを。
 森の先を。
 商人たちの噂が、どこで本当になり、どこで嘘になるのかを。
 この星が、どこまで自分を導いてくれるのかを。

 旅に出ると言った時、村の者たちはやはり笑った。

「馬鹿なことを言うな」

「お前みたいな者が、ひと月も生きられるものか」

「旅人なんて、死に急ぐ者の名前だ」

 若者は何も言い返さなかった。
 背負った荷物は少なかった。
 干し肉と硬いパン。水袋。火打ち石。小刀。針と糸。
 それから、古い日記帳と、まだほとんど白紙の自分の日記帳。

 夜明け前、若者は村を出た。
 見送りはなかった。
 道もなかった。

 ただ、薄青い空の端に、まだ消え残る星が一つあった。
 若者はそれを見上げ、最初の一歩を踏み出した。

 
 その日の夜、焚き火のそばで、若者は自分の日記を開いた。
 何を書けばいいのか分からず、長い間、白い頁を見つめていた。
 やがて、冷えた指で筆を取り、たった一行だけを書いた。

 ――今夜、はじめて村の外の星を見た。

 風が草を揺らしていた。
 遠くで、知らない獣が鳴いていた。
 火は小さく、夜は広かった。

 それでも若者は、不思議と怖くなかった。
 空には星があった。
 足元には、まだ誰のものでもない道があった。

 若者は顔を上げる。
 そして、まだ何も描かれていない世界を歩む旅に出た。

 
  *

 
 それから旅人は、歩き続けた。

 最初の冬、旅人は森の中で火を起こすのに失敗した。
 湿った枝は白い煙ばかりを吐き、指先は冷えて感覚を失った。
 その夜の日記には、震えた文字でこう書かれていた。

 ――火は、思っていたより難しい。

 
 
 春、旅人は小川を見つけた。
 水は浅く、石を伝えば靴を濡らさずに渡れた。
 旅人は川岸に三つ石を積み、地図に小さな印をつけた。

 ――ここは渡れる。

 
 
 夏、旅人は村に入れてもらえなかった。
 村人たちは門の隙間からこちらを見て、誰も返事をしなかった。
 旅人は門の外で外套にくるまり、星を眺めながら眠った。

 朝になると、足元に硬いパンが一つ置かれていた。
 誰が置いたのかは分からなかった。

 ――知らない土地にも、優しい人はいる。

 
 
 秋、旅人は森の奥で古い焚き火跡を見つけた。
 灰は雨に流され、囲い石だけが黒く残っていた。
 そこに座って空を見上げると、木々の隙間に小さな星が瞬いていた。

 ここで、誰かが夜を越したのだ。
 そう思うと、旅人は少しだけ嬉しくなった。

 ――自分の前にも、歩いた者がいた。

 
 
 砂の多い土地では、昼間は歩けなかった。
 足の裏が焼け、喉が乾き、荷物が肩に食い込んだ。
 だから旅人は夜に歩いた。

 空には星が多すぎるほどあった。
 地上に何もないぶん、空だけが道を教えていた。

 ――星を読めば、夜も迷わない。
 ――ただし、転ぶ。

 その頁の端には、砂で擦れた跡が残っていた。

 

 旅人が立ち寄った村の外れで地図を描いていると、隣村へ向かう商人が足を止めた。

「森の入口は、こっちだったか」

 若者は頷き、まだその村の周りしか描かれていない拙い地図を、薄い木片に描き写して渡した。

「助かるよ」

 商人はそう言って笑った。
 その言葉だけで、しばらく胸が温かかった。

 ――はじめて、地図を誰かに渡した。

 
 
 ひどく心細い夜には、旅人は古い日記帳を開いた。
 そこには、見知らぬ土地で迷い、火を起こせず、寒さに震えた誰かの文字があった。

 それでも、その人は次の頁でまた歩いていた。
 旅人はその文字をなぞり、自分ももう少しだけ進もうと思った。

 ――頁の向こうにも、同じ夜があった。


 
 海を初めて見た日、旅人はしばらく何も書けなかった。
 水が、空の下いっぱいに広がっていた。
 波が寄せては返し、そのたびに足元の砂が少しずつ崩れた。

 どこまで続いているのか、分からなかった。
 けれど、分からないことが嬉しかった。

 その夜の日記には、一行だけが残された。

 ――世界は、広い。

 
 
 それから何年も経った。

 旅人の靴は何度も擦り切れ、外套は何度も縫われ、日記帳は一冊では足りなくなった。
 歩いた道は、少しずつ地図になった。

 川の浅瀬。
 崩れやすい崖。
 春だけ花の咲く丘。
 雨の日には渡れない橋。
 獣の出る森。
 安全に火を起こせる岩陰。
 星がよく見える高台。

 旅人が記したものは、どれも些細なものだった。
 けれど、その些細な印を頼りに、誰かが歩くようになった。

 
 かつて石を三つ積んだ川には、十年後、木の橋が架かっていた。
 橋の側には小さな茶屋ができていた。
 荷車を引いた商人が、当たり前のようにそこを渡っていった。
 
 旅人は橋の上で少し立ち止まり、それから何も言わずに渡った。

 ――橋があった。

 
 
