2・分別のゆくえ・
星月夜。赤き砂漠が寝静まる頃。
がきん、がごん、と物がぶつかる音が断続的に響き渡った。
赤き砂にランプが一つ灯されたその場にいるのは、年の頃は四十も後半といった風情の黄色い飾り布をターバンに巻いた褐色の顔の男と、蒼い布をターバンに巻いた褐色の肌の十四歳くらいの男の子だった。
互いに持っている枝を打ち付けあっているその様はじゃれているようにも見えたが、男の子の方は――――ケルッツアの方は真剣に、相手である砂漠の流民が一、キルシスのリュシカという男性を打ち負かそうと躍起になっていた。
ケルッツアの鋭い突きを流れるように躱しているリュシカの目は心底楽しそうだった。
その様にますますといった様子でケルッツアは突きだけでなく足蹴りも繰り出している。
『散々な目に遭った!!!』
ケルッツアは、脚やら手やらを出しながらそれらすべてを軽くいなすリュシカに、噛みつかんばかりの勢いで怒声を放った。
『いや、役得だろ?
その歳で美女三人と三日三晩!!! 男の夢を叶えてやったのにその言い草はねえなあ』
からからと笑うリュシカは、全員のした側が言うことかねえ? とさらに火に油を注ぐ発言をした。
対するケルッツアは、のさなきゃ解放されないと思った!!! と一際鋭い足蹴りを放った。同時に巻き上がった砂の裏からリュシカの喉元めがけて遠慮のない突きをお見舞いする。
砂の合間に見えた一撃を首の皮のすんでのところで受け返して、リュシカはなおも攻め続けてくるケルッツアに苦笑を返す。
『まあまあ、いざってときに困んないためだよお客さん!』
『いざってときなんて、永久に来るもんか!!!』
ふざけた答えにケルッツアは怒鳴った。
と、ここで、この光景が過去の記憶から来るものだと、ケルッツアは思い当たる。
この後自分は腹立ちまぎれにナイフの代わりに持たされた木の枝をリュシカに思い切り投げつけた。
それでこのときのナイフの稽古――――リュシカが、母サルッサロッツを訪ねた際に行われていたリュシカ流のケルッツアとの遊びは終わったはずだった。
だが、場面は続く。ケルッツアはまだ木の枝を持って――――持って、佇んでいた。
リュシカは中腰だった格好からしゃがみこみ、何だよ、と同じく持っていた木の棒を肩にかける。
「気づいちまった?
で、あの姫さん好きなんじゃねーの?」
ケルッツアは、灰色の三白眼を大きく見開き、ついで瞑目した。
天を仰ぎ、この稽古が最後になったのだったかと、目の前の、記憶と違わぬ相手を見る。
いつもターバンに黄色い布を飾り布として巻いていたこの男は、砂漠を渡るには随分と派手な色の――――黄色い長袖長ズボンの衣装を身にまとっていた。
これは、夢だ。
ケルッツアはどこかでそう思う。では彼は現実では生きているのかいないのか。
答えは風だけが知っている話だった。おそらくは、母と呼ぶべき女性、サルッサロッツも。
「うり! どうしたよ?
あの姫さん好きなんじゃねーですか!」
ケルッツアの感慨など知らず、生前のまま、ケルッツアが十四の誕生月――――ケルッツアの場合は拾われた月である七月、に科学大国へと一人旅立った、その前の晩のままの姿でそこにいた。
持っているナイフの代わりの木の枝で、ちょい、とケルッツアの持つ木の枝を突いてきた。
何のつもりだ、とケルッツアは思う。今更、何のつもりで夢に現れて、こんなことを聞いてくるのか。突かれて突かれて、この男といるとやはりいつも腹が立つなと思いつつも、応え返す。
「好きだよ。今までにないくらい大好きな人だ!!!
でも年齢が違う! どれだけ離れていると思っているんだ!?
