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愛しい君

 今日、僕は低俗で、かつ切実な悩みを抱えていた。

「......財布忘れた」

 昼休み。購買のパン争奪戦に参加しようと立ち上がった僕は、カバンの中が空っぽであることに気づいた。父さんから貰った小遣いは先日のゲーセンで使い果たし、母さんから渡されたはずの予備の千円札も見当たらない。絶望だ。午後の授業は空腹との戦いになるだろう。

「おい雅紀、どうした」
「うるさいな。誰か百円貸してくれ。卒業までには返すから」
「一生返さない奴のセリフだな」

 悪友たちと不毛なやり取りをしていた、その時だった。

「......あの、失礼します。三年二組の、雅紀さんは......いらっしゃいますか?」

 教室の入り口が、一瞬で静まり返った。そこに立っていたのは、今や学園の聖域と化している『白百合』こと、僕の義理の妹――結衣ちゃんだった。彼女は胸元にエコバッグを大切そうに抱え、不安げに僕を探している。

「おい雅紀......お前の妹、降臨したぞ」
「しかもなんだあの包みは。手作り弁当か? おい、爆発しろよマジで」

 教室中の男子の視線が、レーザーポインターのように僕を射抜く。僕は後頭部を掻きながら、重い腰を上げた。

「結衣ちゃん、どうしたの? わざわざ三年の教室まで」
「......あ、お兄ちゃん」

 お兄ちゃん。その破壊力抜群の呼称に、周囲の男子から「ぐはっ」という断末魔のような声が漏れる。

「お義母様が、お兄ちゃんにお財布を渡すのを忘れたって仰っていて......。朝先に出て行かれたんで、私、これ、お弁当、作ってきました。お口に合うかわからないけれど」

 結衣ちゃんは、少しだけ頬を染めてバッグを差し出した。おいおい、出来すぎだろう。ラノベの第一巻の表紙か。

「......サンキュ。悪いな、わざわざ」
「いいえ、お役に立てて嬉しいです。時間もなかったので、本当、簡単にですけど......中身、崩れていないといいんですけど」

 彼女は控えめに一礼すると、僕のクラスメイトたちの俺への殺気を感じ取ったのか、小走りで廊下を去っていった。その後ろ姿さえ、完璧に可憐な妹そのものだった。


 屋上のベンチ。 僕は一人、彼女から渡された弁当箱を開けた。

「......」

 そこにあったのは、もはや芸術品に近い何かだった。彩り豊かな野菜。完璧な黄金色に焼かれた卵焼き。そして、僕の好物、鳥の照り焼きが、ミリ単位の等間隔で整然と並べられている。隙間を埋めるレタスの一枚に至るまで、一切の妥協がない。

 一口、卵焼きを食べる。

「......うまっ」

 驚くほど美味しい。味付けは完璧で、出汁の加減も文句の付けようがない。

「お兄ちゃん、お味はどうですか?」

 不意に背後から声がして、僕は喉を詰まらせそうになった。振り返ると、いつの間にか結衣ちゃんが屋上の入り口に立っていた。「結衣ちゃん......クラスに戻ったんじゃなかったの?」

「......お兄ちゃんが食べてくれるところを、一目だけ見ておきたくて。......変、ですよね」

 彼女はトコトコと歩み寄り、僕から少し離れた位置に座った。物理的な接触は一切ない。ただ、彼女が纏う石鹸のような香りが、微かに風に乗って届く。

「すごく美味しいよ。......正直、母さんの適当な料理より数段上だね」
「よかった。......私、これくらいしか、帳尻を合わせる方法を知りませんから。お義母様も、お父様も、本当に優しくて」

 彼女の視線は、遠くの校庭を走る生徒たちに向けられていた。その横顔は、やはりどこまでも美しく、どこまでも空虚だった。

 僕は空になった弁当箱を閉じ、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。学園のアイドル、健気な妹。


 文化祭。それは高校生にとって、青春の在庫を一掃処分するための巨大な市場だ。だが、今年の僕にとっての文化祭は、そんな生易しいものではなかった。それは「結衣ちゃんの可愛さを世界に知らしめる聖戦」であり、同時に「害虫(不届きな男子)から妹を隔離する防衛戦」でもあった。

「......というわけでだ、雅紀。結衣ちゃん、クラスの出し物で『白雪姫』の主役に選ばれたらしいぞ」

 リビングで、父さんが白目を剥きながら報告してきた。相変わらず魂が半分抜けているが、どうやら娘の晴れ舞台には微かな親心が反応したらしい。

「待てよ、文化祭の出し物はもうとっくにどのクラスも決まってたのに、その急なキャスティングはなんなんだ」
「結衣ちゃんがあまりにも可愛くて、タコ焼き屋から急遽変更したそうだ」