 かつて門を閉ざした村には、旅人用の小屋ができていた。
 寝床は粗末で、隙間風も入った。
 けれど入口には、こう書かれていた。

『旅の者は、一晩なら休んでよい』

 旅人はその文字を指でなぞり、夜になるまで小屋の中に座っていた。

 ――昔、ここでパンをもらった。

 
 
 かつて焚き火跡を見つけた森には、細い道ができていた。
 木の幹には布切れが結ばれ、迷わないよう印がつけられていた。
 その夜、同じ場所には新しい焚き火の跡があった。

 旅人は火を起こさず、その跡の横で眠った。

 ――誰かが、ここを通った。

 

 旅人は星詠みと呼ばれた。
 夜に方角を尋ねられ、星の位置を指で示しただけだった。

「旅人は、星を詠んで歩くのか」

 誰かが、そう言った時のことだ。
 少し照れくさく思いながら、その名も日記の端に小さく書き残した。

 ――星詠ほしよみの旅人と呼ばれた。


 
 街で、自分の描いた地図の写しを見たこともあった。
 線は歪み、川の位置は少し違い、山の名前も間違っていた。
 けれど、確かに見覚えのある道だった。
 商人がそれを広げ、若い者に説明していた。

「この道を行けば、三日で向こうの町へ出る。昔は誰も通らなかった道だが、今は安全だ」

 旅人は露店の前を通り過ぎた。
 名乗ることはしなかった。
 その夜の日記には、こう書いた。

 ――地図は、もう自分だけのものではない。

 
 
 さらに年月が流れた。

 旅する者を笑う声は、少しずつ減っていった。
 代わりに、旅支度をする若者を見るようになった。
 背負い袋を選ぶ者。
 方角の見方を尋ねる者。
 夜空を見上げる者。

 旅人は、そうした者たちと何度もすれ違った。
 時には道を教え、時には火の起こし方を教え、時には何も言わずに通り過ぎた。

 ある夜、旅する青年が焚き火の向こうで言った。

「いつか、まだ誰も行ったことのない場所へ行ってみたい」

 旅人は火に枝をくべながら、静かに頷いた。

 ――それは、とても良いことだ。

 
 
 やがて、旅人は老人と呼ばれるようになった。

 足は昔ほど速く動かず、長い坂では何度も息をついた。
 小さな文字を書くには、明るい火が必要になった。
 それでも夜になれば、老人は空を見上げた。

 星は変わらなかった。

 北の星も。
 砂漠で見た星も。
 海辺で見た星も。
 初めて村の外で見上げた、あの星も。

 老人は最後の地図を広げた。
 初めは、木の板に描いた拙い線だった。
 それがやがて羊皮紙になり、何度も、何度も描き写されてきた。

 そこには、長い年月をかけて描いた道があった。
 村と町を結ぶ線。
 山を越える線。
 川を渡る線。
 森を避ける線。
 海へ続く線。

 かつて空白だった場所には、いくつもの名前が書き込まれていた。
 けれど、地図の端に、まだ小さな空白があった。
 老人はその空白を指でなぞった。

 世界の果てと呼ばれる場所。
 誰も行こうとはしなかった場所。
 けれど今は、そこへ続く道もあった。

 自分が描いた道だった。
 老人は日記を開き、最後の頁に筆を置いた。

 ――明日、最後の空白へ向かう。
 
 ――星はよく見えている。
 
 ――道もある。

 そこで筆は止まった。
 長い沈黙のあと、老人は小さく笑った。

 ――それでも、まだ胸が躍る。

 
 
  *

 
 
 最後の空白は、山でも森でもなかった。
 深い谷を越え、白い岩ばかりの荒れ地を進んだ先にある、細い洞窟の果て。
 そこは岩壁に囲まれた、小さな窪地だった。

 風はない。
 鳥の声もない。
 水の音もしない。
 朝の光だけが、静かに降り注ぐ場所。

 そこには泉があった。
 丸い水面。
 老人は泉の前で足を止めた。
 
 長い旅の中で、泉ならいくらでも見てきた。
 森の奥に湧くもの。
 砂漠の底に隠れるもの。
 山肌からこぼれるもの。
 雪解け水を集めたもの。

 けれど、その泉だけは違っていた。
 老人は腰を下ろし、そっと水面を覗き込む。
 水は底が見えそうなほど澄んでいるのに、不思議なほど深さが分からなかった。

 水面には、空が映っていた。

 朝が訪れたばかりの明るい空ではない。
 夜の色をした空だった。

 黒く深い、星の満ちた空。

 老人は瞬きをした。
 もう一度、水面を見つめる。

 映っている星の並びに、見覚えがなかった。

 北の星がない。
 砂漠で頼った赤い星もない。
 海辺で見た低い星もない。
 初めて村の外で見上げた、あの星もない。

 この世界のどこにもない空だった。
 老人は長い間、水面を見つめていた。

 
 恐れはなかった。
 ただ、胸の奥に、ひどく懐かしい熱が灯った。

 それは、遠い昔、古びた日記帳を初めて開いた夜に似ていた。
 知らない山の名を読んだ時。
 広い海をこの目に映した時。
 星を頼りに歩く誰かの記録に、息を止めた時。