そんなものを向けちゃいけない相手だ! ここは、大人の分別だ」
ケルッツアは、十四歳のままでいた。蒼い布地をターバンに編みこんで、飾り布を右肩から腰に掛けて垂らした格好をしていた。あのときのまま。
リュシカはほーん、と顔だけ宙を向き、目はケルッツアを見たまま、オマエでもそういうアタマはあるわけだ、と馬鹿にしたような顔をする。
どういう意味だと食って掛かるケルッツアに、ガキってことだよ、とまたからから笑った。
「何が怖いよ? オマエ、女にも欲があるの知ってんだろ?
姫さんがもしオマエに、そういうの持ってたら、オマエそれから逃げんのか?
俺の見立てじゃあ、あの姫さん、お前と結婚したがるタイプだね!!!」
「け、結婚?!」
突拍子もない一言に、ケルッツアは思わず目をむいた。ソフィレーナと結婚、それは、その相手は自分ではないだろうと思っていたケルッツアは、とにかく驚いた。
そんなことは望むまいと、せめて、傍にいることだけ赦して貰おうとしていたケルッツアにとって、その言葉はあまりに遠い。
やはりケルッツアの感慨など無視して、リュシカは、否、リュシカのいた場所にいる老人は、褐色の肌のしわくちゃの顔をやはりからからとさらにしわくちゃにしていた。
「結婚。俺とサルッサロッツだってしてんだ。生涯ただ一人の伴侶だぞ。
大方の女は、愛してる男と結婚したくなるんだ。ま、例外もいるだろーが。
その辺、大人ならオマエ聞けるだろ? 聞いてみ?」
棒切れを片手に、ケルッツアは今のままの、もう今年の七月で四十九という姿でリュシカと対峙していた。今更何を言いだすのか、とばかり、灰色の三白眼を困惑に揺らしている。
そこで、目が覚めた。
よりによってなんでこんな日――――ソフィレーナとの砂漠への日帰り旅行日の朝に、こんな夢を見るのか。
年老いたケルッツアは皺皺の手を前髪に当てて、ついで後頭部を少し掻くとため息一つ。
気持ちよく晴れた朝だった。
ウィークラッチ島朝一の船で本土港に向かったケルッツアは、港の砂漠行きの船の待合室で先に待っていたソフィレーナと合流した。
砂漠。国の古い言葉で千の花という意味のこの国の以南に広がる砂の海で、ケルッツアの故郷でもある場所。
遺跡やらの保護活動の傍ら周辺諸部族とは提携を結んでいることもあって、この国からも旅行と貿易用の船が出ているが、ケルッツアもソフィレーナも生まれて初めて乗る船便だった。
荷物は少なめで、昼食は現地で摂ろうという算段で纏めていたため、ソフィレーナは柔らかな材質の肩掛けバッグ一つに薄手のワイシャツと繋ぎ風のジーパンという格好をしていた。
十月に差し掛かったこの国では随分と薄着の様相でも、国境と接しているとはいえ砂漠でならその格好は丁度いいのではないかとケルッツアは思う。
ケルッツアはと言えば、夏でも薄手のセーターが手放せない者とは思えないほど薄手の、ゆったりと作られたワイシャツ一枚に長ズボンだけという格好だった。
「パスポートと外出許可証は出国審査官さんに見せるだけで良いんですよね」
「うん。それで大丈夫だと思うよ」
そんな話をしていたら船に乗り込む時間となった。ケルッツアとソフィレーナとは連れ立ってチケット片手に同じ船に乗り込む客の後に続く。
ここから南に四時間半の船旅が待っていた。観光と貿易を兼ねた船の中には客室もあり、ちょっとした飲み物やトイレ、売店なども完備されている。
ソフィレーナは、ケルッツアの横でドキドキしながら自分の番を待っていた。何といっても外出、しかも国外外出だなどと、生まれて初めての経験に胸が膨れてどうしようもなくなった。
なにより、この外出旅行が、ケルッツアからの贈りものだということに、昨日の夜と言わずこの頃はほとんど寝られなかった。