 父さんはなぜ息子より息子の学校事情に詳しいんだ。気持ち悪い。

「それで、白雪姫って、毒リンゴを食べて眠る、あの? 高校生にもなって? 白雪姫が結衣ちゃんで、王子様役は誰だ。どこの馬の骨だ。もし僕よりイケメンだったら、そいつを闇討ちするしかない。不細工でも闇討ちするしかない」
「やだ、雅紀。嫉妬の仕方が昭和の暴走族ね!」

 母さんが、どこから取り出したのか巨大な一眼レフカメラを構えて割り込んできた。

「王子様なんて誰でもいいのよ、背景でしかないんだから。大事なのは結衣ちゃんのドレスよ。ねえ、雅紀。あなたの雅子時代のフリフリドレス、リメイクして結衣ちゃんに着せましょうか?」
「だからその呪いの装備を実戦投入しようとするな! 結衣ちゃんの清純なイメージが、僕の女装癖という風評被害で汚染されるだろ!」

 わが家の日常は、今日もカオスだった。

 迎えた文化祭当日。僕はクラスの模擬店(焼きそば)の友人に押し付け、結衣ちゃんのクラスが上演する体育館へと向かった。手には「結衣命」とデカデカと書かれた特注のうちわ。首には三台のカメラ。そしてポケットには、結衣ちゃんに接近しようとする男子を威嚇するための、母さん直伝の「鋭い眼光」を装備している。

「......あ、お兄ちゃん」

 舞台袖。衣装に着替えた結衣ちゃんが僕を見つけて、小走りで寄ってきた。白いドレス。透き通るような肌。そして、母さんに無理やり付けさせられた、例のクマのストラップ付きの小物入れ。

「お兄ちゃん......。すごく、緊張します。......変、じゃないかな?」

 はにかむように微笑む彼女の周囲には、すでに物理的な「萌え」のオーラが漂っていた。

「......変なわけないだろ。むしろ完璧すぎて、観客席の男子が全員『結衣ちゃん教』に入信しそうで怖いわ。いいか、結衣ちゃん。王子様がキスするシーンがあったら、全力で回避していいからな。あいつの唇が届く前に、僕が客席から『待った!』をかけるから」
「ふふ、お兄ちゃん。それはお芝居ですから......。でも、お兄ちゃんが一番前で見ていてくれるなら、私、頑張れます」

 結衣ちゃんが僕の腕をぎゅっと掴む。その瞬間、周囲の男子生徒から「ぐはっ」という断末魔のような呻き声が上がった。よし、防衛圏の構築は完璧だ。

 劇が始まった。舞台中央に立つ結衣ちゃんは、まさに『白百合』いや『白雪姫』そのものだった。

「......ああ、なんて美しい景色。でも、私は一人。......誰か、私を見つけてくれますか?」

 そのセリフ一つで、体育館内の男子の半分が「僕が見つける!」と叫びそうになった。僕はといえば、一番前の中央席を(物理的な威圧感で)陣取り、結衣ちゃんの一挙手一投足をカメラに収めていた。

 結衣ちゃんの演技は、驚くほど自然だった。いや、自然すぎて――まるで「自分以外の誰かを完璧に演じること」に、魂レベルで慣れているような、そんな錯覚を覚えるほどに。

 毒リンゴを一口かじり、彼女が舞台上のベッドに横たわる。その死んだような静けさ。完璧な横顔。客席がしんと静まり返る。王子役の男子がおずおずと近づき、彼女の手を取ろうとした、その時だった。

「「貴様ぁぁぁ!!」」

 俺と父さんの声がダブる。気が付いた時には二人とも舞台に上がっていた。

「雅紀! 結衣は俺たちで守るぞ!」
「おう!」

 悪友たちが騒ぎ立てる中、僕たち親子は王子役の男子生徒に掴みかかっていた。


 一時間後。体育館裏の倉庫。僕と父さんは、冷たいコンクリートの上で正座させられていた。

「......まさか、親子揃ってあんな公衆の面前で。恥ずかしい......末代までの恥だわ。結衣ちゃんの晴れの舞台を」
「「......申し訳ございませんでした」」

 母さんの言葉のナイフが、僕たちの心臓を的確に射抜く。劇は結局、僕たちが乱入したせいで「白雪姫を救いに来た親族が王子をボコボコにする」という、北欧のバイキングもびっくりのバイオレンス・エンディングで幕を閉じたらしい。