 世界は広い。
 そう知った、あの夜と同じだった。

 老人は小さく笑った。

「なんだ」

 声は、静かな窪地に落ちた。

「まだ、知らない空があるのか」

 老人は背負い袋を下ろした。
 中から分厚い帳面を取り出す。

 何十年も書き続けた日記だった。
 頁はもう残り少なく、表紙は古び、紐も何度も結び直されている。
 指でなぞる文字の全てが懐かしい。

 そして老人は最後の頁を開いた。
 しばらく筆を持ったまま、水面の星を見つめる。

 それから、ゆっくりと書いた。

 ――最後の空白で、知らない星を見た。

 筆先が止まる。
 老人は少し考え、もう一行だけ書き足した。

 ――まだ、旅は終わらない。

 それ以上は書かなかった。

 
 日記を閉じる。
 両手でそっと表紙を撫でる。

 そこには、旅のすべてがあった。

 初めて火を起こせなかった夜。
 門の外で眠った朝に置かれていた硬いパン。
 森で見つけた焚き火跡。
 川の浅瀬。
 橋になった道。
 誰かが写した歪んだ地図。
 旅に憧れる若者の声。

 老人は日記帳を泉のほとりに置いた。
 その隣に、長い年月をかけて描いた地図も置く。

 風はない。
 けれど地図の端が一度だけ、かすかに震えた。

 老人は立ち上がる。
 その先にどんな道があるのか分からない。
 けれど、星の読み方は、まだ覚えている。
 
 老人は水面へ一歩踏み出した。
 足は沈まなかった。
 水面に波紋が広がる。
 丸い輪が一つ、二つと、静かに星空を揺らした。

 老人はもう一度だけ、こちら側の空を見上げた。
 見慣れた星々が、朝の光に消えかけている。
 長い旅の間、ずっと道を教えてくれた星だった。

 老人はそれに別れを告げるように、目を細めた。
 それから、水面に映る知らない星空へ向き直る。

 
 もう、振り返ることはなかった。
 老人は笑って、泉の向こうへ歩いていった。

 最後に小さな波紋だけが残った。
 やがてそれも消え、水面は元の静けさを取り戻す。

 そこに映っていたのは、もう知らない星空ではなかった。
 ただ穏やかな朝の空だけが、そこにあった。
 

 
  *

 
 
 それから、いくらかの時が流れた。

 白い岩ばかりだった荒れ地には、細い道ができていた。
 最初は誰かが踏み分けただけの跡だったものが、やがて何人もの足に踏まれ、土の色を変えていた。

 荷を背負った者が通った。
 杖をついた者が通った。
 商人が、小さな荷車を引いて通った。
 星を見上げながら歩く者もいた。

 かつて世界の果てと呼ばれた場所は、もう誰も知らない場所ではなくなっていた。

 
 ある夕暮れ、一人の若者がその道を歩いていた。
 旅人、というにはまだ少し荷物が少ない。
 靴も新しく、外套にもほとんど汚れはなかった。
 けれど背負い袋には水袋と硬いパンが入り、腰には小さな火打ち石が下がっていた。