出国審査官が、許可証を検めて――――にっこりとソフィレーナに笑いかける。
「良い旅を」
かけられた言葉に、彼女は満面の笑みで、ありがとう、と返していた。
船のタラップを、ケルッツアと一緒に上ってゆく。
船に乗ったとき、国立図書館への行き来でいつも感じていることなのに、身体が微か揺れる感覚を新鮮に感じた。
客室に行き、丸い窓から船外を見ていると、出発のアナウンス。
ケルッツアが飲み物を取ってくると言って、客室を出ていく。
ソフィレーナは、その背に、嬉しさ半分気恥ずかしさ半分で、旅行を切り出されたときのことを思い出していた。
彼女の記憶を辿ること、凡そ半月前。
国立図書館の総館長作業部屋での、朝のお茶会の時間。
対置きの青いソファーの真ん中にある、足の短い机の上に置かれたのは、黄緑と薄紫の豪奢なつくりの上質紙。
それは、ソフィレーナがいつも見ている国内の外出許可証より判子の数が多かった。
初めてみる自身の国外用の外出許可証に、ソフィレーナは、気づけば、震える指先をそっと、置いていた。
そしてもう一枚、横に置かれた薄紫色の上質紙を、特徴的な眸もゆらゆらと、見る。
ソフィレーナからすれば信じられないものを二枚も並べたケルッツアは、満面の笑み。
『一緒に、旅行に行こう?』
そう言われたときの衝撃は、何度思い返しても到底褪せるものではなく。
『ま、待ってくださいドクター!!! これ、これどうしたんですか!!??』
『うん。
この間ここの透明の膜を制御した、そのご褒美』
ご褒美、とこともなげに言うケルッツアは、ソフィレーナの見るに、まるで子供のような笑みだった。ほめて、と言いたげな大型犬に見えるのは果たして目の錯覚か。
軽く混乱するソフィレーナに、ケルッツアは急に懇願の様相を呈して言い募った。
『ねえ、一緒に砂漠へ行かないかね?
僕は君と行ってみたいんだけど......許可証があれば良いって、前に言ってたから......』
丁度四カ月前、五月中旬の春の宴の最後、バス停までケルッツアを見送ったときに確かに旅行の話をした。そのときの自分は、許可証が下りたら、と答えたはずだった。その話はそれで終わりだと、少なくともソフィレーナは思っていた。
『春の宴のバス停での話......覚えて......くださってたんですか............』
自然覚える感動に、ソフィレーナはそっと息をはく。頬の紅潮が抑えられず、緩く首を振ると前髪の中に目元を隠して落ち着く。けれど全身を赤々と染める血流の煩さには敵わなかった。
この、外出許可証を取るために......四カ月もの間、動いていたの?
ソフィレーナは、豪奢なつくりの黄緑色の日帰り国外外出許可証に目を落とし、ついで、対置きソファーの向かいに座っているケルッツアを見た。
心の中で思ったことを聞いてもみたかったが、やめて、自身の日帰り国外外出許可証を赤々と震える手に取ってみる。
国外旅行など一生に一度あるかないか、その紙は透かしが入った、軽い、奇麗な紙だった。
感慨に浸っているソフィレーナに、遠慮がちな声が掛けられる。
『だ、駄目、かな......? いい、...行きたくない、かな......』
ソフィレーナが、もう一度ケルッツアを見ると、彼は雨に打ち捨てられた野良犬のような目でソフィレーナを見ていた。
彼女は。
ケルッツアにそんな顔をさせたかった訳ではないと、覚えた感慨でしびれた頭をぶんぶん振ると言い募る。
『そんな......。駄目な訳ないです。旅行だけでも嬉しいのに、国外だなんて......!!!
凄く、楽しみです。ありがとうございます......!!!』
『よかったあ!!!!