 母さんが「学校側に謝りに行ってくるわ。あなたたちはここで一生、自分の『血』を呪ってなさい!」と言い残し、去っていく。残されたのは、夕暮れ時の静寂と、しょんぼりと肩を落とす二人のバカな男だけだった。

「......なあ、雅紀。俺、結衣の指先が触れられるのを想像しただけで、脳の血管が何本かキレたんだ」
「わかるよ、父さん。僕も同じだ」
「......ふふ。お二人とも、そんなに落ち込まないでください」

 不意に、倉庫の入り口から光が差し込んだ。そこに立っていたのは、衣装のドレスを脱いで、元の制服に着替えた結衣ちゃんだった。

「結衣ちゃん......。ごめん、僕たちのせいで、せっかくの主役が台無しに」
「いいえ。......私、あんなに一生懸命守ってもらえたの、初めてでしたから。本当は、王子様に助けられるより、ずっと嬉しかったんです」

 彼女はトコトコと歩み寄り、僕と父さんの前に屈み込んだ。そして、その白い指先で、僕の頭と父さんの肩にそっと触れた。

「お父様、お兄ちゃん。私のために、あんなに怒ってくれて......ありがとう」

 ......ズキュン。一瞬で、僕たちの疲労が全回復した。

「結衣......! お前、なんていい子なんだ!」
「結衣ちゃん! 明日の朝食、僕の分のおかず全部あげるからね!」

 立ち上がって歓喜する僕たちを見て、結衣ちゃんはクスクスと愛らしく笑った。その笑顔は、夕陽に照らされて、どこまでも澄み切っているように見えた。

「......でも、お義母様があんなに怒っているのも、お二人を愛しているからですよ。今夜はみんなでお詫びに、美味しいケーキを買って帰りましょう?」

 僕は妹の優しさに涙し、父さんは娘の成長に鼻をすすった。


 その夜、僕はどうしても眠れなかった。昼間の出来事のせいだけではない。ずっと引っかかっていることがあるのだ。

 僕は静かにベッドを抜け出した。家全体が寝静まり、時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く。向かったのは、廊下の突き当たりにある納戸だ。あの日届いた、結衣ちゃんの母親の遺品が入った段ボール箱。整理が終わった後、いくつかは「捨てられないから」とここに一時保管されていた。

「......悪いお兄ちゃんでごめんな」
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真実
兄妹になる作者:橘廉
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 今日、僕は低俗で、かつ切実な悩みを抱えていた。

「......財布忘れた」

 昼休み。購買のパン争奪戦に参加しようと立ち上がった僕は、カバンの中が空っぽであることに気づいた。父さんから貰った小遣いは先日のゲーセンで使い果たし、母さんから渡されたはずの予備の千円札も見当たらない。絶望だ。午後の授業は空腹との戦いになるだろう。

「おい雅紀、どうした」
「うるさいな。誰か百円貸してくれ。卒業までには返すから」
「一生返さない奴のセリフだな」

 悪友たちと不毛なやり取りをしていた、その時だった。

「......あの、失礼します。三年二組の、雅紀さんは......いらっしゃいますか?」

 教室の入り口が、一瞬で静まり返った。そこに立っていたのは、今や学園の聖域と化している『白百合』こと、僕の義理の妹――結衣ちゃんだった。彼女は胸元にエコバッグを大切そうに抱え、不安げに僕を探している。

「おい雅紀......お前の妹、降臨したぞ」
「しかもなんだあの包みは。手作り弁当か? おい、爆発しろよマジで」

 教室中の男子の視線が、レーザーポインターのように僕を射抜く。僕は後頭部を掻きながら、重い腰を上げた。

「結衣ちゃん、どうしたの? わざわざ三年の教室まで」
「......あ、お兄ちゃん」

 お兄ちゃん。その破壊力抜群の呼称に、周囲の男子から「ぐはっ」という断末魔のような声が漏れる。

「お義母様が、お兄ちゃんにお財布を渡すのを忘れたって仰っていて......。朝先に出て行かれたんで、私、これ、お弁当、作ってきました。お口に合うかわからないけれど」

 結衣ちゃんは、少しだけ頬を染めてバッグを差し出した。おいおい、出来すぎだろう。ラノベの第一巻の表紙か。

「......サンキュ。悪いな、わざわざ」
「いいえ、お役に立てて嬉しいです。時間もなかったので、本当、簡単にですけど......中身、崩れていないといいんですけど」