 若者は細い道の先で、岩壁に囲まれた泉を見つけた。
 水は静かだった。
 空は夕焼けから夜へ移ろい、最初の星が一つ、薄紫の空に浮かんでいる。

 
 若者は泉のそばで足を止めた。
 そこで、古びた日記帳を見つけた。

 泉のほとりに置かれていた。
 まるで、誰かが少し席を外しただけのように。

 隣には、畳まれた古い地図があった。
 端は擦り切れ、何度も開かれた跡があり、ところどころに小さな文字が書き込まれている。

 若者はあたりを見回した。
 誰もいない。
 風もない。
 泉の水面は、ただ暮れかけた空を映しているだけだった。

「忘れ物かな」

 そう呟いて、若者は日記帳を拾い上げた。
 革の表紙は手に馴染むほど柔らかくなっていた。
 紐は何度も結び直され、紙の端には雨と砂と火の跡が残っている。

 若者は迷った末、最初の頁を開いた。
 そこには、古い文字でこう書かれていた。

 ――今夜、はじめて村の外の星を見た。

 若者は瞬きをした。
 何気なくめくった次の頁には、森のことが書かれていた。
 
 湿った枝では火がつかないこと。
 古い焚き火跡を見つけて嬉しかったこと。
 誰かが置いてくれた硬いパンのこと。

 さらにめくる。

 川の浅瀬。
 山を越える道。
 砂漠の星。
 海という、果てのない水。
 橋が架かった場所。
 旅人用の小屋。
 誰かが写した地図。
 旅に憧れる若者の声。

 そこには、壮大な伝説も、宝の話もなかった。
 ただ、ひたすらに歩いたことが書かれていた。

 見たものを見たままに。
 迷ったことを迷ったままに。
 嬉しかったことを、ほんの少しだけ嬉しそうに。

 若者は、いつの間にか泉のそばに座り込んでいた。
 空はすっかり夜になっていた。
 水面には、この世界の星が映っている。

 
 若者は日記を読み続けた。
 頁をめくるたび、知らない土地の風が吹くような気がした。
 行ったことのない森の匂いがした。
 見たことのない海の音が聞こえた。

 そして最後の頁で、若者の指が止まった。

 ――最後の空白で、知らない星を見た。
 ――まだ、旅は終わらない。

 その先には、何も書かれていなかった。

 若者は空を見て、そして泉を見た。
 水面には、ただ夜空が映っている。
 知らない星など、どこにもなかった。

 日記を書いた者がどこへ行ったのか、分からなかった。
 どこかへ歩いていったのか。
 日記に書かれた通り、まだ旅を続けているのか。

 若者には分からない。
 ただ、胸の奥で何かが小さく灯っていた。

 それは不安に似ていた。
 けれど、不安よりもずっと熱かった。

 
 若者は古い地図を広げた。
 世界は、思っていたより広かった。
 その地図には、無数の道が描かれていた。

 若者は夜空を見上げる。
 
 星があった。

 道を知らなくても、方角を知らなくても、まだ何も分からなくても。
 空には、誰のものでもない星があった。
 若者は日記帳を胸に抱えた。

 しばらくして、背負い袋の中から新しい帳面を取り出す。
 まだ一度も使っていない、白い頁ばかりの帳面だった。

 火打ち石で小さな火を起こし、その明かりのそばで筆を取る。
 何を書けばいいのか、少し迷った。
 それから、ゆっくりと最初の一行を書いた。

 ――知らない旅人の日記を拾った。

 若者は筆を止める。
 そしてもう一行、書き足した。

 ――この地図に描かれた道を、歩いてみようと思う。

 泉の水面に、星が揺れていた。

 
 若者は日記帳を閉じ、空を見上げる。
 どこか遠くで、夜の鳥が鳴いた。

 かつて一人の旅人が残した道の先に、また新しい足音が生まれようとしていた。

 
あとがき酒麩
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 老人は、星の下で日記を開いていた。

 夜風にあおられて、乾いた紙がかすかに震える。
 何度もめくられた頁の端は丸く擦り切れ、革の表紙には無数の傷があった。
 雨に濡れた跡。焚き火の火の粉で焦げた跡。砂を噛んだようにざらついた跡。

 それは、長い旅の跡だった。

 老人は膝の上に日記を置き、細い指で一頁を押さえた。
 夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。


 どの星も、見覚えがあった。
 東へ向かう時に頼った星。
 砂漠で方角を失いかけた夜、頭上にあった星。
 山の尾根で凍えながら見上げた星。
 海辺の町で、波音と共に眺めた星。

 老人は、ゆっくりと文字を追った。

 ――はじまりは、一冊の日記帳だった。

 
 
  *


 
 まだ地図のない時代だった。

 人々は、自分の生まれた村と、せいぜいその先にある隣の村のことしか知らなかった。
 山の向こうに何があるのか。森を越えた先にどんな川が流れているのか。海がどこまで続いているのか。

 誰も知らない。
 そして、知らなくても困らなかった。

 畑を耕し、家畜を育て、季節が巡れば同じ祭りを行う。
 隣村へ行く道はある。商人が荷車を引く道もある。けれどそれは、道と呼ぶにはあまりに細く、雨が降れば泥に沈み、冬になれば雪に閉ざされた。


 遠くへ行こうとする者は、愚か者だと言われた。
 道のない場所へ踏み出す者など、帰る家を捨てた者か、死に場所を探す者だけだ。
 旅人とは、そういうものだった。
 だから、若者が旅人の話を聞きたがると、村の大人たちは決まって笑った。

「そんなものに憧れるな。旅人なんて、まともな人間のすることじゃない」

「山を一つ越えれば獣が出る。森へ入れば方角を失う。知らない土地の水を飲めば腹を壊す。ろくなもんじゃないさ」

「遠くの話なんて、商人のほら話で十分だ」

 実際、この村へ来る商人も、遠い世界を知っているわけではなかった。

 商人は月に一度、隣の村からやってくる。
 価値があったり無かったりする品物を荷車に乗せ、村で干し肉や毛皮と交換する。
 その品物も、元をたどれば別の村の商人が持ってきたもので、その商人もまた、さらに別の商人から買ったのだという。

 物は、人から人へ渡る。
 話も、人から人へ渡る。

 北には一年中雪の降る山があるらしい。
 南には夜でも熱い砂の海があるらしい。
 西には水が地平の果てまで続く場所があるらしい。

 けれど、誰も見たことはない。

 商人たちの話は、荷物と同じだった。
 何人もの手を渡るうちに、どこから来たのか分からなくなる。
 

 その日、若者はいつものように村の小さな市場の隅にしゃがみ、商人の荷物を眺めていた。
 並べられているのは、錆びかけた小刀、欠けた皿、色褪せた布、乾いた薬草、誰のものとも知れない古靴。