こ、断られたら、どうしようかと思った!!!!』
ケルッツアは心底安堵したのか、詰めていたらしい息を一気に吐き切っていた。それを見て、ソフィレーナは胸がいっぱいになる。
彼女にとって旅行は滅多に叶わない嬉しいこと。それに国外がついて、おまけに尊敬するドクターと一緒の旅路とくれば、それは、喜ばない方がおかしいことだった。
それから、半月の間、ソフィレーナは何を着ていこうかと迷いに迷った。本土港域の大型の本屋で砂漠についてあれやこれやと調べ、まだ夏物が買えるうちに、パンフレットや旅行本を参考に真新しい服を数着買った。
ワンピースだと砂漠の日差しに肌が負けてしまうだろうか、砂に足を取られないように靴は何が良いか、両替はいつ済ませようか、パスポートも取らなくてはならない、と、どこか地に足のつかぬような心地でこの半月を過ごしていた。
ドアをあけて、という声がして、ソフィレーナははっとした。
慌てて客室のドアを開けると、湯気の立つ、ほうじ茶とココアを持ったケルッツアが中を窺っていた。
それから、船の中を二人で散策したり、甲板で潮風に当たりながら流れる景色を眺めたり。
朝八時に出発した船が目的地に着いたのは、正午半過ぎ。
着いた場所は国外といってもほんの砂漠の入口で、大きめの街だった。
丁度バザールがやっていたので、お昼はそこで買い食いをして済ませた。
ケルッツアは、辛いものが苦手なソフィレーナのために、白い実と白身魚の炒め物を薄い生地で挟んだ食べ物を選んでくれた。
一見クリーム煮のようなそれは、口にほおばると白身魚ともども清涼感を持ってほどけてゆく。美味しかった。
彼女は、一応この半月間で片言のムータ語、砂漠圏内で使われている言葉を学んでいたため、異国での買い物にも挑戦した。
生まれて初めての経験に脈がせわしなくなるが、相手は慣れたもので片言のソフィレーナでも会話をすることができた。
少しぎくしゃくした場面はすかさずケルッツアが請け負ってくれた。
ソフィレーナが半月で所々覚えた言語を、ケルッツアは――――当たり前のことだが流暢に話す。店の人と陽気にかけあっていた。
春の宴から、ケルッツアは無精ひげを止めたらしく、いつもこざっぱりとした顔でいるようになった。それが、今年で四十九という歳よりもわずかばかり彼を若く見せている。
褐色の肌に、ひしゃげても高く筋の通った鼻、目元の涼しさを見てもケルッツアの顔は比較的整っていた。そんな顔が頭三つ分は違うと言っても始終近くにあるものだから、ソフィレーナは緩々紅潮する頬を止められない。
バザールでは色々なものが売られていた。
地元の魚介類や乾燥処理をした鶏肉や魚、香辛料。ソフィレーナは何を買おうか迷って――――家族と友人へのお土産用に露店で売られていた腕輪を幾つか購入した。
腕輪にはそれぞれ意味があるようで、友情であったり、親愛であったり。
籠の中に並ぶ腕輪。
ソフィレーナの手元をのぞき込むようにして、ケルッツアが丁寧に教えてくれた。
ただ、朱い色が印象的な腕輪の番になったときだけ、彼は、特別なひとへ、としか言わなかった。
――――もっとも、褐色の指が腕輪にかかり、低く心地よい声が背を撫でる度、彼女は暴れ出す心臓におされて、話の内容などほぼ頭に入ってこなかったのだが。
バザールの中を進んでゆく。
色とりどりの掛け垂らされた布や物品を見るともなし見ていたソフィレーナの目の端に、虹色が止まった。
彼女がそちらを見ると、奇麗な虹色の材質でできたアクセサリーが品よく並んでいる。
その一つが特に魅力的に思えてついつい足が止まる。
ふいに、ケルッツアが話しかけてきた。
「貝殻のペンダントだよ。つけてみる?」
「え、いいんですか?」
ケルッツアは店の人と話し、ソフィレーナにそのペンダントを取ってくれた。
ソフィレーナは赤々と震える指でそれを受け取った。
そのペンダントはとても可愛い花形に磨き抜かれた貝が幾つかと小さな貝殻を一つ付けたデザインで、今の、薄手のワイシャツに繋ぎ風のジーパンというシンプルな姿によく似合うと思えた。