 彼女は控えめに一礼すると、僕のクラスメイトたちの俺への殺気を感じ取ったのか、小走りで廊下を去っていった。その後ろ姿さえ、完璧に可憐な妹そのものだった。


 屋上のベンチ。 僕は一人、彼女から渡された弁当箱を開けた。

「......」

 そこにあったのは、もはや芸術品に近い何かだった。彩り豊かな野菜。完璧な黄金色に焼かれた卵焼き。そして、僕の好物、鳥の照り焼きが、ミリ単位の等間隔で整然と並べられている。隙間を埋めるレタスの一枚に至るまで、一切の妥協がない。

 一口、卵焼きを食べる。

「......うまっ」

 驚くほど美味しい。味付けは完璧で、出汁の加減も文句の付けようがない。

「お兄ちゃん、お味はどうですか?」

 不意に背後から声がして、僕は喉を詰まらせそうになった。振り返ると、いつの間にか結衣ちゃんが屋上の入り口に立っていた。「結衣ちゃん......クラスに戻ったんじゃなかったの?」

「......お兄ちゃんが食べてくれるところを、一目だけ見ておきたくて。......変、ですよね」

 彼女はトコトコと歩み寄り、僕から少し離れた位置に座った。物理的な接触は一切ない。ただ、彼女が纏う石鹸のような香りが、微かに風に乗って届く。

「すごく美味しいよ。......正直、母さんの適当な料理より数段上だね」
「よかった。......私、これくらいしか、帳尻を合わせる方法を知りませんから。お義母様も、お父様も、本当に優しくて」

 彼女の視線は、遠くの校庭を走る生徒たちに向けられていた。その横顔は、やはりどこまでも美しく、どこまでも空虚だった。

 僕は空になった弁当箱を閉じ、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。学園のアイドル、健気な妹。


 文化祭。それは高校生にとって、青春の在庫を一掃処分するための巨大な市場だ。だが、今年の僕にとっての文化祭は、そんな生易しいものではなかった。それは「結衣ちゃんの可愛さを世界に知らしめる聖戦」であり、同時に「害虫(不届きな男子)から妹を隔離する防衛戦」でもあった。

「......というわけでだ、雅紀。結衣ちゃん、クラスの出し物で『白雪姫』の主役に選ばれたらしいぞ」

 リビングで、父さんが白目を剥きながら報告してきた。相変わらず魂が半分抜けているが、どうやら娘の晴れ舞台には微かな親心が反応したらしい。

「待てよ、文化祭の出し物はもうとっくにどのクラスも決まってたのに、その急なキャスティングはなんなんだ」
「結衣ちゃんがあまりにも可愛くて、タコ焼き屋から急遽変更したそうだ」

 父さんはなぜ息子より息子の学校事情に詳しいんだ。気持ち悪い。

「それで、白雪姫って、毒リンゴを食べて眠る、あの? 高校生にもなって? 白雪姫が結衣ちゃんで、王子様役は誰だ。どこの馬の骨だ。もし僕よりイケメンだったら、そいつを闇討ちするしかない。不細工でも闇討ちするしかない」
「やだ、雅紀。嫉妬の仕方が昭和の暴走族ね!」

 母さんが、どこから取り出したのか巨大な一眼レフカメラを構えて割り込んできた。

「王子様なんて誰でもいいのよ、背景でしかないんだから。大事なのは結衣ちゃんのドレスよ。ねえ、雅紀。あなたの雅子時代のフリフリドレス、リメイクして結衣ちゃんに着せましょうか?」
「だからその呪いの装備を実戦投入しようとするな! 結衣ちゃんの清純なイメージが、僕の女装癖という風評被害で汚染されるだろ!」

 わが家の日常は、今日もカオスだった。

 迎えた文化祭当日。僕はクラスの模擬店(焼きそば)の友人に押し付け、結衣ちゃんのクラスが上演する体育館へと向かった。手には「結衣命」とデカデカと書かれた特注のうちわ。首には三台のカメラ。そしてポケットには、結衣ちゃんに接近しようとする男子を威嚇するための、母さん直伝の「鋭い眼光」を装備している。

「......あ、お兄ちゃん」

 舞台袖。衣装に着替えた結衣ちゃんが僕を見つけて、小走りで寄ってきた。白いドレス。透き通るような肌。そして、母さんに無理やり付けさせられた、例のクマのストラップ付きの小物入れ。

「お兄ちゃん......。すごく、緊張します。......変、じゃないかな?」

 はにかむように微笑む彼女の周囲には、すでに物理的な「萌え」のオーラが漂っていた。

「......変なわけないだろ。むしろ完璧すぎて、観客席の男子が全員『結衣ちゃん教』に入信しそうで怖いわ。いいか、結衣ちゃん。王子様がキスするシーンがあったら、全力で回避していいからな。あいつの唇が届く前に、僕が客席から『待った!』をかけるから」
「ふふ、お兄ちゃん。それはお芝居ですから......。でも、お兄ちゃんが一番前で見ていてくれるなら、私、頑張れます」