 その中に、一冊の帳面があった。

 革の表紙は黒ずみ、紐は切れかけている。
 紙の端は黄色くなり、ところどころに染みが広がっていた。

「それは?」

 若者が尋ねると、商人はちらりと帳面を見た。

「ああ、古い紙束だよ。どこかの町で受け取ったんだ。鍋と交換したんだったか、干し魚と交換したんだったか......忘れちまったな」

「売り物?」

「欲しいのか?」

 商人は不思議そうに眉を上げた。

「字ばかりだぞ。絵もほとんどない。焚きつけくらいにはなるだろうが」

「読めるなら、欲しい」

 若者がそう言うと、商人は笑った。

「物好きだな。じゃあ、干した木の実ひと袋でいい」

 安すぎる値だった。
 けれど商人にとっては、その程度の価値しかないものだったのだろう。

 若者は家からこっそり持ってきた木の実の袋を差し出し、帳面を受け取った。
 その夜、若者は寝床の中で頁を開いた。
 最初の頁には、こう書かれていた。

 ――今夜、知らない土地の星を見た。

 若者は息を止めた。
 そこに綴られていたのは、名も知らぬ旅人の記録だった。

 深い森の奥で聞いた獣の声。
 霧の中に浮かぶ湖。
 断崖に咲く青い花。
 冬の山で見た、空を裂くような流れ星。
 乾いた土地で、地平線まで続く星の川。

 日記を書いた旅人は、ただ歩いていた。
 星を頼りに、知らない土地を歩いていた。
 そして見たものを、一つずつ文字に残していた。

 ――北の星を背に三日歩くと、白い石の谷に出る。
 ――谷の底には細い川があり、水は甘い。
 ――その夜、東の空に赤い星が見えた。村では不吉の星と呼ぶらしいが、私には道しるべに見えた。

 若者は何度も読み返した。


 村の外には、知らない世界がある。
 噂ではなく、誰かが本当に歩いた場所がある。
 誰かが見上げた星が、同じ空のどこかにある。

 胸の奥で、何かが小さく灯った。
 それは不安に似ていた。
 けれど、不安よりもずっと熱かった。

 翌日から、若者は夜になるたび空を見るようになった。

 北に動かない星があることを知った。
 季節によって、夜明け前に見える星が変わることを知った。
 月の満ち欠けで、夜道の明るさが違うことを知った。

 誰かに教わったわけではない。
 日記帳の中の旅人が、頁の向こうから教えてくれた。

 若者は木の板に村の周りを描き始めた。
 川。
 畑。
 森の入口。
 隣町へ続く道。
 大きな岩。
 夜になると北の星が見える丘。

 それは地図と呼ぶには拙いものだった。
 けれど若者にとっては、世界を形に残す初めての試みだった。


 やがて、村の者たちがそれを見つけた。

「何だこれは」

「村の絵か?」

「そんなものを描いてどうする」

 若者は答えられなかった。
 どうするのかは、自分でも分からなかった。
 ただ、描きたかった。
 見たものを、忘れないようにしたかった。

 笑われても、地図を描くことをやめなかった。
 星を見ることも、日記を読むことも、やめられなかった。

 
 ある晩、若者は村の外れの丘に立った。
 頭上には、あの日記に書かれていたのと同じ星があった。
 知らない土地で見た星。
 知らない誰かが、道しるべと呼んだ星。

 若者は思った。
 見てみたい。
 山の向こうを。
 森の先を。
 商人たちの噂が、どこで本当になり、どこで嘘になるのかを。
 この星が、どこまで自分を導いてくれるのかを。

 旅に出ると言った時、村の者たちはやはり笑った。

「馬鹿なことを言うな」

「お前みたいな者が、ひと月も生きられるものか」

「旅人なんて、死に急ぐ者の名前だ」

 若者は何も言い返さなかった。
 背負った荷物は少なかった。
 干し肉と硬いパン。水袋。火打ち石。小刀。針と糸。
 それから、古い日記帳と、まだほとんど白紙の自分の日記帳。

 夜明け前、若者は村を出た。
 見送りはなかった。
 道もなかった。

 ただ、薄青い空の端に、まだ消え残る星が一つあった。
 若者はそれを見上げ、最初の一歩を踏み出した。

 
 その日の夜、焚き火のそばで、若者は自分の日記を開いた。
 何を書けばいいのか分からず、長い間、白い頁を見つめていた。
 やがて、冷えた指で筆を取り、たった一行だけを書いた。

 ――今夜、はじめて村の外の星を見た。

 風が草を揺らしていた。
 遠くで、知らない獣が鳴いていた。
 火は小さく、夜は広かった。

 それでも若者は、不思議と怖くなかった。
 空には星があった。
 足元には、まだ誰のものでもない道があった。

 若者は顔を上げる。
 そして、まだ何も描かれていない世界を歩む旅に出た。

 
  *

 
 それから旅人は、歩き続けた。

 最初の冬、旅人は森の中で火を起こすのに失敗した。
 湿った枝は白い煙ばかりを吐き、指先は冷えて感覚を失った。
 その夜の日記には、震えた文字でこう書かれていた。

 ――火は、思っていたより難しい。

 
 
 春、旅人は小川を見つけた。
 水は浅く、石を伝えば靴を濡らさずに渡れた。
 旅人は川岸に三つ石を積み、地図に小さな印をつけた。

 ――ここは渡れる。

 
 