「どうですか? に、似合います?」
ソフィレーナは、それを首にあて、緊張を誤魔化しおどけてケルッツアに尋ねる。何と答えてほしかったのかは自身でもよくわからない。
ケルッツアは子供のような無邪気な笑顔で、よく似合ってる、と言った。
たった、それだけで。
似合う...って。
彼女にとってこのペンダントはかけがえのない宝物に思えた。素早くお金を出そうと柔らかい材質の肩掛けバッグに手を突っ込む。
より、一足早くケルッツアが店の人と何某か話していた。
「ドクター!? 私自分で買えますよ?!」
気づいた彼女は慌てたが。ケルッツアは心底嬉しそうに、耳を赤らめて掠れの酷い声で言った。
「い、いいんだ。記念に。ぼぼ......僕が買いたいと思ったから......だめかな?」
そう言われてしまえば、彼女に返す言葉はない。
大体が、この旅行からしてソフィレーナからすれば大きな贈り物だ。
それなのに、ケルッツアは似合うと言ってくれたペンダントを買ってもくれた。
大好きな人からの贈りものがもう一つ増えた、と、彼女は夢見心地でうっとりと息をはく。
せめて、買って貰ってばかりは嫌だとソフィレーナが言うと、じゃあそれを付けて一緒に写真を撮ろう、という話になった。
「僕は、特に欲しいものもないし。それだけでもき......記念になるから」
ということで、バザールの華やかな噴水の前で、二人で揃って写真を撮った。
ソフィレーナはこの街に来て様々なものにカメラを向けていた。
異国の風景。バザールの様子。珍しい洋服など。けれど、このときの写真が一番のお気に入りになった。ケルッツアと並んで二人で撮った写真というものは、このときが生まれて初めてだった。
ソフィレーナは貝殻のペンダントを本当に気に入っていたが、元から身に付けている銀鎖に通された指輪のネックレスとは取り合わせが悪い。
母からの守護リングを外す訳にもいかず、結局貝殻のペンダントは丁寧に荷物の中にしまい込むことにした。
そのとき、ケルッツアがその様子に少しだけ淋しそうな表情をしていたことを、不思議に思う。
バザールの中を進んでいく。
いつ終わるとも知れないバザールの中を、ゆっくりと、ふたりで歩いてゆく。
ふと、ある服屋の前に、一際奇麗な蒼い衣装を着たマネキンがあるのが見えた。
マネキンは、白いターバンに蒼い飾り布を編みこんだ格好だった。
長袖長ズボンの白い下地に襟元や袖元を大きく覆い隠す蒼い布は、よく見ると布ではなく、幾重にも同じ色の刺繍が花形に施された飾り。
上下揃いのその衣装は、他の衣装の中、群を抜いて輝いて見えた。
ふらり、と足がそちらに吸い寄せられそうになる。
その、蒼は。
ソフィレーナは、思わず国立図書館の最上階及び総館長作業部屋の絨毯の色を思い出し、ケルッツアの袖を引く。
「ドクター、みてください。あの衣装」
「これ、は......!!!」
国立図書館の絨毯の色は、それぞれの館長が好きな色になる。
彼女は、貴方の好きな色ですね、と言おうかと思ったが、その衣装を見咎めたケルッツアのあまりの驚きようにやめた。
ケルッツアはしげしげとその蒼い衣装を見つめている。その灰色の三白眼は、嘗てないほど見開かれていた。
と、店の奥から恰幅の良い女性が愛想よく出てきた。彼女は流暢なソフィレーナの国の言葉で、良いものに目を留めたねえお嬢さん、と話しだす。
「これは、蒼き流砂の使徒っていう珍しい流民の、花嫁衣装だよ」
花嫁衣装という言葉に、ソフィレーナはまじまじと目の前の衣装を見た。なるほど、確かにそう聞くと、その衣装には何か神聖な、儀式めいた雰囲気がある。
この賑やかなバザールには似つかわしくない、凛とした美しさに包まれているような。
恰幅の良い女性は、愛想よくソフィレーナに笑いかける。
「お嬢さん、着てみるかい?」
「......いいや、止めておくよ」
問われて、ソフィレーナが反応するより早く。
ケルッツアが、少し硬い言葉を返していた。
恰幅の良い女性は目を見開き、まあ、父親同伴じゃあねえ、と苦笑する。
彼女は。
ちち......おや?