 結衣ちゃんが僕の腕をぎゅっと掴む。その瞬間、周囲の男子生徒から「ぐはっ」という断末魔のような呻き声が上がった。よし、防衛圏の構築は完璧だ。

 劇が始まった。舞台中央に立つ結衣ちゃんは、まさに『白百合』いや『白雪姫』そのものだった。

「......ああ、なんて美しい景色。でも、私は一人。......誰か、私を見つけてくれますか?」

 そのセリフ一つで、体育館内の男子の半分が「僕が見つける!」と叫びそうになった。僕はといえば、一番前の中央席を(物理的な威圧感で)陣取り、結衣ちゃんの一挙手一投足をカメラに収めていた。

 結衣ちゃんの演技は、驚くほど自然だった。いや、自然すぎて――まるで「自分以外の誰かを完璧に演じること」に、魂レベルで慣れているような、そんな錯覚を覚えるほどに。

 毒リンゴを一口かじり、彼女が舞台上のベッドに横たわる。その死んだような静けさ。完璧な横顔。客席がしんと静まり返る。王子役の男子がおずおずと近づき、彼女の手を取ろうとした、その時だった。

「「貴様ぁぁぁ!!」」

 俺と父さんの声がダブる。気が付いた時には二人とも舞台に上がっていた。

「雅紀! 結衣は俺たちで守るぞ!」
「おう!」

 悪友たちが騒ぎ立てる中、僕たち親子は王子役の男子生徒に掴みかかっていた。


 一時間後。体育館裏の倉庫。僕と父さんは、冷たいコンクリートの上で正座させられていた。

「......まさか、親子揃ってあんな公衆の面前で。恥ずかしい......末代までの恥だわ。結衣ちゃんの晴れの舞台を」
「「......申し訳ございませんでした」」

 母さんの言葉のナイフが、僕たちの心臓を的確に射抜く。劇は結局、僕たちが乱入したせいで「白雪姫を救いに来た親族が王子をボコボコにする」という、北欧のバイキングもびっくりのバイオレンス・エンディングで幕を閉じたらしい。

 母さんが「学校側に謝りに行ってくるわ。あなたたちはここで一生、自分の『血』を呪ってなさい!」と言い残し、去っていく。残されたのは、夕暮れ時の静寂と、しょんぼりと肩を落とす二人のバカな男だけだった。

「......なあ、雅紀。俺、結衣の指先が触れられるのを想像しただけで、脳の血管が何本かキレたんだ」
「わかるよ、父さん。僕も同じだ」
「......ふふ。お二人とも、そんなに落ち込まないでください」

 不意に、倉庫の入り口から光が差し込んだ。そこに立っていたのは、衣装のドレスを脱いで、元の制服に着替えた結衣ちゃんだった。

「結衣ちゃん......。ごめん、僕たちのせいで、せっかくの主役が台無しに」
「いいえ。......私、あんなに一生懸命守ってもらえたの、初めてでしたから。本当は、王子様に助けられるより、ずっと嬉しかったんです」

 彼女はトコトコと歩み寄り、僕と父さんの前に屈み込んだ。そして、その白い指先で、僕の頭と父さんの肩にそっと触れた。

「お父様、お兄ちゃん。私のために、あんなに怒ってくれて......ありがとう」

 ......ズキュン。一瞬で、僕たちの疲労が全回復した。

「結衣......! お前、なんていい子なんだ!」
「結衣ちゃん! 明日の朝食、僕の分のおかず全部あげるからね!」

 立ち上がって歓喜する僕たちを見て、結衣ちゃんはクスクスと愛らしく笑った。その笑顔は、夕陽に照らされて、どこまでも澄み切っているように見えた。

「......でも、お義母様があんなに怒っているのも、お二人を愛しているからですよ。今夜はみんなでお詫びに、美味しいケーキを買って帰りましょう?」

 僕は妹の優しさに涙し、父さんは娘の成長に鼻をすすった。


 その夜、僕はどうしても眠れなかった。昼間の出来事のせいだけではない。ずっと引っかかっていることがあるのだ。

 僕は静かにベッドを抜け出した。家全体が寝静まり、時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く。向かったのは、廊下の突き当たりにある納戸だ。あの日届いた、結衣ちゃんの母親の遺品が入った段ボール箱。整理が終わった後、いくつかは「捨てられないから」とここに一時保管されていた。

「......悪いお兄ちゃんでごめんな」
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