 夏、旅人は村に入れてもらえなかった。
 村人たちは門の隙間からこちらを見て、誰も返事をしなかった。
 旅人は門の外で外套にくるまり、星を眺めながら眠った。

 朝になると、足元に硬いパンが一つ置かれていた。
 誰が置いたのかは分からなかった。

 ――知らない土地にも、優しい人はいる。

 
 
 秋、旅人は森の奥で古い焚き火跡を見つけた。
 灰は雨に流され、囲い石だけが黒く残っていた。
 そこに座って空を見上げると、木々の隙間に小さな星が瞬いていた。

 ここで、誰かが夜を越したのだ。
 そう思うと、旅人は少しだけ嬉しくなった。

 ――自分の前にも、歩いた者がいた。

 
 
 砂の多い土地では、昼間は歩けなかった。
 足の裏が焼け、喉が乾き、荷物が肩に食い込んだ。
 だから旅人は夜に歩いた。

 空には星が多すぎるほどあった。
 地上に何もないぶん、空だけが道を教えていた。

 ――星を読めば、夜も迷わない。
 ――ただし、転ぶ。

 その頁の端には、砂で擦れた跡が残っていた。

 

 旅人が立ち寄った村の外れで地図を描いていると、隣村へ向かう商人が足を止めた。

「森の入口は、こっちだったか」

 若者は頷き、まだその村の周りしか描かれていない拙い地図を、薄い木片に描き写して渡した。

「助かるよ」

 商人はそう言って笑った。
 その言葉だけで、しばらく胸が温かかった。

 ――はじめて、地図を誰かに渡した。

 
 
 ひどく心細い夜には、旅人は古い日記帳を開いた。
 そこには、見知らぬ土地で迷い、火を起こせず、寒さに震えた誰かの文字があった。

 それでも、その人は次の頁でまた歩いていた。
 旅人はその文字をなぞり、自分ももう少しだけ進もうと思った。

 ――頁の向こうにも、同じ夜があった。


 
 海を初めて見た日、旅人はしばらく何も書けなかった。
 水が、空の下いっぱいに広がっていた。
 波が寄せては返し、そのたびに足元の砂が少しずつ崩れた。

 どこまで続いているのか、分からなかった。
 けれど、分からないことが嬉しかった。

 その夜の日記には、一行だけが残された。

 ――世界は、広い。

 
 
 それから何年も経った。

 旅人の靴は何度も擦り切れ、外套は何度も縫われ、日記帳は一冊では足りなくなった。
 歩いた道は、少しずつ地図になった。

 川の浅瀬。
 崩れやすい崖。
 春だけ花の咲く丘。
 雨の日には渡れない橋。
 獣の出る森。
 安全に火を起こせる岩陰。
 星がよく見える高台。

 旅人が記したものは、どれも些細なものだった。
 けれど、その些細な印を頼りに、誰かが歩くようになった。

 
 かつて石を三つ積んだ川には、十年後、木の橋が架かっていた。
 橋の側には小さな茶屋ができていた。
 荷車を引いた商人が、当たり前のようにそこを渡っていった。
 
 旅人は橋の上で少し立ち止まり、それから何も言わずに渡った。

 ――橋があった。

 
 
 かつて門を閉ざした村には、旅人用の小屋ができていた。
 寝床は粗末で、隙間風も入った。
 けれど入口には、こう書かれていた。

『旅の者は、一晩なら休んでよい』

 旅人はその文字を指でなぞり、夜になるまで小屋の中に座っていた。

 ――昔、ここでパンをもらった。

 
 
 かつて焚き火跡を見つけた森には、細い道ができていた。
 木の幹には布切れが結ばれ、迷わないよう印がつけられていた。
 その夜、同じ場所には新しい焚き火の跡があった。

 旅人は火を起こさず、その跡の横で眠った。

 ――誰かが、ここを通った。

 

 旅人は星詠みと呼ばれた。
 夜に方角を尋ねられ、星の位置を指で示しただけだった。

「旅人は、星を詠んで歩くのか」

 誰かが、そう言った時のことだ。
 少し照れくさく思いながら、その名も日記の端に小さく書き残した。

 ――星詠ほしよみの旅人と呼ばれた。


 
 街で、自分の描いた地図の写しを見たこともあった。
 線は歪み、川の位置は少し違い、山の名前も間違っていた。
 けれど、確かに見覚えのある道だった。
 商人がそれを広げ、若い者に説明していた。

「この道を行けば、三日で向こうの町へ出る。昔は誰も通らなかった道だが、今は安全だ」

 旅人は露店の前を通り過ぎた。
 名乗ることはしなかった。
 その夜の日記には、こう書いた。

 ――地図は、もう自分だけのものではない。

 
 
 さらに年月が流れた。

 旅する者を笑う声は、少しずつ減っていった。
 代わりに、旅支度をする若者を見るようになった。
 背負い袋を選ぶ者。
 方角の見方を尋ねる者。
 夜空を見上げる者。