一瞬、何を、と思ったが。
改めてケルッツアと並んだときの年齢差と身長差を鑑みるに仕方のない勘違いだとも、思った。
思い知らされた。
ケルッツアと肌の色は違うが、養子とでも思われたのかもしれない。
けれど。
彼女は、言い得ぬ感慨に、俯き、そっと唇をかみしめる。
客にならないと思われたか、恰幅の良い女性はまた中に引っ込んだ。
ソフィレーナは、そんな感慨から無理やりに立ち直り、ケルッツアが未だに蒼い衣装をまじまじ見て、次第斜め下手を眇め睨んでいる様に、少し、引っかかった。
彼が、斜め下手を眇め睨むときは、何か気に入らないことがあるとき。彼は何をそんなに気に入らないのだろう?
流民、蒼き流砂の使徒の花嫁衣装だというそれは、相も変わらず美しくその場にある。
「............ドクター?」
そっと声をかけると、ケルッツアは、ごめん、と急に情けない顔になった。
「あまりに珍しい衣装だったから。
勝手に断っちゃってごめんね。もしかして......き、......着てみたかった?」
ソフィレーナは、ケルッツアの情けない顔が、どこか、去年までの淋しい微笑みに似ているように見えた。それがまた不思議で、少し歯がゆくなる。
「いいえ、私も断るつもりだったんです。
けど、確かに美しい衣装ですけど......そんなに珍しいものなの?」
思わず聞くと、ケルッツアはどこか遠いものを見るような顔になった。
「うん。とても珍しいよ。......僕も、実物を見たのはこれで二回目だから」
その顔があまりに切なそうで、ソフィレーナは思わず、一回目はどこで、と口走っていた。ケルッツアはちょっと驚いた顔をしたが、苦笑気味に、昔ね、と教えてくれた。
「僕は......僕の母たる人は、蒼き流砂の使徒でね。
その知り合いの結婚式のとき、見たんだよ。もう四十年ぐらい前。まだ僕が砂漠にいたときの話だ」
そう言って、一つ息をつく。
静かに歩き出したケルッツアに続き、ソフィレーナもゆっくりと歩き出した。
ケルッツアは、振り向かない。
ソフィレーナは、そのことに少し寂しさを感じつつ、ケルッツアの母親が、その珍しい流民であるという蒼き流砂の使徒だということに驚いていた。
同時、あの衣装を見たときのケルッツアの驚きように納得もした。
......ちょっとだけ、惜しいことをしたかな......
ケルッツアの母親が蒼き流砂の使徒だというのなら、その子であるケルッツアも半分は蒼き流砂の使徒ではないのか。それならば。
ソフィレーナは、急にあの花嫁衣装を着てみたくなった。
あの衣装を着こなしていたマネキンは背が高くて、身長の低い自分が着ても不格好になってしまうだろうということは想像に難くない。それでも。
ドクターの......半分だけど、ドクターの民族の、花嫁衣装。
着てみたかったな、と。彼女は少しだけ歩幅を緩める。