 旅人は、そうした者たちと何度もすれ違った。
 時には道を教え、時には火の起こし方を教え、時には何も言わずに通り過ぎた。

 ある夜、旅する青年が焚き火の向こうで言った。

「いつか、まだ誰も行ったことのない場所へ行ってみたい」

 旅人は火に枝をくべながら、静かに頷いた。

 ――それは、とても良いことだ。

 
 
 やがて、旅人は老人と呼ばれるようになった。

 足は昔ほど速く動かず、長い坂では何度も息をついた。
 小さな文字を書くには、明るい火が必要になった。
 それでも夜になれば、老人は空を見上げた。

 星は変わらなかった。

 北の星も。
 砂漠で見た星も。
 海辺で見た星も。
 初めて村の外で見上げた、あの星も。

 老人は最後の地図を広げた。
 初めは、木の板に描いた拙い線だった。
 それがやがて羊皮紙になり、何度も、何度も描き写されてきた。

 そこには、長い年月をかけて描いた道があった。
 村と町を結ぶ線。
 山を越える線。
 川を渡る線。
 森を避ける線。
 海へ続く線。

 かつて空白だった場所には、いくつもの名前が書き込まれていた。
 けれど、地図の端に、まだ小さな空白があった。
 老人はその空白を指でなぞった。

 世界の果てと呼ばれる場所。
 誰も行こうとはしなかった場所。
 けれど今は、そこへ続く道もあった。

 自分が描いた道だった。
 老人は日記を開き、最後の頁に筆を置いた。

 ――明日、最後の空白へ向かう。
 
 ――星はよく見えている。
 
 ――道もある。

 そこで筆は止まった。
 長い沈黙のあと、老人は小さく笑った。

 ――それでも、まだ胸が躍る。

 
 
  *

 
 
 最後の空白は、山でも森でもなかった。
 深い谷を越え、白い岩ばかりの荒れ地を進んだ先にある、細い洞窟の果て。
 そこは岩壁に囲まれた、小さな窪地だった。

 風はない。
 鳥の声もない。
 水の音もしない。
 朝の光だけが、静かに降り注ぐ場所。

 そこには泉があった。
 丸い水面。
 老人は泉の前で足を止めた。
 
 長い旅の中で、泉ならいくらでも見てきた。
 森の奥に湧くもの。
 砂漠の底に隠れるもの。
 山肌からこぼれるもの。
 雪解け水を集めたもの。

 けれど、その泉だけは違っていた。
 老人は腰を下ろし、そっと水面を覗き込む。
 水は底が見えそうなほど澄んでいるのに、不思議なほど深さが分からなかった。

 水面には、空が映っていた。

 朝が訪れたばかりの明るい空ではない。
 夜の色をした空だった。

 黒く深い、星の満ちた空。

 老人は瞬きをした。
 もう一度、水面を見つめる。

 映っている星の並びに、見覚えがなかった。

 北の星がない。
 砂漠で頼った赤い星もない。
 海辺で見た低い星もない。
 初めて村の外で見上げた、あの星もない。

 この世界のどこにもない空だった。
 老人は長い間、水面を見つめていた。

 
 恐れはなかった。
 ただ、胸の奥に、ひどく懐かしい熱が灯った。

 それは、遠い昔、古びた日記帳を初めて開いた夜に似ていた。
 知らない山の名を読んだ時。
 広い海をこの目に映した時。
 星を頼りに歩く誰かの記録に、息を止めた時。

 世界は広い。
 そう知った、あの夜と同じだった。

 老人は小さく笑った。

「なんだ」

 声は、静かな窪地に落ちた。

「まだ、知らない空があるのか」

 老人は背負い袋を下ろした。
 中から分厚い帳面を取り出す。

 何十年も書き続けた日記だった。
 頁はもう残り少なく、表紙は古び、紐も何度も結び直されている。
 指でなぞる文字の全てが懐かしい。

 そして老人は最後の頁を開いた。
 しばらく筆を持ったまま、水面の星を見つめる。

 それから、ゆっくりと書いた。

 ――最後の空白で、知らない星を見た。

 筆先が止まる。
 老人は少し考え、もう一行だけ書き足した。

 ――まだ、旅は終わらない。

 それ以上は書かなかった。

 
 日記を閉じる。
 両手でそっと表紙を撫でる。

 そこには、旅のすべてがあった。

 初めて火を起こせなかった夜。
 門の外で眠った朝に置かれていた硬いパン。
 森で見つけた焚き火跡。
 川の浅瀬。
 橋になった道。
 誰かが写した歪んだ地図。
 旅に憧れる若者の声。

 老人は日記帳を泉のほとりに置いた。
 その隣に、長い年月をかけて描いた地図も置く。

 風はない。
 けれど地図の端が一度だけ、かすかに震えた。

 老人は立ち上がる。
 その先にどんな道があるのか分からない。
 けれど、星の読み方は、まだ覚えている。
 
 老人は水面へ一歩踏み出した。
 足は沈まなかった。
 水面に波紋が広がる。
 丸い輪が一つ、二つと、静かに星空を揺らした。

 老人はもう一度だけ、こちら側の空を見上げた。
 見慣れた星々が、朝の光に消えかけている。
 長い旅の間、ずっと道を教えてくれた星だった。

 老人はそれに別れを告げるように、目を細めた。
 それから、水面に映る知らない星空へ向き直る。

 
 もう、振り返ることはなかった。
 老人は笑って、泉の向こうへ歩いていった。

 最後に小さな波紋だけが残った。
 やがてそれも消え、水面は元の静けさを取り戻す。

 そこに映っていたのは、もう知らない星空ではなかった。
 ただ穏やかな朝の空だけが、そこにあった。
 

 
  *

 
 
 それから、いくらかの時が流れた。

 白い岩ばかりだった荒れ地には、細い道ができていた。
 最初は誰かが踏み分けただけの跡だったものが、やがて何人もの足に踏まれ、土の色を変えていた。

 荷を背負った者が通った。
 杖をついた者が通った。
 商人が、小さな荷車を引いて通った。
 星を見上げながら歩く者もいた。

 かつて世界の果てと呼ばれた場所は、もう誰も知らない場所ではなくなっていた。

 
 ある夕暮れ、一人の若者がその道を歩いていた。
 旅人、というにはまだ少し荷物が少ない。
 靴も新しく、外套にもほとんど汚れはなかった。
 けれど背負い袋には水袋と硬いパンが入り、腰には小さな火打ち石が下がっていた。

 若者は細い道の先で、岩壁に囲まれた泉を見つけた。
 水は静かだった。
 空は夕焼けから夜へ移ろい、最初の星が一つ、薄紫の空に浮かんでいる。

 
 若者は泉のそばで足を止めた。
 そこで、古びた日記帳を見つけた。

 泉のほとりに置かれていた。
 まるで、誰かが少し席を外しただけのように。

 隣には、畳まれた古い地図があった。
 端は擦り切れ、何度も開かれた跡があり、ところどころに小さな文字が書き込まれている。

 若者はあたりを見回した。
 誰もいない。
 風もない。
 泉の水面は、ただ暮れかけた空を映しているだけだった。

「忘れ物かな」

 そう呟いて、若者は日記帳を拾い上げた。
 革の表紙は手に馴染むほど柔らかくなっていた。
 紐は何度も結び直され、紙の端には雨と砂と火の跡が残っている。

 若者は迷った末、最初の頁を開いた。
 そこには、古い文字でこう書かれていた。

 ――今夜、はじめて村の外の星を見た。

 若者は瞬きをした。
 何気なくめくった次の頁には、森のことが書かれていた。
 
 湿った枝では火がつかないこと。
 古い焚き火跡を見つけて嬉しかったこと。
 誰かが置いてくれた硬いパンのこと。

 さらにめくる。

 川の浅瀬。
 山を越える道。
 砂漠の星。
 海という、果てのない水。
 橋が架かった場所。
 旅人用の小屋。
 誰かが写した地図。
 旅に憧れる若者の声。

 そこには、壮大な伝説も、宝の話もなかった。
 ただ、ひたすらに歩いたことが書かれていた。

 見たものを見たままに。
 迷ったことを迷ったままに。
 嬉しかったことを、ほんの少しだけ嬉しそうに。

 若者は、いつの間にか泉のそばに座り込んでいた。
 空はすっかり夜になっていた。
 水面には、この世界の星が映っている。

 
 若者は日記を読み続けた。
 頁をめくるたび、知らない土地の風が吹くような気がした。
 行ったことのない森の匂いがした。
 見たことのない海の音が聞こえた。

 そして最後の頁で、若者の指が止まった。

 ――最後の空白で、知らない星を見た。
 ――まだ、旅は終わらない。

 その先には、何も書かれていなかった。

 若者は空を見て、そして泉を見た。
 水面には、ただ夜空が映っている。
 知らない星など、どこにもなかった。

 日記を書いた者がどこへ行ったのか、分からなかった。
 どこかへ歩いていったのか。
 日記に書かれた通り、まだ旅を続けているのか。

 若者には分からない。
 ただ、胸の奥で何かが小さく灯っていた。

 それは不安に似ていた。
 けれど、不安よりもずっと熱かった。

 
 若者は古い地図を広げた。
 世界は、思っていたより広かった。
 その地図には、無数の道が描かれていた。

 若者は夜空を見上げる。
 
 星があった。

 道を知らなくても、方角を知らなくても、まだ何も分からなくても。
 空には、誰のものでもない星があった。
 若者は日記帳を胸に抱えた。

 しばらくして、背負い袋の中から新しい帳面を取り出す。
 まだ一度も使っていない、白い頁ばかりの帳面だった。

 火打ち石で小さな火を起こし、その明かりのそばで筆を取る。
 何を書けばいいのか、少し迷った。
 それから、ゆっくりと最初の一行を書いた。

 ――知らない旅人の日記を拾った。

 若者は筆を止める。
 そしてもう一行、書き足した。

 ――この地図に描かれた道を、歩いてみようと思う。

 泉の水面に、星が揺れていた。

 
 若者は日記帳を閉じ、空を見上げる。
 どこか遠くで、夜の鳥が鳴いた。

 かつて一人の旅人が残した道の先に、また新しい足音が生まれようとしていた。

 
あとがき酒麩
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星詠の旅人作者:酒麩
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